1 :
無名武将@お腹せっぷく:
■bP■時代:室町時代後期【日本】 人名:斎藤道三
斎藤道三は美濃国稲葉山城主で立身出世の人もしくは戦国屈指の仁君と
して有名な人物である。幼くして仏門に入った彼は戦乱にあえぐ人々を
救おうと還俗し長井利安につかえた。彼は忠節を尽くしたため利安より
長井の性をおくられた。さらに名君として名高い土岐頼芸に三顧の礼を
もって迎えられ、頼芸の美濃を譲るという遺言を2度断ったが3度目で
ついに断りきれず美濃国の国主となる。道三その心精錬潔白にしてけっ
して人を裏切らない性格で誰よりも愛された。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/13 17:14
ぶんぶんバチ
めんだくせーヨ
■No.2■人名:朝倉宣政(1573-1637)時代:室町時代後期【日本】
駿河国安部郡柿島出身。朝倉氏の一族。在重の子。藤十郎。従五位下筑後守。
1590(天正18)年、小田原征伐に従軍していた徳川秀忠に召されて200石を与えられ、
大番組に属する。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際も秀忠に従って出陣。
信濃上田城の真田昌幸攻めに加わり軍功を上げる(上田七本槍)が、軍律違反を問われる。
後に許されて大番に復帰し、1614(慶長19)年の大坂冬の陣の際には江戸の留守を守って、
秀忠より褒美を賜る。
その後、徳川忠長の家老となって忠長領内遠江掛川城主となる。
1623(元和9)年に忠長兄徳川家光が将軍に就任すると忠長の乱行は度を増し、
1631(寛永8)年に忠長は蟄居。そのため宣正も連座して松平阿波守忠行の許にお預けとなる。
忠長は宣正の無罪を訴えて、徳川頼宣らに周旋を頼んだので宣正は一旦駿府に戻るが、
その後忠長の切腹に伴って再び蟄居し、1637(寛永14)年2月6日、65歳で没。
一族は古河藩土井家の家老をつとめる。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/13 18:14
■No.3■人名:朝倉政元(1546-1629)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。朝倉氏の一族。政景の子彦四郎。右京進。
1573年主家滅亡後は北条氏政に仕え、ついで秀吉政権下に入り秀次に仕えた。
1595(文禄4)年秀次事件により浪人。
1603(慶長8)年家康に召出されて紀州徳川頼宣に附属、のち水戸徳川頼房に仕えた。
息子の政明は秀忠の旗本となり五百石を給される。
■No.3■人名:朝倉友景(????-????)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。朝倉氏の一族。儀左衛門。豊永朝倉氏の祖。
1573(天正元)年の朝倉氏滅亡後、旧縁を頼って阿波穴吹城の細川掃部頭の元へ亡命。
のち土佐にて長宗我部氏の一領具足となり、豊永庵谷、梶ヶ内を給された。
朝倉家は友景の孫清景の時に山内忠義に従え商家となり、その店舗のあった土地を朝倉町
(現在の高知市朝倉)と称されるほどの豪商となった。
■No.3■人名:朝倉景綱(????-????)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。越前朝倉氏一門衆。景延の子で朝倉義景の従弟。兵庫助。越前織田城主。
1570(元亀元)年、織田信長が敦賀郡の手筒山・金ヶ崎城侵攻の際には五百余騎を率いて織田城から出陣した。
1573(天正元)年、義景が近江刀禰坂で大敗を喫して敗れた際には、義景からの防戦命令を無視して織田城へ撤退。
そのまま織田氏に降る。1575(天正三)年の越前一向一揆で七里三河らに攻められた時、籠城する兵を見捨てて、
妻子を連れ脱出。その後行方不明。
■No.5■人名:朝倉道景(????-????)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。越前朝倉氏一門衆。朝倉道郷の子?朝倉義景の従弟とされる。
主家滅亡後道景は、織田家に圧迫された一向宗門徒とともに、加賀国より海岸沿いにのがれ、
勝平海岸(現在の秋田県)に上陸し、後に下浜方面に移住して本敬寺を建立したという。
■No.6■人名:朝倉景行(????-1573)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。越前朝倉氏一門衆。三代目広景を祖とする北庄朝倉氏。景範の子。越前北庄城主。
1506(永正三)年、九頭竜川を挟んでの合戦で朝倉宗滴に大敗した一向一揆が、
再び勢力を盛り返して越前に攻め込もうとしたため、景行は軍勢を率いて豊原口に進発して一揆を打ち破った。
1568(永禄11)年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、朝倉義景にも上洛を命じた際には、景行が頑強に反対した。
1570(元亀元)年、織田信長が敦賀に侵攻して手筒山・金ヶ崎城を攻撃した際には二千余騎を率いて出陣。
1573(天正元)年、義景が近江刀禰坂で織田軍に大敗したとき、木下藤吉郎(羽柴秀吉)の勢に討たれた。
疲れたのでまた来ます。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/13 20:13
■No.7■人名:本多忠勝(1547−1610)時代:室町時代後期【日本】
通称平八郎、三河国の出、従五位下中務大輔。
初陣から関ヶ原合戦まで、家康の戦には必ず従軍した。(家康初陣時には小姓として)
三河一向一揆鎮圧(この時、蜻蛉切の平八の異名をとる)で功をあげ、同期の榊原康政とともに23歳の若さで侍大将に昇進する。
一言坂の戦いでは、味方の軍が散を乱して潰走する中、見事な殿をやってのけ、武田軍に、
あの有名な「いえやすに すぎたるものが ふたつあり からのかしらに ほんだへいはち」と謳われた。
小牧・長久手の戦では、たった数百騎で一万超の秀吉軍に攻撃をしかけた。
秀吉は、この忠勝の勇に敬意を示し、攻撃をしなかった。
(その忠勝の武勇をとても愛した秀吉は、後に10万石で忠勝を引き抜こうとするが、忠勝は忠義を示し固辞したという)
さらには、秀吉から「西の立花(宗茂)、東の本多(忠勝)」とまでも評された、正真正銘最強の武将。
徳川四天王、徳川24将の一人。
ちなみに、織田信長からも「実も花もある武士」「日本の張飛」と評されている。
■No.6■人名:朝倉景盛(????-????)時代:室町時代後期【日本】
越前出身。朝倉氏一門衆。初代孝景を祖とする朝倉景明の曾孫。孫六。出雲守。
1567(永禄10)年、義秋が敦賀から一乗谷に移ったとき義景とともにこれを迎え、
翌年義秋が義景の館を訪れた際は、義秋への進物品を持参した。
1570(元亀元)年、信長軍に対し夜襲を敢行してこれを破ったこともあるが、
結局主家は滅亡する。景盛も降伏した。
■No.9■人名:朝倉宗滴(教景)(1477-1555)時代:室町時代中後期【日本】
越前国出身。朝倉氏一門衆。初代孝景の末子。小太郎、太郎左衛門尉。出家して宗滴沙弥。敦賀郡司。
1503(文亀3)年、敦賀城主で一族の景豊の謀反の時登場。景豊の妹を妻としていた宗滴は一味に誘われ、
拒否できず、一時竜興寺に入り出家し逃れようとしたが、最後は、朝倉当主貞景に謀反を通報。
景豊は自害に追い込まれた。この功績により敦賀郡司となり、以後、常に戦場の第一線にあって三代貞景、
四代孝景、五代義景に軍奉行として仕え、十二度の合戦に出陣。
1555(弘治元)年、加賀出兵中に発病し同年一乗谷で没。
戦国の兵法書とも呼べる「朝倉宗滴話記」を残し、その中で織田信長の台頭を、
桶狭間の5年も前に予見しているなど、逸話も残る。
■No.10■人名:朝倉景紀(????-1573?)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。朝倉氏一門衆。宗滴の養子(貞景の子?)孫九郎。九郎左衛門尉。
1566(永禄9)年、足利義昭(覚慶・義秋)が朝倉義景を頼った時、景紀は敦賀城主であり、
義昭を敦賀城に迎えた。その後一乗谷に移った義昭を案内した朝倉景鏡が、
式部大夫に任命されるとこれと対立(式部大夫は同名衆筆頭を表す)。
同名衆筆頭は景紀・景鏡が交代で務めることになるが、その度一方が出席しないという有様であった。
1527(大永7)年、細川晴元と三好氏が対立し、晴元は一時近江坂本へ足利義晴を移したが、
その後、入洛するために景紀に加勢を命じたので、景紀は父教景と共に大将として上洛。
義晴の共をして泉乗寺口で三好氏の四国勢と合戦して勝ち、四国勢の首150余を捕る。
1531(亨禄4)年、父に従い加賀一向一揆を湊川で撃破。
1561(永禄4)年、若狭で守護武田義統の部将粟屋勝久・逸見昌経らが義統に背いた。
このため景紀は義統を助けるため出陣し、粟屋・逸見勢の城七ヵ所を陥して逸見を追う。
姉川の戦いにも参戦しており、近江刀禰坂にも参戦しているという。
景紀は宗滴から亨禄年間(1528年〜1531年)に敦賀郡司を譲られ、永禄(1558年〜1570年)のまで勤めた。
■No.11■人名:朝倉景恒(????-1570)時代:室町時代後期【日本】
越前国出身。朝倉氏一門衆。宗滴の孫、景紀の子。中務大輔。敦賀郡司。金ヶ崎城主。
1568(永禄11)年に義昭が朝倉氏を見限って信長を頼り岐阜に赴く際、近江余呉まで警護した。
1570(元亀元)年の信長の越前侵攻では、金ヶ崎城に籠城して奮戦するも降伏し、永平寺に入った。
その後浅井氏の活動で朝倉氏は窮地を脱する。景恒は同年死去といい、恥じて自害でもしたか、
降伏を苦に煩悶死したか。