1 :
無名武将@お腹せっぷく:
新スレたてました。
旧スレは・・・・2ゲットさん、よろしく。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/16 14:42
2
3
4 :
郭図公則 ◆v12geteYmY :02/10/17 19:40
佐竹ってなぁに
いざいざ!!!!!!
7 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 19:45
角館マンセーage
8 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/17 23:58
おおーついに新スレか! って旧スレまだ956じゃん・・・
まだいらねーよ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/27 13:03
agr
イ左
ケケ
羊
我
チ
里
12 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/29 23:28
★★★佐竹★★★ 1000逝ったか・・・
アホ出現?
とうとうながーい旧佐竹スレも1000に。
なんだか寂しい。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/02 09:02
義堅マンセー
16 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 03:37
南方三十三館てなんて読むの?
17 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 11:20
>>16 「みなみかたさんじゅうさんやかた」だと思われ。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 11:27
南メ
方ロ
三ス
十デ
三ィ
館|
と呼びます。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/03 19:02
争点の武将ファイルみてきたんだが まぁ買う価値は無いだろうな
クソだったが唯一良かったところは 義久が大きく取り上げられて
(ページ半分)いたところか
なぜか江戸重道も大きかった なんでだろ?
20 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/05 15:52
佐竹って北条や伊達や上杉とは仲良かったの?対立してたの?
たしか北条とは仲悪かったような話きいたような気がするけど。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/05 22:32
つーかみんな親戚っしょ。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/06 10:37
仲が良かったり悪かったり。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/07 18:05
北条は良く分からんが
上杉とは上杉が北条と同盟結んでからは仲が悪くなったって感じ。
上杉が北条に同盟切られた後に佐竹に出兵求めたが無視されたらしい。
太田とかにも求めたが佐竹が動かないから同じく無視されたらしい。
伊達は義重の奥方の実家だから大事にしようとした見たい。
ただ、伊達は佐竹を滅ぼす気でいたみたい。
1588年に義重が政宗の行いについに我慢が出来なくなって伊達を攻めることを決意。
それを知った奥方がこのままでは伊達が滅びると思い義重を説得。
陸奥には石川や岩城の様な当主が伊達の一族の大名も居たが
佐竹が動けば必ず佐竹に従うから確実に滅びると思ったらしい。
しかし受け入れられなかったので東義久に説得するように頼む。
義久は進軍中も説得を続け、合戦になってからも説得を続けた。
石川や岩城は伊達の一族だから滅ぼしたくないという気持ちがあり、
その所為でなかなか城が落ちなくて、義久の説得もあったので
ついに義重は伊達を攻めるのをあきらめる。
その事を後年江戸城で政宗が秀忠に少数の兵で大軍から城を守りきったといって自慢して、
同じ席に居た義宣は大変悔しがったというお話をどこかで読んだ気がする。
85年には輝宗拉致事件と人取橋の戦いが起きているわけだが、、、
その時も結局引き返したよ。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/08 02:05
ふーん。
そういう話きくと、どうも佐竹には
はじめっから天下取りは無理っぽいね
28 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/09 01:52
義重の容姿に関する記述て何かないの?
義重に限らず他の武将も気になる
ほれ。
>>28 『奥羽永慶軍記』の奥州高倉合戦から引用すると、
「この時佐竹義重その間半町ばかりに乗り出し給う。
義重の器量只人ならず威面にあらわれ、髭逆さにして隙間なく、
眼中の光凄まじく夜叉羅刹ともいいつべし。
緋威の鎧同じ毛の五枚冑に金鹿角打ちたるを猪首に着なし、
黒馬のふとく逞しきに乗りて鉄棒を握り、
政宗を睨みて駆出さんとし給うを近習の兵押しとどめ大将の前に馳出たり」と、今にも怒号
さらに、
「政宗は究境の兵百五十騎を具して敵を南へ追いかけけるが、
大瀬川の岸に敵二三十騎鑓を構ひ静まり返りて待ちかけたり。
誰それとみれば今度の大将佐竹中務大輔義久、
味方大勢追散さるるを見て云ひ甲斐なきことに思ひ、
政宗を待ち受け有無の勝負を決せんと備へしにてぞありける」と
『奥羽永慶軍記』に
数え19の子供にいい年扱いたオヤジどもが寄ってたかって、大人げないわねえ。
「鬼」義重がトテーモ強くて頼もしかたヨ
>>ともチャン
さんくす
34 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/14 21:20
義重カコイイ
ところで、司馬遼太郎の「城をとる話」読んだ?
車丹波が主人公。車藤左になってるけど。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/16 23:14
よく「太田資正は佐竹の客将となって・・・・」みたいな記述をみかけるんだけど
「客将」てなに?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/17 00:40
客将=社外取締役
太田資政親子が片野、柿丘城主に任命された経緯はよくわからないのよ。
たしか日本史板の佐竹スレでこれについて何か言っていた人がいたよ。
私見では、
たぶん上杉佐竹連合が永禄期(1566永禄九年)に小田城を落とした際、
おそらく佐竹の北義廉あたりが小田城主になり、ついでに落とした片野柿丘両城にも
誰か入れようということになったんだけど、そこで謙信が
「太田3楽は城がなくてかわいそうだからここにおいてやってくれ」
などということを言って(たぶん氏治にも無理矢理了承させて)入れたんだと思う。
常陸なら越後よりも岩槻に近いし、3楽もいつまでも成田に厄介になっているよりは
そのほうがいいと思ったんだろう。
これは謙信から言わせれば、常陸の監視のためだな。
つまり太田3楽はもともと上杉家臣だけど、
常陸(小田と佐竹)に御世話になっているという意味で「客将」。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/17 13:48
エエッ!太田氏って上杉家臣だったの?
41 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/17 20:32
片野、柿丘城の所有者(?)は誰なんですか?
佐竹じゃないんですか?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/17 21:43
>>41 だから太田資政と梶原政景だよ。
それ以前は小田方の何某が城主です。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/17 23:36
暗夜軒て何て読むの?
44 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/19 00:34
こんなものを発見
謙信から越後永住を薦められるも、あくまで関東にこだわる資正はこれを断り、
9月常陸の佐竹義重に招かれた。義重は資正に片野城を預け、小田氏治の押えとした
だからどうしたと言われればそれまでだが・・・・
45 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/19 00:45
資正は佐竹家臣じゃないのか・・・
46 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/19 00:54
太田家は小田原征伐の後、御家再興されたのかな?
されてないような気がするが?
だとしたら、あれだけ拘ったのに気の毒だ
戦国時代北関東初心者氏が知りたければ、
なんで
>>38みたいな訳のわからんことをともチャンとかいうマヌケが
言っているのかということを書くよ。
ちなみにこれは、佐竹は厳密に言えば「戦国大名」ではない、
といわれていることとも関係がある。
もっと詳しく知りたければ、市村高男の
『戦国期東国の都市と権力』一万八百円(wなんかを読んでみるといい。
あと恭子姉さんの『中世の中に生まれた近世』(二千円くらい)とかね。
後者ははっきりいって戦国関連の書籍では
最高級海苔の代名詞ってくらいすばらしい作品だ。
あと、太田資政は小田原の陣以後は佐竹家臣といっていいんだよ。
だけどそれ以前はあくまでせいぜい「佐竹麾下の土豪」だよ。
そして小田原以後佐竹家臣になってしまったため、当然ながらお家再興はない。
秀吉がそんなことを許さなかっただろう。
これは秀吉が太田資政を嫌っていたということではなくて
(実際嫌われたけど)政策として無い。
無論資政が秀吉に好かれて武功をあげて(あるいは女をあげて)、
封地をもらえば別だけど。喜連川みたいに。
ここでの御家再興というのは岩槻城に復帰という意味でだけど。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/20 20:06
太田氏自体は大名になってるけど、岩槻太田はダメダメ・・・
全国の太田さんを敵に回したのはこのスレですか?
太田家50石げっと
51 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/23 18:15
三日月の丸くなるまで佐竹領
なんだか北条が為すすべもなく滅びるさまを
呵々大笑して見送るイメージがあるよ、三RAKU斎(資正)
武蔵か・・・なにもかも皆なつかしひ
53 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/24 20:05
ちなみに奥羽永慶軍記は秋田佐竹氏の家臣が書いたものなので
それなりに割り引くように。
>43あんやけん・あんれきさいタ?ッタケナー
55 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/27 00:20
トモちゃんへ
秋田の真崎って、佐竹と関係ある?
茨城にもいるんかな?あと真崎ってどんぐらいえらいんですかね?
信長のやぼうにはでてこないですよね?教えて君ですが御教授くだせえ。
秋田の真崎さんですか?関係あるかどうかと聴かれても困るけど
(ひょっとしたら違う一族かもしれないし)。
少なくとも佐竹家臣の真崎は佐竹一門で、六代義重の三男義澄の子義連が
いまの東海村周辺を相続し真崎を名乗りました。地図で久慈川の河口付近を
見てみると、真崎という地名があると思います。
ちなみに義重の親父は頼朝によって放逐された秀義です。
真崎氏については余り詳細なことはわかりません。
真崎義保という男が奥州南郷での葦名氏との合戦で手柄を立て、
義重から下総守を受領されました。
この義保が天正元年1573の北条、皆川氏との下野南摩の戦いで討死したところ、
弟の重宗が即座に兄のかたきを討って首を取り返し、義重に賞されて「雲井亮」
という官途をもらいました。その後この重宗が真崎の惣領となりました。
この重宗ものちの奥州での合戦で討死し、子の宣宗が跡を継ぎます。
この宣宗の代に秋田に移ったようですね。
秋田に移ってからは一門衆の中でも余り権威は高くなかったようです。
『佐竹氏探訪』によると、佐竹一門の多くは引渡衆という座を与えられますが、
真崎はこの引渡衆の一番座、二番座いずれも与えられることはなく、廻座といって、
上座の大名のいる場所から遠い部屋を与えられたようです。
佐竹一門は真崎のほかにも、戸村、小場、石塚、大山、長倉、山能、宇留野、今宮
などたくさんいます。ゲームの中の扱いでも困るでしょうな。
佐竹にはこういう分家の連中がやたら多く、
これは逆に佐竹惣領の力が相対的には弱かったことを意味しています。
茨城時代にはこれらの庶子家を牽引していくのに相当苦労をしたようですね。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/27 09:51
>ともチャン
詳しいレス、さっそくありがとー。さすがですね。
佐竹って歴史が長いせいもあるんでしょうが、もともとは一門、分家が多いんだなって分かりました。
また降臨してくださいね!神!!
58 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/28 10:46
>「雲井亮」という官途をもらいました。
あやしい。何て読むんですか?
でも官途といっていいの?
「くもいすけ」
多分義重のオリジナル官途だろう。
兄が討たれたと聞いてすぐに馳せ駆けて首を取り返した重宗の早業を
「雲居」とあらわして誉めた言葉に違いない。
>ちはやふる神にもあらぬわか中のくもゐはるかになりもゆくかな
というような感じか。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/29 00:11
佐竹に確か一人だけ戦闘80近いやつがいたけどなんかすごい活躍とかあったの?
61 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/29 00:27
<<60
真壁のことかな?太田?それとも義重かな?
菅谷親子も意外と強いんだよな小田だけど
62 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/29 00:42
和田昭為なんかも主人が上洛してるあいだに城落としたり
して結構活躍してんのにゲームではひ弱にされてる
63 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/29 05:54
64 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/29 11:20
>>60 真壁氏幹は佐竹の従属領主で、いくさでは鉄びょうをつけた樫の棒を振り回して
鬼真壁と呼ばれるほど怖がられたらしい。塚原ボクゼンに教えを受けたこともある。
覇王伝の頃は戦闘が90もあったが、近年下降気味。まぁ、妥当なところジャン。
>>64 官途の詳しい定義は知らないが、義重自身は重宗にこの官途を与えたときに、
「此度於南摩之地動奇特之至候。因茲官途之事尤御心得候」
といっている。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/30 02:14
佐竹の武闘派が太田と真壁ってのはなんだかなぁ・・
67 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/30 02:34
↑阿藤快ハケーン
68 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/30 02:57
亜東海
69 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/01 00:12
剣豪としての真壁氏幹はどうだったんだろう 霞流(?)だったかな
何か実績はあるのかな?
>>19みるまで、江戸重達(えどじゅうたつ)だと思ってた。
なんでだろう・・・鬱だ。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/01 08:43
>>69 斎藤伝鬼坊との確執かな?
一見真壁の方が卑怯に見えるけれど、「宮本武蔵」を無双の剣豪扱いする今時の風潮を見ると、
ああいう戦法もありかと。
吉岡一門は「戦術指南」の看板出していたのに、真壁のまねすら出来ずお家断絶、か・・・。
師匠の塚原からしてあれだからな。
>ともタン・65
棍棒振り回す事は多かったらしいね。
力があるなら、長刀や長巻より良いと言ってる人もいたし。
叩きつぶせるからだそうな。
義重は鉄棒振り回してたらしいね。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/01 22:49
真壁は道場とか開いてたのかな?桜井霞之助てのは真壁の弟子?
電気棒、検索したら意外と出てきたな。剣豪の世界では知られてるのか?
で、電気棒ってお前……。
その話自体は割と有名だと思うぞ。
恐怖のバットマソだな。フクロでヴォコにしてあぼ〜ん・・・
77 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/03 20:41
義重、鉄棒振り回してたの?なんかイメージくるうなぁ
78 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/03 21:14
>>77 義重が、侍大将のかっこうして、敵陣の北条勢に飛び込むや否や鉄棒振り回して、敵兵7人あっというまにぶち殺したというのは、わりかし有名。
このエピソードが義重に坂東太郎の渾名を与えたとか。
まあ、史実では、敵陣といっても補給部隊だったらしい。
鎌倉時代の梶原景時だったら、「大将は後方に陣取るべきで、前線で暴れるものじゃない」と非難したろうな。
尤も、百年にも及ぶ佐竹の乱のために「守護大名」のメンツ丸つぶれになっていたからな。
宗家当主自ら前線で暴れ回って武名を上げないと、人がついてこない。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/03 21:33
>>78 その話はなんかの本で読んだんことあるけど、「鉄棒振り回してた」というのが意外だなぁ。
「7人斬り捨てた」みたいなことが書いてあったんで、刀で戦ってたのかと思った。
でも刀って2.3人斬ったら、もうダメになっちゃうんだっけ?
80 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/03 22:48
>79
日本刀は、大人数と戦う時は突くもんだ。
一人斬っただけでも、脂で切れ味が相当落ちるし
鎧に当たれば刃がこぼれるから。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/03 22:56
>79
斬ったことないからわからない
82 :
武田信玄大好き:02/12/03 23:03
ええっ!
鉄棒を義重がつかっていた?
北条氏繁だけだと思ってた。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/03 23:29
>79
>82
棒振り回すのは多かったらしい。いわゆる金砕棒だな。
とにかくぶっ叩けば死ぬんで、結構メジャーだったようだ。
次が槍、長巻。
しかし前記の物より重要視されたのが弓ですな。
海道一の「弓」取りって言うよね。海道一の剣豪とか言わない。
間合いが狭いし、積極的に刀を使う事は無かったようだ>79
84 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/04 00:52
アホな質問なんですが長巻てなんですか?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/04 01:12
長巻っていうのは、ぱっと見、薙刀みたいなもの。
ただ、薙刀と比較して
1、鍔がある
2、刀身が長い
3、柄が短い
ものを言う。
あと反りが浅いとかも言うが、この辺は見解の相違じゃないかな。
風来のシレンやれば解る
87 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/04 01:21
一連のあほな質問に付き合ってくれてどうもありがとうです。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 00:31
義宣についてはどうですか?
義理がたく、関が原でも西軍に属したと聞きましたが・・・
89 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 21:25
義宣といえば何でゲームでは赤ヘルかぶってんの?肖像画は黒だよね?
義重は何かの角を付けた兜をかぶってたらしけど、どんなもんなんだろ
資料とかないんかな?
90 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 21:44
義宣は、義舜から義重の代まで拡大した領土を最後の判断ミスで半分以下に減らされた
ボンクラのイメージ。実際はどうなんでしょう秋田では名君になってるみたいだし。
<<89
鹿だったような・・・
91 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 21:53
義宣の子義盛を継いだ佐竹義仁って上杉からの養子だよな。
本家の血統は一応ここで絶えたのか?
92 :
武田信玄大好き:02/12/05 22:04
義宣って、律義者だとは思いますが年貢の取りすぎで一揆が起こった
ようですね。政治感覚はあまり無かったのでは?
93 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 22:35
>>92 宇喜多秀家とイメージがかぶるような・・・
能力はあるのだろうが現実感覚に欠けるタイプ
でも一度痛い目に逢うとさすがにそこから学習するのかな
94 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 23:32
>>92 その一揆はいつごろの話?
豊臣政権下だった場合は、もうしょうがなかった気もするが……。
義宣が移封された秋田の地は、秋田家の領地だった。
田舎に顕著だけど、豪族の勢力の強い地域だった。
成政の例を出すまでもなく、急に入国して、はい支配、という訳にはいかなかったと思う。
なかなか苦労したと思うな。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 23:52
そろそろ100逝くな…
97 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/05 23:55
いつになったら過去スレ見れんだYO!
>>91 義俊は義盛の娘と義仁との間の子じゃないの?
>>88 関ヶ原では車を浪人として上杉に送ったり、義久を秀忠の元に援軍にやっていたはず。
だから、表向きは東軍で裏では上杉に協力って感じじゃないの?
で関ヶ原直後は家康にお咎めなしと言われたが
他の大名の処分が大体決まった後にいきなり転封を言い渡されてる。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/06 00:43
さたけ
101 :
ともチャン:02/12/06 06:38
やはり義宣はあまりいい評価は受けていないのか。
わたしは父義重よりも有能なやつだったと思うけどな。
>>101 俺は義宣は買っているが、さすがにそれはちょっと言い過ぎではなかろか。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/06 23:52
佐竹にはOO三人衆とかOO四天王みたいなのは無いの?結城でさえあるのに
花房助兵衛や織田信雄などが佐竹氏に預けられてるけど、
なぜ佐竹氏に預けられたのだろう?
他の大名も武将を預けられるって事が良くあったの?
105 :
ともチャン:02/12/07 01:58
>>102 いや、わたしは言い過ぎではないと思っている。
正直義重は何もしていないといっていい。そしてその責任をとったのが義宣。
無論時代というものの制約もあったし
どっちが賢いだの馬鹿だのというのは厨だとは思うけど…。
義宣のほうが颯爽として、華やかで、決断力に富む。
それに対して義重は女々しく、ちょっと卑怯で、決断しない。
ついでに
和田、小貫、山直、江戸。これぞ佐竹四天王。
さらに馬場信春、梶原政景、須田盛秀。これが日本三大美濃守(藁。
花房の場合は奴の故郷が金砂郷だったから。
信雄の場合は、佐竹領が田舎で何にもなくて、佐竹と信雄に何の面識もなくて、
佐竹が信雄を担ぎ上げるなんて事はまず全く考えられないことだったから。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/07 02:54
それは多分、上杉と組んだ辺りを言っているんだろうが……<義重の評価が低い
それはどうかなー。
ちょっと可哀想な見方だと思うぞ。
決断力云々も微妙だろう。
ならばなぜ西軍につかなかった? 東軍への接近も行った?
それが卑怯でなくて、義重は卑怯なのか。
置かれている立場として取るべき態度(というかそうしなければならない)があるわけで、
そこに目を瞑って単に義宣を持ち上げるのは、単なる好き嫌いにすぎない。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/07 05:27
関東制覇が北条の存在で無理と分かったらすぐ
南奥羽にちょっかい出し始めた段階で、もの凄い決断力だと思うぞ義重
佐竹が関東制覇?
結城と宇都宮との同盟組んで、必死な抵抗を続けてたんだろ。
関東制覇を目指してたとかじゃないだろうに…。
ちょっと見方が違うな。
義重っていうのはなんだかんだでコ領主連中に頼られていたわけよ。
だからこそ下総下野安子ヶ島に出張って戦ったんだろう。
葦名盛氏でさえ、最後には須賀川に「義重と協力することが肝要」
なんていう手紙を送っている。無論これは伊達を意識してのこと。
じゃ、義重はその伊達に対してどういう行動をとったか。
一。人取橋合戦ではくだらない理由で撤退。その結果二本松は皆殺しになった。
一。1587の合戦では数で勝るにも関わらず何故か講和。
一。摺上原では会津へ向かう伊達を追いかければ政宗を
挟撃することが出来たはずだが、何故か田村攻め。
人間失敗することもある。一度なら仕方がないといっていい。でも三度だ。
そしてその後政宗が南下することがわからぬはずがない。
で、それに対して義重のとった行動は何?
隠居。
そりゃないぜセニョール。じゃ義宣に対してその辺のことを十分にケアしたか?
してない。したのは秀吉になきついたことだけ。
これはあんまりだ。見殺しかよ。須賀川や石川がかわいそうじゃないか。
惣無事例があるから兵は出さないとか、そんなことをいうんだったら
義重には屋形の資格なしだ。誰のお陰でここまでなれたんだ。
秀吉に改易された昭光が佐竹に泣きついた時だって何かしてやればよかった。
佐竹は須賀川や石川が盾になってくれたから小田原にも行けたんじゃないか。
義重の生き方は筋が通ってない。なんか自分にさえ背いているじゃないか。
それに対して義宣は始めから割り切っていた。
出来ない約束なんかしない。同盟者だろうが家臣だろうがナメてる奴は斬る。
江戸も大掾も鹿島行方も徹底的にやった。それで五十四万石。
義宣は屍の上に城を築いた。義重は屍の上に屍をのせただけだった。
それでも義宣が五十四万石を手に入れたのは義重ががんばったお陰だと
いう人もいるだろう。でも、多分義重じゃ、江戸大掾鹿島行方を潰すこと
なんて考えもしなかったんじゃなかろうか。
義宣は、関ヶ原戦役どっちにつくか逡巡したといわれる。
でもそれはない。こいつは始めから日和見しようと思っていたんだよ。
これは卑怯じゃない。この当時当たり前。真田九神蜂須賀島津毛利みんな同じだ。
だからこそどちらにも兵を出さなかったし(あるいは出したし)、
上杉に味方する義理もないって事はまぁこれまでの経緯を知っていれば、
義重のときとは違うとわかるだろう。石田にもちゃんと義理は返しておいたしね。
無論関ヶ原の行動は失敗で結局秋田へ移された。
でも義宣は少なくとも自分を裏切りはしなかった。
秋田へ移った後も、邪魔者は殺すか、追放した。これまでのやり方と同じだ。
義宣は最後まで自分が何をすべきか知っていた。義重は途中で忘れた。
義重にはキツイ言葉かもしれないが、こういうわけでわたしは義宣のほうを評価する。
長文スマーソー。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/07 09:58
結果論で物事を語られてもなぁ……。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/07 16:50
>秀吉になきついたことだけ。
これだけで充分な決断力だと思うぞ。
伊達家みたいにゴタゴタしなかっただけある意味、一本筋が通ってるじゃん
113 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/08 21:53
今更伝鬼坊ネタで悪いんだが、伝鬼坊の記述が掲載されている書籍も探せば結構あるもんだなぁ。
強かったんだねぇ伝鬼坊。霞之助、頭から血噴出して死んだなんてかわいそーに…
伝鬼坊中心に書かれているから真壁や大隈守が悪者みたいになっているけど、これはしょうがないのかなぁ
前に何かの本(歴史群像シリーズだったと思う)で真壁城の絵が見開きで載ってたんだけど誰か知りません?
それらしい本を一通り見たんだけど全然みつからん。何の本だったか誰か教えてくだされ。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/15 09:32
>>112 松尾芭蕉が伊達家の幕府造反を調査するための忍者だったのかという話がある。
その芭蕉は、象潟まで北上した後、踵返すように庄内から北陸道を南下、出羽の佐竹領には入らなかった。
何故?
大した意味は無いのか・・・。
>114
追い返された。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/18 23:25
117 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/19 00:13
118 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/25 23:44
蒼天録PUK出るなぁ ついに義舜公登場ですなー
能力値はどんなもんなんだろう?
119 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/28 18:26
結城政朝より強くしてね。
足利晴氏より強くしてね。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/28 21:41
義舜て何やった人なの?強かったの?
>>121 いかんせん、その時期の武将については資料が少ないため生没年が不祥なら事績もあまりよく伝えられていないので、あまり具体的な評価は下せないが、
特にこれといった基地外な行動や致命的なミスもなく領国を維持していることから考えればそこそこの人物ではあっただろうね。
息子の義昭もそうではないだろうか。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/29 00:48
>>121 11代佐竹義盛に男子が居なくて関東管領の山内上杉憲定の
次男(佐竹義人)を養子に入れたために庶家の山入氏が叛乱
その後100年近く続くこの山入一揆を山入氏を滅ぼす事によって
完全に終わらせた15代目当主の事。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/30 17:52
佐竹氏中興の祖ってやつですな
125 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/06 21:16
葦名スレ消えちゃったね
126 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/08 13:50
佐竹って…秋田に行った後、どうなったんですか?
子孫っているの?
K-1の佐竹との関係は?
またかよ
K-1の佐竹との関係は?
127 :無名武将@お腹せっぷく :03/01/08 14:20
またかよ
どうして…そういうケリもらうかな! BY:BOSS
佐竹…吉田に負けたらしいぞ…
130 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 17:01
吉田兼視っすか?
今日発見したんで旧スレ見てないんですが
佐竹スレがあってうれしいですね、地元ゆえ。
車丹波守憤根の地とかいう石碑がありましたよ。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 19:17
133 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 20:20
なにげに佐竹義舜・義篤・義昭・義重・義宣と名君だな。
それと東義久の能力低すぎ。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 21:02
前スレにも義久の能力低すぎみたいなことが書かれてましたが
何をした人なんですか?
奥州方面の軍司令官
佐竹家の常陸統一戦略の第一歩として、
背後の奥州に安全を確保したかった。
白川家を従属させたのは彼の手柄。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 22:48
それに秀吉から佐竹領だけど6万石もらってる。
関が原でも徳川方についたとき、
限りなく黒に近かった佐竹家を所領安堵する約定を取り付けたこと。
転封されたのは義久が死んで、間もなくのこと。
>>132そんな伝統あるスレでしたか。有名なんだなーと感動
佐竹といっても地元以外じゃ格闘家か
へたすりゃ地元でも黄門オンリーですからね。
または美女狩りの殿。
清水義範って作家がとりあげてたのみてうれしかった記憶が。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 23:04
139 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 23:28
義宣が秋田に行って時にハタハタや美女がついていったって言う伝承からじゃない?
佐竹を慕ってついてきたって話なのに何故か連れてかれたって言われる。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/10 23:42
松の木も秋田の方を向いてしまったとかなんとか
電波ゆんゆん
(^^)
そうですね、人徳をたたえる話のはずなんですが・・・
オチが「だから秋田小町は美人だが茨城はブスしかのこらない」
ですからね。日本3大ブス産地とかいじめられてたり
ちなみに残りのブス産地はどこ?
伏見&豊川&笠間
147 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/11 21:31
仙台、名古屋じゃなかった?
148 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/11 21:46
佐竹が逝く前の秋田は何もなかったようなイメージが・・
149 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/11 21:52
>>148 500年前の平安時代後期、祖先の義光と兄貴の八幡太郎義家が後三年の役にいってます。
まあ、結果的に得したのは藤原清衡なんだけどね・・・。
朝廷では「義家」の私闘ということで報奨出さなかったもんで、自腹を切って従軍した関東武者をねぎらった。
これが後に坂東武者(その大半が坂東平氏、一部に武家藤原氏)が頼朝を担ぐネタになった。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 14:25
大掾家って義昭がのり込んで弟政幹を当主につけ、
義昭亡き後政幹を廃嫡したって本当?
義昭の干渉を拒んだともありますがどっちなんでしょう?
151 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 17:16
1564 義昭、大掾家の当主に弟を据える。
1565 義昭、府中城にて死去。
1566 大掾家家臣が貞国擁立し、政幹、府中城から退去する。
こんな流れだったはず。
800 :なっちの戯曲 ◆Qx/7DEzf5E :03/01/09 16:29
>>797 別に僕はなっち、モー娘。が大好きなわけで
オタクじゃないよ。
806 :なっちの戯曲 ◆Qx/7DEzf5E :03/01/09 16:31
好きなだけでオタク扱いですか!?
じゃぁ家族や彼女やある人は
家族ヲタで彼女ヲタなんですね!!
山田花子が好きな人は花子ヲタなんですね!!
驚きですよまったく。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 18:36
翌年に府中城入って死去か。
31才の若さだし、なんか暗殺めいてない?
反佐竹の大掾家家臣の仕業だったりして。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 20:48
義昭時代の江戸氏との関係はどのようなものだったんでしょうか?
義重時代に入ると半ば独立したような格好ですが
156 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 20:49
あ
157 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 23:32
義昭があと10年生きたら常陸の統一も早まったろうな。
大掾家が佐竹一門になると南に楔を打ち込むことに。
江戸氏も素直に従属していただろうし、主だった敵は小田氏だけだし
158 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/12 23:45
義舜・義篤・義昭と3代続いて早死にしたのが惜しまれるな。
義舜はそこそこ生きたが死んだ時の子供の年齢が・・・
159 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/16 18:32
>>158 義篤は11歳、義昭は14歳、義重は16歳で家督を継いだ。
当然若造すぎるものだから、分家の東家・南家・北家の当主が交代でサポート役についた。
佐竹の乱の反省からか、戦国時代は各分家から宗家争いが起こることはなかったんだが・・・。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/20 23:22
常羽有情読まれた方いらっしゃいますか?
(^^;
162 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/25 16:52
age
163 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/28 21:20
age
佐竹氏と里見氏の関係ってどうだったんでしょう。基本的には反北条で協力してたようですが
人取り橋のときは留守を狙って江戸重道と里見義頼が侵攻してきたようだし、表向きは仲良く
装っていても、裏ではお互いあまり良く思っていなかったのかな?
165 :
ともチャン:03/01/31 02:28
>>164 ほとんど交際はなかったといっていい。
人取橋のときに江戸と里見が侵攻してきたというのは後世のあとづけ話。
この合戦は佐竹の総大将の小野崎義政が下人を蹴りたぐったところ逆に殺されてしまい、
大将が死んでは戦にならんということで兵を引いたというのが最も真相に近いと思われ。
このとき江戸は隣人といくさになっていて、とても里見とつるむことなど出来なかった。
ていうかそれ以前に、地理的に佐竹と里見の間はたくさんの小領主が割拠していて、
しかもみんな北条方だったため里見がやってくるなんて不可能だった。
無論船で常陸沖にやってきたとしても里見には何のメリットもないしね。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/31 08:12
>>164 佐竹義重が里見義尭に出した手紙が一点だけ現存してますね。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 20:13
>>166 上杉謙信公が関東に出陣してきたとき、顔見知りになったのでは?
168 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 23:14
>166
佐竹義重が里見義尭に出した手紙が一点だけ現存してますね。
手紙の内容は?
169 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 23:22
里見が侵攻してきたというのはウソなんですか。
でも、なんでそんな話ができたんでしょう?しかもなんで里見?
170 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 00:10
義宣の跡継いだ義隆の素性って?
義宣には息子の存在が見当たらないのですが
171 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 02:14
>>169 里見と江戸が結託して常陸に攻め込もうとしたという話は『奥羽永慶軍記』にある。
このスレのどこかに誰かが書いているけど、
『永慶軍記』は後世に書かれたものなので、あまり信用できない。
おそらくは義政の憤死を、例えば佐竹の恥となるからといった理由で隠蔽したかった。
その隠蔽の仕方が適当だったため、「江戸の南にいるのは里見だな」というふうに
いいかげんに処理されたのではないか。
ちなみに秋田藩の『家蔵文書』にも何故か山能家の文書は収集されていない。
>>170 義隆は貞隆の息子。
172 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 04:25
>>170 佐竹義隆(1609〜1671)
岩城吉隆。岩城貞隆の嫡子として生まれる。
関ヶ原後、改易された父・貞隆は本多正信の与力となり、
大阪の陣後1616年に信濃川中島1万石の大名に復帰する。
1620年に父が死ぬとその領地を相続し、
1623年には1万石加増され秋田亀田2万石へ移封される。
後継ぎに恵まれなかった義宣は弟・蘆名義勝の
嫡子・盛泰(1595〜1616)を後継者にしようとしたが若くして病死した為に、
弟・義直を1621年に養嗣子としたが1626年に廃嫡してしまう。
そして同年、義宣は吉隆に佐竹の家督を継承させ、
その2年後、弟・多賀谷宣家の子・重隆に岩城の家督を継承させた。
>>168 佐竹義重じゃなくて、佐竹義昭でした。
内容は上杉謙信が関東に来て小田氏を攻撃するということを
報告する手紙です。ちなみに永禄6年のものです。
『千葉県の歴史 資料編 中世3』という資料集で紹介されています。
里見の常陸侵攻
年はずれるけど島崎が麻生をぶっ殺したあと里見義弘の弟の義政を城主として置いた
なんつー話は関係ない?
175 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/04 20:38
176 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/04 21:15
>>175 義宣は小田原デビューで、その後も伏見あたりの色里のたゆう相手に援交してた。
そこで性病をうつされたと思われる。
あー、だから仮面被った肖像画しかないのか・・
178 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 20:40
さんさんさん
179 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/07 21:32
で、佐竹は2400丁も鉄砲もってたの?兵力はどんなもん?
表示がずれてるけど系図でた、自己解決
182 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 21:01
国替え400年記念特別展
国替え400年記念特別展
国替え400年記念特別展
183 :
無名武将@お腹せっぷく:
日本史板で、源氏一族に仮面ライダー龍騎ネタ使っているスレがあったけれど・・・。
源氏発生よりいまだに生き残っている佐竹一族はどれにあたるんでしょう?