◆◆◆19時間で分かる簡単な三国志◆◆◆
第1-1話「プロローグ〜〜時代を背負う3人の猛者、ここに生誕〜〜」
さてそれなる時代は後漢。西暦150年を過ぎ様とする頃の、中国のお話である。
高祖劉邦が立て、武帝劉徹が興し、疲弊しつつも光武帝劉秀が再興させた漢帝国。
しかしながら、2世紀以上経てば、やはり内政は腐敗してくるというもので、
宦官が権威を持ち、対するように外威(皇后の血縁)は猛威を奮い、
国家としての見通しが立たなくなってきていた。
そんな中ようやく生まれし3人の男。名をそれぞれ曹操、孫堅、劉備という。
彼らこそが、今からの動乱の時代を作り上げる重要な人物であった。
その3人の背景を少しばかり。
まずは曹操(そうそう)、字は孟得(もうとく)。
割によい家柄のお坊ちゃんではあったが、少年時代から機知と権謀に長け、
しかも手の付けられぬような不良であったため、
放蕩無頼の生活を送っていたようである。
世間の評判は悪かったが、武術を嗜み、読書家でもあったようで、
人物批評の大家から「治世の能臣、乱世の姦雄」などと称された。
◆◆◆19時間で分かる簡単な三国志◆◆◆
第1-2話「プロローグ〜〜時代を背負う3人の猛者、ここに生誕〜〜」
次に孫堅(そんけん)、字は文台(ぶんだい)。
曹操と同じ155年に生を受け、容貌は非凡、性格は闊達であったとされる。
かの有名な兵法書「孫子」を書いた孫武の末孫とされ、
後に「呉」を立てた孫策・孫権の父である。
17歳の時に海賊退治に成功してから、呉群の役人に取り立てられ、
頭角をあらわし、名が知られていった人物である。
最後に劉備(りゅうび)、字は玄徳(げんとく)。
生まれは161年。かの漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔であるというが、
その根拠はいまいちなく、日々わらじやムシロを折る日々を送っていた。
母一人、子一人で、儒学者として名高い盧植なる人物の元で学んでいたが、
学業より付き合いを重んじていた節があり、当時から人望は高かったようである。
容姿的には、腕は膝まで届くほど長く、耳は振り返れば己で見える程…なんて話も。
そんな人物を中心に織り成す三国志の世界。次から本題どうぞヨロシク。
次回第2話「黄巾の乱〜鎮圧に向かう官軍、そして義勇軍〜」は2:00にお届け予定。
乞うご期待!
◆◆◆19時間で分かる簡単な三国志◆◆◆
第2-1話「黄巾の乱〜〜鎮圧に向かう官軍、そして義勇軍〜〜」
権威を振りかざす宦官、それに依存する皇帝、そして対立派閥となる外威。
腐敗するのが当たり前と言わんばかりの政治背景の中で、
いつの時代も人心を魅了するのは宗教である。
ご多分に漏れず、この時代も「太平道」なる宗教が流行っていたが、
184年、ついに教祖張角が立ち上がった。
「蒼天已死、黄天当立」のスローガンのもと、信者数十万が
己の欲のままに武装蜂起し、暴挙を行い始めたのだ。
仲間の目印は頭につけた黄色い布、それ故、人は彼らを「黄巾賊」と呼び、
ただひたすらにその悪逆さに怯えた。
ようやく政府も立ち上がる。将を立て後一歩の所まで教祖張角を追い詰めるが、
ここで悲しきかな、更に宦官に惑わされる政府。
将として活躍していた盧植を罷免し、董卓を立てるが、結局董卓は何もしないまま、
張角は病死、うやむやのまま黄巾賊の中核は壊滅してしまう。
しかし、ここで問題になったのは、頭を失った残党!
奪略を覚えた残党共は、そう簡単に沈静化する気配を見せなかった!
◆◆◆19時間で分かる簡単な三国志◆◆◆
第2-2話「黄巾の乱〜〜鎮圧に向かう官軍、そして義勇軍〜〜」
さて、そんな黄巾の残党処理に曹操、孫堅、劉備も加わっていた。
曹操は既に官軍として一個部隊を率い、孫堅は官軍の将である朱儁の配下して参加し、
そして劉備は自らで作った義勇軍を率い、それぞれ戦に参加していた。
三国志演義では有名な1シーン、桃園の誓いを交わした関羽、張飛を従えた劉備。
「我ら三人同年同月同日に生まるるを希わず、願わくば同年同月同日に死なん」
桃畑にて、義兄弟の契りを交わした3人の初陣ともいえる戦であり、
他にも劉備見込んだ馬商人の出資にも助けられ、この黄巾賊討伐では手柄を立てるに至った。
おかげで、曹操、孫堅、劉備ともに昇進したかに見えたのだが、
劉備は一役人の座を自ら排し、また流浪の旅へ。
そんな中、朝廷において霊帝が死去したことにより、またしても権力争いが勃発!
どうなるのか漢帝国は!
次回第3話「董卓台頭〜連合軍結成、シ水関、虎牢関の戦い〜」は3:00にお届け予定。
乞うご期待!