2ch全板人気トーナメント〜三戦板の野望〜五拾参

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文が短いので複数まとめて投下します。

【水魚の交わり】
劉備が「三顧の礼」によって諸葛亮を迎えた後、その厚遇ぶりに周囲の者が文句を言ったところ、
劉備は「自分が孔明を得たのは魚が水を得たようなものだ」と答えたという。
君臣の仲が親密である例えだが、劉備の義兄弟たる関羽や張飛あたりに言わせれば
「俺達ゃ一体何なの」といったところであろう。

【苦肉の計】
よく「苦肉の策」とも言われる。
赤壁の戦いの際、呉の武将黄蓋は罰せられて棒で打たれ、傷を負ったまま曹操のもとに
駆け込んで投降を申し入れた。むろんこれは曹操を信用させるために、周瑜と示し合わせた
上でわざとやったこと。結局曹操の大軍はここで大敗を喫することになる。
要するに自分の肉体を苦しめるから「苦肉」。
実は趣味なんじゃないかとか、それ以上の意味は全くない。ええ全く。
【白眉】
蜀の馬氏五兄弟の中でもっとも傑物とされた馬良の眉毛に白毛があったことから、
ひときわすぐれたものを「白眉」と呼ぶようになった。
ちなみに「泣いて馬謖を斬る」の馬謖もこの馬氏五兄弟の一人。
馬良も、千数百年も経って自分の眉毛についてとやかく言われようとは
夢にも思っていなかっただろう。

【泣いて馬謖を斬る】
諸葛亮が魏を攻めた時、要所である街亭を、普段から目をかけていた馬謖に守らせた。
馬謖は諸葛亮の助言も聞かず、絶壁に囲まれた山上に陣取った挙げ句包囲されて
水を断たれて結局惨敗する。
諸葛亮は軍規に照らして馬謖の処刑を命じ、伏して泣いたという。
実はこの馬謖、劉備が死に際して「言ばかりで実の無い者」と言い遺す程の人物。
可愛がっていた為に見誤ったのか、それとももとより見る目が無かったのか。
【破竹】
「破竹の勢い」。
三国時代の末期、蜀はすでに滅び、魏はクーデターによって晋に乗っ取られていた。
残る南方の呉を晋の軍隊が攻めてあともう一息という時、軍議において、
「これから揚子江の水かさが増えるので、一旦軍を引いて冬にまた攻めるべき」という意見に対して
晋の将、杜預はこう答えた。
「我が軍は今勢いがある。竹を裂く時に、最初の節を割ってしまえば後は竹の方から割れていく
ようなものだ。このまま進むべきである」
転じて、とどめがたい勢いのこと。

【鶏肋】
曹操が漢中を攻略した際に発した言葉。
攻めたはいいが中々勝利できず、さりとて負け戦でもなく、考えた挙げ句に
「鶏肋なり」とのみ命令を発した。
それを聞いて一人さっさと出立の準備を始めた楊修に回りの者が意味を問うたところ、
「トリガラなんてものは捨てるには惜しいが、食べようったって大して食べるところもない。
漢中も同じ様なものだと王はおっしゃったのさ」と答えたという。
しかしこの鋭すぎる読みの為に楊修は逆に処刑されることになってしまった。
「鶏肋」を「なんとなく勿体無いもの」ととるか、「才人、才に滅ぶ」ととるか、それは貴方次第。
【髀肉の嘆】
劉備が荊州の劉表のもとに身を寄せていた時、宴席を立ってトイレに行き、己の太ももに
ぜい肉が付いていることに気付いてがく然とする。(髀肉とは内もものこと)
昔は常に馬上にあり、ぜい肉の付くヒマもなかったものが、今では客としてもてなされるのに慣れ、
功名を立てる機会も無く過ごす己の身を嘆いたところから来た言葉。
パソコンの前に座りっぱなしの貴方、思い当たる節はないかな?

【呉下の阿蒙にあらず】
呉の武将、呂蒙は武勇一辺倒だったが、主君孫権に言われて一念発起、兵法学問等を修めて
呉でも有数の軍略家になった。
その見識の高さに驚嘆した魯粛は、思わず「呉下の阿蒙にあらず」と言ったとか。
要するに、「もう昔、呉の城下でブイブイ言わせていた(死語)蒙タンじゃないんだなぁ」ということ。
無学な人間が努力して立派に成長したことの例え。もっとも、誰でもそうなれるとは限らない。
【三顧の礼】
劉備が伏龍と称される諸葛亮を招くため、その草盧(まぁ庵みたいなもの)を三度にわたって訪ね、
ようやく諸葛亮を臣として迎えることに成功したことから来た言葉。
(特に目上の者が)丁重に、礼を尽くしておながいすることの例えだが、諸葛亮はどう見ても
居留守使ったりとか、狸寝入りしているように思われる。じらし上手?

【死せる孔明生ける仲達を走らす】
諸葛亮が五丈原の陣中において病没したとき、天文によってこれを知った魏の司馬懿は好機とばかりに、
後退する蜀軍を討つべく軍を出す。しかしそこで魏軍が見たのは四輪車に乗った諸葛亮その人だった…!
「まさか生きていたとは」と司馬懿は慌てて軍を返し、蜀の軍勢はなんとか窮地を脱することができた。
このとき魏軍が見た諸葛亮は、実は木でできた人形。己の死期を悟った諸葛亮が作らせた物だった。
いわば交差点に立っているおまわりさんの人形みたいなものである。
【心頭滅却すれば、火もまた涼し】
武田勝頼が織田勢に攻められた時、武田領内にあった禅寺、恵林寺に火が放たれた。
恵林寺の住職が炎の中に端座し、この言葉を唱えながら焼死したという。
どんな苦しい状況であっても、心の持ち方一つで苦痛ではなくなるという意味。
この言葉を聞き伝えた人間はよく脱出できたものだ。

【もとの木阿弥】
大和城主、筒井順昭は死に際し、跡継ぎの順慶がまだ幼少であるため、己の死を伏しておくようにと
遺言した。それに従って人々は目の見えぬ木阿弥という男を偽の城主に仕立て上げ、薄暗い寝所に
寝かせておいた。順慶が成長すると木阿弥はお役御免、只の男に逆戻りとなる。
これによりもとのつまらない状態にもどること、振り出しに戻ってしまうことを指す。
この他、出家した木阿弥という上人が妻が恋しくなって普通の生活に戻ってしまったことから等、
いろいろ説はあるようだ。
【すっぱ抜く】
「素っ波抜く」と書く。
「素っ波」とはいわゆる忍者のこと。
もともとは急に刀を抜いて襲う、忍者を使って不意を突く等の意味だったようだが、
今では秘密を暴く、出し抜くなどの意味に転じている。
「スッパ抜く」書かれることも多いから、スパッとスクープされる、と解釈している
人も多いのでは?

【小田原評定】
やはりこの言葉は紹介せねばなるまい。
豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた時、包囲された小田原城内では和議を結ぶか、抗戦するかで
意見が別れ、結論が出ぬままにいたずらに日を費やし、結局そのまま北条氏は滅亡してしまう。
いつまでも結論の出ない相談をえんえんとくり返すこと、無意味な議論のことを指す。
このトーナメントでこの言葉を耳にした人も多いのでは…?
【天王山】
現在の京都府大山崎町にある山の名前。京都と大阪の間にある。
本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ったのち、豊臣秀吉とここ山崎の地で対決する。
この「山崎の戦い」で、豊臣側が天王山を先に制圧したために勝敗が決したことから、
勝負を分けるポイントを意味するようになった。
まちがっても「てんおうざん」とは読まないように。

【山勘】 やまかん
鉱山・鉱脈のことを単に「山」といい、それを探し当てて採掘する人を「山師」と呼ぶ。
「山勘」とは山師のような勘を働かせる投機的なしわざ。不勉強な者が試験前に一夜漬けで山を掛けるのもそれ。
ただし山がはずれても自業自得、何事も一攫千金はそれに伴うリスクも大きい。
「山勘」が武田信玄の参謀の兵法家山本勘助から出た語というのは俗信。

↑これは自分が書いたものではありませんが…以前のログにありましたので転載。
【危急存亡の秋】(ききゅうそんぼうのとき)
諸葛亮が後主・劉禅(劉備の息子)に奏上した「出師の表」の冒頭部分にある言葉。
読んで字のごとく、「切羽詰まった状態」「ぎりぎりの瀬戸際」とでもいった意味だが、
この言葉のキモはその読み。
うっかり「ききゅうそんぼうのあき」などと読んで恥をかかないように。

【千載一遇】(せんざいいちぐう)
劉表(髀肉の嘆参照)の死後、荊州を継いだのはその息子、劉[王宗]であったが、
曹操に降伏を迫られることとなる。
このとき側近が劉[王宗]に、「曹操が油断している今こそ、奴を攻める千載一遇の好機ですぞ」と
進言した。しかし劉[王宗]はこの言を取り上げずにそのまま降伏、ついには曹操に処刑される。
「千載」とは「千年」の意味。千年に一度遭遇できるかどうかというビッグチャンスのこと。
しかしチャンスにも相手を選ぶ権利くらいはあるだろう…。
◆◆◆三国志・戦国由来の故事成語紹介 〜 戦国時代編 〜 ◆◆◆
【敵に塩を送る】(てきにしおをおくる)
甲斐の武田信玄が今川氏と開戦した時、北条氏が今川氏についたために、海のない甲斐は
囲まれて塩の補給路を断たれてしまう。これを聞いた信玄のライバル・上杉謙信は
「自分が信玄と争うのは武力であり、米や塩などといったものではない」と家臣に命じて
甲斐に塩を送らせたという話からきた言葉。
敵の利をはかること、敵に有利なようにすることの意。
今はこの話の真実性を疑う向きが多いが、越後から甲斐に塩が流通していたのは確かなようだ。

◆◆◆三国志・戦国由来の故事成語紹介 〜 戦国時代編 〜 ◆◆◆
【敵は本能寺にあり】(てきはほんのうじにあり)
あまりにも有名な言葉。
織田信長の家臣であった明智光秀は、備中の毛利を攻めるよう命ぜられて進軍中、「我が敵は
本能寺にあり」と言ってにわかに進路を変え、信長が宿泊中であった本能寺を急襲して
これを滅ぼした。
このことから、本当の狙いは別にあること、人目をあざむいて違う目的を抱くことの意味。
◆◆◆三国志・戦国由来の故事成語紹介 〜 戦国時代編 〜 ◆◆◆
【洞ヶ峠】(ほらがとうげ)
豊臣秀吉と明智光秀が山崎の地で対峙したとき、大和城主・筒井順慶(「もとの木阿弥」参照)は
この近くの洞が峠という地に陣取り、どちらにもつこうとせずに両者の戦いを見守っていた。
要するに戦で有利になった方に加勢しようという訳である。
「洞が峠を決め込む」で、日和見とか、有利な方につく為になかなか行動しないことを意味する。
最近はあんまり使わない言葉なので、お父さんかお祖父ちゃんに聞いてみよう。

◆◆◆三国志・戦国由来の故事成語紹介 〜 戦国時代編 〜 ◆◆◆
【知らぬ顔の半兵衛】(しらぬかおのはんべえ)
とぼけてしらないふりをすることをいう。この半兵衛は竹中半兵衛のこと。
織田信長が斎藤龍興を攻めようとしたとき、戦略家として名高かった竹中半兵衛を味方につけようと
考えた信長は前田犬千代(後の利家)を派遣。並の手段では説得できまいと、犬千代は半兵衛の娘を
タラして接近を図る。
しかし半兵衛は逆にとぼけて犬千代から情報を引き出し、斎藤家を勝利させてしまう。
これは歌舞伎「狭合戦(はざまがっせん)」にある説明。他にも説はあるらしい。