武田?
何それ?
おいユースフ!沈めてまいれ!
2get
わが駱駝部隊の敵ではないわ!
騎馬?
歩兵に何ができる?
矢の雨を降らしてやるわ!
馬の扱いというものを教えてやろう。
武田騎馬軍団vsラブジュース
このたびは愚息が・・(省略)
ユースフ!
荷物をまとめろ。出かけるんだ!
>>7 とんでもない。
日本っていう国をそっくりやると言われたって行きたくありません!!
ageとくか。
投票が終わったら蹴散らしてやるから、
sageておけ。
誰?
>>11 新騎馬のひとり。
6月4日は三戦の投票日だから・・・。
察して下され。
13 :
アッパカパー:02/06/03 13:05
カタカナってムカつくよね
>>12 知らんなぁ。
日本なんて田舎の武将など知らん。
ん?むしろこの田舎では私を知るもののほうが少ないかな?
>>12 (´-`).。oO(じゃあこんなスレ立てるなよ・・・w)
自爆ですか…。
む?誤爆だ!
敵は取り返しのつかない失敗をしたぞ!
一気に突っ込め!
アラーは我々に勝利を与えた!
最近は建て逃げも多いが
ここの
>>1は頑張っておるのぉ
感心感心
知らない人のためにちょいとな。
クルジュ・アルスラン:トルコ人。最初に十字軍と戦った人。
ザンギー :トルコ人。反十字軍の勢力をまとめた人。
ヌールッディーン :ザンギーの息子。聖王。輝かしい勝利への先駆者。
シールクーフ :クルド人。ヌールッディーン配下最強の武将。サラディンの叔父。天才的センスでエジプトを落とす。
サラディン :クルド人。言わずと知れたイスラームの英雄。実は非常に気が弱い。
バイバルス :何人だか不明。剣奴出身の成り上がり王。マムルーク朝創設者。モンゴルや十字軍を次々と返り討ち。
この時代のアラブ史はおもしろいぞ。
わかりやすく言うと戦国時代に二つの大国がせめてくるわけだ。
うまく国内の勢力と戦いつつ、大勢力を撃破する。
はっきり言って三国志の英雄なんか糞に見える大偉業。
とつぜん解説とかしてるし。。。
アラブ人は良い人だw
有名な戦いをどんどんうpして三戦板を洗脳するのだ。
みなアラブに萌えろ!
==':。::::ヽ\ ,.-‐'" ̄ ̄ ̄ ̄"'‐-、 /
ヽ::::... \\ i´ ,.―――――――` まだまだ /
/: .::::::::ヽ\ | i´ ⊂ニつ ⊂ニ⊃( ですなぁ /
/ ::::::::| \ | | ―― ―― ヽ / //
ふーん | ::::::::| \⌒ヽ i / ̄ ̄ ` /;; /
__,.―、| /:::/::| \_ノ、 0 ノ /:::::: \ー;;;;;;;;;/
ヽi´ )| /::::/:::::| あれが \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄´⌒ヽ/|⊃/_____ _丿 );;/
人;;;::| |:::::|:::::/ 厨房だよ\ |~\//____ Y_____/
. /γ ::::| |:::/:::/ \_____| /. | |ミ\ ・人・丿| |
| .| 〈 :::| l:/:::/ |\/\/\//|/(日] |ミミミ >⌒ ∋Y| |
ヽ.ヽ.):::ト . ::| > 厨 〈/ L ヽミ | ≦≧ ト|/ やってくれましたね…
ヽ,、;、l _l`iーl ,、:::ヽ、 <. 予 房 > \ \ミ| / 1さん…
'―'-'zノz_リ `ー゙-' > ス< /ヽ /\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄< 感 レ > ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.> !!! の < お前に決闘を / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
//\/\/~`''ッ,, 申し込む!! l∨∨∨∨∨∨∨l
┌────┐ / /| ./ | lヽ | ヽ \\ | \()/ |
|
>>1は. | / =, |/ |. \ヽ|,,,ヽ|,|,- | \ (| ((・) (<) |)
| 反省しる!| // /,,-^~'''=-ヽヽ |.-='''~^ヽ,\ヽ\ | ⊂⊃ |
└──┬─┘ / | .ii i,ノii \| il,ノ;i ii> '' i-,||\ | .| ⌒ \.l/ ⌒ | |
彡 ⌒ ミ|| /.|| ,/ヽ ' ヽ-' / ''''''' /i.)|ヽ/\ / |. l + + + + ノ |\
<#`Д´>|| / '|| | |'^ヽ ’ | |,/ノ \ / \_____/ \
( // つ / ヽ'-/ヽ ./~^'''^~"ヽ / .|'/ \/ _ \
(__Y__) / ' | ヽ i /~~~~~'''| / | | あんた \ // ̄ ̄(_) |
/ | |'ヽ,, .ヽ ./ / | l バカぁ!?\ |ししl_l ( | |
/ i | i,,~=,,, . ̄ ̄ ̄ ,,,=',/i ヽi | \|(_⊂、__) |
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д` ) < 糞スレ立ててタダで済む思ってるの!?
/, / \_________________
(ぃ9 |
/ /、
/ ∧_二つ
/ /
/ \ ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ ( ´Д` ) < 済む思ってるの!?
/ / > ) (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / ∧つ
/ / . / ./ / \ (゚д゚) オモッテルノ!?
/ ./ ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ (_) \_つ / > (・∀・)ルノ?!
>>21 この時代のコテハン叩き史はおもしろいぞ。
わかりやすく言うとバスジャックしながらライブで猫を殺すわけだ。
うまく脳内循環してるキティと戦いつつ、マターリスレを台無しにする。
はっきり言ってアラブ史の英雄と
>>1なんか糞に見える大偉業。
十字軍 モンゴル
トルコ
アラブ
エジプト
こんな感じ?
>>30 ◆LAkkroCw =武田信勝
武田騎馬軍団(再生後)のコテハン。
あとはどう扱うかはお前次第だ。
ところで、エジプトの西はどうなっていたっけ?
ベルベル系が頑張っていなかったか?
あと、インド方面もお忘れ無く。
マムルーク朝と同時期に、アイバクという傑物が現れているぞ。
32 :
武田信虎 ◆TdKER/DU :02/06/04 23:14
で、儂の妊婦腹裂きの数を、上回る傑物はおるのか?
>>32 息子におん出されるようなアフォは隔離スレにお行き!
む・・・。
目出度く三戦勝利したゆえ、お相手致そう。
自慢じゃないが、世界史は全く判らぬがの。
まず
>>1よ、トリップつけぬか?
どこの馬の骨かわからんのでのう。
ついでに、旗も立てておこう。
___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――
│
│
│
│
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃Ash-had an-la ilaha illa-llah ┃
┃waash-had anna Muhammadan Rasuwlu-llah.┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
>>35さん、はじめまして。軍団スレ本部?はROMってます。
>>1じゃないけどトリップつけて旗も作ってみました。
ちなみにマムルークは剣で武装した軽装騎兵が一般的ですが、
武田家ではどうだったんですか?たしかイエズス会宣教師の
手記に「日本の兵は馬から下りて戦う」とありましたが、これを
鵜呑みすると「騎馬軍団」の存在が危うくなるのでは…(汗
38 :
武田信虎 ◆TdKER/DU :02/06/05 21:58
>>37 不粋な事を申すでない。
そんな事を言ったら、実は儂は武田家の独裁権力を確立しようとした
のであって、倅晴信(信玄)は、家臣に担がれて、武田家の力を弱めたに
過ぎないという説もある。
少なくとも、妊婦腹裂きについては・・・
・・・オホン!
ともかくじゃ、貴様らイスラム教徒は、妻が4人もいると聞く。
さぞかし腹の裂き甲斐があるというものじゃ!!
ワハハハハハハハ!!
>>38 すんません。無粋でしたんで方々の仏像の鼻削いじゃいました。
女性虐待はイスラム法では死刑級の大罪です。追放で良かったですね。
でも、「降りて戦う」つうのも却って不自然ではないか…?
どんなに日本馬が小型であれ、2〜300sの動物の突進は迫力も破壊力
もあると思うが。基本的に騎馬軍団実在派なんですが。
>>1さん来ないかなぁ。
>>1殿とマフムード殿は別人なんでしょうか?????
武田騎馬軍団の岡部次郎右衛門です。よろしく。
騎馬の話。私は知識ゼロの男ですが…
三河物語(大久保彦左衛門著)だったかな。
彦左衛門は、馬は戦場に着くまで乗っていて、着いたら降りるものだと
主張していたと。しかし降りずに戦う者が多くて…彦左衛門はそれを嘆
いてました。どういう意味かは解りません。しかしともかく、乗ったま
ま戦う者も居たのでしょう。一方、私は降りるのも一理あると思います。
鉄砲発明以後のヨーロッパの騎士は、鎧が重すぎて馬から降りたら歩く
のも辛かったそうで。だから馬から降りないのは常識だった…それで単に、
馬から降りる武士を見て驚いたんじゃないですか?その宣教師は。だいたい
宣教師の一言で日本を測られてもねぇ。
騎馬に乗ったまま戦う戦法そのものは、日本にもモンゴル系勢力が侵入
したと思われる紀元前ン十世紀から伝わっていた筈。
私も騎馬だけで戦争は出来ないんじゃないかという事くらいは知って
ます。モンゴル帝国だって資料を見ると歩兵がたくさん居る。だけど
騎馬隊を非常に有効に生かしたのは確かです。多分。
で。アラブって馬の名産地なんですか?
競走馬の話で考えると、アラブ、なんていうと、いかにも馬の研究
が盛んそうだけど、あの風土を想像すると、あんまり馬がたくさん
居る光景を想像できないんですが…強い騎馬隊が居たんですか?
│__
|@=ノ
|∀・) アツマッテルナ・・・タイーホスルナラ イマノウチ
|⊂
|
♪___
♪ ヽ=@=ノ¶ タイーホ
ヽ( ・∀・)ノ タイーホ
( へ) ミンナ タイーホ
く タイーホ
♪ ___
♪ヽ=@=ノ ¶ タイーホ イッテヨシ
ヽ(・∀・ )ノ タイーホ
(へ ) オマエラ モウ
> ダメポ
>岡部正綱 ◆pyJu7EAk 殿
はじめまして。それがしは
>>1殿とは別人です。
何故なら拙者は逆方向の西トルキスタンの出身。何とのうスレに侵入
してしまった形で…。暫くここの番人でも致そうとした次第でござる。
>>1殿にご降臨頂けぬとおちおちアフガンに侵攻もできぬわい。
(史実:10世紀半ばに現アフガン〜現パキスタンにかけて粘着にも
20回近く侵攻、インド圏に初のイスラム王朝を建てた)
>あの風土を想像すると、あんまり馬がたくさん居る光景を想像できないんですが…
そう思われがちでござるが、実はヘジャーズ(メッカの辺り)からイエメン
(アラビア半島南西部)にかけては雨もそこそこ降る緑地帯が広がっておりまする。
どうも20世紀以降は砂漠化がとみに進行しておるとも聞くが…。
地元民(ベドウィン)は馬術が巧みで、既に古代エジプト(新王朝)の文書には
騎兵に関する記述があるとのこと。
7世紀のイスラム王朝の爆発的な拡大は、軽装騎兵の活躍に負うところ
が大きいのでござるよ。
…さて、しばらく番人を続けると致すか。あ、本陣スレにはこの名は浮くの
であちらではROMらせて頂きます。
仁慈あまねく慈悲深きアッラーの御名に於いて。
(ムスリム歴1423年Raby` al-awalの月24日カキコ)
>>39 む・・・。
拙者は(というかこの板の共通認識として)、
戦国時代には騎馬のみで編成された軍隊は存在しなかった、
というのが通説ではないのかのう。
当時の戦争は一人の騎馬武者に数名の徒歩が
付き従いひとつの単位となっていたゆえ。
例えば騎馬隊のみで5000の軍団などはあり得ないが、
機動力重視の、ごく少数の部隊なら編成可能かと。
あと、馬上の武器は槍が一般的だと思われ。
>>44 概ね、ご指摘の通りでござる。
ただ、アラブの騎馬隊は歩兵とは基本的には別に部隊を編成して
おった模様ですな。騎兵:歩兵の比率は1:1とモンゴル騎兵出現
までは非常に騎馬率が高かったとの報告もござる。
つまり、騎兵と歩兵とは別々の役割分担をしていたと思われ。
(実はギリシア・ローマではこういう編成が一般的)
一方、ヨーロッパの騎士はこれとは対称的に騎士一人に対して
従者が5〜6人はザラだったとか。
(馬の口取り×2、補助槍兵×2、人質捕獲&身代金交渉係×1〜2)
ちなみに西アジア〜北アフリカの馬上武器はシミター(曲刀)かと。
馬で突進→混戦といった展開には非常に有利(注)で、かのササン朝
ペルシア自慢の重装槍騎兵はこの戦術で滅亡に追い込まれました。
(注)先端が屈折しているので「斬る」動作で事実上「突く」ことが可能。
鎧の首・関節部分めがけての攻撃に絶大な威力を発揮した。
以上、思ったまま書き散らしたのでカナーリ不正確かも知れんがご参考まで。
仁慈あまねく慈悲深きアッラーの御名に於いて。
(ムスリム歴1423年Raby` al-awalの月25日カキコ)
イスラム世界の騎兵で忘れちゃんないのは弓。
多くのマムルークはトルコ系遊牧民の出自ですからな。
メン・アット・アームズのイスラムの巻によると
槍やメイスも広く用いられた由。
>>43 拙者も同じ考えでござる。
これは夢見がちな話になってしまいますが、それでも武田などには
数百人くらいを一隊とした、騎馬のみで編成された部隊があり、戦
の流れを変えたい場面で突撃したり、遊撃させて敵の陣形を崩した
り、敵を局地で遮断したりと、活躍したのではないかと…想像して
おります。夢見がちどころか完全に夢ですが。資料などを見た事は
無い故。
騎馬隊が有名になるのは、敵の口によって語られる時でござるな。
自称騎馬軍団では、後世には残るまい(苦w
武田も、ごく普通の、騎馬武者とその従士による編成だけを用いて
いたのなら、騎馬軍団として名声を得る事は無かった筈…
マフムード ◆FuDaG2jE 殿、アラブの騎馬隊を有名にし、その名を
上げさせた敵は、どんな敵だったのでござろう?
>>46 わーい、相手してもらった〜ヽ(´ー`)ノ
ちょっと時間がないので以下平文でスマソ。
>アラブの騎馬隊を有名にし、その名を
>上げさせた敵は、どんな敵だったのでござろう?
7世紀当時超大国だった東ローマ(ビザンティン)とササン朝ペルシア。
戦略上愚行とされる2方面作戦に成功してしまったのは世界史上の
有数の珍事と言ってよいでしょう。
東ローマは重装歩兵+騎兵、ササン朝は重装騎兵+歩兵という、
主戦力を重装兵とする編成だったようだが、いずれもアラブ騎兵の
遠距離から弓で攪乱→短時間で接近戦に持ち込み勝利
の黄金パターンにやられまくった模様。というか、このあと12世紀位まで
はこの戦術が無敵だった…。
尤も、東ローマとササン朝は7世紀初頭に総力戦を展開してしまった
のがマズかったのも事実。(戦後、東ローマはシリア〜エジプトの領土が
荒廃、ササン朝は宮廷内闘争が激化し無政府状態に)
「アラブ=火事場泥棒」との指摘もまんざらハズレではなかったりして。
#もう少しで残業終了…!
拙者不勉強故、ササン朝というのはピンと来ないでござるが、ビザンチン
なら名前くらいは解ります…解るのは名前まででござるが…
ビザンチンもやはり、歩兵による集団密集戦術を取っていたので
しょうか?
長い槍を持ち、迫り来る敵に対する時は、ただそれを並べて立て、
バリケードのようにして守る、と。
乱戦になれば、例のグラディウスで戦うと…
いや、興味深い話でござる。
「何故騎馬兵は歩兵に対し有利に戦えたのか?」という話に繋がる故…
ローマの戦術は攪乱されてしまうと途端に力を失う物が多かったと思う
のですが(資料も何も見てないので、裏づけは何もござらん)…
まあ実際、武田騎馬軍団客将、岡部次郎右衛門としてお尋ねしたいのは
そこでござる。
アラブの王に使える騎士達には、どんな勇士が居たのでござろう?
>遠距離から弓で攪乱→短時間で接近戦に持ち込み勝利
これは簡単な事ではなく、少なくともなかなかの勇気の要る事であった
と思われる。いかな勇士がそれを成し遂げたのか…
やはり歴史の醍醐味は人物にあるかと。
強く勇敢な異国の騎士の伝には、大いに興味を惹かれるでござるよ。
是非御教授願いたい。宜しく御願い申す。
15分ほど前に漸く帰宅でき申した(;´Д`)シゴトイヤソ
>>48殿
ビザンティンとササン朝は…と始めると、只でさえ板違い気味の話題が
さらに暴走するので、とりあえず1970年代の米ソ級の大国、と考えられ度。
>ビザンチンもやはり、歩兵による集団密集戦術を取っていたので
>しょうか?
その通りでござる。騎兵はご指摘の通り、遊撃的な役割が大きかった
ようですな。ただ、6世紀にもなると従来の徴募型の職業軍人からフン、
ゲルマン傭兵へと主体が移り統率は困難を極めたとも伺っております。
これが落ち着くには凡そ2世紀ほどの時が必要でござった。
(封建制度に似た軍制を採用。軍編成も重装騎士+従士に近い構成に)
>アラブの王に使える騎士達には、どんな勇士が居たのでござろう?
無名の兵が圧倒的に強かったのでござる。
信仰の力が如何に凄まじいか…恥ずかしながら拙者も、ムスリム同胞を
一人でも増やそうとの情熱から、アフガンを越えてインドに達した次第で。
ま、初めて明確にジハド(聖戦)の概念を根本教義上に織り込んだという
巧妙さも否定できませぬが。
>>48殿のお国にもあったでござろう、「往者極楽往生 退者無間地獄」との
経文を唱える戦闘集団が…。
といっても拙者がちと調査不足なのも否めぬ。
勇士を探し、資料漁りに逝って参りまする…。
50番制圧!
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃Ash-had an-la ilaha illa-llah ┃
┃waash-had anna Muhammadan Rasuwlu-llah.┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
アッラーの他に神は無く、ムハンマドはその預言者である。
-マフムードインド侵攻軍団(アイユーブ軍団代理)-
ん?トリップを探して参る。
test
さて、どちらが強いか?という問題だが戦争はいろいろな要因があるのでなんとも言えん。
しかし我々が砂漠での戦いに強いのに対して山間部の戦いはそちらが有利であろう。
実際ヒッティーンの会戦などがいい例である。
砂漠には砂漠の戦い方がある。
迫り来るフランク相手にサラディンは見事な布陣を見せた。
湖の手前に陣を敷き、敵の水源を断ったのだ。
同時に雨が降って泥状になった砂地に敵を追い込み、
身動きのできない敵を包囲して殲滅した。
それから歩兵、騎兵の使い方であるが基本的に騎兵のみの軍隊などない。
戦術の基本であるが騎兵は歩兵の追従があってはじめて威力を発揮する。
戦争のメインは歩兵、騎兵はサイド攻撃と隙間をつくために使う。
大体歩兵:騎兵=7:3くらいか?
この程度が基本であろう。きっと。
わがアラブ軍を語る上で駱駝兵も忘れてはいかん。
>>55 オイオイ、あんたのザンギー家はトルコ人だろ!
ちなみにアイユーブ家はクルド人。
>>56 アラブ文明圏って意味である。
うむ、使い方が悪かったな・・・・・・
貴殿もなかなか詳しいようだな。
よし、シールクーフの名を与えよう。
>ヌールッディーン ◆89mP3666殿
どうも、お帰りなさい。
騎兵:歩兵の比率は調べると、結構論議の的にされておる様ですな。
初期イスラムでは1:1〜1:4、
モンゴルでは 2:1〜1:3と、
諸説紛々というのが現状でござる。
何と言っても火薬が使用されるまでは一般には歩兵の地位が低く、
記録から漏れがちという問題が世の東西を問わずあるので…。
ただ、フランクの下衆どもの年代記などを見ると、騎兵の比率の高さ
に驚いたとの記載もあるので、相対的には「騎馬軍団」と言っても
良かろうかと。
実はそれがしの率いていたインド侵攻軍団は山岳・沼沢での戦闘が
メインだったので、それほど騎兵の比率が高くなかった筈なのですが。
あ、よろしかったら旗をご使用下さい。
>>57 せっかくエジプトの政権を取ったのに酒の飲み過ぎで急死はいや〜ん(w
>>58 うむ、旗は現在外国語板で作成中だ。
我々アラブ系の騎兵の率は高いらしいな。
>>59 ならば好きな名をとるがよい。
この聖王以外の名ならな。
しかし酒にはまる人間の心理がわからん。
何がそんなにいいのか。
このヌールッディーンは酒など生まれてから飲んだことはないぞ。
アイユーブって何だっけなあ、
ユースフの親父だったと記憶しておるが・・・
折れのPKを受けてみよ!
ワールドカップではフランクどもにボコボコに・・・・・
うぬぅ、激しく欝だわ・・・・・
>>61 そうだったと思う。
ユースフって呼び方止めない?ユースフさんっていっぱい居るし。
で・・・。
ここはアラブ史を紹介するスレ、
という解釈で宜しいかな?
>>65 どうせ三戦板でやるのだから萌え的な紹介でいこうと思う。
議論は世界史でやればよし!!
>>64 そうであるな。
うぬぅ!飽きられてしまったようだのう・・・・
欝じゃ・・・
消えるか・・・
>>67 飽きられたというより、
ひたすらアラブの紹介されても突っ込みようがないのでのう。
拙者は面白く読ませてもらっておるが。
vsスレ故ネタレスとして書かせていただくが、正直滅んだ国の歴史や紋章
には、あまり惹かれませぬな。
されど英雄伝は、時を越え語り告がれ、勇気や感動を与える物。
別に先陣をきる勇者ばかりでなくても、奇策上策縦横無尽の名軍師の話
でも構いませぬ。人間の逸話が聞きたいでござるよ。
アラブは昔から名軍師が多いと伺いますが。
(´-`).。oO(正綱殿、初陣なれど立派な戦ぶり…頼もしいの。)
>>70 恐悦至極に存じます〜
しかし…(´Д` )止まってしまいましたなあ…
>>アラブ勢
このまま勝ち鬨を挙げても良いのだが、うーん。何か聞かせて欲しいのー
>>66に同意じゃ。考察は歴史板で。
ここでは伝承だろうが何だろうが、面白い物が勝ちでござる。
身長5メートルの巨人を倒したとか、怒鳴り声で戦艦を沈めたとか、
石を投げて月を割ったとか、何でも良いでござる。いや、全然出任せでは
困るが。
敵を倒した、で無くても良いのですぞ。ロマンス、失敗談、何でも良いの
ですぞ。
何もなければ勝ち鬨を挙げますぞ。武田の勝利でござる。
マチクタビレタ
☆ チン マチクタビレター
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・)< アラブの英雄譚まだー?
\_/⊂ ⊂_)_ \____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| .|
| ○御旗楯無○ |/
うぬぅ、久々だからageさせてもらうぞ!
ではここで我が配下サラディンの武勇伝をひとつ。
サラディンといえばいかにも歴戦の猛将のようなイメージがあるがそうではない。
エジプトを奪い取ったシールクーフ(サラディンの叔父)が死亡したとき、
カリフ(日本で言う天皇)が次の宰相を誰にするかということを重臣たちと話合った。
カリフ「どうせ誰が宰相をやっても同じことだろう。どうせ予は操り人形じゃ。」
重臣「ならばいっそのこと一番使えないやつを選びましょう。」
カリフ「うん、若いのがいいな。経験が少ないやつがいい。そして弱そうな風貌のやつな。」
重臣「うってつけの人物がおります。」
カリフ「誰じゃ?」
重臣「シールクーフの甥サラディンでございます。」
こうして運命は彼を英雄へと仕立て上げてゆく。
ドラマチックだ
なにはともあれ、サラディンはカリフの宮殿に召しだされ、「アル=マリク・アル=ナーシル」
つまり「勝利王」の称号と宰相の装具一式を受け取った。金糸で縫い合わせた白いターバン、深紅の裏をつけた
チュニックを添えた衣装。宝石を象眼した剣、金を掘り込み、真珠で飾った鞍と馬具つきの栗毛の牝馬。
宮殿から退出して彼は一群の随員を従え、宰相の屋敷に赴く。
数週間のうちにサラディンは権力を確立することに成功した。
まず、忠誠心が疑わしいファティマ朝(前エジプト政権)の官僚を排除し、自分の側近に交代させ、エジプト部隊内部の反乱を徹底的に鎮圧する。
そのとき、アモリー率いる十字軍が5回目のエジプト攻撃を開始した。
マヌエル・コムネノス帝はヌールッディーンの幕僚がエジプトの主になったことに不安を抱き、
アモリーにビザンツ艦隊の支援を約束する。
しかし、ビザンツは兵糧は不十分であり、味方のフランクが補給に応じなかったため、
とても戦いどころではなくなってしまった。
サラディンはすかさず彼らと交渉に入り、この無謀な計画を打ち切らせることに成功した。
こうしてサラディンのエジプトにおける権力は不動のものとなった。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/16 00:44
木曽馬とアラブ馬じゃ馬体の違いもあって勝負にならないと思うが・・・
御意!
む?
反応が悪いのぅ・・・
サラディンじゃ駄目か?
>>79 ちょっと待って下さい。
・・・後ほどお相手致す。
>>79 御無礼仕った。
いや、面白いですよ。サラディンという人物、興味がござる。ただ、
>サラディンといえばいかにも歴戦の猛将のようなイメージがある
ここをもう少し紹介していただけたらと思う。どんな猛将なのか、是非
聞かせてくだされ。血沸き肉踊りますなあ。勇者の話は大好きでござる。
勿論教科書を書いて欲しい訳ではないので、萌え的な文章で宜しいと
思われるよ。面白く書いていただければ。
>>77 日本の地馬もなかなか素敵な奴等でござるよ。別に比べたいとは思わん。
拙者も騎馬故、馬に興味はあるが、そういう物言いには興味ござらん。
>>74 >カリフ「どうせ誰が宰相をやっても同じことだろう。どうせ予は操り人形じゃ。」
>重臣「ならばいっそのこと一番使えないやつを選びましょう。」
こういうケースは歴史上、結構ありますなあ。
拙者は真っ先に漢の武帝を思いだした。
(外戚の力により16歳で即位、数年の雌伏を経て権力を握り親政を実現)
しかし、
>数週間のうちにサラディンは権力を確立することに成功した。
これは逆に見ると、マヌケですなあ。
サラディンを推した重臣に見る目がなかったということか。
ヤボなツッコミですが、
厳密に言うとヌールッディーン陛下の伝えられたお話は史実と若干違うかと。
サラディンの叔父シールクーフはシリアのヌールッディーンに派遣された将軍で、
シリア軍(中核はトルコ系騎兵)の力を背景にエジプトのカリフの宰相になっていた。
ところがシールクーフが急死したのでシリア軍の指揮はサラディンが継ぐことになった。
カリフらエジプト宮廷サイドとしては
よそ者のシリア軍の将軍が自分の宰相になって厄介に感じており
シールクーフの死を機に宰相制度を廃止してシリア軍の影響を排除するつもりだったが、
丁度若造のサラディンが出てきたので彼を後任の宰相にすることを喜んで承認した。
…という経緯があったようです。
教科書的なお話で申し訳ありませんが。
まあ演戯のようなもんです。
>>83 無論史実をないがしろにする気はござらんです。勉強になります。
これからも、どうか宜しく御願い申す。
>>84 むしろ、後から逸話が出来たのであれば、それだけサラディン殿の活躍が
素晴らしく、人々に語り継がれるものであったという証拠。これぞ称して
誉れと申す物。学者の残す記録など、誉に比べれば物の数にござらん。
むしろ大いに胸を張るべきですぞ。
なんだかドン・デ・ラマンチャみたいになってしまいましたが、そうい
う訳で、宜しく御願い申す。
だがサラディンは実際なで肩で、髭が薄く、とても貧相な男であった。
そしてシールクーフとは対照的に争いがあまり好きではなかった。
さて、続きをうpしますかな。
当時、十字軍はエルサレムを占領しており、また同時に戦局が膠着している状態であった。
十字軍の長アモリーはエジプト攻撃失敗の後、どうにかして戦局打開の策を練らなければならなかった。
彼はふと思いつく。
ヌールッディーンとサラディンの離反を仕掛けるのだ。
この期待は甘すぎるようにも見える。
だがまったく根拠のないものではない。
事実、サラディンは主との関係に距離をとり始めている。もちろん絶えず忠誠と服従を誓ってはいるが
エジプトにおける事実上の権力はヌールッディーンが行使するわけではない。
二人の関係はしだいに一瞬触発的なものになってゆく。
エジプトでの権力が固まったにもかかわらず、サラディンは決して主君との対決に踏み切ろうとはしない。
ヌールッディーンが彼と会おうと招いても彼は言を左右にして応じない。
それは罠にはまるのを恐れたわけではなく、主の前に出頭したら力負けしてしまうのが心配だったからであろう。
最初の深刻な危機は、ヌールッディーンがサラディンに対し、ファティマ=カリフ朝を廃絶せよ
と求めたときに起こる。
ファティマ=カリフ朝はシーア派のイスラム政権であり、スンナ派のヌールッディーンとしては自己の領土に
シーア派の精神的権威が存在することを許しては置けないのだ。
(日本の南朝北朝時代のようなもんだと思ってくだされ。)
そこで彼はこの点に関する信書を何度もサラディンに送りつけるが黙殺されてしまう。
サラディンは相当部分がシーア派である住民の感情に逆らい、またファティマ朝の官僚たちから疎外されることを
恐れたのだ。
さらに彼はカリフのアル=アーディドのおかげで宰相として正当な権威を保持している。
もしカリフを退位させればエジプトにおける彼の権利を公式に保障しているものを失ってしまう。
彼はそのことを恐れた。
もし実行すれば彼は単なるヌールッディーンの代表になってしまう。
彼はそれを回避したかった。
わざわざヌールッディーンの策略にはまることはない。
しだいにヌールッディーンの要求は脅迫的なものになる。
進退きわまって、サラディンは住民の敵対的な反応に対処する準備にとりかかり、カリフの廃位を告げる公式声明
まで用意した。しかし、その発表は依然としてためらう。アル=アーディドはまだ20歳だが今重病の床にあり、
サラディンと彼は友情で結ばれていて、その信頼を裏切ることなどできないからだ。
ところが1171年9月10日の金曜日、カイロ滞在中のさるモスル(地方都市の名)の民がモスク(教会)に入り、
宣教師より先に壇に登って、アッバース朝カリフの名で礼拝を行った。すると、奇妙なことに数日たっても反作用は何も
起こらない。この男はヌールッディーンが廻した手先だろうか?とサラディンは疑ったがどちらにせよこの事件の後では
サラディンはもう決定を先に延ばすことができない。
次週の金曜になると集団礼拝の際にファティマ朝の名を使ってはならない命令が出た。
アル=アーディドはこのとき瀕死の床にあって、ほとんど意識がなかった。
サラディンはこの知らせを彼に伝えるとこを部下に厳禁する。
「もし治ったらいつでも知らせる時間があるだろうし、そうでなければ精神的苦痛なしに死なせることだ。」
事実、アル=アーディドは自分の王朝の不幸な運命を知らずにまもなく没した。
またしても運命が彼を助ける。彼はファティマ朝の勢力と対決することなく、エジプトでさらなる政治的次元を手に入れた。
このあと、しばらくこの私とサラディンとの確執が続くのだがそれは割愛いたそう。
簡単に言うとこの私が死ぬ。
サラディンは権力争いをうまくまとめ、自分がこの私の後継者の位置に座ったということだ。
なお、これまでの間ずっと十字軍との戦いは続いており、まさにシリアは混乱状態にあったといえよう。
敵、見方の明確な区別はない。
ヌールッディーンが没してサラディンが権力闘争の真っ只中にいたころ、
十字軍のアモリーが赤痢で没した。
こうなると中東全域でサラディンの上昇を抑えることができるのはビザンツのマヌエル皇帝しかいない。
彼はいつかシリアの主権を手中に収め、フランクと協力してエジプトを侵略しようと思っていた。
しかしヌールッディーンをかれこれ15年も悩ませたビザンツ軍はサラディンの台頭を仕上げるかのようにトルコの一派によって
壊滅され、マヌエルはまもなく没する。
まさに天命はサラディンに見方した。
しかしサラディンはこのような幸運を決して運のせいにはせず、神とシールクーフ、ヌールッディーンに感謝した。
このような謙虚な姿勢がサラディンの偉大さである。
>>91 うーむむむむむむむむむ、確かにサラディン殿は立派な統率者でござるが…
聞いている私は不完全燃焼でござる…
アモリーとサラディンは戦ったのですか!?
ほんとに申し訳ないが、確かに拙者も歴史に興味なくはごさらんのですが、
一番聞きたいのは猛将サラディンの戦いの話でござる!
拙者別に血が好きな訳ではない。
むしろ、その歴史の中のサラディン殿の思慮深さに触発されて興味を惹かれ
るのでござるよ。
それ程の人物なら、戦う時には、戦わざるを得ない状況を作ってしまった
自分の力不足を嘆きながらも、自分が率いる将兵の命を守り、かつ戦に勝利
する為、ありとあらゆる知力を尽くしたのでござろう!!
それを聞かせてくだされ!!!
とは言え。
確かにサラディン殿は勇者と言えますな。
御貴殿、ヌールッディーン殿としても、それは認めるのですな?
まだまだ続きはあります。
あわてることなかれ。
このあとサラディンがムスリムをまとめて十字軍と戦う流れを紹介いたす。
>確かにサラディン殿は勇者と言えますな。
>御貴殿、ヌールッディーン殿としても、それは認めるのですな?
まあ認めざるをえませぬな。
ただ私との違いは彼は私よりも暖かく、人間くさい。
それゆえのミスも多いというところでしょうな。
自分で言うのもなんだが私は潔癖すぎる王でありました。
うわはははははは
見たかね?我らがムスリムの力を!!
はぁ・・・・・・・ナカタコ・・・・
チュニジアやサウジの仇を討ってくれましたな(w
さて現時点でサラディンと敵対するムスリム勢力であった暗殺教団の長も死に、ここにきてアラブ世界は
ヌールッディーン時代のような諸侯の連帯でなく、アイユーブ家宗主による事実上の統一がなされた。
反対に十字軍は分裂を開始する。
エルサレム王(当時も十字軍がエルサレムを占領中)が病気のため五体が崩れかかってるのだ。
そして十字軍は2派に別れて権力争いに陥った。
ひとつはサラディンとの和解に好意的なトリポリ伯レイモン派、もう片方は過激派のアンティオキア公ルノー派である。
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レイモンはアラビア語をよくしゃべり、イスラムの著書にも精通した人物であった。
非常に勇敢で聡明であったがたいへんな野心家であり、王になることに執着していた。
一時期、執政の座についたがまもなく遠ざけられた。
このことを根に持った彼はサラディンに手紙を書いて彼の側に立ち、フランクの王になるための援助を求めた。
サラディンはこの要請を喜び、捕虜になっていたトリポリの騎士何人かを直ちに釈放した。
このような経緯があった。
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サラディンはこの勢力争いを注意深く見守った。
レイモン派がエルサレムで勝ちそうなとき、彼は強調的な姿勢をとる。
エルサレム王ボードワン4世はいよいよ末期的な症状に入った。
だが彼の勇気と良識はかけることなく、レイモンを支持する。
この間の十字軍とイスラムの関係は良好で、隊商たちが十字軍の領土を通ったりキリスト教徒が
ムスリムの領土を通ったりしていた。
戦う人は戦争に専念しているが、人民は平和に暮らしている状況であった。
サラディンはこの共存状態を急いで終わらせようとはみじんも思っていなかったので平和の道をもっと遠くまで行く
用意があることさえ示す。
事実、1185年3月、エルサレム王ボードワンが没して6歳のボードワン5世が王位を受け、執政をふたたびレイモンが取ると
レイモンはこの体制を固めるのに時が必要と判断してサラディンに休戦を要請する。
サラディンは絶好の機会とは思っていたが、有無をいわせぬ対決を今すぐにしようと思っていなかったことを示し、4年間の休戦に
同意した。
ところが幼年王が1年後に没し、執政の役はまったくの無駄になってしまった。
なお悪いことに、幼年王の母が最近西欧からやってきたギー某なる男に恋をし、
結婚してしまったので名目上の権力がこのギーという男に移ってしまった。
このギーという男は過激派の操り人形で、その過激派の長はプリンス・アルナートことかのルノーであった。
このルノーという男ははなはだ始末の悪い男で行軍中、ありとあらゆる略奪をした張本人である。
途中、戦いに破れ、15年間アレッポの牢獄で過ごしたが抑留生活は彼の倫理的欠如を助長しただけであった。
釈放されたのち、アンティオキアの領主に戻ることができないとわかった彼は、エルサレム王国に移って若い未亡人と
結婚し、その女性が婚資として出したヨルダン川東側の領土を受け取ってエルサレム王国内の勢力を伸ばす。
これに対抗できたのはレイモン一人であった。
ルノーが強行しようとした政策は80年前の第一回十字軍と同じもの、すなわち絶えずムスリムと戦い、無差別に略奪と殺人を重ね、
新たな領土を獲得することである。
彼にとってはどんな和解も妥協も裏切りとなる。どんな休戦にも、またどんな約束にも縛られない。
「不信心者と交わした契約に何の価値があるのかね?」とせせら笑う。
うぬぅ・・・・やられたわぃ・・・・
لااله الا الله
旗の前半部分は完成したわい。
少し前に戻って
1180年に地域内における物資と人員の自由往来を保障する条約が十字軍とイスラムの間で結ばれていた。
しかし、数ヵ月後、イスラムの隊商がルノーに攻撃され、全商品が没収される。
サラディンは抗議したがエルサレム王はこの臣下を罰することができなかった。
1182年に更に事態は深刻化する。
ルノーはメッカそのものを攻撃しようと決めたのだ。
アカバ湾に面する小さな漁村エイラートで乗船し、紅海の海賊に案内させ、海岸沿いに南下。
メディナの外港であるヤンブーを、次いでメッカから程遠からぬラビークを襲う。
途中、ルノーの部下たちはムスリムの巡礼船を一隻沈没させている。
そののちルノー自身は北上し、一方部下たちは何ヶ月もかかって紅海の沿岸をたどる。
このときサラディンの弟アル=アーディルは留守のエジプトを任されていたが艦隊を編成して強盗団の追跡にかかり、
全滅させた。
生き残りの何人かはメッカへ引き立てられ、広場で打ち首になる。聖地を犯そうとする者への見せしめであった。
この狂気の沙汰は瞬く間にイスラム世界全域に広まり、以後ルノーは十字軍で最もおぞましき人物として恐れられる。
サラディンは反撃に出て、ルノーの領土を何度か攻めた。
しかし怒ってはいても彼は自分を抑え、寛容な態度を示す。
例えば1183年11月サラディンがカラク城のを投石器で爆撃し始めたところ、守り手から通知がきて城内では公女の
結婚式が挙げられているという。
花嫁とはルノーの継娘ではあったがサラディンは守り手に新婚夫婦が住むはずの棟の場所を尋ね、
部下にその場所は撃つなと命じた。
うーん。需要ないのかな?
やめるか。
トーナメントその他で忙しいのじゃ。
もう少し待ったらどうかな?
それに、ニーズは発掘するものじゃぞ!
なんも知識ないからROMだけど、オモロイから続けてほしいね。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/25 10:50
三戦板唯一の、イスラムスレあげ
>私信:ヌールッディーン
御久しぶり
て言うかまともな会話は 始めてだね 道理と金の話で絡んだ時以外は
俺はアンタを理解してる しかし何故露骨な ゴリ押しに出たのか・・・・・・・
あの人に絡む機会が あったら 御迷惑をお掛けしました と伝えてくれないか?
ハマッた人の事・・・・・ただその事とアンタとBOXer氏の事が 気掛かりでね
いきなり勝手で 申し訳無い 今後も影ながら応援しますよ
来られよ
このような騎士的行為もルノーにはまったく通用しなかった。
しばらくの間レイモンのおかげでおとなしくしてたが1186年のギー王の即位とともに再びわが道を突っ走る。
まだ2年半有効な休戦条約を無視して彼はメッカ街道をを平和にたどっていた巡礼とキャラバンに襲い掛かり、護衛を皆殺しにし、残りを捕虜にして拉致した。
その中のあるものがルノーに休戦条約を喚起させたところ、ルノーはこう言った。
「なんじらのムハンマドとやらが助けにくればのう。」
この言葉がサラディンに伝わると彼は自らの手で成敗すると誓う。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/26 00:12
板違いあげ
ところで、初心者にお奨めな書物はありますかね?
十字軍、モンゴル戦の戦史を中心にしたものがいいんだけど。
サラディンはあくまで紳士的にふるまう。
ルノーに使節団を送り、協定に基づき、捕虜の解放と財貨の返還を求める。
ルノーが対面を断ったので使節団はエルサレムに赴き、ギー王に迎えられたがギー王はこの臣下と衝突することはできない。
使節団は食い下がる。
人質はどんな協定、どんな誓約にもお構いなく地下牢にとどまらざるを得ないのでしょうか?
しかし、無能なギーは責任を取らない。
休戦は敗れた。サラディンは期限切れまで約束を守るつもりだったが戦闘状態に戻るのに何の疑問も抱かない。
急使をエジプト、シリア、ジャジーラその他の諸侯のもとに派遣して十字軍が卑怯にも約束をないがしろにしたことをつげ、
同盟者および占領者に対するジハードに参加するよう訴えた。
イスラムのあらゆる地域から幾千もの兵士がダマスカスに殺到する。
なびく旗、らくだ毛の小莫舎、コーランの章句や花文字の詩句で飾られた諸侯のあずま屋。
ダマスカスはこうしたものの海に沈む船のようであった。
>>114 ただいま私が参考にしてる文献は「アラブが見た十字軍」アミン・マアルーフ著である。
これがおすすめかな?
ヌールッディーン陛下のおっしゃる通り、
「アラブが見た十字軍」はおすすめ。
蛇足ながら不肖めが付け足させて頂きますと、
「アラブが見た十字軍」の訳者牟田口義郎氏の著書
「世界の都市の物語 カイロ」(文春文庫)はイスラム時代のエジプト史に詳しく、
サラディン、その弟の名君アル=アーディル、
女王シャジャラ=ドゥル、モンゴル軍を破ったバイバルス・・・
などなどの、この時代の人々に多くページを割いております。
文庫ということで値段も手ごろなのでおすすめ。
また、サラディンの一代記としては佐藤次高氏の
「イスラームの英雄サラディン 十字軍と戦った男」(講談社選書メチエ)
がおすすめできます(そもそもサラディンの伝記なんて他に無いか)。
イスラム諸王朝の軍隊や装備については、
最近よくゲーム書籍コーナーで見かけるオスプレイ・メンアットアームズの
「サラディンとサラセン軍 十字軍の好敵手」を見るのが手っ取り早いでしょう。
マフムード陛下は引退されたのでしょうか?
ヌールッディーン陛下おひとりでは寂しいですね。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/29 12:55
このスレはムチャじゃないのか?・・・・とバイバルス閣下はおっしゃっています・・・
三戦住人に訴えるのは、歴史より英雄でござる…
>>119 武田で言えば、「片手千人斬り」や「火車鬼退治」等ですな。
・・・極端ですが。
支持を得るには萌え重視の方が宜しいかと。
甲Aにレコンキスタ系ゲーム作らせるスレはここですか?ハァハァ…イザベルタン…