三国志、戦国時代の詩とか和歌とか

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1地雷魚
 後漢から三国時代は曹操一家や建安の七子など文学の発達した時代
でしたし、戦国時代にも伊達政宗の「馬上少年過ぐ」などの詩や数々
の連歌や和歌なども残されています。
 そんな戦国や三国志における文雅な部分について語るスレがあって
もいいかなと思い立てさせていただきました。
 文学的側面について語るもよし、ただお気に入りのフレーズを愉し
むもよし、マターリ語りましょう。

 
2地雷魚:02/04/24 02:50
とりあえず、ネタフリ代わりに曹操の詩を幾つか挙げます。
意訳の部分は地雷魚の勝手解釈による訳ですので、
正確さはかなり欠けるですので、御注意。
3地雷魚:02/04/24 02:50
『短歌行』 曹操

 對酒當歌 酒に対しては当に歌うべし 酒を飲んだら歌うしかないじゃないか
  人生幾何 人生幾何ぞ        人生なんてたいしたものじゃない
  譬如朝露 譬えば朝露の如し     例えれば朝露のようなものでしかない
  去日苦多 去日苦だ多し       苦い思いが浮かぶばかりだ
  慨當以康 慨しては当に以て康すべし まったく歌うしかないというものだ
  幽思難忘 幽思忘れ難し       それでも忘れられない思いがあるなら
  何以解憂 何を以て憂いを解かん   どうやって憂いを解こうか?
  唯有杜康 唯だ杜康有るのみ     なんだかんだ言っても酒しかない
 
 青青子衿 青青たる子の衿      青々と衿を立てたる諸君
  悠悠我心 悠悠たる我が心      君たちを前に満足げな私
  但爲君故 但だ君が故が為に     今まで私は君たちのことを
  沈吟至今 沈吟して今に至る     ずっとこうして待っていたのだ
  幼幼鹿鳴 幼幼として鹿鳴き     悠々と鹿が鳴くように
  食野之苹 野の苹を食う       嬉しげに野のヨモギを食むように
  我有嘉賓 我に嘉賓有り       私は諸君らとともに宴に興じ
  鼓瑟吹笙 瑟を鼓し笙を吹く     琴と鼓を掻き鳴らして愉しもうじゃないか

  明明如月 明明たること月の如き   夜空に輝く月の光が
  何時可採 何れの時にか採るべき   手に取る事が出来ないように
  憂從中來 憂いは中より来たり    心の中の憂いもまた
  不可斷絶 断絶す可からず      取り去る事はできない
  越陌度阡 陌を越え阡を度り     たが、今諸君は方々から
  枉用相存 枉げて用って相存す    私の下へ訪れてくれた
  契闊談讌 契闊談讌して       さあ、久々に飲み語らい
  心念舊恩 心に旧恩を念う      旧交を温めあおうじゃないか

  月明星稀 月明らかに星稀に     月が明るく星は少ない
  烏鵲南飛 烏鵲南へ飛ぶ       カササギは南へと飛ぶ
  紆樹三匝 樹を紆ること三匝     木の周りを三度巡って
  何枝可依 何れの枝か依る可き    どこへ留まろうか考えている
  山不厭高 山は高きを厭わず     山は高いほうがいい
  海不厭深 海は深きを厭わず     海は深いほうがいい
  周公吐哺 周公哺を吐きて      昔周公旦が口の中のものを吐いて
  天下歸心 天下心を帰す       天下の人々を集めたように
4地雷魚:02/04/24 02:56
>>3
 曹操の詩でいちばん有名な詩ですね。
 自分の周りに人材を集めて、得意げに歌っている曹操の姿が浮かびます。
 田中芳樹氏は、これを愛息である曹仲を失った悲しみを歌った詩と解釈し
てましたが、ちょっと無理があるように思います。
 全体的に悲哀の要素は少なく、みんなで酒を飲み歌いながら憂さを晴らす
という宴を愉しんでいる調子が感じられます。
 アホな解釈としては、“紆樹三匝”の部分を孔明の三顧の礼に掛けて、
なんかトンデモな説を考えられないかと(笑)
5地雷魚:02/04/24 02:56

『苦寒行』 曹 操

  北上太行山 北のかた太行山に上れば   北へ太行山を越えよう
  艱哉何巍巍 艱き哉何ぞ巍巍たる     なんと険しい山道である事か
  羊腸坂詰屈 羊腸の坂詰屈し       羊腸の坂のなんと曲がりくねった事か
  車輪爲之摧 車輪之れが為に摧く     車輪は道の険しさに砕けるほどだ
  樹木何蕭瑟 樹木何ぞ蕭瑟たる      木々は寂しげに立つだけで
  北風聲正悲 北風声正に悲し       その間を北風は寂しげに吹く
  熊羆對我蹲 熊羆我に対して蹲まり    熊や羆が我々の前にうずくまり
  虎豹夾路啼 虎豹は路を夾んで啼く    虎や豹は道を挟んで唸りをあげる
  谿谷少人民 渓谷人民少なく       山の間に住む人もまれで
  雪落何霏霏 雪落つること何ぞ霏霏たる  雪は寒寒と降り積もる
  延頚長嘆息 頚を延ばして長嘆息し    首を伸ばして見渡せば思わず出る溜め息
  遠行多所懷 遠行して懐う所多し     思えば遠くまで来たものだ
  我心何怫欝 我が心何ぞ怫欝たる     私の心は不安でいっぱいになり
  思欲一東歸 一たび東帰せん思欲す    いっそのこと東に帰ろうと思いはじめる
  水深橋梁絶 水深くして橋梁絶え     谷川の水は深いのに橋もなく
  中路正徘徊 中路正に徘徊す       道を探して彷徨い続ける
  迷惑失故路 迷惑して故路を失い     迷った挙句に帰り道すら見失い
  薄暮宿棲無 薄暮宿棲無し        日が暮れても宿営すらままならない
  行行日已遠 行き行きて日已に遠く    行軍を続けてどれほど経ったろう
  人馬同時飢 人馬時を同じくして飢う   人も馬も同様に飢えてしまっている
  擔嚢行取薪 嚢を担い行きて薪を取り   袋を担いで薪を取り
  斧冰持作粥 氷を斧りて持て粥を作る   氷を割って粥を作る
  悲彼東山詩 彼の東山の詩を悲しみ    周公の東山遠征の辛苦を語る詩を思い
  悠悠令我哀 悠悠として我れを哀しましむ ますます私は不安に陥るのだ
6地雷魚:02/04/24 03:00
>>5
 曹操が官渡の戦いの後の袁紹一族掃討戦のうち、ヘイ[千千]州の高幹を
攻めたときの様子を歌った歌です。
 文字面からして寒そうで、行軍の辛さが表れてます。
 橋がなくて探し回ったあげくに帰り道を見失うってのは、当時の地図
も整備されていないような時代にはけっこうあった事なんでしょうか?
 勇ましい軍歌ではなく、兵士の身になって鬱々とした行軍の辛さを描
くあたりが、曹操の人間的な繊細さとなった感じられます。
7地雷魚:02/04/24 03:01
『龜雖壽』 曹操(歩出夏門行より)
神亀雖壽 神亀は寿なりと雖も   神亀が長寿と言えども
猶有竟時 猶お竟る時有り     それでも死ぬときは死ぬ
騰蛇乗霧 騰蛇は霧を成せども   天の竜は霧を起こす力があっても
終焉土灰 終には土灰となる    最後は土塊となる
老驥伏櫪 老驥 櫪に伏しても   だが老いたる名馬は厩に倒れても
志在千里 志は千里に在り     その心は千里を駆け
烈士暮年 烈士 暮年にして    烈士は晩年になっても
壮心不巳 壮心已まず       その志を喪わない
盈縮之期 盈縮の期は       人の寿命というのは
不但在天 独り天のみに在らず   天命まかせではない
養怡之福 養怡の福は       いかに生きたかによって
可得永年 永年を得可し      寿命を越える事ができるのだ
幸甚至哉 幸甚だ至れる哉     幸い私はそれに気づく事ができた
歌以詠志 歌いて以って志を詠ず  だから私はこうして志を歌うのだ
8地雷魚:02/04/24 03:04
>>7
 曹操の詩の中では、もっとも盛り上がる詩ではないでしょうか?
「老驥 櫪に伏しても 志は千里に在り 烈士 暮年にして 壮心已まず」
 という部分は英雄詩人たる曹操の面目躍如といった猛々しさがあります。
 最後の部分は、普通に訳すと気の持ち方によって長寿は約束される、
といった長寿法に気付いた喜びを表すのですが、この詩の気概を重視して
志によって寿命を越えるといった解釈にしてみました。
9劉備:02/04/24 03:06
ほう、俺は劉備だけどここは良スレだな。
もっともっと出してくれ。読むのが楽しみだ。
ほう、漏れは厨房だけどここは自作自演スレだな。
11地雷魚:02/04/24 03:13
『七哀詩』 曹植

明月照高樓 明月高樓を照らし    月の光が高楼を照らし
流光正徘徊 流光正に徘徊す     流れる光がまるで移ろうようだ
上有秋思婦 上に秋思の婦有り    高楼の上に婦人が独り
悲歎有餘哀 悲歎餘哀有り      悲嘆に暮れている
借問歎者誰 借問す歎ず者は誰ぞ   思わず聞く、「なぜ、そんなに嘆くのです?」
言是客子妻 言う是客子の妻     彼女は言った、「私は旅人の妻です」。
君行踰十年 君行きて十年を踰え   「あの人が旅に出て十年を数え
孤妾常獨棲 孤妾常に獨り棲み     私は独りここで待ってます
君若清路塵 君は清路の塵の若く    あの人は道に舞う塵のようで
妾若濁水泥 妾は濁水の泥の若し    わたしは水の中の泥のよう
浮沈各異勢 浮沈各勢いを異にす    同じようなものなのに浮き沈みは全然違う
会合何時諧 会合何れの時に諧わん   何時になったら逢えるのでしょう?
願為西南風 願わくば西南の風と為り  できるなら、西南の風になって
長逝入君懷 長逝して君が懷に入らん  遠くあの人の懐に抱かれたい
君懷良不開 君が懷良に開かずんば   でも、もしあの人が抱いてくれなかったら
賤妾當何依 賤妾當に何にか依るべき  私はいったいどうすればいいの?」
12地雷魚:02/04/24 03:17
>>11
 なんかメロドラマな詩ですが、曹植の詩はこのように色気にある繊細な
作風が特徴です。とても、日本が弥生時代だった時期に書かれた詩とは思
えない艶っぽい詩ですね。
 ちなみに、この詩の「君は清路の塵の若く、妾は濁水の泥の若し、浮沈
各勢いを異にす」という部分が演義に出てくる曹植の豆殻の詩の元ネタに
なっているようです。
>>1
話は少し変わりますが、曹操とかの漢詩を紹介していた本の作者が、
「意味はこんな感じです。和訳でも英雄の気概が伝わってきますね。
 しかし意味だけではもったいない!(インとか何とかの)響きや
 調子がわかるともっともっと楽しめます!歌が踊ります!」
とか書いてて、なるほどと思ったりしました(図書館で立ち読み)。

まぁ無知な私は地雷魚さんの意訳の踊り具合が丁度良いですので、
今後も頑張ってください。難しい話の方向になっても困るので。
14地雷魚:02/04/26 21:34
このスレ需要ないかな……?
>>14
ある。
16地雷魚:02/04/28 18:35
『名都篇』 曹植

名都多妖女 名都妖女多く        都に色っぽい女が多いように
京洛出少年 京洛少年を出す       粋なる若者たちも都から出る
寶劍直千金 宝剣、値千金        千金の宝剣を帯びて
被服麗且鮮 被服は麗しく且つ鮮やか   服は最新流行の粋っぷり
鬥雞東郊道 鶏闘わす、東郊の道     東の郊外で闘鶏に熱中し
走馬長楸間 馬走らす、長鍬の間     並木道では乗馬を愉しむ
馳騁未能半 馳騁、未だ半ばせざるに   彼らが愉しんでいる最中
雙兔過我前 双兎、我が前を過ぐ     2匹の兎が現れた
攬弓捷嗚鏑 弓を取り鳴鏑をつがえ    素早く弓に鏑矢をつがえ
長驅上南山 長駆、南山に上る      一気に南山まで追い詰める
左挽因右發 左に挽き因って右に発し   右手で弦を引き右へ一発
一縱兩禽連 一度縦って、両禽を連ぬ   見事に一矢で二匹をモノにした
餘巧未及展 余巧、未だ展ぶるに及ばず  それでも物足りないので、
仰手接飛鳶 手を仰げ、飛鳶を接る    今度は飛んでる鳶も射止めたぞ
觀者咸稱善 観る者、みな善しと称え   観ていた者たちはやんやの大喝采
眾工歸我妍 衆工、我に妍を帰す     周囲の腕自慢たちもかぶとを脱いだ

歸來宴平樂 帰来して平楽に宴す     さあ、帰れば平楽宮で大宴会だ
美酒斗十千 美酒は斗、十千なり     美酒はなんと一万銭もする代物
膾鯉[月儁]胎蝦 鯉を膾にし、胎蝦を羹にし 鯉のなますに子持ちエビのスープ
寒鱉炙熊蹯 鱉を寒にし、熊蹯を炙る   スッポンの味噌漬けに熊の掌のステーキ
鳴傳嘯匹侶 ともに鳴き、匹侶と嘯き   大声の喝采と口笛が吹きながら
列坐竟長筵 坐に列して長筵を竟む    長い竹のむしろに並ぶ
連翩擊鞠壤 連翩、鞠と壤を撃ち     宴の後は蹴鞠に独楽回し
巧捷惟萬端 巧捷、惟れ万端なり     何をさせても玄人はだし
白日西南馳 白日、西南に馳せ      やがて陽が西南に落ちる
光景不可攀 光景、攀むべからず     時の流れだけには逆らえず
雲散還城邑 雲散して城邑に還り     若者たちは三々五々と解散する
清晨復來還 清晨、復た来り還らん    また、明日も朝から愉しむために!
17地雷魚:02/04/28 18:40
>>16
 曹植の前半期の詩で、まだ曹操の息子として放蕩三昧していた頃の詩ですね。
 この詩は自分の事ではなく兄である曹丕の事を描いた詩だとも言われています。
 なんだかんだ言っても、二人とも互いを認め合っていたのでしょうね。
 この詩の注目すべき部分は、当時の貴族の子弟たちがどのような遊びをしていたのか、また宴会ではどのようなものを飲んで食べていたのかが具体的に描かれている事でしょう。
 その意味では貴重な資料でもあります。
 それにしても、当時の魏の貴族の若者たちの華やかさといったらないですね。後に魏に投降した劉禅が、「蜀にいた頃より楽しい」と口を滑らせてしまうのも、なんだか納得がいく気がします。
18辞世の句コレクション:02/04/28 19:13
露と落ち露と消えにし我が身かな
  浪華のことは夢のまた夢   豊臣秀吉

極楽も地獄もともに有明の
  月ぞこころにかかる雲なき  上杉謙信

おぼろなる月のほのかに雲かすみ
  晴れて行くえの西の山の端  武田勝頼

浮世をば今こそわたれ武士の名を
  高松の苔に残して      清水宗治
19無名武将@お腹せっぷく:02/04/29 23:58
おぉ、なんかいいなこのスレ
20無名武将@お腹せっぷく:02/04/30 00:08
こういう風流なスレもあってこそ、三戦板と言えましょう。
21地雷魚:02/04/30 00:28
馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽しまざるは如何せん
 
        貞山 伊達政宗
22地雷魚:02/04/30 00:30
>>21
 司馬遼太郎先生の本で有名な詩ですね。
 政宗の気概と悲哀を無い混ぜにした詩境と作風は、
なんとなく曹操に通じるものがありますね。
 実績や歴史的評価はともかくとして、詩人としてのこの二人は通じる
ものがあるような気がします。
いいですねえ。
もっと教えてください。
ちるとても
かへらしけふの
春風に
はらへはつもる
花の白雪
25無名武将@お腹せっぷく:02/04/30 01:04
>>24
和歌には関連があまりなさそうだが、
その実、武将にしては秀逸な和歌を作る、
武田信玄の詠んだ歌。
26 :02/04/30 15:14
戦国武将の和歌と言えば蒲生氏郷。
・辞世の句
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風

・出兵の途上に故郷の日野を遠くに望んで
思いきや 人のゆくへの 定めなき わがふる里を よそに見んとは

・秀吉に赦される日を待つ千利休の息子の心を思い
おさまれる 君の御世とて御吉野の 花も散らさで 春風ぞ吹く

27馬吉:02/04/30 15:21
五月雨はつゆかなみだか時鳥 わが名をあげよ雲の上まで 足利義輝

契りあれば六つの衢に待てしばし 遅れ先だつことはありとも 大谷吉継

捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ 斎藤道三

夏の夜の夢路はかなきあとの名を 雲井にあげよ山ほととぎす 柴田勝家
28馬吉:02/04/30 15:24
流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水
かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ 雲ゐの空に名をとゞむべき 高橋紹運

朧なる月もほのかに雲かすみ 晴れてゆくへの西の山の端 武田勝頼

大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流 武田信玄

根は枯れし筒井の水の清ければ 心の杉の葉はうかぶとも 筒井順慶
29無名武将@お腹せっぷく:02/04/30 15:27
>>20
たしかに三戦板という感じ
「今日の一句」の日めくりカレンダーのように来ています
がんばってください
30馬吉:02/04/30 15:36
今はただ恨みもあらず諸人の 命に替るわが身と思へば  別所長治

世の中に惜しまるゝ時に散りてこそ 花も花なれいろもいろもありけれ 清水宗治

思いおく言の葉なくてついに行く 道は迷はでなるにまかせて 黒田如水

先に行くあとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う 徳川 家康

間違ってたらスマソ
31馬吉:02/04/30 15:45
今が旬?の前田慶次を(読み難いのでちゃんと区切ります(^^;)

誰ひとり うき世の旅を のかるへき のほれは下る 大阪関

けふまては おなしき路を こまにしき 立別れるそ なこりををかる

心あらん 人に見せはや みちのくの 浅香の山の のこるかつみを

世の中に ふり行物は 津の国の なからのはしと 我か身なりけり

慶次が京都から、米沢に向かう旅の途中に詠んだ和歌です。
32名無し詩人:02/04/30 17:42
「短歌行」曹丕
原文      簡訳        
仰瞻帷幕 仰いで帷幕を瞻(み) 
俯察几筵 俯して几筵(きえん)を察(み)る
其物如故 其の物故の如く
其人不存 其の人存せず
神靈倏忽 神霊倏忽(しゅくこつ)として
弃我遐遷 我を弃(す)てて遐遷(かせん)す
靡瞻靡恃 瞻(み)る靡(な)く恃(たのむ)靡く
泣涕連連 泣涕(きゅうてい)連連たり
幼幼遊鹿 ゆうゆうとして鹿遊び
銜草鳴麑 草を銜(ふく)み麑(げい)鳴く
翩翩飛鳥 翩翩たる飛鳥
挾子巣棲 子を挟(さしはさん)で巣棲(そうせい)す
我獨孤煢 我独り孤煢
懷此百離 此の百離を懐(おも)う
憂心孔疚 憂心はなはだ疚(や)ましく
莫我能知 我を能く知るもの莫(な)し
人亦有言 人も亦言える有り
憂令人老 憂え人をして老いしむと
嗟我白髮 嗟(ああ)我が白髮
生一何蚤 生ずること一(まこと)に何ぞ蚤(はや)き
長吟永歎 長吟永歎し
懷我聖考 我が聖考を懐う
曰仁者壽 仁者寿なりと曰うも
胡不是保 胡(なん)ぞ是れ保せざる

33名無し詩人:02/04/30 17:46
私訳

顔をあげて帷幕を見 
顔を伏せては几筵を見る
それらの物は以前のままの姿だが
あのお方はもういらっしゃらない
その魂魄はもうたちまちに
私を奔てていってしまわれた
もう姿を見ることも頼りにすることも出来ない
ただただ泣き尽くすばかり
ゆうゆうとないて遊ぶ鹿は
草を口に含み子の為に鳴いている
ひらひらと飛ぶ鳥は
巣を作り雛を抱いている
私一人が孤独だ
この永遠の別れを思い
憂う心はますます降り積もる
だがこの私の心を知る者はいない
昔の人はこう言っていた
「憂いの心が人を老けさせる」と
ああ、私の頭には既に白髪が
まだ白髪になるには早過ぎるというのに
長吟永歎し
聖徳をもった我が亡父を思う
「仁者は長く生きる」というが
どうして我が父はこのとおりにならなかったのだろうか
34名無し詩人:02/04/30 17:52
補足
帷幕…垂れ絹。一説に側に垂れるのを帷、上にあるのを幕という
几筵…肘掛けと敷物。座席の意
神靈…魂魄
倏忽…たちまちに
遐…「逝」と同意
瞻…仰ぎ視る
恃…頼りにする
幼幼…鹿の鳴き声
麑…子鹿
孤煢…孤独
人亦有言…『詩経』「小雅・小弁」の”假寐永歎 維憂用老假”を指す
嗟我白髮 生一何蚤…曹丕はこの時33才、まだ白髪になるには早い
考…亡父のことを「考」と呼ぶ。また亡母の場合は「妣」とする
仁者壽…『論語』「雍也」”知者動.仁者靜.知者樂.仁者壽.”

これは、曹操が死んだ時に曹丕が詠んだ詩です(正確には、樂府?)
曹操が死んで、曹丕が如何に悲しんだかが判る詩です
出来る範囲で補足及び読みを入れました。
35地雷魚:02/04/30 19:04
 書き込んでくださるみなさんありがとうございます。

>>18
 辞世の句、コレクション。いいですねえ……。
 戦国時代に限らず、幕末とかいろんな時代の人のも見てみたい気がします。
 それにしても、やはりそれぞれみんな“らしい”句をつくるものですね。
 秀吉の華やかさの裏返しのような悲哀、謙信の透徹して来世観、勝頼の苦悩の末
の諦観、宗治の武士としての凛冽たる気概。

>>24-25
 これが信玄の和歌ですか。物凄くあえやかで繊細な和歌を作るんですね。
 信玄という人は本当に感性の細やかな人だったと思います。
 変な話ですけど、高坂昌信宛のラブレターとか見てみると一層そんな気が。

>>26
 戦国きっての風流人、蒲生氏卿はさすがに巧みな和歌を作りますね。
 それにしても辞世の句はあまりにも意味深ですね……。
 やはり山風は秀吉の晩年の暴挙にあてつけたものでしょうか。
36地雷魚:02/04/30 19:12
>>馬吉さん
 さまざまな和歌を挙げてくださってありがとうございます。
 こうして並ぶと戦国の武将たち個性が出てて、とても楽しいですね。
 私観ですが、信玄は本当に巧みな和歌を作るんですね。技量が一段上な感じがしました。
 他の武将たちも、それぞれが“らしい”フレーズが入るあたり、さすがは
個性の強かった戦国武将たちといった気がします。

>>名無し詩人さん
 曹丕の『短歌行』ありがとうございます。
 冷酷人間扱いのされる曹丕ですが、こうして詩を見ると、彼も情感溢れる
曹家の熱き血が流れているんだなぁと思えますね。
 あと、丁寧な注釈で大変に参考になりました。
37地雷魚:02/04/30 19:15
 司馬懿

今天地開闢より幾星霜、
今明主に仕えて辺境に向かい、
邪悪を払わんとして故郷を過ぐ、
万里を粛清して天涯を平らげ、
功ならば退きて舞陽に帰らん
38地雷魚:02/04/30 19:20
>>37
 ちょっと息抜きに珍品をおひとつ。
 あの司馬懿が公孫淵討伐をした後で歌った詩です。
 しっかし、下手ですねぇ……(笑) 軍事に政治に抜群の才能を発揮した
司馬懿ですが、文学的素養はあまりなかったみたいです。まあ、そういう風
流心などかけらもなく、徹底的なリアリストであったあたりが彼をして晋の
太祖たらしめたのでしょうけど、それてにしも下手ですね。
 表現にら捻りの欠片もないし、またその表現もとにかく月並み。駄作とい
うのは残りにくいので、むしろ貴重な作品かもしれません(笑)
 ただ、諸葛亮を退け、公孫淵を討伐して得意絶頂の彼がこうして下手な詩
をひねり出す、という光景はとてもかわいいように思えます。
 曹操や諸葛亮に対する司馬懿の意外な弱点、それは文才なのでした。
3924:02/04/30 23:26
>>38
まわりもやっているから、俺も……
と一生懸命詩を書いている司馬懿を想像すると、
彼のイメージもまた変わってきますね。


「急ぐなよ又急ぐなよ世の中の 定まる風の吹かぬ限りは」
これは島津義弘が、関ヶ原で「敵中突破」を行った際に読んだ歌だそうです。
彼は古今伝授を受けた、文武両道の武将であります。
無骨な雰囲気が感じられ、信玄ほどのギャップは感じないですが。
40無名武将@お腹せっぷく:02/04/30 23:31
>>37 この詩は晋書に載ってるんですよね。
これをそのまま手を加えないで乗せたってことは
どういう事なんだろう。
41無名武将@お腹せっぷく:02/04/30 23:37
>>40
きっと生前、司馬懿は自信作と言ってたんじゃないかな(W
うかつに「へたくそですね」なんて言えなそうだし。
42地雷魚:02/05/01 00:26
下手の横好きで、他にもいろいろ作っては見せびらかして、
周囲は司馬懿の勢威の前に褒めるしかないという、
落語の『寝床』状態で周囲から恐れられる司馬懿……(笑)
ちょっと萌えかもしれませんね。
43無名武将@お腹せっぷく:02/05/01 00:31
良スレ認定で宜しいですね。
44地雷魚:02/05/01 01:49
垓下歌

力抜山兮気蓋世  力は山を抜き気は世を蓋う
時不利兮騅不逝  時に利あらず騅ゆかず
騅不逝兮可奈可  騅のゆかざる、いかにすべき
虞兮虞兮奈若何  虞や虞やなんじをいかんせん

 三国志ではありませんが、項羽の辞世の歌とも言うべき歌ですね。
意訳はあえてしません。書き下し文までで意味はだいたいわかるし十分カコヨイですしね。
 これは“楚辞”という形式の歌で、“兮”という掛け声が特徴ですね。
 この兮の声に合わせて手拍子でもしながら歌ったのでしょうか……?
45地雷魚:02/05/01 01:58
大風歌 劉邦

大風起兮雲飛揚    大風起こりて雲飛揚し
威加海内兮帰故郷    威を海内に加えて故郷に帰る
安得猛士兮守四方    いずくにか猛士を得て四方を守らん

 こちらが劉邦がゲイ布を討伐して、故郷に立ち寄ったときに歌った歌だそうです。
 劉邦の得意絶頂ぶりが窺える詩で、司馬懿より巧いですね(笑) 偽作かもしれませんけど、
まあ劉邦らしさの出ている気宇壮大な歌だと思います。
 こちらも、七〜六言の中間に“兮”の掛け声が入る“楚辞”となってますね。
 原典で読むとさぞかし調子良く歌えるのでしょうね。
46 :02/05/01 22:52
ライト三国志ファンで呉が好きなのですが、多才で有名な周瑜の詩って
残っているのでしょうか? あまり聞かないので誰か知ってたら教えて
ください。
47地雷魚:02/05/02 09:32
>>46
 残念ながら、周瑜作の詩というものは残されていません。
 詩文の時代であったとはいえ、そのムーブメントは北方の主に曹操陣営のことですから、周瑜はそれと無関係だったりします。
 ただ、風雅を以ってなる周瑜ですし、彼は南方の人間ですから、きっと“楚辞”の謡を好んだことでしょう。
 前述した項羽の歌などは、義兄弟である孫策が“小覇王”と呼ばれた事からも、彼らが愛唱したかもしれません(笑)
 また楚の大詩人、屈源の詩を好む周瑜というのもあり得ない話ではなく、かなり萌えだと思いますよ。
身はたとえ 蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん
土方歳三

おもしろき こともなき世を おもしろく
高杉晋作
49無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 23:15
ん?幕末もアリなのか?

とりあえず「曇りなき心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」
伊達政宗

「露と置き露と消えぬる 吾が身かな 難波のことも夢の世の中」
豊臣秀吉
50無名武将@お腹せっぷく:02/05/03 23:29
身はたとひ  武藏の野邊に 朽つるとも とどめおかまし 大和魂

ちとスレ違いだけど、すごく好きなので。「おーい竜馬」で有名な吉田松陰辞世の句。
5146:02/05/04 03:50
>>47
 そうでしたか、残念ですがハッキリしてスッキリしました。
 楽才でも有名ですから、琴でも弾きながら即興詩を詠ったり
する姿も似合いそうです。
 でも、司馬懿ほどではないにしても、下手だったから残って
ないだけだったりする可能性もあるのかなぁ?
52無名武将@お腹せっぷく:02/05/04 03:57
>>48
高杉さんのは最近JRでよく見るね

俺は大内義長のが好き。

 誘ふとて なにか恨みん 時きては
             嵐のほかに 花もこそ散れ
都より 甲斐の国へは 程遠し おいそぎあれや 日は武田殿

「犬筑波集」から一句。
同時代の武将達の中でも傑出した力を持ちながら、山々に阻まれて天下を取れなかった
信玄の、悲運と無念を感じる一句だと思います。
54無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 14:46
age
55無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 21:23
スレの趣旨とは違いますが

題不識庵撃機山図  不識庵 機山を撃つ図に題す

鞭声粛粛夜過河  鞭声 粛々 夜 河を過(わた)る
暁見千兵擁大牙  暁に見る 千兵の大牙を擁するを
遺恨十年磨一剣  遺恨なり 十年 一剣を磨く
流星光底逸長蛇  流星 光底 長蛇を逸す

江戸後期の儒学者、頼 山陽が、川中島の合戦を上杉側から描いた詩。
前半が上杉の軍勢の渡河の描写(ちなみに大牙=大将軍旗=謙信方の旗差物)
後半があと一歩のところで信玄を逃した事を惜しむ内容。
第一句が有名なので、ご存知の方も多いと思います。
56無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 23:56
スレ違いついでにもう一首

杜牧「赤壁」

折戟沈沙鐵未銷  折戟 沙(すな)に沈み 鉄 未だ銷せず
自將磨洗認前朝  自ら磨洗を将(もっ)て 前朝を認む
東風不與周郎便  東風 周郎の与(ため)に便せずんば
銅雀春深鎖二喬  銅雀 春深くして 二喬を鎖(とざ)さん

訳:
砂に埋もれていた折れた戟、その鉄はまだ錆びてはいない
自ら洗い、磨いてみると、まさに三国時代の遺物と分った
もし、あの戦いで、東風が周瑜のために吹かなかったならば
二喬は春深い銅雀台に囲われる事になっていただろう。
 
唐代の詩人、杜牧が赤壁をテーマに詠んだ詩。
三国志好きの方には、馴染み深い言葉が並んでいて分かりやすいかと。
57無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 23:59
蘇東玻の「赤壁の賦」キボンヌ
58無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 00:24
杜甫の蜀相を書こうとしたら、うちのPCでは・・・・・
葉を隔つ黄『り』←この字が出なくて鬱
[麗鳥]という字なんだけど・・・
59無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 00:29
細川藤孝はスーパー文化人
本能寺の焼跡で信長追善の連歌より
墨染の夕や名残り袖の露   幽斎
魂まつる野の月のあき風   道澄
分け帰る道の松虫音に啼きて 紹巴(光秀の時は今~を詠んだときも同席していた)
60モルボル ◆e76u6HVc :02/05/08 01:12
良スレですなあ〜
61無名武将@お腹せっぷく:02/05/12 17:00
age
62無名武将@お腹せっぷく:02/05/13 07:22
キタ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(゚∀゚)゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!
63 :02/05/13 11:22
   野田黄雀行       曹植

 高樹多悲風  高き樹には悲風多く
 海水揚其波  海の水は波高し
 利剣不在掌  するどき剣が掌(て)になくば
 結友何須多  友と結ぶは多くなく
 不見籬關掾@ 見よ、垣根の雀を
 見鷂自投羅  鷹より逃げて自ら網に飛び込んだ
 羅家得雀喜  網をかけた家は喜んでいるが
 少年見雀悲  少年はそれを見て悲しむ
 抜剣払羅網  (少年は)剣を抜き、網をたち斬ると
 黄雀得飛飛  雀はまた飛ぶ事ができた
 飛飛摩蒼天  蒼天を摩するように飛びながら
 来下謝少年  下りてきて(雀は)少年に礼を言った


陳思王曹植の有名な詩の一つです。雀が不遇の作者自身の
投影であることはいうまでもありませんね。「友」というのは、
曹操や曹丕に睨まれて殺された楊修や丁儀のことなんでしょうか。
64無名武将@お腹せっぷく:02/05/13 23:04
板違いだが、陶淵明の「子責」(だっけ?)は面白かった
65司馬徽:02/05/14 20:47
なかなかいいスレじゃのう。
学校では教えてくれそうにないものばかりじゃ(w
曹家はずいぶん詩を残しておるのう。
66地雷魚:02/05/16 21:58
 ご無沙汰しておりました。
 詩についてですが、特に三国時代の詩などは、なかなか手に入る資料などが少なく、
そのせいで接する機会がないという人も多いと思います。
 参考にしている本やサイトなどがあれば、みんなで提供しあえたらいいと思います。
 ちなみに私が一番重宝しているのは、
岩波文庫の『中国名詩選』(松枝茂夫編)という文庫本です。
 比較的三国時代の詩などが多く掲載されておりますし、文庫本ですので手に入りや
すいと思います。
67無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 22:05
岩波サイコー!!
68地雷魚:02/05/16 22:46
飲馬長城窟行 陳琳

飲馬長城窟    馬を長城の窟に飲えば  長城では馬に水を飲ませると、
水塞傷馬骨    水寒くして馬骨傷る   その冷たさに馬の骨まで凍るほどだ。
往謂長城吏    往きて長城の吏に謂う  寒さに耐えかねて人夫が工事の役人に願う
慎莫稽留太原卒  「慎んで太原の卒に稽留する莫かれ」
            「太原来たわしらを、どうか期限どうりに帰してくださえ」

(以下、長城工事人足の夫婦の嘆き)
官作自有程    「官作 自ら程あり
擧築諧汝聲    築を挙げ汝が声を諧えよ
生女哺用脯    女を生まば哺むに脯を用いよ
君獨不見長城下  君独り見ずや、長城の下
死人骸骨相擋拄  死人骸骨相擋拄するを」
夫「こんなひでえところに連れてこられたわしじゃ、よそ様の娘を嫁にくれなんて言えやしねえ。もし男の子が生まれても、とり上げるでねえぞ。女だったらたんと干し肉でも食わせて、大切に育てるだよ。おめも知ってるだろが、ここらは骸骨と死人が重なり合っている」

結髪行事君    「結髪、行きて君に事え
慊慊心意關    慊慊として心意関る
明知邉地苦    明らかに知る、辺地の苦しきを
賤妾何能久自全  賤妾、何ぞ能く久しく自ら全うせんや」
妻「若いときあんたに嫁に来て、離れ離れの寂しさにも耐えて、あんたの事ばかり考えてきただ。ここらの苦しさはわかってる。あんたになんかあったら私も生きていたいとは思わねえ」

69地雷魚:02/05/16 22:51
>>68
 曹操への檄文で有名な陳琳の作品です。
 この時代も続いていた万里の長城工事に駆りだされた民の苦しみを、
夫が現場で問いかけ、それに妻(郷里で?)が答えるという形式で描いています。
 曹操もそうでしたが、建安の詩人たちは民や兵士たちの労苦を身近に感じ、
それを詩に描く事で世に問うてました。
 彼らは乱世において文人として徒食するのではなく、実際に戦いや民たちの苦しみに接して、
それを現場で見て、あるいは同様の苦労を感じつつ描いているというところで、
後世の詩人としてでなくジャーナリスト的や役割も果たしていたと言えるでしょう。
70地雷魚:02/05/18 01:27
>>48
>>50
 ふと思いましたが、吉田松陰と土方歳三の辞世ってそっくりですね。
 土方も幕府側にいたとはいえ、“勤皇の士”として松陰には敬意を払っていたのでしょうか?
 それにしても、土方と高杉には一度、逢わせてみたいものですね。
 天才にして変人の詩人高杉と下手の横好き歌人土方の会話ってのは、見てみたい気がします。
その癖、「勤皇の犬」とおらぶ土方。
五稜郭で賊となる土方。
哀れなるアホ土方。
72地雷魚:02/05/18 17:42
白馬篇 曹植

白馬飾金羈 白馬金羈を飾り      金糸で飾られた白馬が
連翩西北馳 連翩として西北に馳す   天を駆るように西北に駆けて行く
借問誰家子 借問す 誰が家の子ぞ   あれはいったい誰なのか?
幽并游侠兒 幽并の遊侠児       あれこそかの有名な幽州并州の伊達男!
少小去郷邑 少小にして郷邑を去り   若い頃に故郷を離れ
揚聲沙漠垂 名を沙漠の垂に揚ぐ    砂漠の周辺で勇名を馳せたお方よ!
宿昔秉良弓 宿昔 良弓を秉り     そんときゃ、いい弓を持たせれば、
[木苦]矢何参差 コ矢 何んぞ参差たる 長短いろんな矢を背負っては、
控弦破左的 弦を控きて左的を破り   弦を引いて左の的を抜いたと思えば、
右發摧月支 右に発して月支を摧く   たちまち右の『月支』的を砕く。
仰手接飛猱 手を仰げて飛猱を接ち   上をめがけて『飛猿』の的を射て、
身散俯馬蹄 身を俯して馬蹄を散ず   下を向いては『馬蹄』の的を貫く。
狡捷過猴猿 狡捷なる 猴猿に過ぎ   その早業は猿でもかなわず、
勇剽若豹螭 勇剽なる 豹螭の若し   勇猛さは豹や蛟も凌ぐってお方だよ!

邊城多警急 辺城 警急多く      辺境は警戒の報が多い。
胡虜數遷移 胡虜 數遷移す      「えびすの兵どもが襲ってきたぞ!」
寵從北來 寵 北從り來り     北から援軍の要請がくれば、
飼n登高堤 馬を獅ワして高堤に登る  彼の勇士は長城へと馬を駆る
長蹈駆匈奴 長駆して匈奴を蹈み    「さあ、一騎に匈奴どもを蹴散らし、
左顧凌鮮卑 左顧して鮮卑を凌がん    その勢いで鮮卑も倒してくれよう。
棄身鋒刃端 身を鋒刃の端に棄つ     ひとたび、戦場に立つならば
性命安可懐 性命 安んぞ懐う可けんや  命などは惜しくはない。
父母旦不顧 父母すら旦お顧みず     父母ですら顧みぬのに、
何言子與妻 何んぞ子と妻とを言わんや  どうして妻子にかまけてなどいられよう。
名編壮士籍 名を壮士の籍に編せらるれば 軍に籍を連ね士と呼ばれたからには、
不得中顧私 中に私を顧みるを得ず    私情など挟むことはない。
捐躯赴國難 躯を捐てて国難に赴く    身を捨てて、国難に立ち向かう身なれば、
視死忽如歸 死を視ること忽ち帰するが如し 死すらも意に介するまでもない事だ
73地雷魚:02/05/18 17:46
>>72
 またまた曹植の詩ですいません。どうにも魅力的でありすぎます、彼の詩は。
 この白馬篇は勇猛をもってなる北方出身の騎馬武者を描いた詩です。
 前半の華麗なる勇士の描写と後半の悲壮ですらある勇士の覚悟の対比が見事ですね。
 一説にはこの勇士のモデルは并州出身と張遼とのことですが、確かに後半の私情を捨て国難に立ち向かうあたりの台詞は彼らしいと言えるかもしれませんね。
74無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 17:32
age
75地雷魚:02/05/25 21:56
星落秋風五丈原          土井晩翠



祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原、
零露の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか。

丞相病あつかりき。

清渭の流れ水やせて  むせぶ非情の秋の聲、
夜は關山の風泣いて  暗に迷うかかりがねは
令風霜の威もすごく  守るゥ営の垣の外。

丞相病あつかりき。

帳中眠かすかにて  短檠光薄ければ
ここにも見ゆる秋の色、 銀甲堅くよろへども
見よや侍衞の面かげに  無限の愁溢るるを。
 
丞相病あつかりき。

風塵遠し三尺の  劍は光曇らねど
秋に傷めば松柏の  色もおのづとうつらふを、
漢騎十萬今さらに  見るや故郷の夢いかに。

丞相病あつかりき。

夢寐に忘れぬ君王の  いまわの御こと畏みて
心を焦し身をつくす  暴露のつとめ幾とせか、
今落葉の雨の音  大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに。

丞相病あつかりき。

四海の波瀾収まらで  民は苦み天は泣き<
いつかは見なん太平の  心のどけき春の夢、
群雄立ちてことごとく  中原鹿を争ふも
たれか王者の師を學ぶ

丞相病あつかりき。

末は黄河の水濁る  三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ、 道は衰へ文弊れ
管仲去りて九百年  樂毅滅びて四百年
誰か王者の治を思う。

丞相病あつかりき。
76地雷魚:02/05/25 21:57
   二

嗚呼南陽の舊草廬  二十余年のいにしへの
夢はたいかに安かりし、 光を包み香をかくし
隴畝に民と交れば  王佐の才に富める身も
たゞ一曲の梁歩吟。

閑雲野鶴空濶く  風に嘯く身はひとり、
月を湖上に碎きては  ゆくへ波間の舟ひと葉
ゆふべ暮鐘に誘はれて  訪ふは山寺の松の影。

江山さむるあけぼのゝ  雪に驢を驅る道の上
寒梅痩せて春早み、 幽林風を穿つとき
伴は野鳥の暮の歌、 紫雲たなびく洞の中
誰そや棊局の友の身は。

其隆中の別天地  空のあなたを眺めれば
大盗競ほひはびこりて  あらびて榮華さながらに
風の枯葉を掃ふごと  治亂興亡おもほへば
世は一局の棊なりけり

其世を治め世を救ふ  經綸胸に溢るれど
榮利を俗に求めねば  岡も臥龍の名を負ひつ、
亂れし世にも花は咲き  花また散りて春秋の
遷りはここに二十七。

高眠遂に永からず  信義四海に溢れたる
君が三たびの音づれを  背きはてめや知己の恩
羽扇綸巾風輕き  姿は替へで立ちいづる
草廬あしたのぬしやたれ。

古琴の友よさらばいざ、 曉さむる西窓の
殘月の影よさらばいざ  白鶴歸れ嶺の松
蒼猿眠れ谷の橋  岡も替へよや臥龍の名
草廬あしたはぬしもなし。

成算胸に蔵りて  乾坤ここに一局棊
ただ掌上に指すがごと、 三分のはや成れば
見よ九天の雲は垂れ  四海の水は皆立て
蛟龍飛びぬ淵の外。
77地雷魚:02/05/25 22:00
   三

英才雲と群がれる 世も千仭の鳳高く
翔くる雲井の伴やたそ、東新野の夏の草
南濾水の秋の波 戎馬關山いくとせか
風塵暗きただなかに たてしいさをの數いかに。

江陵去りて行く先は 武昌夏口の秋の陣、
一葉輕く棹さして 三寸の舌呉に説けば
見よ大江の風狂い 焔亂れて姦雄の
雄圖碎けぬ波あらく。

劒閣天にそび入りて あらしは叫び雲は散り
金鼓震ひて十萬の 雄師は圍む成都城
漢中尋で陥り 三分の基はや固し。

定軍山の霧は晴れ ベン陽の渡り月は澄み
赤符再び世に出でて 興るべかりし漢の運、
天か股肱の命盡きて 襄陽遂に守りなく
玉泉山の夕まぐれ 恨みは長し雲の色

中原北に眺むれば 冕旒塵に汚されて
炎精あはれ色も無し、さらば漢家の一宗派
わが君王をいただきて 踏ませまつらむ九五の位、
天の暦數ここにつぐ 時建安の二十六
景星照りて錦江の 流に泛ぶ花の影。

花とこしへの春ならじ 夏の火峯の雲落ちて
御林の陣を焚き掃ふ 四十餘營のあといづこ、
雲雨荒臺夢ならず 巫山のかたへ秋寒く
名も白帝の城のうち 龍駕駐るいつまでか。

その三峡の道遠き 永安宮の夜の雨
泣いて聞きけむ龍榻に 君がいまわのみことのり
忍べば遠きいにしへの 三顧の知遇またここに
重ねて篤き君の恩 ゥ王に父と拜されし
思やいかに其宵の。

邊塞遠く雲分けて 瘴烟蠻雨ものすごき
不毛の郷に攻め入れば 暗し濾水の夜半の月、
妙算世にも比なき 智仁を兼ぬるほこさきに
南夷いくたび驚きて 君を崇めし「~なり」と
78地雷魚:02/05/25 22:02
    四

南方すでに定まりて 兵は精しく糧は足る、
君王の志うけつぎて 姦を攘はん時は今、
江漢常武いにしへの ためしを今にここに見る
建興五年あけの空、日は暖かに大旗の
龍蛇も動く春の雲 馬は嘶き人勇む
三軍の師を隨えて 中原北にうち

六たび祁山の嶺の上 風雲動き旗かへり
天地もどよむ漢の軍 偏師節度を誤れる
街亭の敗何かある、鯨鯢吼えて波怒り
あらし狂ふて草伏せば 王師十萬秋高く
武都陰平を平らげて 立てり渭南の岸の上。

拒ぐはたそや敵の軍、かれ中原の一奇才
韜略深く密ながら、君に向はんすべぞなき
納めも受けむ贈られし、素衣巾幗のあなどりも、
陣を堅うし手を束ね 魏軍守りて打ち出でず。

鴻業果し収むべき その時天は貸さずして
出師なかばに君病みぬ、三顧の遠きのむかしより
夢寐も忘れぬ君の恩 答て盡すまごころを
示すか吐ける紅血は、建興の十三秋半ば
丞相病篤かりき。
79地雷魚:02/05/25 22:02
  五

魏軍の營も音絶て  夜は靜かなり五丈原、
たたと思ふ今のまも  丹心國を忘られず、
病を扶け身を起し  臥帳掲げて立ちいづる
夜半の正空雲もなし。

刀斗聲無く露落ちて  旌旗は寒し風清し、
三軍ひとしく聲呑みて  つつみ迎ふ大軍師、
羽扇綸巾膚寒み  おもわやつれし病める身を
知るや情の小夜あらし。

諸壘あまねく經廻りて  輪車靜かにきしり行く、
星斗は開く天の陣  山河はつらぬ地の營所、
つるぎは光り影冴えて  結ぶに似たり夜半の霜。

嗚呼陣頭にあらはれて  敵とまた見ん時やいつ、
祁山の嶺に長驅して  心は勇む風の前
王師ただに北をさし  馬に河洛に飮まさむと
願ひしそれもあだなりや、  胸裏百萬兵はあり
帳下三千將足るも  彼れはた時をいかにせん。
80地雷魚:02/05/25 22:03


成敗遂に天の命  事あらかじめ圖られず、
舊都再び駕を迎へ  麟臺永く名を傳ふ
春玉樓の花の色  いさほし成りて南陽に
琴書をまたも友とせむ  望みは遂に空しきか。

君恩酬ふ身の一死  今更我を惜まねど
行末いかに漢の運、 過ぎしを忍び後後計る
無限の思無限の情、 南成都の空いづこ
玉壘今は秋更けて、 錦江の水痩せぬべく
鐵馬あらしに嘶きて、 劍關の雲睡るべく。

明主の知遇身に受けて  三顧の恩にゆくりなく
立ちも出でけむ舊草廬  嗚呼鳳遂に衰へて
今に楚狂の歌もあれ  人生意氣に感じては
成否をたれかあげつらふ。

成否を誰れかあげつらふ  一死盡くしし身の誠、
仰げば銀河影冴えて  無數の星斗光濃し、
照すやいなや英雄の  苦心孤忠の胸ひとつ、
其壯烈に感じては  鬼~も哭かむ秋の風。
81地雷魚:02/05/25 22:04
    七

鬼~も哭かむ秋の風、 行て渭水の岸の上
夫の殘柳の恨訪へ、 劫初このかた絶えまなき
無限のあらし吹過ぎて  野は一叢の露深く
世は北邙の墓高く。

蘭は碎けぬ露のもと、 桂は折れぬ霜の前、霞に包む花の色  蜂蝶睡る草の蔭
色もにほひも消去りて  有情も同じ世々の秋。

群雄次第に凋落し  雄圖は鴻の去るに似て
山河幾とせ秋の色、 榮華盛衰ことごとく
むなしき空に消行けば  世は一場の春の夢。

撃たるるのも撃つものも  今更ここに見かへれば
共に夕の嶺の雲  風に亂れて散るがごと、
蠻觸二邦角の上  蝸牛の譬おもほへば
世々の姿はこれなりき。

金棺灰を葬りて  魚水の契り君王も
今泉臺の夜の客  中原北を眺むれば、
銅雀臺の春の月  今は雲間のよその影、
大江の南建業の  花の盛もいつまでか。

五虎の將軍今いづこ、 ~機きほひし江南の
かれも英才いまいづこ、 北の渭水の岸守る
仲達かれもいつまでか  感極まりて氣も遙か
聞けば魏軍の夜半の陣  一曲遠し悲笳の聲。

更に碧の空の上  静かにてらす星の色
かすけき光眺むれば  ~祕は深し無象の世、
あはれ無限の大うみに  溶くるうたかた其はては
いかなる岸に泛ぶらむ、 千仭暗しわだつみの
底の白玉誰か得む  幽渺境窮みなし
鬼~のあとを誰か見む。

嗚呼五丈原秋の夜半  あらしは叫び露は泣き
銀漢清く星高く  ~祕の色につつまれて
天地微かに光るとき  無量の思齎らして
「無限の淵」に立てる見よ、 功名いづれ夢のあと
消えざるものはただ誠、 心を盡し身を致し
成否を天に委ねては  魂遠く離れゆく。

高き尊きたぐひなき  「非運」を君よ天に謝せ、
青史の照らし見るところ  管仲樂毅たそや彼、
伊呂の伯仲眺むれば  「萬古の霄の一羽毛」
千仭翔る鳳の影、草廬にありて龍と臥し
四海に出でて龍と飛ぶ  千載の末今も尚
名はかんばしきゥ葛亮。 
82地雷魚:02/05/25 22:10
>>75-81
 三国志でも戦国時代の詩ではなく申し訳ないですが、この際、三国志、戦国時代を題材にしたものもありという方向で。
 有名な土井晩翠の『星落秋風五丈原』ですね。
 “丞相病篤かりき”のリフレインが泣かせます。
 もうメロメロにセンチメンタルな詩ですねえ。
 同じ中国の『赤壁賦』など三国志を描いた詩は勇壮かつ雄大に彼の時代を思うといったとらえ方をするのに対し、日本ではこのような悲壮感漂うものが好まれるようですね。両国の“三国志”へのとらえ方をちょっぴり反映しているようで、面白い傾向だと思います。
83無名武将@お腹せっぷく:02/05/25 22:15
星落〜で思い出したけど
土井晩翠さんの著作権が切れるの、今年の11月だったような気がする
(死後50年?)
84無名武将@お腹せっぷく:02/05/25 22:20
曹丕の「雑詩」が好きだ・・・
85無名武将@お腹せっぷく:02/05/25 22:37
曹植だったっけ?兄貴に七歩歩くうちに一句作れといわれ作った氏がイイな。ってこれくらいしか知らないんだけど(w
豆を煮るのに豆がらを焼く・・・ってやつ。どんなんだったけ?
86ななし:02/05/25 22:56
>>地雷魚さん
神!
感動して涙が・・・。
87地雷魚:02/05/25 23:11
雑詩 曹丕

西北有浮雲 西北に浮雲あり       西北に浮雲があった
亭亭如車蓋 亭々として車蓋の如し    まるで車蓋のように見事な雲だったのに
惜哉時不遇 惜しい哉 時に遇わず    惜しいことに折悪しく、
適與飄風會 適適飄風に会う       旋風に遭ってしまった
吹我東南行 我を吹きて東南に行かしめ  私も風に吹かれて東南へ
行行至呉會 行き行きて呉会に至る    行くうちに呉・会稽の地についてしまった
呉會非我郷 呉会は我が郷にあらず    呉・会の地は我が故郷とあまりにかけ離れ
安得久留滯 安んぞ久しく留滞するを得ん 長く留まってられる地ではない
棄置勿複陳 棄置してまた陳ぶること勿らん ああ、しかしもう何も言うまい。
客子常畏人 客子は常に人を畏る     どこへ行っても旅人は他人に心を許せぬ事には変わりないのだから
88地雷魚:02/05/25 23:15
>>87
 >>84さんのリクエストにお応えして、曹丕の『雑詩』の二首うち一首を挙げてみました。
 風の吹くまま気の赴くままに漂う旅人の気持ちを、曹操の息子として後継者に選ばれるかどうかの瀬戸際に立たされた自分となぞらえて。
 思うに任せぬ運命、他人に心許せぬ自分を嘆いた詩と言われています。
 ここでもあるように、中原の人にとっては呉や会稽あたりの地域は地の果てといった印象があったようですね。
 結果的に曹丕も帝として呉討伐に遠征するのですが、今の人間が思う以上に遠隔地への辛い旅路だったのでしょうね……。
 ゲームだとあっという間ですけど゚∀゚)
8984:02/05/25 23:17
どうもです。
一首目よりこっちが好き。
90地雷魚:02/05/25 23:28
赤壁歌送別 李白

二龍争戦決雌雄 二龍争戦雌雄を決す
 「魏呉の二龍が雌雄を決すべく」
赤壁楼船掃地空 赤壁の楼船地を掃うて空しく
 「魏軍は赤壁に楼船を並べて攻むるも空しく敗れた」
烈火張天照雲海 烈火天に張って雲海を照らし
「その炎は天にも届き、雲海をも照らすほどだったという」
周瑜於此破曹公 周瑜此に於いて曹公を破る
 「かくして呉の周郎こと周瑜は彼の地にて曹操を破った」
君去滄江望澄碧 君去って滄江に澄碧を望めば
 「君が彼の地にて澄んだ長江の古戦場に臨めば」
鯨鯢唐突留余跡 鯨鯢唐突余跡を留む
 「二頭の鯨、即ち魏呉の戦いの跡を見る事だろう」
一一書来報故人 一一書し来たって故人に報ぜよ
 「友よ、願わくば私に逐一その様子を手紙にて知らせてほしい」
我欲因之壮心魄 我れこれに因って心魄を壮んにせんと欲す
 「私はその手紙を読んで彼らの壮気にあやかろうと思うのだ」
91地雷魚:02/05/25 23:32
>>90
 珍しくたくさん人がいらっしゃったので、もう一つ調子に乗って挙げて見ました。
 李白の南方へ赴任する友人との送別の際に歌った詩です。
 送別会の酒席で「やっぱ長江つったら赤壁だろう? な?」などと酔っ払って絡みながら、自分の好きな三国志の物語を思いつつ意気揚揚と歌った詩という感じがして、陽気で明るい歌だと思ういい詩だと思います。
92無名武将@お腹せっぷく:02/05/26 00:00
このスレ最高です。1さん有難う!
曹操が好きになりました(w
93無名武将@お腹せっぷく:02/05/26 18:14
吉川age
94感動家:02/05/26 20:07
忠烈ソ授之詩
「忠烈」は誰ぞ?
みよや!河北にソ君あり。
心には、涌きいずる戦のてだて、
眼には、仰いで読みとる星の教訓。
鉄石の心、死にも砕けず、
気は澄めり、身はあやうくとも。
曹公、心に悼めり、
孤墳に題す「忠烈」の二字。

俺の一番お気に入りの小説、村上知行訳三国志からの抜粋です。この小説
武将の名場面や非業の最期にこのような詩をたくさん盛り込んでいて非常に
感動するのでおもわずのっけてしまいました。場違いだったらスマソ。
95無名武将@お腹せっぷく:02/05/29 00:06
ag
96無名武将@お腹せっぷく:02/06/03 10:00
300代後半まで下がっていたので保守age
97ななし:02/06/08 14:16
再度あげ。
>45
大風歌

この詩は得意絶頂という詩ではないと思います。
この詩を詠んだとき、
劉邦は匈奴に屈したことが頭にあったのではないでしょうか。

安得猛士兮守四方 いずくにか猛士を得て四方を守らん

あるいは天下を平定後、
多くの功臣を粛清した事実から
晩年の劉邦の不安な気持ちが詠まれているという気もします。
自分の死後に各地で反乱が起こり秦のように滅びはしないだろうか?
というような不安です。
99白n雷魚゚∀゚):02/06/08 18:15
>>98
 申し訳ないです。
 こっちの勘違いでした(笑)
 確かに調べてみたらそういう詩でしたね。
 というわけで、そのような突っ込みも大歓迎ですので、お願いいたします。
 本当、そういう指摘はこちらとしてもありがたい限りであります。
100きり:02/06/08 20:55
100げっと
もっと読みたい保守
102無名武将@お腹せっぷく:02/06/14 03:04
風流だね〜 
103無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 15:33
上留田行    曹丕


居世一何不同 上留田   世に居て一に何ぞ同じからざるや
富人食稲与粱 上留田   富むる人は稲と粱を食らい
貧人食糟与糠 上留田   貧しき人は糟と糠を食らう
貧賤亦何傷  上留田   貧賤は亦た何ぞ傷ましきや
禄命懸在蒼天 上留田   禄命は懸かりて蒼天に在り
今爾嘆息         今なんじ嘆息し
将欲誰怨   上留田   将に誰を怨まんと欲するや


〔意訳〕

人間ってのはみんな同じじゃないのかよ
金持ちはいいモノを食い
貧乏人は麦を食う
ああ、貧乏なのはつらいね
みろよ蒼い空白い雲
いま君はため息をつき
誰のせいにしようってんだい?


最近、新しいのが出てないのであげ。
「人間三国志」の五巻入手したので書く。
”上留田”てのは地名だけどここではただの合いの手なんだそうだ。
104質問です:02/06/23 01:27
このスレ >>7 に出ていた
>老驥伏櫪 老驥 櫪に伏しても   
>志在千里 志は千里に在り
なのですが、私はずっと「英雄は老いても大志を忘れない」という意味だと
思っていたのですが、先日漢和辞典を引いたら
「才のある人間が年をとっても用いられないことの例え」とありました。
2つの意味があるということなのでしょうか?
105謙信公の足軽:02/06/23 01:48
四十九年一睡夢

一期栄華一杯酒
106地雷魚:02/06/23 01:58
おひさしぶりです。
すいません、このスレを長らく放置しておりました。
>>104
 確かにそのような説があり、“老”というのは中国では優れている、秀でているという
意味がありますが、この詩の場合、

老驥伏櫪 老驥 櫪に伏しても  
志在千里 志は千里に在り 
烈士暮年 烈士 暮年にして 
壮心不巳 壮心已まず   

 の後に、

盈縮之期 盈縮の期は  
不但在天 独り天のみに在らず 
養怡之福 養怡の福は  
可得永年 永年を得可し 
 
 と寿命について語っているので「英雄は老いても志を喪わない」と訳しておいたほうが自然だと思います。
 また曹操の事跡から見て、優れた人物が用いられないという事を嘆く歌であった場合、短歌行のように、
「用いられない者は我が下へ来たれ」とか、もっとその悲哀を嘆く意味の歌になるのではないでしょうか?
 人物好きの曹操にとっては、もっとも忌避すべき事態であったでしょうから。
 と思うのですがいかがでしょうか?
107104:02/06/23 02:54
>>地雷魚さま
ありがとうございます!
>人物好きの曹操にとっては
説得力のあるお言葉ですね!(w
108地雷魚:02/06/27 17:34
   梁甫吟    諸葛孔明

  歩出齊城門 歩して斉の城門を出で
  遥望蕩陰里 遥かに望む蕩陰里
  里中有三墓 里中に三墓有り
  累累正相似 累累として正に相似たり
  問是誰家塚 問う是れ誰が家の塚ぞと
  田彊古冶氏 田彊古冶氏
力能排南山 力は能く南山を排し
文能絶地紀 文は能く地紀を絶つ
一朝被讒言 一朝讒言を被りて
二桃殺三士 二桃三士を殺す
誰能爲此謀 誰か能く此の謀を為せる
國相齊晏子 国相斉の晏子なり

  歩いて斉の城門のそとに出て
  遥かに蕩陰里を眺めると
  里に三つの塚が見える
  相重なって皆似ている
  これは誰の墓であろうか
これこそ田開彊・古冶子・公孫接の墓である
彼らは、体力は南山を押し退けるほどに足り
学徳は地維を絶地天地を動かすほどの人たちだった
ところが一朝讒言を被って
二個の桃がこの三士を殺すことになった
誰がこの謀をしたのだろう
それは斉の国相晏子のやったことである
109地雷魚:02/06/27 17:39
>>108
 今度は有名な歌で、諸葛亮が愛唱した『梁甫の吟』ですね。
戦国時代に斉の晏子が、2つの桃で三人の士を殺し合いさせた、
という故事からなる歌で、諸葛亮が作った歌とも、
彼が愛唱したためそう呼ばれたとも言われています。
 ちなみに梁甫吟を諸葛亮が愛唱したのは、正史にも書かれている
(こちらでは『梁父吟』ですが)史実だったりします。

 それにしても、こんな歌を愛唱している諸葛亮は意外と強かな性根の持ち主
だったかもしれませんね(笑)
110無名武将@お腹せっぷく:02/07/03 19:04
歌はいいねぇ〜
111無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 20:54
日本人の漢詩、和歌も読みたいです
112無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 01:12
やらせはせんぞ。
113地雷魚 ◆AHYAVWIw :02/07/23 00:12
お久しぶりです。
トナメに夢中で、つい放置してしまって申し訳ありませんでした。
>>111さんのリクエストで、日本人の漢詩というものを探していたら、
こんな珍品が見付かりました。

  国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
  修好再開秋将到 修好再開の秋(とき)将に到らんとす
  隣人眼温吾人迎 隣人の眼温かにして吾人を迎え
  北京空晴秋気深 北京晴れて秋気深し

 なんと、あの田中角栄が中国国交回復を記念して作った詩らしいのですが。
 どっか思い出すものがありませんか?
 そうです>>37で「ドヘタ」と評した司馬懿の作にそっくりなのですな。
 あちらも迷作の名高い駄作ですが、こちらも輪をかけてアレですね。
 にしても、田中角栄は司馬懿の詩を知っていたのでしょうか?
 知っててわざと駄作を真似したのだとすれば、メチャクチャ食えない事したもんですね(笑)
 しかし、司馬懿と田中角栄の詩の類似という、思わぬ面白い事実を発見できて、
だから歴史は面白いと思わず感心してしまいました。
114地雷魚 ◆AHYAVWIw :02/07/23 00:15
>>113
 ちなみによく見ると、それほど似てないかも……
 だからおそらく偶然なんでしょうね(笑)
 下手の横似といったところですか(笑)
 ただ一読して司馬懿の下手漢詩を思い起こしたのは確かです。
そういえば、家康も歌詠みの才能がないという話を聞いたことがある。

ということは、家康も司馬懿タイプなのか?
短絡的過ぎるなあ。
116地雷魚 ◆AHYAVWIw :02/07/29 16:32
>>115
 詩情を理解せずに現実的な人のほうが、天下をとってしまうのかもしれませんね。
117無名武将@お腹せっぷく
空揚するべきなのか、ネタでもいいからなんか書いて上げるべきなのか