>小早川隆景
うむ、そうですな。能力・人格的には申し分なき将かと。
文禄の役にも出陣し、その帰国後に五大老の一人として就任したそうで。
他に候補は?九鬼が大人しく従うかどうかちょっと気になったり。
>九鬼
隆景の政治力なら気にすることは無いかな?
きっと海の漢の心も解るでしょうし。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 21:58
>小早川
どうだろう?
こと水軍に関しては「村上水軍のオマケ」的立場に終始している感じがある。
児玉水軍みたいな警固衆に対しては指揮権があるようだけど。
その児玉水軍もやっぱり村上のオマケ的存在なんだよね。
>>119 うーむ
隆景の政治力でも通じませぬか。
陸の事とはやっぱり別思考で行くのが良いのかな。
目立たぬだけで、裏で発言権が強かったとかそういうフシは?
(て言うか、私ってコウモリヤロウっぽい…鬱)
122 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:13
李舜臣の活躍に関して、朝鮮側の史料を読むと、一番多いパターンは
どこぞの入り江に停泊している日本の船団に攻撃を仕掛けるパターン。
日本の船からは鉄砲を撃ちかけて来るんだけど、朝鮮水軍は火矢とかで
攻撃して炎上させちゃう。
まあこの場合は手薄な輸送船を狙ったということなんだろうね。
本職の水軍は何やってたかと言えば、十万単位の人間の兵站を
確保しようとなるととてもとても個々の部隊まで手が回らなかったんじゃ
ないかと思うんだね。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:21
>>120 もともと村上水軍は独立した海賊だからね。
海賊禁止令が出て毛利家に従う形をとらざるを得なくなったかも
しれないけど、水軍の事に関して他人の指示を聞くかどうか……
125 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:41
>>113 >国内戦の感覚(九州攻めとか)で兵站・輸送を行おうとしたのでしょう
おっしゃるとおりですね
民衆に対しては、のちのち所領になるからということで甘かったらしい
蒙古なみにヤル時はヤルべきだったのかなぁ
日本人は優しすぎるからなぁ
蝗戦法イイ!
126 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:46
李舜臣指揮の水軍は、ナポレオン戦争のコサック騎兵のようなもの
ねたみで足ひっぱられて左遷、
で、彼以外の朝鮮水軍は、日本水軍の餌かなぁ
127 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:53
>>122 別にウヨクサヨクな話をするつもりは無いですが、一つの思考実験。
朝鮮半島への侵攻において、首都陥落及び半島制圧を成功させるのに、十万人も必要だったのでしょうか?
水軍の力を削ぐ事無く、占領地住民の宣撫などで人心を掴み、半島の端から着実に勢力拡大させる、
そのための橋頭堡を築くのに必要かつ適正な人員数は…?
事前に間諜を放ったりはしなかったのか…?
(奇妙な記述に見えましたら遠慮無く指摘ください…いい加減な問題提起しかできぬ私ですゆえ。)
>>125 >蝗戦法
うん、威勢はいいしスカッとするとは思うけど、
朝鮮侵攻の目的=大名への褒賞確保(違うかな?)
を考えると、略奪による一時的でバブルな収入より、
長期に支配して策源地とする方が賢いように思う。
秀吉が大陸への進出を考えていたなら、なおさら。
モンゴル軍も、初期こそ略奪軍団だったけど、段々、
先住民優遇策をとったように記憶してます。
孫武曰く、「智将は敵に食む」…だったかな?
>ヤル時はヤルべきだったのかなぁ
墨俣の一夜城的にガバッと囲っておいて、あとで虚を実にする作戦なら、
その初弾の威力に敵軍が驚いているうちに後詰ができるよう、
周到な準備が必要かと。
まぁ私も、戦争なんて元から残虐で当然かと思っているクチなので、
「敵に優しく」なんて間抜けな宋襄の仁は言いやしませぬが。
だが領民の扱いは、きっと別問題かと。
(とりあえず、マターリといきませう。)
一つの結論:三成サン、戦争下手。(私見)
133 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:07
>>128 一つの「国」を相手に喧嘩するのに、兵力がいくらあっても
充分ということはあり得ませんね。
小出しに端からと言っても、通信もない時代ですからいざ敵が
大挙して押し寄せた時、援軍を呼ぶのに何日かかるかも分からない
わけですから、あまりにも非現実的。
理想としては征服対象国の全軍事力より多い数を送り込むのが
よろしいのではないかと。
弘安の役の時、10万の江南軍が上陸もできなかったわけですから。
>>126 >李舜臣〜ねたみで足ひっぱられて左遷
うぬぬ…結局戦争の帰趨は人心にあり、か…。
そして、足を引っ張る下司どもの存在は洋の東西を問わず、か…。
敵将ながら哀れ、李舜臣…。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:11
水軍の輸送力はイイ!
信玄も荷駄隊で苦労して、武田水軍欲しかったのかなぁ
>>133 通信の問題を忘れていた。鬱氏
分裂・弱体化させてから各個撃破とかはどうでしょう?
(ところで、いきなり大軍団で首都特攻とかもやっぱり無理?)
>>135 現代でも、大量輸送には船舶の方が航空機より良いとか耳にした事が。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:40
「盲船」(めくらぶね)何?
「続武将感状記」によると、「九鬼水軍は盲船を作り、水底に潜行し、仏狼機を
もって隅矢倉を打ち破った」とあるが・・・。潜水艦?
140 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:42
朝鮮水軍 壊滅したので、
再び起用された李舜臣
露梁海戦で勝利、しかし戦死
死んだけど、よほど海の戦いに天賦の才があるのかなぁ
>>139 盲船(めくらぶね=黒塗りの軍船)
らしいです。
良スレ
>>137 その通り。
確かに航空機の輸送速度は早いけど搭載量が少ない。
それに対して船は搭載力で圧倒している。
遅いと思われがちな速度も仮に10ノット程度の速力でも
24時間ならば約480q進める。
そして海ならば直線的に目的地に進めるのでロスが少ない。
(もっとも空には勝てんけど)
高速交通網が発達していない時代において水・海運は
最大の輸送手段である。(もっとも今だって最大の輸送手段)
しかし、良い
>>1の居るスレだったなぁ。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 00:11
久々にあげてみる
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌─┴┴─┐
/ つ. 開 始 │
〜′ /´ └─┬┬─┘
∪ ∪ ││ _ε3
148 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 07:53
/ ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
./ / | 久々に!
/ / \ / ̄ ̄ ̄
/ /  ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄| あげてみる!
./ /_Λ , -つ \
/ / ´Д`) ./__ノ  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄
/ \ / / ⊂_ヽ、
.| へ/ / .\\ Λ_Λ
| レ' /、二つ \ ( ´Д`)
| /. . > ⌒ヽ
/ / / へ \
/ / / / \\
/ / レ ノ ヽ_つ
/ ノ / /
_/ / / /|
ノ / ( ( 、
⊂ -' | |、 \
. | / \ ⌒l
| | ) /
ノ ) し'
(_/
>>148 ついでにネタも上げてほすぃ。
幕末にアメリカに向かった勝海舟以下の咸臨丸の乗員には
塩飽水軍の末裔たち(30人ほど)が水夫として乗り込んでいた。
「人名」の意地を見せた快挙でしょう。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 23:12
ちなみに勝海舟はその後咸臨丸の艦長をクビになりましたとさ。
理想は大きいが、実力は無い人なのか?
151 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/02 02:19
とりあえず信長の鉄甲船はなかったらすぃ
152 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 11:08
153 :
こんなのに今更レスがつくとはね:02/04/14 15:06
>>152 信長の大船の事を記した記録は主に
1.太田牛一の『安土日記』『信長公記』
2.オルガンティーノの報告書(『イエズス会日本年報』収録)
3.九鬼家の家譜(『寛政重修諸家譜』収録)
4.多門院英俊(興福寺の僧侶)の『多門院日記』
などである。このうち『多門院日記』に「鉄ノ船ナリ」と書かれている
ことだけが「鉄板装甲」の根拠となっている。
それ以外の史料では装甲の事には全く触れていない。
しかしながら多門院英俊が堺なりなんなりへ行って大船を実見したとは
確認できず、あくまでも「噂」を書き留めた程度であると言える。
実際にその船を見たオルガンティーノや乗り込んでいた九鬼家の記録、
大船のサイズを記すなど情報を知り得る立場にいたらしい太田牛一らが
一言も触れていない「鉄板装甲」が、英俊の記した「鉄ノ船ナリ」の
一言だけで存在が証明されたとするのは無理がある。
だいたい英俊は「鉄の船だ」と言っただけで、具体的に鉄板を張ったとか
なんだとか言ってるのは後世の学者の後知恵で、全く証明はできないもの
ばかりである。
>>153 んじゃ、巨大船はあるのよね?
たしか三隻は鉄甲で、残りは間に合わなかったから普通の巨船
見たいな話聞いたことあるけど、何を基に作られたのかな?
江戸初期くらいまでに鉄甲船はどっかにあったの?
155 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 15:27
>>154 >んじゃ、巨大船はあるのよね?
そう。「信長の大船」はある。
だが、装甲は無かったと言える。
>たしか三隻は鉄甲で、残りは間に合わなかったから普通の巨船
>見たいな話聞いたことあるけど、何を基に作られたのかな?
いやむしろそんな話の方が初耳なんだが・・・・
『信長公記』によれば九鬼水軍が六隻の「大船」を作り、
滝川一益が「白船」を一隻作ったとある。
>江戸初期くらいまでに鉄甲船はどっかにあったの?
秀吉が朝鮮出兵の時に二隻ほど作らせたらしいことは
鉄板を徴収した文書などから推測できるが。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 15:30
江戸初期の大型船っつーと
将軍家が作った「安宅丸」があるよ。
鉄甲船だったかどうかは知らんけど。
>>155 サンクスです。
いや鉄甲何隻〜は小説か何かの話で、「まにあわなかったから鉄無し」
とかの話の種はどこかにあったのかなーと思って。
秀吉は持った可能性があるのですね。
身長公記に堺の人がビックリしたとあるけど、これは巨船だったから、
というよりも「織田が来た!毛利が負けた!」ということかな?
でも大砲とかきちんと積んでるから、鉄甲でなくともカクイイね。
安宅丸は銅張りだよ。
見栄えの為に装着したものと思われる。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/21 22:41
保全あげ
勉強になるなぁこのスレ。(・∀・)イイ!
村上水軍は、独立性の為か…兎に角折り合い悪そうっすねぇ
奥州統一後の伊達が、支倉使節団出してるから・・・奥州ってこれくらいしかないのかも。
そもそも、豪雪地帯には水軍は育たんと思われ
保守
162 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/06 22:49
?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/17 04:58
これも地味に人気あるみたいだから上げとくか
164 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/21 22:22
>>160 奥州には安東水軍があるぜ。
かなり貿易で儲けてたらしく、安東実季の代には敦賀に物産販売かなにか
の出張所までつくってたらしい。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/23 16:24
166 :
無名武将@お腹せっぷく:
岡本左京亮(通輔)おかもとさきょうのすけ(みちすけ)
生没年不詳
里見義通の弟で里見通輔と名乗ったが、その後岡本氏元の養子となった。
岡本随縁斎安泰おかもとずいえんさいあんたい
生没年不詳
岡本左京亮の子。岡本城を拠点として里見水軍の一翼を担った。対北条氏の拠点とするため、里見義弘が岡本城の修築・明け渡しを要求した際も快諾し、以降は里見義頼の家老となった。
岡本頼元おかもとよりもと
生没年不詳
岡本随縁斎の子。父同様、里見水軍で重要な地位を占める。
また、里見義頼の重臣として上総内乱の鎮定にも尽力した。
(;´Д`)…スイグンハァハァ