海の漢(川の漢?)、水軍総合スレッドです。
主に日本戦国期の水軍について、マターリと語りましょう。
日本各地の水軍の起源や、戦国水軍その後について語るなど、時代は少々逸脱してもOKです。
また、外国についても、戦国期に関わっていれば良しとしたいと思います。
それではどうぞ、ごゆるりとお楽しみください。
(※スミマセン、三国志のは別スレ立ててください…。)
村上 向井 来島
ゲームではイマイチ影の薄い水軍勢力。
私の場合、信長の野望は烈風伝しかまともにプレイしてないのですが、
烈風伝では、意図的に作り出さない限り、海戦は殆ど起こりません。
私なんぞは海バカですから、無駄に海いくさを起こして、
民をいじめているような所があります。結構後ろめたいです。
>>3殿
お待ちしてました。勿論その辺りも順次挙げてゆきます。
九鬼
上に挙げたHPは今回初めて見つけた所ばかりです。
もうこういうスレッドは既出かと思って、検索怠りまくりでした。
記事を読むのも初めてです…各HPの管理人様に感謝。
今日はしばらく、探索に奔走いたします。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 22:48
武田の水軍って、どうよ?
隊長が5艘もちとか何とかだから、小規模とは思うが。
最盛期で20艘くらいかな。
信長100艘、毛利300艘くらい?
11 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 22:49
>>1 スレたてオメ。しばらくはage進行で良いんじゃないかと。
水軍で印象深いのは山陰地方の海賊、奈佐日本助。
再起を図る尼子勝久・山中幸盛主従に従って船手大将まで勤めるけど、
吉川に降伏。最後は秀吉に海賊行為を理由にせっぷくさせられた人。
経歴も面白いけど、名前のインパクトが凄すぎ(w
おおっ、ようこそ!(10、11殿)
武田水軍は…向井だったかな?
奈佐日本助…すいません、始めて知りました。有難うございます。
早速、もう少し突っ込んで探索をば。
(実は私、高校では日本史選択してなかったりします…いやははは)
16 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:10
「甲陽軍鑑」に記された武田家水軍の陣容
間宮武兵衛 船10隻
間宮造酒丞 船 5隻
小浜景隆 安宅1隻 小船15隻
向井正重 船 5隻
伊丹大隈守 船 5隻
土屋貞綱 船12隻(海賊奉行職)
面子は伊豆、伊勢、駿河人。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:15
安宅ってのは、信長の鉄船で使われた戦艦だよね。
普通の「船〜隻」の船は、五人乗りくらい?
一隻五人なら、小者も含めて10人くらいかな。騎馬みたいに。
そう考えたら規模結構大きいね。
「武田さんちの家臣の事情」さん
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/7734/ の記載より転載:
土屋貞綱
豊前守。初め岡田忠兵衛と言い、今川氏の旧臣であったが、
永禄十二年(1569)、武田氏に帰属。海賊衆となり姓を土屋に改める。
武田水軍の主将。天正三年(1582)五月、長篠にて討死。
伊丹康直
大隈守。初め今川氏同朋衆。
永禄十二年(1569)に信玄に仕え、還俗して海賊衆となる。
船五艘持。子の播磨守康勝も武田家海賊衆。武田家滅亡後、徳川氏に出仕。
市河等長
梅隠斎。
初め今川氏同朋衆。永禄十二年(1569)に信玄に仕え、
還俗して海賊衆となる。船五艘持。子の播磨守康勝も武田家海賊衆。
武田家滅亡後、徳川氏に出仕。
小浜景隆
民部少輔。元伊勢畠山氏の水軍。
元亀二年(1571)晴信(信玄)に招かれて海賊衆となり、
安宅一艘小舟十五艘の船大将。武田家滅亡後、徳川氏に仕え水軍の将となる。
…無断転載にて失敬。
>安宅
あ、何か、「安宅・関船・小早」って聞いた記憶があるけど、うろ覚え。
「小早川」と「小早」って、やっぱり関係あるのかな?
詳しい人居ないかな〜。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:28
>>17 安宅船は本来、熊野水軍の安宅氏が使用していた大型軍船のこと。
基本的に本州沿岸部の使用を目的としているので喫水が浅く、
トップヘビー(重心が高い)であり、安定性に欠けるので外洋航海には不向き。
>>16で言う船は「関船」で戦闘員は2〜30人程度かな?
そしてそれ以下のサイズが「小早」。
軍事板的な自分には
安宅=戦艦
関船=巡洋艦
小早=駆逐艦
と言う解釈が解かり易いかな。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:30
>>19 それは単なる船の種類じゃないかな。
戦艦、巡洋艦、駆逐艦、連絡船、、、みたいな。
大型の安宅船、関船(早船)、小早、などがありました。だってさ。
//www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/wasen.html
>>20殿
ありがたや。かなり解りやすいです。
(今度、軍事板も覗いて見ようと思います)
え〜と、安宅はどれくらいの乗員数ですか?
| …めっちゃ切ない。
∧ ∧ |思いっきり遅れてるし…<22
,っдT) <
`l ⊂) \_____
. 〜| _ | ゥゥ...
∪ ∪
>>21 海といえば、白石一郎は欠かせない。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:36
安宅船・関船・鉄甲船は大航海時代でもおなじみ。
>>24殿
まぁまぁ、お気になさらずに。
白石一郎の本の中で、特にどの本がお奨めですか?
(水軍に拘らず、どうぞ)
27 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:42
>>20 安宅船が安宅氏の船ってのは俗説に過ぎんぞ。読みを調べれば分かること。
安宅船=あたけぶね
安宅氏=あたぎし
安宅船が史料上で「安宅船」の漢字を当てられるのはかなり後になっての
事で(秀吉の頃だね)、それ以前はひらがなで「あたけ」とするか
漢字なら「阿武」とあてている。
>>25殿
鉄甲船の鉄装甲を外したら安宅には…ならないのかな。無知ですみませぬ。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:45
水夫80人程度、兵員60人ほど。
大きいものになると兵員100名。
このクラスで最大級のものは戦国時代は終わっているけど、
寛永11年(1634)完成の安宅丸。
徳川秀忠の命により向井忠勝(正綱の子)が建造した船で、
長さ30尋(約55m)、銅板で装甲され、三重の櫓を設置、
推定排水量は1500トン、水夫400人と言う巨大な軍船だった。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:48
鉄甲船は装甲された安宅船なので鉄板外せば(外せるならば)安宅船。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:49
「鉄甲船」って当時の用語?
信長公記の記述を読んだ現代人が勝手につけた名前とちゃう?
32 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:50
とりあえず「信長の鉄甲船」に史料的な裏付けはないということに
なるんだが。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 23:54
>>31 当時の人は「大船」と呼んでいます。(『信長公記』『安土日記』など)
江戸時代の講談にすら「信長の鉄甲船」は登場しません。
明治以降に突然表れた話です。
鉄甲船と亀甲船では、時期的にどちらが先に開発されたのでしょう。
「信長の鉄甲船」が無かった、となると、
亀甲船の影響を受けて日本でもできたとか…?
36 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 00:05
亀甲船よりも先に西洋の帆船が装甲を施していたハズ。
そちらを参考にしたと言うことはないだろうか。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 00:10
>>34 朝鮮出兵の時に秀吉が船に貼り付けるための鉄板を徴収した史料は
あって、二隻の装甲船が作られたと見られている。
尤もそれが亀甲船と関係あるのかと言われればあまり関係は
ないのではないかと思うが。
亀甲船は至近距離での戦いにこそ真価を発揮するものだし。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 00:25
>>38 秀吉が鉄板を徴収したのは『家忠日記』によれば1593年の2月です。
前年から朝鮮に出兵しているので、朝鮮水軍の火器に苦労したという
ことでしょうか。
あと「信長だったら」って信長が「鉄甲船」を作ったという
証拠って無いんですよ。
ちなみに信長主義者のみなさんが言うには「西洋で船の建材に鉄が
使われたのは信長から300年後」なんだそうです。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 00:31
>信長主義者
確かに「建材」として鉄が使用されたのは1800年代だけど、
「建材」と「装甲(鉄張り)」は別の物だよね(w
まぁ解かっていて言ってるんだろうけど。
>>39 あ、ごめんなさい、32、33のとおりという流れでしたね。
で、秀吉の鉄板徴収の時期が…そうすると、
西洋→朝鮮半島→秀吉日本
に並行して西洋→秀吉かな?んー、どうでしょ?
因みに私は信長とか特定の武将を狂信、ということは無いです。
>>40 信長主義者のみなさんがどこまで分かってて言っているのかは
私にはわかりません……
ところで西洋の船が何時頃「装甲」を付け始めたか分かる
サイトはありますか?
44 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 01:38
信長の鉄甲船って根拠が無いの?
それにしては公然と語られすぎやしないか?
>>44 信長様が偉大だという話に嘘があるはずがありません。
戻ってきました。
>>42 私には見つからなかったです…。ゴメンナサイ
今日はもう力尽k
(また明日お会いしましょう 三日間は顔を出せます。
皆さん、今日は沢山のレスありがとうございました。)
とりあえず信長主義者って言い方はやるてくれんか。
俺は謙信主義者だが信長の鉄甲船の実在を今まで信じていたわけだし、
今もまだ決定的に嘘だとは信じきれないしよ。
どうも〜。壱です。
>信長の鉄甲船
>>47 そうですね、信長盲信でなくても、私も完全には信長鉄甲船を否定も肯定もしていません。
この書き込みまでは仮説の域を越えない議論、ということで御赦し願えませんか?
(…八方美人って怒られるでしょうかのぅ?)
んー、何らかの結論をここで導くには、
否定・肯定ともに決定的な証拠が提出されていないように思いますし、
きっと、学界でも統一見解が出ていない(…のかな?)
ようなので、保留ということではいけませんか。
え、「トドメ刺さなきゃ夜も寝られない」?
私も基本的性格としてはそうですが、ここでは別。
マターリと行きませう。(´∀`)y─┛~~
>世界初の金属装甲木造船
近所の北○道大学水○学部図書館で調べたけど、あまりよく判りませぬ。
もっと専門的で詳しい資料希望。
>>36殿は如何か?
(敬称、使ったり使わなかったりします。気まぐれで御免。)
え〜と、他にもきっと、水軍関連の話題はあると思います。
私、自分でも幾つか出してみます。(どんな反応が頂けるかは判りませんが。)
鉄甲船の話の続きでも歓迎です。
皆様もどうか、奮ってこのスレッドに御参加下さい。
全国水軍マップ(?多分に不完全。)
九州:松浦
四国南部:長宗我部
瀬戸内:村上、来島、能美
山陰:尼子(奈佐日本助)
紀州:雑賀
志摩:九鬼、小浜
東海:向井
関東:北条(清水)
九州南部、若狭近海、琵琶湖、有明海、北陸地方、奥州、の水軍について情報探索中。
佐渡などの離島についても何か水軍情報あれば宜しく。
あと、戦国期にサイモチ党(字、忘れました。鬱)はどんな状況だったのか?
アホゥな私への突っ込みも大歓迎。
※ただしキツイ口調は勘弁下さいまし…私も気が弱い男ですので。
…昨日も言い訳しましたが、こういった仕事しか、私にはできませぬ…鬱。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 22:57
そういえば大友氏の水軍として若林氏が存在してる。
戦国期に活躍したのは若林鎮興(宗麟から一字拝領)。
大友の勢力拡大のために毛利水軍や島津水軍と戦闘を行っている。
そして息子統昌は朝鮮攻めにも参加。
余談だけどこの統昌、柳生新陰流免許皆伝とか・・・
「SHUEI」さん
ttp://nagano.cool.ne.jp/shuei/index.html より、「信州 安曇野」
ttp://nagano.cool.ne.jp/shuei/azumino.html 「海人・安曇族の里」の項に、
*******************************************************************
…白村江の戦いを指揮した安曇比羅夫など大和朝廷の水軍の指揮官を務め、
外交、あるいは内膳職としても高い地位にあった。
水軍であるだけに、あちこちに移住し、その勢力を拡大した。
筑前国糟屋郡安曇郷(福岡県)、伯耆国会見郡安曇郷(鳥取県)、
美濃国厚見郡厚見郷(岐阜県)、三河国渥美郡渥美郷(愛知県)
………。いずれも、海人・安曇族の住みついた地とされている。」
*******************************************************************
とあります。
白村江〜の話自体は戦国では無いけども、
このスレにとって、無益な話題ではないと思います。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 23:04
>>1。つーか
>>54。
お前は2chにサイト紹介に来たのか?違うだろ?
ここは議論する場だ。
学究的知識は無くとも、自分の意見ぐらいはあるだろ。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 23:20
熊野水軍が出自の安宅氏。
三好家が大阪近海を制圧出来たのも彼らのお陰。
三好長慶が弟の冬康を入れて完全に取り込む必要のあった有力な水軍。
結局、松永に謀られて冬康が兄長慶に殺害されると斜陽となり、
息子信康が秀吉に滅ぼされる運命をたどってしまう。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 23:25
>信長の鉄甲船
石山本願寺戦時
「毛利水軍の焙烙」除け用に鉄板を貼ったもの
鈍重なため拠点防御専用
その鉄砲搭載量で火力大
だったかなぁ
>>55殿
よくぞ御登場くださいました。お待ちしてました。
(あ、別に、このスレが私のものだって言ってるわけじゃないですよ。あしからず…。)
おお、若林鎮興ですか…紹介ありがとうございます。
やっぱり海岸沿いの各大名には水軍があるのですね。
陸のいくさの方がメジャーな感があるのは、一体誰のせい?
と言っても、歴史家諸兄を詰問するつもりは無いですが。(´Д`;)
島津の船大将は判りませぬか?自分でも探しにかかりますが。
琉球進攻とかで(軍人として)活躍してると思うので資料はありそう。
※沖縄の人の一部に見られる反ヤマトな感情を逆なでするつもりはありませぬ。気に障ったなら御赦しを。
>新陰流
そういえば九州に丸目長恵がいて、上泉信綱の流れを汲んでいたような…。
丸目は大友の客将だったかな?今日もうろ覚えのオンパレードで済みませぬ。
(この話題と水軍との関係はアレなのでコソーリと教えてくだされ)
>>57殿
あわわわわ、仰るとおりです。
とりあえず考える材料を、と思いまして…。
(それと御客様出現待ちの無聊を紛らわすための所作です…はい。)
明日の夜までしか居られませんが、もう少し自分の意見も出したいと思います。
それへの批判もどうぞ宜しく。
61 :
無名武将@お腹せっぷく :02/03/13 23:30
>>57 検証用に便利じゃん、この子。ほっといてあげようよ
>>61殿
はい、しばらくそんな感じでこき使って下され。(いや、本当に。)
私も改めて、自分の無知を痛感しております。
このスレ立てるまで本腰で水軍関係の情報収集したこと無かったし。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 23:37
>亀甲船
李舜臣がうまく用いた沿岸防御船
甲良が鉄と棘なので対鉄砲と対白兵戦に強い
李舜臣居ないときは日本水軍の餌
AOEの亀甲船の強さは
信やぼの「余勢をかって撃てぃ」なみに嘘
かなぁ
64 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 23:46
はっきりとした実態がわからないけど、大内には白井氏という
水軍も存在してる。
あとは、伊予の河野家一門衆の忽那(くな)氏。
こちらは由緒正しき(?)海賊衆で、かの蒙古軍とも戦闘してる。
戦国期は通著(みちあき)が前出の大友水軍や大内水軍、
さらに毛利水軍とも戦ったが、長宗我部に主家が下ると忽那氏も従い、
秀吉の四国討伐軍に参加した小早川隆景に滅ぼされている。
どうでも良いけど俺の紹介する水軍は必ず最後に「秀吉」に滅ぼされてるなぁ(w
>李舜臣居ないときは日本水軍の餌
あ、本当に?
やっぱり、高性能な兵器も、使う将次第と言う事ですかな。
>俺の紹介する水軍は必ず最後に「秀吉」に滅ぼされてるなぁ
私は寧ろ、そういう"消えた水軍"を知りたかったのです。実は。
有難や
>>63 朝鮮水軍が亀甲船団で(或いは日本が鉄甲船団で…)外国侵攻ってのは、
やっぱり無理が大き過ぎるでしょうかね?多分船脚も最悪でしょうし。
所詮ガレー船でしょうから、食糧補給その他も大変でしょうし。
(嗚呼、私、無難な意見しか吐いていないような…。)
68 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 23:56
70 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 00:06
>亀甲船・鉄甲船
喫水が浅すぎて外洋航海はほぼ不可能。
舷側が低い所へ来て櫨が出ているのも荒天時に開口部からの浸水の危険が高い。
近距離でなおかつ沿岸部でないと危なくて乗っていられない。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 00:09
>>70 亀甲船は知らんが、喫水が浅いのは和船全般の特徴。
だけど遣明船とか普通に東シナ海を突っ切ってたけど。
雑賀衆も明まで貿易しに行っていたようだし。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 00:14
>和船
中国までが限界なのでしょう。
東南アジアの暴風雨にはひとたまりも無し。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 00:17
「倭寇」は東アジア一帯で動いているような……
和船て力学的には優秀みたいよん。
倭寇の後半期の大部分はなりきりでしょ。
船も和船じゃないんじゃない?
75 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 00:23
『明史』日本伝は倭寇のうち真倭は十に三、あとは中国人だと言ってますね。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 00:23
倭寇は日本人ばかりでなく、中国近海の海賊の総称みたいなもんです。
日本に鉄砲を伝来させる一因を担ったとされる
明人の王直は「倭寇」の大頭目でした。
それゆえ、和船ばかりでなく、ジャンクも多く存在したものと思います。
ガレーの定義って何?
大勢で漕いでるやつ?
>>1も折角スレ立てたのに、あと一日しか接続できないとは残念だろうねぇ。
>>68 ガレー船について学習して参りました。
多分、日本の誇りある水夫が操る船を奴隷船とごっちゃにした辺りで
逆鱗に触れたのではないかと反省しております。
発言修正:
×「所詮ガレー船でしょうから」
○「水夫など、乗員数が多いので」
不足でしたら御指摘ください。
私、かつての森喜朗首相並みに失言癖があるのかもしれぬ故、
もっと慎重に発言しようと思います。
(今夜も、0200頃までは起きているかと思います。)
Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・)>1が律儀だと出だしから良スレっぽいぞ
_φ___⊂)__ \_______________
/旦/三/ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
|愛媛みかん|/
>>78 はい。かなり鬱です。(T.T)
事情については雑談スレで後ほど。
どうか皆さんで、このスレを可愛がってやってください。お願いします。
>>80 お褒めに預かったものと勝手に解釈しても宜しいでしょうか?
有難うございます。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 01:17
和船にもいろいろあるが、朱印船は良い船らしい
83 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 01:21
そうそう、朱印船貿易は東南アジアまで行ったのでは?
>朱印船団
きっと軍船もいたのでは?
87 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 01:47
たしか、台湾だったかルソンだったか、
どっかで、西軍か葡軍あたりと小競り合いして勝ってたな。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 01:55
ふーむなるほど。じゃあ、安宅の参加は有り得ぬということですな。
質の高いサイト紹介に感謝。(今日は…もうちょい起きてるかな…。)
>>90 でも、国内の海運警備で働いていたのかな?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 03:13
>>91 海運は、警備していたというより、
各地の水軍が通行料を取りたてて
代わりに安全を保証してたんじゃないだろうか。
>>92 そうですね〜、ヤーサソみたいだけど、きっとそんな感じ。
昔、予備校で、「武士なんて極道さんと同じですよ」
なんていう極論吐いていた講師がいたのを思い出しました。
私自身としては、当時なら別に良いのではないかと思います。
きっと軍規や統制も厳しいでしょうし、野伏せりの類よりはずっと安心。
(今日はこの辺で。また明日宜しく)
94 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 04:05
>>64 忽那の読みは「くつな」ですね。細かいことですみません。
忽那氏が勢力を誇ったのは南北朝時代です。
ご多分に漏れず一族は両勢力に分裂しましたが、
南朝方に付いた義範は征西将軍懐良親王を本拠地の
忽那島に招いて勢威を振るいました。
彼の活躍もあり一時は伊予は南朝方の一大策源地となったようです。
戦国期については
>>64にあるとおりですが、
通著は長宗我部方に通じた大野直之との合戦で戦死しています。
>忽那島
オフラインの地図でしか調べてませんが、
愛媛県北条市(松山市の北隣)、
JR予讃線・伊予北条駅の西方7.5kmにある野忽那島がそれかと思うのです。
その島への航路は、(私には)不明です。スミマセソ。
20万分の1の地図で発見しました。もし違ったら抗議くださいませ。
今日は活動開始をちょっと早めに…。メインは夜からですが。
自分で立てたスレを自分で潰すような惨事だけは回避しようと、
今日一日、無い神経を張り詰めさせて働く所存です。
あいや、雑談スレの、あの御声援へのレスって訳じゃないと言う事で。(笑)
(´-`).。oO(日本史・世界史板や軍事板からの来訪はあるようだが、船舶板からの客人は在りや否や?)
折角名前が出てきたので「王直」ついて少し。
王直(汪直とも)
?〜1559?
明国徽州歙県の人。
塩業を営んでいたが失敗し、貿易商に転じる。
当時の明は非常に厳しい貿易統制を取っており、
当然の事ながら密貿易に手を染めることとなる。
貿易は日本を中心に東南アジア各国渡り、
特に日中間の禁制品貿易で莫大な利益を得ている。
王直のもう一つの顔が倭寇の首領である。
最初は中国系の海賊集団の一員(と言っても幹部)であったが、
官軍によって首領が捕殺されると残された組織を率いて勢力を拡大、
「海上に二賊なし」とまで称される東シナ海最大の海賊集団となり、
「浄海王」を僭称したとも言われる。
官軍によりそれまでの本拠地を失われてからは、
日本の平戸や五島を拠点として海賊行為を行っている。
後に明の征倭総督 胡宋憲によって明に帰国した所を捕らえられて処刑される。
なおこの時「豊後王」の使者を伴っての帰国だったとも言う。
王直はポルトガル人との交流もあり、
543年の種子島への鉄砲伝来の際に、
「通訳」として日本とポルトガルとの交渉を仲立ちする事へとなってゆく。
>543年
1543年の誤りです。
(細かい間違いやら文法的におかしい所が多いけどご勘弁)
海賊ながら「王」を僭称しちゃったり、大友の貿易の仲立ちしたり、
鉄砲伝来に一役買ったりと、
戦国期の海の傑物としてのエピソードが多い魅力的な人物です。
>>87 ヅャンクでも、小競り合いくらいなら十分勝てるってことかな?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 17:54
和船と言ってもさ、遣明船は見た目や形はジャンクによくにてる。
建造法は全く違うんだけどね。
あと安宅船がトップヘビーだとか言うのも、どうかなと。
実際には大風で安宅船を心配する書状が出てたりするけれども、
一方で安宅船は大風でも何でも耐える、居住性が高いんで「安宅」の
字があてられたなんて説もあるぐらいだし。
(安宅船はまず「あたけ」という名前があって、「安宅」の漢字は
あとからあてはめたものだからね)
1000石以上のサイズなら明との往復が余裕で可能だったわけだし、
そこまで止まりの性能だと断じちゃうのは可哀想だよ。
>>101 >居住性が高いんで「安宅」の字があてられたなんて説もある
おお、その様な説も。成る程。
>安宅の性能
んーと、明との主な往復航路はどのように?(いや、本当に知らんのです)
105 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 18:21
倭水軍、朝鮮水軍に劣る
倭軍退去して朝鮮を責めるも
利なし、だから李将>倭軍
106 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 18:25
>>105 まあ正規の水軍と比べるのは無理あるよね。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 18:35
というか秀吉は正規の水軍など持っていないと思う。
委託でしょ。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 18:45
>>105 ホント、朝鮮水軍って一人だけで持ってるね。ある意味ですげーわ。
ところで、朝鮮水軍(正確には李舜臣が率いた場合だけ)大きな
戦果を上げているんだけど、じゃあなぜ日本の水軍はカモに
されたのか。
それは日本の「水軍」といっても全部輸送船だったからだね。
輸送船に留守番が少しばかり残っているってのに勝てるのは
実は当然だってこった。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 18:55
じゃあ、あれだけ戦国武将がいて秀吉はじめ誰一人
輸送部隊を守る必要性を感じていなかったんだ。
馬鹿じゃなかろうか。
>馬鹿じゃなかろうか
総大将の金吾が原因かと。どうかな。
でも金吾再評価の声もあるらしい
とりあえず朝鮮出兵について今一度学習してきます。
記憶がかなり曖昧なので。
海外派兵なんてした経験なんて誰も無いから、
国内戦の感覚(九州攻めとか)で兵站・輸送を行おうとしたのでしょう。
水上戦の経験豊富なハズの水軍衆を多数動員したにも係わらず、
輸送中に大打撃を受けたと言うことは、日本の水軍には護衛という発想が
なかったものと思う。
それと国家水軍が存在せず、雑多な水軍の寄せ集めでは意思の疎通にも
事欠いたであろう。
これはもうこの戦争を企画・統制した人間(秀吉や三成など)全ての責任といえるのでは。
>雑多な水軍
各々の水軍は独立心も強かったでしょうし。(ある意味「海の漢」のデメリットか?)
「国家水軍」の総大将には誰が相応しいでしょうか?朝鮮出兵当時の人間で。
「海の関ヶ原」とでも言うような、「日本一の水軍」を天下に喧伝せしめるような戦闘はあったっけかな?
(>112の学習、継続中…。)
>国家水軍
小早川隆景かな。
本人も水軍戦の経験があるし、西国の水軍には顔が利く。
そして秀吉からも評価されて当時の首脳部の中枢たる五大老のひとり。
名実ともに水軍の総大将にふさわしい。
>小早川隆景
うむ、そうですな。能力・人格的には申し分なき将かと。
文禄の役にも出陣し、その帰国後に五大老の一人として就任したそうで。
他に候補は?九鬼が大人しく従うかどうかちょっと気になったり。
>九鬼
隆景の政治力なら気にすることは無いかな?
きっと海の漢の心も解るでしょうし。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 21:58
>小早川
どうだろう?
こと水軍に関しては「村上水軍のオマケ」的立場に終始している感じがある。
児玉水軍みたいな警固衆に対しては指揮権があるようだけど。
その児玉水軍もやっぱり村上のオマケ的存在なんだよね。
>>119 うーむ
隆景の政治力でも通じませぬか。
陸の事とはやっぱり別思考で行くのが良いのかな。
目立たぬだけで、裏で発言権が強かったとかそういうフシは?
(て言うか、私ってコウモリヤロウっぽい…鬱)
122 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:13
李舜臣の活躍に関して、朝鮮側の史料を読むと、一番多いパターンは
どこぞの入り江に停泊している日本の船団に攻撃を仕掛けるパターン。
日本の船からは鉄砲を撃ちかけて来るんだけど、朝鮮水軍は火矢とかで
攻撃して炎上させちゃう。
まあこの場合は手薄な輸送船を狙ったということなんだろうね。
本職の水軍は何やってたかと言えば、十万単位の人間の兵站を
確保しようとなるととてもとても個々の部隊まで手が回らなかったんじゃ
ないかと思うんだね。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:21
>>120 もともと村上水軍は独立した海賊だからね。
海賊禁止令が出て毛利家に従う形をとらざるを得なくなったかも
しれないけど、水軍の事に関して他人の指示を聞くかどうか……
125 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:41
>>113 >国内戦の感覚(九州攻めとか)で兵站・輸送を行おうとしたのでしょう
おっしゃるとおりですね
民衆に対しては、のちのち所領になるからということで甘かったらしい
蒙古なみにヤル時はヤルべきだったのかなぁ
日本人は優しすぎるからなぁ
蝗戦法イイ!
126 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:46
李舜臣指揮の水軍は、ナポレオン戦争のコサック騎兵のようなもの
ねたみで足ひっぱられて左遷、
で、彼以外の朝鮮水軍は、日本水軍の餌かなぁ
127 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 22:53
>>122 別にウヨクサヨクな話をするつもりは無いですが、一つの思考実験。
朝鮮半島への侵攻において、首都陥落及び半島制圧を成功させるのに、十万人も必要だったのでしょうか?
水軍の力を削ぐ事無く、占領地住民の宣撫などで人心を掴み、半島の端から着実に勢力拡大させる、
そのための橋頭堡を築くのに必要かつ適正な人員数は…?
事前に間諜を放ったりはしなかったのか…?
(奇妙な記述に見えましたら遠慮無く指摘ください…いい加減な問題提起しかできぬ私ですゆえ。)
>>125 >蝗戦法
うん、威勢はいいしスカッとするとは思うけど、
朝鮮侵攻の目的=大名への褒賞確保(違うかな?)
を考えると、略奪による一時的でバブルな収入より、
長期に支配して策源地とする方が賢いように思う。
秀吉が大陸への進出を考えていたなら、なおさら。
モンゴル軍も、初期こそ略奪軍団だったけど、段々、
先住民優遇策をとったように記憶してます。
孫武曰く、「智将は敵に食む」…だったかな?
>ヤル時はヤルべきだったのかなぁ
墨俣の一夜城的にガバッと囲っておいて、あとで虚を実にする作戦なら、
その初弾の威力に敵軍が驚いているうちに後詰ができるよう、
周到な準備が必要かと。
まぁ私も、戦争なんて元から残虐で当然かと思っているクチなので、
「敵に優しく」なんて間抜けな宋襄の仁は言いやしませぬが。
だが領民の扱いは、きっと別問題かと。
(とりあえず、マターリといきませう。)
一つの結論:三成サン、戦争下手。(私見)
133 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:07
>>128 一つの「国」を相手に喧嘩するのに、兵力がいくらあっても
充分ということはあり得ませんね。
小出しに端からと言っても、通信もない時代ですからいざ敵が
大挙して押し寄せた時、援軍を呼ぶのに何日かかるかも分からない
わけですから、あまりにも非現実的。
理想としては征服対象国の全軍事力より多い数を送り込むのが
よろしいのではないかと。
弘安の役の時、10万の江南軍が上陸もできなかったわけですから。
>>126 >李舜臣〜ねたみで足ひっぱられて左遷
うぬぬ…結局戦争の帰趨は人心にあり、か…。
そして、足を引っ張る下司どもの存在は洋の東西を問わず、か…。
敵将ながら哀れ、李舜臣…。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:11
水軍の輸送力はイイ!
信玄も荷駄隊で苦労して、武田水軍欲しかったのかなぁ
>>133 通信の問題を忘れていた。鬱氏
分裂・弱体化させてから各個撃破とかはどうでしょう?
(ところで、いきなり大軍団で首都特攻とかもやっぱり無理?)
>>135 現代でも、大量輸送には船舶の方が航空機より良いとか耳にした事が。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:40
「盲船」(めくらぶね)何?
「続武将感状記」によると、「九鬼水軍は盲船を作り、水底に潜行し、仏狼機を
もって隅矢倉を打ち破った」とあるが・・・。潜水艦?
140 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:42
朝鮮水軍 壊滅したので、
再び起用された李舜臣
露梁海戦で勝利、しかし戦死
死んだけど、よほど海の戦いに天賦の才があるのかなぁ
>>139 盲船(めくらぶね=黒塗りの軍船)
らしいです。
良スレ
>>137 その通り。
確かに航空機の輸送速度は早いけど搭載量が少ない。
それに対して船は搭載力で圧倒している。
遅いと思われがちな速度も仮に10ノット程度の速力でも
24時間ならば約480q進める。
そして海ならば直線的に目的地に進めるのでロスが少ない。
(もっとも空には勝てんけど)
高速交通網が発達していない時代において水・海運は
最大の輸送手段である。(もっとも今だって最大の輸送手段)
しかし、良い
>>1の居るスレだったなぁ。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 00:11
久々にあげてみる
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌─┴┴─┐
/ つ. 開 始 │
〜′ /´ └─┬┬─┘
∪ ∪ ││ _ε3
148 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 07:53
/ ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
./ / | 久々に!
/ / \ / ̄ ̄ ̄
/ /  ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄| あげてみる!
./ /_Λ , -つ \
/ / ´Д`) ./__ノ  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄
/ \ / / ⊂_ヽ、
.| へ/ / .\\ Λ_Λ
| レ' /、二つ \ ( ´Д`)
| /. . > ⌒ヽ
/ / / へ \
/ / / / \\
/ / レ ノ ヽ_つ
/ ノ / /
_/ / / /|
ノ / ( ( 、
⊂ -' | |、 \
. | / \ ⌒l
| | ) /
ノ ) し'
(_/
>>148 ついでにネタも上げてほすぃ。
幕末にアメリカに向かった勝海舟以下の咸臨丸の乗員には
塩飽水軍の末裔たち(30人ほど)が水夫として乗り込んでいた。
「人名」の意地を見せた快挙でしょう。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 23:12
ちなみに勝海舟はその後咸臨丸の艦長をクビになりましたとさ。
理想は大きいが、実力は無い人なのか?
151 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/02 02:19
とりあえず信長の鉄甲船はなかったらすぃ
152 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 11:08
153 :
こんなのに今更レスがつくとはね:02/04/14 15:06
>>152 信長の大船の事を記した記録は主に
1.太田牛一の『安土日記』『信長公記』
2.オルガンティーノの報告書(『イエズス会日本年報』収録)
3.九鬼家の家譜(『寛政重修諸家譜』収録)
4.多門院英俊(興福寺の僧侶)の『多門院日記』
などである。このうち『多門院日記』に「鉄ノ船ナリ」と書かれている
ことだけが「鉄板装甲」の根拠となっている。
それ以外の史料では装甲の事には全く触れていない。
しかしながら多門院英俊が堺なりなんなりへ行って大船を実見したとは
確認できず、あくまでも「噂」を書き留めた程度であると言える。
実際にその船を見たオルガンティーノや乗り込んでいた九鬼家の記録、
大船のサイズを記すなど情報を知り得る立場にいたらしい太田牛一らが
一言も触れていない「鉄板装甲」が、英俊の記した「鉄ノ船ナリ」の
一言だけで存在が証明されたとするのは無理がある。
だいたい英俊は「鉄の船だ」と言っただけで、具体的に鉄板を張ったとか
なんだとか言ってるのは後世の学者の後知恵で、全く証明はできないもの
ばかりである。
>>153 んじゃ、巨大船はあるのよね?
たしか三隻は鉄甲で、残りは間に合わなかったから普通の巨船
見たいな話聞いたことあるけど、何を基に作られたのかな?
江戸初期くらいまでに鉄甲船はどっかにあったの?
155 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 15:27
>>154 >んじゃ、巨大船はあるのよね?
そう。「信長の大船」はある。
だが、装甲は無かったと言える。
>たしか三隻は鉄甲で、残りは間に合わなかったから普通の巨船
>見たいな話聞いたことあるけど、何を基に作られたのかな?
いやむしろそんな話の方が初耳なんだが・・・・
『信長公記』によれば九鬼水軍が六隻の「大船」を作り、
滝川一益が「白船」を一隻作ったとある。
>江戸初期くらいまでに鉄甲船はどっかにあったの?
秀吉が朝鮮出兵の時に二隻ほど作らせたらしいことは
鉄板を徴収した文書などから推測できるが。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 15:30
江戸初期の大型船っつーと
将軍家が作った「安宅丸」があるよ。
鉄甲船だったかどうかは知らんけど。
>>155 サンクスです。
いや鉄甲何隻〜は小説か何かの話で、「まにあわなかったから鉄無し」
とかの話の種はどこかにあったのかなーと思って。
秀吉は持った可能性があるのですね。
身長公記に堺の人がビックリしたとあるけど、これは巨船だったから、
というよりも「織田が来た!毛利が負けた!」ということかな?
でも大砲とかきちんと積んでるから、鉄甲でなくともカクイイね。
安宅丸は銅張りだよ。
見栄えの為に装着したものと思われる。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/21 22:41
保全あげ
勉強になるなぁこのスレ。(・∀・)イイ!
村上水軍は、独立性の為か…兎に角折り合い悪そうっすねぇ
奥州統一後の伊達が、支倉使節団出してるから・・・奥州ってこれくらいしかないのかも。
そもそも、豪雪地帯には水軍は育たんと思われ
保守
162 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/06 22:49
?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/17 04:58
これも地味に人気あるみたいだから上げとくか
164 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/21 22:22
>>160 奥州には安東水軍があるぜ。
かなり貿易で儲けてたらしく、安東実季の代には敦賀に物産販売かなにか
の出張所までつくってたらしい。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/23 16:24
166 :
無名武将@お腹せっぷく:
岡本左京亮(通輔)おかもとさきょうのすけ(みちすけ)
生没年不詳
里見義通の弟で里見通輔と名乗ったが、その後岡本氏元の養子となった。
岡本随縁斎安泰おかもとずいえんさいあんたい
生没年不詳
岡本左京亮の子。岡本城を拠点として里見水軍の一翼を担った。対北条氏の拠点とするため、里見義弘が岡本城の修築・明け渡しを要求した際も快諾し、以降は里見義頼の家老となった。
岡本頼元おかもとよりもと
生没年不詳
岡本随縁斎の子。父同様、里見水軍で重要な地位を占める。
また、里見義頼の重臣として上総内乱の鎮定にも尽力した。
(;´Д`)…スイグンハァハァ