骨肉の争いをしなかった北条(伊勢)一族

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1無名武将@お腹せっぷく
戦国の英雄、伊勢新九郎盛時
(北条早雲)を祖とする北条一族は
何故、骨肉の争いが発生しなかったの
でしょうか?(ほとんどの大名家は家督継承時に
必ずといっていいほど家督の地位を争っていた)
それを検証したいと思います。
全国の北条ファンよ、集まられい。
2北条:02/03/12 17:30
当家スレ歓迎

┏━━┓ 二番奪取
┃    ┃ 小田原北条家
┃ ▲ ┃ 
┃▲▲┃ 総州佐倉領主
┃    ┃ 北条直重 見参
┃    ┃
┃    ┃     応禄
┃    ┃     穏寿
┣━━┛
┃ 三国志・戦国時代板
http://curry.2ch.net/warhis/  
3無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 17:56
┏━━┓ 三番奪取
┃    ┃ 伊勢北条家
┃    ┃ 
┃ ∴ ┃ 
┃    ┃ 
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┣━━┛
┃ 三国志・戦国時代板
http://curry.2ch.net/warhis/  
4無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 18:19
一番無難な答え(多分)。
北条家の分家が関東に根付くまで100年足らずじゃたらなかった。
家督争いしたくても身近すぎると、冷静に行動がおこせない。
家督争いを起こす者も、それに加担する一族にしても。
5無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 18:39
新興勢力でも家督争いはあるでしょ
6無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 18:44
地盤が磐石ではないから、一族内の内訌はご法度。
古河公方や関東管領、他の関東名族などが北条をよく思っているわけがないから。
7無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 19:06
早雲には五人の子供がいた。
長男千代丸(北条新九郎氏綱)
次男新六郎(北条氏時)
三男氏広(葛山氏広)
四男菊寿丸(北条幻庵)
末子新三郎
家督は氏綱が継ぎ、三男の氏広母親の実家である
葛山家に養子に入ってそこの家督を継ぎ、四男、
菊寿丸は幼い頃から僧籍に入れられるのが決まって
いたらしく京都の三井寺で修行し、箱根権現に入山
した。末子の新三郎は家督に興味が無く大徳寺に
入って雪舟の弟子に師事して絵を学んだという。
それ以後、北条家に関わってない。
次男の氏時は弟としての分をわきまえ、家督を奪取
しようとは考えなかった。
8北条氏忠 ◆Jei1N6Go :02/03/12 22:03
いやいや。
われら氏康が子7男は仲がよかったでござるよ
氏政、氏照、氏邦、氏規、氏忠、景虎、氏光。
これも母上が皆同じゆえ
9無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 22:08
>>7
そういえば、HPや本などを見てみると
氏綱=千代丸としているところと
氏康=千代丸としているところがあるけど、
どっちが正しいのかな。
それとも両方千代丸とか。
10早雲寺住職:02/03/12 22:30
>8
氏忠殿、景虎殿は殿の御子ではござらぬ。
あれは後世の軍記物「関八州古戦録」の
記述を鵜呑みにしただけで本当は北条綱成殿
の次男でござる。
11無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 22:37
>>10
あれ?逆じゃなかったっけ?
12北条氏忠 ◆Jei1N6Go :02/03/12 23:46
いやいや。
父上の実子じゃ
よく氏秀殿と間違われるが、
景虎は鷲の弟よ。
13北条氏忠 ◆Jei1N6Go :02/03/13 00:16
まぁ北条家の嫡男たる者幼名は「新九郎」
と名のるのが慣習。
氏政兄は別として
14北条家小姓:02/03/13 14:51
>13
仕方がありません。氏康公の
長男である新九郎様は家督を
継ぐ前に夭折なされましたから。
15無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 15:01
>>13
氏政殿も新九郎と呼ばれておりまする。
以下の資料、黄梅院殿が氏政殿に輿入れする資料から抜粋。

(天文廿三甲寅)此年極月武田晴信様ノ御息女様ヲ
相州氏康ノ御息新九郎殿ノ御前ニ被成候。
16無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 16:05
>>15
新九郎って幼名と言うより仮名に近いような気がするのだが
どうだろう。
17無名武将@お腹せっぷく:02/03/13 16:53
>>16
早雲も成人した後もずっと使っていましたから幼名ではないですね。
18無名武将@お腹せっぷく:02/03/19 15:18
スレのびないな。age
19無名武将@お腹せっぷく:02/03/23 12:43
>>17 戦国時代は幼名で呼び合ったらしいぞ。
それがなかの良さをあらわしたらしい
20無名武将@お腹せっぷく:02/03/23 13:43
そりゃ武田みたいな名ばかりのクソ大名と違って
氏康公の薫陶があるからね。
21無名武将@お腹せっぷく:02/03/23 15:19
地味に上げておくか。
22無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 02:06
あげ。
23月と星より:02/04/01 02:59
突然の乱入をお許し下さい。私も北条家5代の方々みんな好きです。
何の証拠もありませんが、
早雲の子供達の場合は、
一族一致団結しないと、両上杉家の様な末路を迎えてしまうと
『他人の振り見てわが身を振りかえろ』と思っていたのかな?
氏綱の子供達の場合は、
為昌(死後、綱成が頑張る。)も氏堯(結構活躍していたみたいですが。)も
死んでしまったのでね。
氏康の子供達の場合は、
氏康の奥さん、瑞渓院の子供が、氏政・氏照・氏邦・氏規・氏忠・景虎と
たくさんいたのが良かったのではないのかな?
どこかの寺に預けていたとは聞いてないし、
勿論、大石家・藤田家に養子に出されるは、今川家の人質になるはで、
けして特別と言う訳でもないです。
子供達を手元に置いて育てたのではないのかな?
それで、仲が良いのかなって考えてます。
(あの当時って、兄弟仲良く育てる事って少ないですよね?)
ただ、氏政の代になってしまうと、氏政の力量で兄弟同士は仲が良いけど、
北条家一族で考えると、一門は大きくなりすぎ、
また、当主氏直が力をつけてきたのではと思います。
氏直は、若神子の対陣で一族の間で自分の策を認めてもらえなかったようですし。
24月と星より:02/04/01 03:02
>>23
23番で書いた事で、
自分の思い込みや、知らぬが故の誤りがありましたら、
御免なさい。
あ、月星さんだ。日本史スレ、ロムってます〜頑張って!!
26月と星より:02/04/01 03:40
>>25
25番の方へ。
ありがとう。頑張ります。(でも今日は、もう寝ます〜。さようなら。)
27月と星より:02/04/02 01:07
ここも、人の通りが少ない所なのかな?
では、北条氏直についてもう少し書かせて頂きますね。
23番で書かせて頂いた所で誇張があることに気が付きましたので訂正しますね。
若神子の対陣では、一族ではなく重臣たちが反対したとの事でした。
理由は、北条氏邦・北条氏光と共に徳川家康を討つ事が
軍議で決められていたためだそうです。
ところで、これがもし本当でしたらとんでもない事ですよね?
氏直が家督を継いだとされている年は、1580年頃とされていますよね?
と言う事は、この時点で北条家の当主には力が無いと言っても、
過言ではありませんよね。
当然、実権は父の氏政が握っている訳ですが、
ここでの精神的打撃は、後には大きく広がっていき、
氏直は当主としての実権が必要と感じていく事になるのではと考える事もできます。
北条家は意見を出し合って評議するからではないんでしょうか?
29月と星より:02/04/02 02:31
>>27
27番の続き。
勝手に題名をつけるのでしたら、『当主氏直VS氏政兄弟連合』となるかな?
あ、そうだ。前に北条家五代の方々が好きと書かせて頂きましたが、
一族の人達も好きです。
氏照の氏規とは違う強気の外交手腕、
氏邦の見事な協調する感性(最期の鉢形城攻防はけっして協調性を失った訳ではない。)
氏規の氏照とは違う分析された外交手腕、
この三人の実績は当時の事を考えれば一流と思います。
ただ、武運つたなく時の流れに消えてしまいましたけど・・・。
これは、もう、自分の世界ですよね。ああ、書いてしまいました。やっちゃった。
30月と星より:02/04/02 02:38
>>28
28番の方へ。
そうですよね。戦国一の合議制、『評定衆』。
ただね、ただね、北条氏直の事を考えてしまいますとね・・・。
31月と星より:02/04/02 08:59
さて、逆に他の家は何故家督争いが起きてしまったのでしょうか?
悪口にならない様に考えてみますね?
ケース1、織田家の場合(信長と信行)。
父の織田信秀が、ワンマン的なトップであった事と、その死が突然であった事が、
問題であったと思います。死因は流行り病とか?(考え過ぎると限が無いので。)
本来、織田信長が普通に家督を相続するべきでしたのに、それが出来ない。
その原因の半分は、やはり織田信長のうつけ振りにあると思います。
しかし、それ以上に今川家と斎藤家を相手にするこの難しい状況の中、
信秀以上にワンマン的で家臣の意見を無視する事が予想できてしまう次期当主が、
織田家家臣の中で一番の問題であるのではないのかな〜?
その後の平手家の事も考えてしまうとね。
でも、私は平手の爺が『信長様立派になって下され。』の方が好きなんですけどね。
織田家の家督争いは、信長と家臣団の暗闘なのかもしれないですね。
32無名武将@お腹せっぷく:02/04/02 14:08
・・・月と星よりって何者?かなりうざいんだけど
33外郎屋:02/04/02 18:42
>>27
氏直の当主として力がないということについて多少反論(悪意はないよ)。
1582年当時だと氏直は20才位、氏政が20才のときの状態も同じような気します。
氏政が20才の時だとちょうど謙信の小田原攻略の時期に当たりますが、氏政の出撃策に対して篭城
を決めたのは氏康や重臣達ですよね。
また今川家崩壊後の武田家との攻防を見ても氏政の意向よりも従来の親今川路線を貫こうとする
氏康始め重臣達の意向が感じられるのですが。氏康死後の親武田の方向転換や黄梅院への想い(多少感情移入)
を見ると氏政の意向とは違うと思うのです。
このとき氏政は30才、小田原合戦時の氏直も30才。
こうして見ると氏直の当主としての権限を発揮するのはこれからだったと思うのですが。
(氏政がボンクラだから氏康が後見してたって意見は却下!!)
そう考えると小田原合戦が世代交代の一番バランスが悪いときに起きたのかも・・・。
34月と星より:02/04/02 23:34
>>32
32番の方へ。
ごめんなさ〜い。できるだけ気を付けますね。
35月と星より:02/04/02 23:40
>>33
下郎屋様(33番の方)へ。
ああ、すごい。ここに書かれていること、本当に・・・。
36月と星より:02/04/03 03:59
>>33
下郎屋様(33番の方)へ。
ようやく、文が書けそうなので書きます。
35番では、何か答えなければ、と書いてはみたものの書けずに、
恥ずかしい文が残ってしまいました。
(悪意はないよ)という文、とんでもないです。
読ませて頂ければ、どのような心で書いていらっしゃるのかが伝わります。
いえ、まだ、全てを理解したとは言えないかも知れません。
公平な歴史の見方、知識の使い方、とても勉強になりました。
37月と星より:02/04/04 00:47
北条氏政の時代は、と〜く考えますと、
今川義元、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、
真田昌幸、伊達政宗という有名な戦国大名がいた時期なんですよね〜。何か凄い。
私も、氏政は名将と考えています。世間の評価って厳しいですよね〜。
38月と星より:02/04/05 01:48
・・・という訳で、今日は良い事がありました。
また、明日から、頑張るぞ〜。
もしこれを見た人がいましたら、
あなたにも、良いことが訪れますように。頑張って。
39月と星より:02/04/06 03:07
ここまで下がれば、あまり人の目に付かないのかな?
さて、今回は北条家の御家事情を考えて見ますね。
初代伊勢新九郎の時代は、伊豆・相模の領国化に成功します。
1516年に三浦一族の滅亡。
1519年に新九郎も死去。
冷静に考えますと、版図を拡げ終えた状態で終わっています。
この頃になりますと両上杉家も一族同士の争いを止め、
新興勢力に対抗していく事になりますよね。
二代目北条氏綱の時代はかなり厳しい情勢であると思われます。
ただ、氏綱の働きがあまりにも素晴らしいので、
両上杉家が低く見られがちですが、やはりと弱いとは考え難いと思います。
氏綱も負け戦をしていますしね。
北条家には一族は勿論、家臣さらに百姓にまで気を使っていた様です。
上田家・成田家取り込みや、大石家・藤田家の吸収のやり方を考えますとね。
北条家の民政の良さはこの辺が原因かな?
一族の争いは無いですが、家臣の謀反や農民の一揆の方はどうなのかな?
松田憲秀の一件も何かある様なので、ここでは考えませんが。
あと、他国衆も抜かしますね。
どうやら、結束が固いという事でしょうか。(長い文ですね。)
40氏×:02/04/06 19:34
月と星よ。1人で寂しくはないか?
相手になるぞ。
うろ覚えの範囲でアレだが、氏康の代までは未だ北条家は
「関東では成り上がりもの」という自覚を持っており、勝って兜の緒を締める
じゃないけど結束を固くしないとやっていけなかった可能性もあるのでは。

さらに、氏康の子供達があれだけ個性が強いのに仲が良かったのは
既出ですが16人(うろ覚えにつきウソだったらスマソ)中12人が正室瑞渓院
の子で、これらはもしかしたら母親の元で一緒に育てられたのでは?
と言う記述が本に載っていたです。
個人的には氏政が各々弟たちの個性を生かした役割を振っていたのかなと妄想。
ここら辺は早雲二十箇条や氏綱の五箇条書置が生きていると思われ。

42月と星より:02/04/07 01:32
>>40
氏X様(40番の方)へ。
ありがとう。お手柔らかに、よろしくお願いしますね。
楽しく穏かに行きましょう。
43月と星より:02/04/07 01:48
>>41
41番の方へ。
北条氏康は凄いですね。正室瑞渓院もご苦労様ですね。
嫡男氏政も11人の子供がいるみたいなのですが・・・。
伊勢新九郎は高齢(57歳?)の時の子という事ですが・・・。
こういう事も大切な事なんですよね。(しかも有能。)
北条幻庵の『幻庵おほへ書』(正式の名前は知らないけれど。)も、
良いと思いますのでこれも入れてね。
骨肉の争いをしなかったって言うけど、北条の場合あまり嫡男以外
子供ができないんだよね(早世も)。(玉縄北条以外)
氏時、氏広
為昌、氏堯
氏照、氏邦、氏忠
氏房、直重
これも原因でしょ
45月と星より:02/04/07 10:08
>>44
44番の方へ。
言われてみますとそうですよね。これも大きいですよね。
北条幻庵には三人の子供がいるみたいですが、
嫡男三郎(宝泉寺殿)は1560年に死去(死因は知りませんが。)。
次男氏信は1569年に蒲原城にて戦死(子供はいます。)。
三男長順も次男と同じ1569年に蒲原城にて戦死。
幻庵自身は97歳のご長寿なんですけでね。
46月と星より:02/04/07 21:52
北条家の立場から隣国の様子をどんな風に分析していたのかな?
関東の両上杉家については以前書かせて頂きましたので、
東海の今川家について考えてみますね。
今川家も2回ほど大きな家督争いをしていますよね。
今川氏親の家督継承。伊勢新九郎が大きく関与していますね。
今川義元の家督継承。これも関与あり。(詳しくは分からないの。)
と、北条家は他家の家督争いや一族同士の争いを見て学べる事ができたのですね。
47月と星より ◆xQ5494pE :02/04/08 16:46
名前を変更しましたのでお知らせします。
48月と星より ◆xQ5494pE :02/04/08 17:45
名前を変更ではなく、トリップをつけました。
49外郎屋:02/04/08 18:05
>>44
骨肉の争いは子供の数よりも当主候補に年齢がどれだけ近いかに影響があると思う。
更に母親が違い、それを後見する武将があったら完璧な気が。母親が同じでも母親の愛情が・・・。
織田信長・信行、織田信雄・信考、伊達正宗・小次郎、今川義元・良真、
武田信玄・信繁(これは父親の愛? 信虎追放って奴)、武田信義・勝頼(信玄の戦略も関係)、
以上がそんな感じの列挙です。
あまり年齢が離れてるとそういう問題があった例は無いような気がする。
例えば織田有楽斎に野心があったとしても既に年齢差家中の扱いの差がありすぎて信長に替わって
なんて考えないと思う。時代が変わるけど、徳川義宣(紀伊家)が家光にライバル心を燃やしたけど
秀忠には燃やしてないよね。あるとすれば秀吉の織田秀信擁立か(でも、あれは・・・)。
あとはよく戦国大名の次男・三男は寺にいれて当主の予備群にするって話があるけど、あれは諸刃の
剣だと思う。当主が生きてて当主候補が死んだ場合は有効だけど、当の当主が死んだ場合は・・・。
今川家の花倉の乱なんて当に典型的。
当主候補の子達は大名の子息に生まれたってだけで現世の未練を捨てろといわれてたのが現世に戻
れるわけだから、そりゃ必死になりますよ。足利義昭の権力志向も現世に戻れた反動って気がします。
そういう意味じゃ月と星よりさん(>>46)の考えからすると、当主候補のに年齢の近い連中は寺にいれず
武将として育てたということでしょうね。
そうすれば自分の立場もわかるだろうし(家康が家光と忠長を差別した話と一緒)。年が離れてたらそんなことも
ないだろうということで僧籍に入っても大丈夫。
北条家に関してはそれが上手くいったのでしょう。早雲の時代も氏時、氏広(葛山家)、末子幻庵(箱根別当)
がそうだし、氏康も氏照、氏邦、氏規、景虎(一回僧籍に入ってる)などもそうでしょうね。
あとは次男・三男に対する父親・兄から精神的フォローが上手くいっていたのでしょう
(これをミスると家光と忠長)。
50月と星より ◆xQ5494pE :02/04/08 22:25
>>49外郎屋さんへ。
今川家ですが、氏輝と義元は寿桂尼の子と言う事は知っていますが、
良真は福島家の女(これは自信が無いので間違いでしたら訂正お願いします。)とか?
そんな事は置いときまして、有難う御座いますね。
やっぱり、氏照、氏邦、氏規はお寺に入っていないのですね。
氏忠は不明という事で。
瑞渓院、さすが寿渓尼の娘ですね。(母と娘、やっている事は違うけど。)
外郎屋 って直重
>>51
北条スレの? さすが博識だね。感心した。
53月と星より ◆xQ5494pE :02/04/08 23:40
あ、御免なさい。私の考え外れてしまいましたね。
私は北条氏勝さんかなと思っていました。
これ見たら気を悪くされるかもしれませんけど・・・。
でも、正直に書いた方が良いかなと思いまして失礼ではありますが書かせて頂きました。
度重なる無礼をお許し下さいね。できれば、これからもよろしくお願いしますね。
5444:02/04/08 23:43
あのさ…スレの題がなんか。あまり発展しなさそうだ。
もれは発展させたいが…
>>49
あまり突っ込んだこと言えないのだが…
氏康の子供の代って乳母とかおいてたのかな。
家光の場合、家光は春日局に育てられて忠長は御豪の方が
直接育てたから贔屓されがちというのもあると思うのだが。
>>53
月星さんさ、タダの茶々入れに律儀にレスすること無いと思うよ。
57月と星より ◆xQ5494pE :02/04/09 00:14
>>5444番さんへ。
あ、私はあまり気にしてませんよ。北条家の事を書ければいいですから。
色々な人の見方は知りたいと思いますが、
幸いな事に他のスレッドを覗かせて頂ければいいわけなので。
やっぱり、寂しそうに見えますか?
そういえば、以前、『一人では寂しくはないか?』という言葉を頂きましたけど、
う〜ん。そうですね、一人よりは大勢いた方が楽しいですね。
心配してくれてありがとう。
5844:02/04/09 00:16
北条の何を語りたい?
59月と星より ◆xQ5494pE :02/04/09 00:28
>>55 55番さんへ。
ということは、織田家の信長(平手中務丞)と信行(土田御前)の関係と同じですね。
天下泰平の世ではないから徳川家の様にはいかないと思いますが、
政・戦は母が教えるというわけにはいかないものね。
徳川家は大奥の影響も考えないとね。大奥は難しくて・・・。
60月と星より ◆xQ5494pE :02/04/09 00:45
>>56 56番さんへ。
ありがとう。でも茶々かどうか分からないので、
書いた人が誠意を込めている事に気付けないから放っておく事ができないんです。
せっかく見て書いてくれるのですから相手の方も待っていると思いますので。
あ、でも、明らかに分かるものは、嫌ですけどね。
61月と星より ◆xQ5494pE :02/04/09 00:54
>>58 44番の方へ。
そうですね、改めて問われますと考えてしまいますが、
多分、『北条家の良い所も見てね。』かな?
北条家って何だか悪い所だけが目立っていますからね。
そう考えますと皆さんと同じ様な事かな。
6244:02/04/09 01:03
良い所
4公6民
良い所 広く意見を聞く姿勢 (悪い所にもつながるかもしれないですが・・・)

月と星さんの対応、自分は好きですよ。
日本史板のレスが伸びてるのも、その姿勢がよいからだと思ってます。
64月と星より ◆xQ5494pE :02/04/09 01:21
>>62 44番さんへ。
実際のところ良く分かりませんが、
それだけ、領民の事に心を砕いていたという事ですよね。
徳川家康も『北条家の後を治めるのはやりずらい。』と言っていたとかね?
65月と星より ◆xQ5494pE :02/04/09 02:13
>>63 63番さんへ。
ありがとう。多分ですが、どんな事でも良い事や悪い事があると思います。
ただその悪い事は大体は使う人の方に問題があって、
それ自体は別に悪い事をしているわけではないと思うのです。
ハサミはとても便利な物ですが使い方を間違えれば立派な凶器。
意見を聞く事も私自身が気を付ける事ができれば良い事なのかなと思うんです。
そうなれる様にここで勉強している事が目的でコテハンを使っているのかもしれない。
あ、なんからしくない文ですが消さずに残しておこう〜と。
がっかりさせない様に、頑張りますね。
>>60
明らかに板の流れと違う意味のないスレは殆ど煽り。
大体その手のスレは放置されたところで
相手は痛くも痒くもないから大丈夫(w
そういうのに丁寧に反応する姿はピュアで初々しいけど度を超すと
ウザイので(失礼)適当に取捨選択して流すことも大切と思われ。
強制はしないけど頭の隅にでも入れてといて。

因みにこれも激しくスレ違いにつきレスは不要。
既に俺も十分ウザイ奴なのでこれ以上はやめとく。
みんなスレ汚しスマソ。
67外郎屋:02/04/09 18:14
正体は誰でもいいじゃないですか。

>>50
その通りで、良真の母は福島(くしま)氏です。
御存知だと思いますが、この一門の福島正成の息子が北条綱成にあたります
(北条綱成が北条家に保護されたのは花倉の乱の12年位前、このときの福島家の当主は
誰かはわからず)。

>>55
戦国時代に大奥という制度はなかったので、乳母親や後見がそれに当たるのかな。
北条家の場合側室がいても1か2人だからそういう争いも少なそうが気がします
(側室自体が本妻娶る前や後が多そうだし、重なってないような気がする)。
後見役に関しては、氏政当たりだと江戸を隠居地(領?)にして岩槻(氏房領)、佐倉(直重領)
を後見して指図してるので、当主自ら行っていると考えていいような気がします。
68月と星より ◆xQ5494pE :02/04/10 02:55
>>66 66番さんへ。
ありがとう。
>>67 外郎屋さんへ。
北条家の事は他家と比べてみますと、
見えない部分が多いのですが、仕方の無い事ですね。

あと、独り言です。大変な事になっているようですが、
力になれるのでしたら何か言ってくださいね。
基本的に争い事は好きではないので、無事に解決できれば一番なのですが・・・。
69外郎屋:02/04/10 18:52
>>69
感謝。感謝。
2CHの怖さがあれですよ。
あーなったら嵐が去るまで関わらないのが一番(悔しいけど・・・)。
今日は御礼まで。
>>68-69
なまじ目立つとああなるやね。
特に三戦板は日本史板に比べると厨房含有濃度高そうだし。
月星さんも書き込み独特なので気を付けた方がいいよ。

ところでスレ違い恐縮ですが福島つながりで便乗質問。
花倉の乱に荷担した福島某と地黄八幡の父親は
親戚なのでしょうか?
>>70
>67で外郎屋さんが一門と仰ってますよ。
>>71
あ、ほんとだ。俺の目は節穴か…(鬱
73月と星より ◆xQ5494pE :02/04/11 02:34
無事に解決とはいきませんでしたか・・・。

そうですね、ここでは北条家の事を中心に書かせて頂いていますから、
さらに、独特な世界に見えますよね。
北条家が好きな方もそうではない方も共に気を悪くされない様、注意していきますね。
74月と星より ◆xQ5494pE :02/04/11 03:11
ところで、北条家って一族同士で争う事はありませんでしたが、
外交ではあまり恵まれてはいない様に見えますよね。
1537年の今川義元の外交転換。
1568年の武田信玄の駿河侵攻。
1571年の越相同盟の破棄。
1578年の御館の乱による甲相同盟の破綻。
そして、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に対しても、
都合よく利用されている所がありますよね。
また、北関東の諸勢力達は外交を上手に使って生き残る事ができました。
外交の方に注目してほしいですよね。
75外郎屋:02/04/11 18:08
>>74
北条家の外交は事が起こる前でなく起こってからとイメージがつよいですね。
あとは月星さんの一覧を見て思ったのですが、血縁関連が関わってると判断
が鈍くなってるような。
今川家は北川殿と早雲で血縁関係。北条家が独立しても有効関係はありましたから。
寿桂尼当たりの(北川殿に反発する)意思が反映したのかも。
後は言わずもがなだけど。対豊臣戦に対する徳川家に対してもそうですね。
76外郎屋:02/04/11 18:09
いつもレス返すばかりなのでたまに問題提起。
月星さんは天正2年の関宿城の開城をどう考えていますか?
北条家の関東制覇を考える場合重要な気がします。

関東を治める権威を語るときに関東管領職ばからもてはやされますが、もうひとつに
鎌倉公方の流れ(堀越、小弓、古河公方)があります。
関東管領職がその名の通り幕府といった組織から与えられる職であるなら、鎌倉公方は
関東を治めるためにある血の流れです。
北条家はその公方家とも戦ってきました。縁戚になったり幽閉したりして吸収していきますが
公方家の権威はなかなかなくなりません。
その原因が古河公方の相判衆簗田晴助が治める関宿城です。
その関宿を開城することによって公方権力は解体します(足利幕府の滅亡も同時期)。
それまでの関東の戦は北条家対公方派だった(上杉や里見の介入もこれ関連)のがそれ以降
北条家対その他の家になってきた気がするのです。謙信もそれ以降北条家と大きな対陣もないし
里見とは房相一和に至ります。北関東連合(佐竹・結城・宇都宮)にしても最初は個々と北条家
と戦って後に連合ということを考えると何らかの混乱があったような気がします。
個人的にはこれをもって関東が中世から近世へ足を一歩踏み入れたと考えてるのですが。
(なんか言葉足らずな気がしますが・・・。わかっていただけますか?)
77月と星より ◆xQ5494pE :02/04/12 00:54
>>75 外郎屋さんへ。
ははは、本当にそうですよね。
私は北条家の事になると、どうも駄目みたいなんですよ。
北条家の事が好きですから、心に隙が生まれ正常な判断ができなくなるようです。
嫌ですよね、もう少し冷静にならないと。
それから、本当に書きたかった事は同盟の事なんです。
北条家も考えての末の外交と思いますが、
歴史の答えは北条家に良い結果は出ていません。
1554年の善徳寺会盟は関東の勢力拡大には役立ちましたし、
西の安定を生み出していますから有効のものもあります。
ただ、武田家には振り回されている様な気がします。
氏康が娘のために意地を張り信玄と対決。(それほど単純な話ではないですが。)
氏政も黄梅院のために(?)武田家と同盟を結ぶ。(あ、冷静さが・・・。)
けれども勝頼は上杉家と同盟を結んでしまう。(北条家側から見ますと謎?)
こんな所も好きな所なんですけどね。   長くなりましたから切りますね。
78月と星より ◆xQ5494pE :02/04/12 01:32
今気が付きました。もう、良いのですね。よかったです。これからも頑張ってくださいね。
あ、独り言なので気にしないでね。それでは。
79月と星より ◆xQ5494pE :02/04/12 03:09
>>76 外郎屋さんへ。
真面目に行きます。私も1574年の関宿城開城は時の流れの分岐点と考えています。
政治的にも軍事的にも重要な城であり旧体制勢力の最後の拠点と認識しています。
ただ、そうは言いましても、もはや風前の灯。
戦力的には勝負にはならないでしょうね。
頼みの上杉謙信は、上杉家側で考えましても上野までが勢力範囲。
この時は由良成繁、北条氏政と戦い終えて帰国した直後ですから援軍間に合いません。
結果はご存知の通り。
ここで一言、1568年の関宿包囲戦で決着が付いていたはずなのですが、
武田信玄の駿河侵攻と上杉謙信との越相同盟で失敗。あらら。
それはさておきまして、この後の関東の情勢は一変します。
武田勝頼は1575年に長篠合戦で敗退。岩村城開城。
駿河にて徳川家康と交戦幾度。
上杉謙信は1576年から能登に進撃。
1577年には七尾城攻略。手取川合戦の勝利。
1578年、死去。
佐竹家、里見家については、
1576〜77年相次いで北条家との合戦。
高道祖原合戦、三崎沖海戦、三船台対陣、鬼怒川対陣。
関東の諸勢力は強力な戦国大名の後押しを得る事ができないために、
一致団結していくのですね。(結城家は1577年北条家の軍門に下りますけれど。)
色々な要因が絡み合いながら時代の転換をしていますが、
北条家にとってはまさに好機であるはずでした。
1578年に起きてしまう御館の乱と甲越同盟までは。

簡単にまとめますね。『意見、おなじですよ〜。』
こういう話、良いですよね〜。(私、ご機嫌です。)(^−^)
割り込みごめん
ちょいと質問
なぜ北条氏は小田原に固執するのでしょう
この時期以降、北条氏の勢力圏は関東地方を北へ東へと広げていってます
最盛期には関東一円を覆うような勢力圏を築きながら、本拠地は関東の南西の角
小田原から動いていません
江戸辺りへの進出は無理でしょうか
その方が領国経営はしやすかったと思うのですが
どう思われますか
81月と星より ◆xQ5494pE :02/04/12 04:39
>>80 80番さんへ。
それまでの北条家の事を考えますと、
興国寺城、韮山城、小田原城と移転を繰り返していますし、
その土地に固執しなければいけない様なお家の事情というものも無いと思います。
1546年の河越夜戦以降、武蔵の平定に成功し、平井城も陥落。
上田家、成田家、大石家、藤田家、太田家と北条家の傘下に組み込み、
まさに拠点を移しても良い時と思います。
ただ問題もありました。
1、場所が無い。よく『江戸城がある。』と言われてしまいますが、
 当時の北条家の国力では、徳川家と同じ江戸城を作る事はできません。
 当時の江戸は、小山が多く壮大な城塞都市を作るための
 大規模な土木工事をすることが不可能でした。
2、長尾景虎の存在。ご存知の通り、ほとんど天災の様な関東出兵に対して、
 自分から手を出す事に躊躇してしまっているかなと思われます。
 また、今だ安定しない武蔵という土地柄、太田資正の離反も考慮します。
3、小田原城を捨ててまでそんな場所に行く事に価値があるのか?
 小田原は政治的、文化的、経済的、軍事的に要衝の地。(関東圏内において。)
 そんなに急がなくてもという意識が働いたのかもしれません。
他にもあると思いますが、限が無くなりますのでこれで切ります。
ただ、それでも武蔵に居城を築く事ができれば安定と繁栄を勝ち得たと思いますね。
そして、より早く里見家や佐竹家を傘下に組み込むか滅ぼすかはできていたでしょうね。
ちなみに、1574年以降は西の事も考えないといけないので、
氏政は小田原城ですが、氏照が関東全域に展開という事になるのですね。
82外郎屋:02/04/12 18:33
>>77
北条家は基本的には西側を同盟国にしておくのが基本政策だと思います。
桶狭間の戦いの外交バランスが崩れた後如何に西側を安定させるかで苦しんでるように見えます。
今川崩壊に関しては氏直を今川の養子にすることで駿河の国(実際は富士川以東でしょうが)を図り、
それが失敗すると武田と同盟を図ります。御館の乱は置いといて、織田(三島大社への願文)、徳川
なども同じですよね。
徳川は小田原合戦に関しては苦渋の決断でしょうね。三島での両家の対面は後で歴史を書き換えたに
せよ徳川の反豊臣の姿勢だろうし。小田原合戦にしても北条と裏があるような・・・(他家に比べて合戦が)。
秀吉も信じてないような・・・。小田原の陣の対陣図を見てください。織田信雄と家康の陣・・・なにか意味深
に見えませんか。これは本筋でないのでまたの機会に。
本筋に戻って・・・。
武田家にして見ればまた北条家に振り回されてるという見方も。今川崩壊の際富士川以東を割譲する
と言ってるのにとか、御館の乱の際北条家はなにがしたいんだ?という状況。
同盟といってもお互い得をするばかりじゃないので、そういう意味じゃお互い様ってとこですね。
83外郎屋:02/04/12 18:34
>>79
同意を得られて感謝です。
信長の義昭追放と同じレベルだと思うのですけどね。
北条家は織田→豊臣→徳川とは別の流れの近世を作れた可能性があったと思うのですよね、
文武共に。ただ急激じゃないので、中世から近世に先に到達した豊臣家に負けてしまったのですが、
またこれも北条家のおもしろい一面ですが。

>>80
江戸城の件(>>81)に同意ですが、ちょっとフォロー。
前にも書いたけど氏政は江戸を隠居領にして岩槻、佐倉、関宿あたりの水運を絡めた
開発をしていたようです。そういう意味だと本城移動はなくても八王子、鉢形クラスの
拠点にはなる可能性を秘めていたと思います。
関宿城開城後、岩槻(太田→氏房)、佐倉(千葉→直重)、関東の名家の取り込みと房相一和で
やっと武蔵が安定して拠点作りを始めたところかも。
それでも武蔵は北条家の完全統治じゃないですから(成田家は独自の軍政使用)。
江戸の町の発展の為には日比谷入り江の扱いがかなりの問題になる気がします。
徳川家でも20年かけたのですよ。そう気楽に開発はできないですね。
>>81,83
どうもです、歴板の方で北条のときにでも(二人とも北条ヲタの香りがする)
話を向けようかと思っていたのですが、しばらくは北条までたどり着けそうに
ないのでこちらで話を向けました―藤原三位卿―

江戸の開発が厳しいのは理解できます
関が原のときでさえ掻揚土手に板塀が有る無し、城下は湿地帯の中に数箇所の
丘陵があるだけという記述があるようですし
ただ、後北条氏は小田原が父祖伝来の一所懸命の土地と言うわけではなく
他の大名勢力に比べて比較的本拠地を移転しやすいという特性があると思います
初代、早雲の代は三浦氏を追って富士川以西より伊豆、相模の国を手中にし、
小田原はその中心に位置し本拠地としては最適と思います
二代目氏綱以降のビジョンは一貫して、富士川以西は外交による安定を求め、
勢力伸長方向は坂東の地に求めています
例えは変かもしれないですが、坂東平野というリングのそれぞれのコーナーに
古河公方足利氏、関東管領四職上杉氏と扇谷上杉氏がいて、
それらのネームバリューに比肩し得る北条という名前をを持ち出して最後の
四つ目のコーナーに名乗りを上げています
そして三代目、氏康の代にはほぼ勝者の地位を決定付けているにもかかわらず
リングの中央、江戸には出ずに小田原のコーナーにとどまったままです
その後もどんどん坂東一円に勢力を伸ばしていますが、、この状態になると
甲斐武田氏が玉縄の方へ進出してくると小田原と武蔵野国以東が分断される
危険性が高くなります
坂東を勢力の基盤とする方針なら、早い段階でリングの中央、江戸への進出を
図るべきで(当然、伊豆、相模方面の危険性は増大する)、
あくまでも小田原が勢力の中心と考えるなら駿河、甲斐への進出も考えてしかる
べきではないかと思い、なんとなく中途半端な印象を免れません
(この辺りの事情に詳しくないので断言できませんが、駿河への進出のチャンス
は何度となく訪れているような気がします)

上にも書いていますが、後北条氏の場合は他の大名や勢力に比べ、本拠地を移転
しやすいと言う特性があると思うのですが、そのメリットを生かしきれずに、
「小田原に生まれ、小田原に育ち、小田原で滅ぶ」という他の多くの大名、勢力
と同じ運命をたどっているのが惜しまれます
>>84に続く
自分で読み返してみてもちょっと悲惨な文書ですが、お許しあれ

歴史のIFは禁物ですが、後北条氏を考えると少々無理をしても関東進出を早く
果たしていれば、という思いにとらわれます
北条ヲタじゃないので細かい勢力関係、同盟関係等がよくわからないのでかなり
独りよがりに成っているでしょうが

駿河、甲斐への進出は同盟、盟約に硬い北条氏のイメージが壊れるのでいやです
86北条直重 ◆AE94JkIU :02/04/13 02:25
>>84
藤原三位卿さん。
間違いなく北条オタではありますが…他にも幾つか…(歴版での反応を見ればわかりますね(笑))
氏綱が伊勢家から北条家と改姓した時点で伊豆・相模を拠点にする必要になったのだと思います。
関東で地盤を持たない北条家ですから地盤を安定するために時間を要します。
相模が大森・三浦家の二家に対して武蔵は大石・藤田・上田・成田・太田等多数の小大名が
存在しています。氏康の時代に武蔵の拠点を抑えたにせよ、まだ政権は不安定。
実際に安定したのは天正期に入ってからでしょう。(>>83 参照)
関東公方の領地は関八州に甲斐・伊豆と言われてますから。甲斐に進出したかったと思います
(今川家の福島正成の甲斐進行などは氏綱辺りの入れ知恵の可能性はありますね)。
ただ武田家の存在あるとなかなか。
駿河に関しては今川家とは縁者でそこから独立した身だから、関東での名声を考えたときに
積極的には攻め取る意思は見えません。今川崩壊の際のチャンスはありましたが、小田原からの
援軍を考えたとき関東と駿河で同じ距離での対応に差が見られるようなので、箱根の険が行動の
邪魔していますね。
ただ甲斐にしろ駿河にしろ余力があったら取りたかったという感じがします。
87外郎屋:02/04/13 02:31
>>86
あっ、若。代筆かたじけない。
88月と星より ◆xQ5494pE :02/04/13 03:39
遅くなってしまいまして御免なさい。
実はマウスの調子が悪く(ひょっとしたら壊れているのかも・・・。)、
タブレットのペンがマウス代わりになっているために、
思うように動けません。ドラクエの方も今日は一回しかいけませんでした。
北条家の事については日を改めて書かせて頂きたいと思いますので、
今日の所はこれで失礼させて頂きますね。

外郎屋さん、藤原三位卿さん(よくここが分かりましたね。すご〜い。)、
また今度、お願いしますね。
北条直重さん、はじめまして。
この前は力になれなくて御免なさい。またこれからも、頑張ってくださいね。
89藤原三位卿:02/04/14 00:28
>>86
さっそくありがとう
やはりフランチャイズ移転は時間的に無理ですか
そうですね、なんだか残念ですけど、可能ならやってますね
これができるのは「天下布武」の織田信長だけみたいですね
名古屋、清洲、岐阜、安土と次々と本拠地を変えて、やっていける信長は
やはり天才ですね

>>88
三戦板を紹介したのは私ですよ
ちなみに「東芝」以前からの数少ない2ch住人です
90月と星より ◆xQ5494pE :02/04/14 03:10
今日もマウスの調子が悪くて、タブレットのペンを代用していますが、
慣れてきているみたいで、調子よく使っています。
昨日は失礼致しました。

外郎屋さんへ。
北条家の基本外交は『西の和約』と『東の平定』ですよね。

小田原合戦の陣の配置図、私も同感ですよ〜。
付け加えるなら、小田原城北面の蒲生氏郷と羽柴家一門衆(宇喜多秀家も含む。)、
彼らの陣の配置も何か理由があるような・・・?
徳川家康の件も同感です。
家康にとっては秀吉へ対抗する切り札を自ら捨てる訳ですからね。

あと、私も北条家のオタと思いますが、
もし、北条家があそこで滅ぼされていなければ、
多分ここまで好きにはならないと思います。
戦国時代の開幕が伊勢新九郎から始まり(梟雄)、
天下統一の終幕がその血を継ぐ者なんて(敵役)、
ドラマチックで歴史の面白さ発見です。

江戸城遷都論(?)賛成ですよ〜。壮大なお城は私の夢ですから。ははは。
91月と星より ◆xQ5494pE :02/04/14 04:05
藤原三位卿さんへ。
え〜、とても良い文章ですよ〜。
『小田原に生まれ、小田原に育ち、小田原で滅ぶ。』
結構、気に入っているんですけどね。

上杉謙信の死は北条家にとって発展に繋がるはずでしたが、
武田勝頼と上杉景勝のまさかの同盟は北条家の基本外交が崩れた瞬間であり、
全力を出して関東平定ができなかった分岐点と思いますよ。
関東平定ができれば江戸城遷都(?)も現実味を帯びてきますけどね。
でも、壮大なお城は難しいと思います。ははは。

私も盟約に硬い北条家のイメージを持っている人ですから、
武田信玄の駿河侵攻の時は今川家の存続を本気で考えていたと思いますよ。
『西の和約』のためにもね。
氏康が信玄と同じ1573年に死去していたら、
やはり戦い続けているのかなと思いますね。

織田信長の利点。
1、本格的な築城は安土城だけで、あとのお城は小規模、敵城奪取。
2、上杉謙信(天災)みたいな人がいなかった事。一向一揆はありましたけどね。
3、経済力の違い。(関東は関東地方独自の経済圏。箱根の山は天下の嶮。)
4、土木技術の違い?(関東地方は石垣を持つお城は少ないみたいなの。)
その他、もろもろ。
92月と星より ◆xQ5494pE :02/04/14 04:20
追伸。『東芝』・・・?
インターネット歴もうすぐ一カ月(3月15日から始めています。)の、
私には古文書のお言葉なみの謎?
『2チャンネルにも歴史あり。』という事ですね。
93月と星より ◆xQ5494pE :02/04/14 04:43
北条直重さんへ。
昨日は本当に失礼致しました。
私も北条家の名を汚さない様に精進していきますので、
もしよろしかったらこれからもよろしくお願いしますね。
94外郎屋:02/04/14 15:44
藤原三位卿(>>89)。
若(>>86)にちょっとだけフォロー。
小田原の本城があれだけ巨大になると次の城は更に巨大になる必要があるとすると所役を考えると
政権の安定期間じゃないと難しいですね(八王子城の築城も比較的安定していた時期ですね)。小田原
の城下町を移転することもそうですね。
後はその巨大な城を誰に任すか? 下手すると本城以上の支城になってしまう。そこも問題ですね。

信長との比較なら相模・武蔵と尾張・美濃の地形(河川)を考慮の必要があるかもしれません。
小田原と江戸の間の巨大河川は馬入川、多摩川等がありますが河川流域が洪水になっても河川間に
距離があるので本城と最前線の支城の連絡に負担がかからないのに比べ、濃尾三川と言われる
木曽・長良・揖斐川は河川間の距離も近いので一度洪水になると本城と最前線の支城の連絡に
支障が生じることも関係あるでしょう。
北条家の方はそれをフォローするためにも本城クラスの支城があるのに、織田はそういった支城が
城がすくない気がします(近江はもともと影響力がないから有力家臣の支城を配置してるけど、美濃・
尾張間の支城網はあまり話題になりませんね)。
95外郎屋:02/04/14 15:45
月星さん(>>91)。
信長の利点についてフォロー。
関東地方に石垣造りの城郭の少ない理由について。
関東には石に神様がやどる信仰(依代信仰)が強く、石を細工したりするのが禁忌とされてました
(香取・鹿島神社の要石みたいなものの一種)。
だから土木技術の差とういうのはちょっと違うと思う。
ついでに、氏照が安土城に触発されて八王子城が石垣を採用しています。これが中世関東での唯一の
石垣使用の城郭(あれっ? 佐野城はどうだっけ? 手持ち資料なしの記憶だけがたよりな故、多少
間違いは勘弁して下さい)。
もし江戸城が拠点化(もしくは本城化)した場合は間違いなく石垣造りだったと考えてしまいますね。

若(>>93)に関してはローカルルール(議論スレでのなりきりコテハン禁止)に反しております。
当方がいそがしかった故(若も)、若が善意で(混乱して)書かれたものでしょう。
96藤原三位卿:02/04/15 02:08
>>91-95
いろいろありがとう
地形とか石垣の話とかはやはり、というかさすがに詳しいですね
こちらの方はただ地図を見て??と思うくらいですから細かい事情みたいなのが
判りません
織田信長については、若干認識が違っているようです
最近、久しぶりに「信長の野望」をしてて認識が変わってしまいました(藁

北条家に関しては、知識が決定的に不足していたと言うことも有りますが
国力を過大に評価していたのかも
それと、北条家の場合初代伊勢新九郎の徒手空拳から始まった基手いらずですし
関東の権威である関東管領職は長尾家に持っていかれてしまったので、信長張り
の「天下布武」とまでは行かなくても、「関東布武」くらいは行けたかなという
思いから、江戸遷都の件が頭に浮かびました
97月と星より ◆xQ5494pE :02/04/15 17:56
>>95 外郎屋さんへ。
へ〜。石の神様。これは盲点ですね。そういう考えは好きですよ。
(宗教はあまり・・・ですが、自然信仰は好きなんですよ。)

ところで、ローカルルールって?私、間違えているのでしょうか?
98月と星より ◆xQ5494pE :02/04/15 18:12
あと、佐野城はよく分かりませんが、
唐沢山城の事でしたら四ツ目堀の橋の写真を見ますと石垣みたいな物はあります。
群馬県のお城はよく見に行きましたが、
栃木県のお城は行っていませんので、城全体の事は怪しいです。

いつも色々教えて頂きまして有難う御座いますね。とても勉強になります。
99月と星より ◆xQ5494pE :02/04/15 18:21
唐沢山城は1602年まで佐野家のお城として使われていますから、
1590年時の状況とはちょっと違うと思いますけれど。
12年間もありましたら改修できますものね。
100月と星より ◆xQ5494pE :02/04/15 18:47
>>96 藤原三位卿さんへ。
私も同じですよ。地図を見て北条家ならどう考えるのかな?
佐竹家ならどう考えるのかな?建築家とかでしたら見る目も違うのでしょうけど。
あと、『関東布武』そんなに無理な話という訳でもないと思いますよ。
佐竹家と里見家、この2家をどうにかすることができていましたらですが・・・。
歴史の結果が出ている以上、書いても仕方の無い事と思いますが、
あえて書かせて頂ければ・・・(長文のため省略)。
北条家オタの戯言ですから気にしないで下さいね〜。
101外郎屋:02/04/15 19:01
>>97
ローカルルールの件はなりきりコテハンだから月星さんは大丈夫でしょう。
例えばこのスレに氏康(のなりきりコテハン)が「北条家は関八州を統一する」
などと言ったらオイオイと思うじゃないですか。そういうことです。

>>98
佐野城ではなくて唐沢山城でした。唐沢山城=佐野氏の本城のイメージだった
ので間違えたようです。
102月と星より ◆xQ5494pE :02/04/15 19:15
>>101 外郎屋さんへ。
了解いたしました。
確かに、宣言されても『頑張って下さい。』としか書けませんね。(くす。)
唐沢山城の件。ところで、後から石垣に替える事は技術的に可能なの?
103外郎:02/04/15 20:02
どうなのだろう? 難しいとこですね。
小田原城は天主が石垣に立て替えられてますよね。
一方岩槻や川越は石垣の使用されてませんね。
小田原城のようなやり方ならできると思いますが天主の下を
石垣にというのは、難しい気がしますね。
もし唐沢山城のお堀や土塁が残っていて石垣作りじゃなかったら、
石垣に立て替えられたって言えるのだけど。
でも佐野氏の先祖は俵藤太(藤原秀郷)ですよね。
瀬田の橋の百足伝説は知ってます?
この伝説絡みで百足は鉱脈とかを指しており、それを退治した
藤太は石工や採掘士と何らかの関わりを持っていたと考えられています。
すると佐野氏自体が石に対する禁忌が少ないのかもしれません。
中世関東の石垣造りのお城は八王子城と唐沢山城になるかもしれませんね
(ちょいとこれは宿題かな・・・)。
104外郎屋:02/04/15 20:03
>>103当方の発言です。
(上げてしまった・・・)
105無名武将@お腹せっぷく:02/04/15 20:37
なんか・・1からずっと読みましたが、すごくいいスレですね。
皆さんのお互いを尊敬し合った態度が素晴らしい。
ジブンは2chが往々にして理由もなく罵詈雑言の嵐になるのに辟易しているので
ちょっと感動してしまいました。

ところで、外郎屋さま

>北条家は織田→豊臣→徳川とは別の流れの近世を作れた可能性があったと思うのですよね、
>文武共に。ただ急激じゃないので、中世から近世に先に到達した豊臣家に負けてしまったのですが、

この「近世の可能性」の内容はどのようなものたり得たか、お考えを是非
伺ってみたいです。関東はヨーロッパからの思想的影響も畿内とはよほど
少ないし、一向一揆みたいな異質な政治勢力の実力も足りないし、その
「近世」はどのようなものか、うまく考えられませんでした。
でもとても興味深いので、想像力の翼を少し広げてみてここで
開陳していただけませんか?
106月と星より ◆xQ5494pE :02/04/15 20:38
>>103 外郎屋さんへ。
今年のお正月ですが友達と一緒に京都へ行く途中に、
瀬田の唐橋を見てきました。
それくらいでして、伝説・神話の事は名前しか分かりません。
私にも分かるように書いて頂きまして有難う御座います。
今、唐沢山城を調べてみました。
『本丸、二の丸、三の丸、郭、空堀、石塁、石垣、井戸がある。
石垣は近世初頭に改修されたと推定される。』と書いてありました。
107外郎屋:02/04/16 18:16
>>106
月星さん。情報どうもです。
石垣は近世初頭に改修・・・あいまいな表現ですね
唐沢山城が載っているHPを見たけど(写真が少ない!!)石垣の作りは近世らしくないような・・・?
やはり分からないです・・・。

>>105
105番さん。
そんな大層なことではないのですよ。
ただ日本列島が一つに国家に統一されるのが当然という考え方が当たり前だと思っていません。
なので、日本の小国分立って可能性もあったと考える訳です。
そう考えると北条家かなと。
細かい点なら、指摘してるとおり畿内政権に対してもともと独立意識を持っている土地柄だし。
(関東から見たら畿内は、元々畿内とは別の国→太古に畿内政権に服従(将門の乱等)→
鎌倉幕府で機内を支配→建武の親政(畿内に支配)→室町幕府を開く(関東者が畿内を支配)→
室町幕府VS関東公方(畿内に帰化した者が関東を支配しようとする)というように見てた気がします)
北条家自体が配下に対して転封を命じられる位の権力を有していたり、大磯で大砲や鉄砲を
独自に作っていたり、明国との貿易もあり、当主でなく家に権威(大途だっけ?)を持たしたり。
色々あるのですが全体をまとめると・・・。
ちょっと考えがまとまらないので時間を下さい・・・なんとか形にしてみます。
108105:02/04/16 21:17
なるほど・・大磯の話は初めて聞きました・・
面白いですね。長曽我部氏も割に四国世界みたいな意識を持っていたようですし。

>ちょっと考えがまとまらないので時間を下さい・・・なんとか形にしてみます。

お時間がある時に、またお聞かせ願えれば幸甚です
109月と星より ◆xQ5494pE :02/04/16 23:49
>>107 外郎屋さんへ。
あいまいな表現で許してね。
ところで、『近世らしい石垣』とは、
姫路城や江戸城みたいなきれいな石垣の事なのでしょうか?
考えてみると石垣の作り方って、色々ありますよね。
お金持ちか貧乏人かの違いかなと思っていました。あと、美的センスとか。
あと、鉄砲の事、独自に作られている事は漠然と知っていたのですが、
大磯で作られていたんですか?しかも大砲まで?
私も知りたいと思うのですが、大磯に何かそれらしき場所はあります?

>>105 105番さんへ。
これからも頑張りますので、また見に来て下さいね〜。
110藤原三位卿:02/04/17 01:54
資料もなくあいまいな話でごめん
近世城郭の石垣みたいな大規模な石垣は、技術者集団穴井衆とともに
広がっていくので、この時期には大規模な石垣は中部、近畿地方くらい
にしかなかったと思う
職豊大名、江戸大名たちが穴井衆を連れて全国に展開を始めて細密大規模
な石垣が全国に広まっていったという話を書いてあった本があったですが
処分してしまったらしい
あるのは記憶だけ
111月と星より ◆xQ5494pE :02/04/17 02:08
>>110 藤原三位卿さんへ。
もったいない。でも、頭の中にあるのでしたらいいかも。そういうものですよね。
112月と星より ◆xQ5494pE :02/04/17 04:16
ふと、顧みますと内容が逸れていますよね。『まっいいか。』
という訳にもいきませんので北条家の事に戻ろうかな〜と思います。
注、でも、すぐ大きく逸れてしまいますけれどね。
一族の事で気になる人がいます。北条氏堯です。
この人、平井城や小机城の城主(守将)で、
1555年に安房に出陣したり、
1561年の長尾景虎の第一次小田原包囲には河越城を任されたりの活躍。
外交でも働きの記録が残っているとの事。
氏康兄様からかなり信頼されている様な気がします。
どんな人なのか知っていたら教えてほしい〜。(ランクAの質問)
113外郎屋:02/04/17 20:44
月星さん(>>109)。近世の石垣っぽいっていうのは藤原三位卿(>>110)が
書いてるような石垣です。写真を見た感じでは野積みぽかったので。
鉄砲・大砲の作成の遺跡は残ってないけど北条五代記か関八州古戦録に記載が
あると思います。

氏尭に関しては、毎度言っている通り基本的に記憶とURLでフォローの為、
全体ならともかく、個々の業績になると分からないです。
でも氏尭の尭は里見義尭の尭と関係あるかもしれませんね。義尭は氏綱の
援助のおかげで里見を継ぐことができたわけですから。
114月と星より ◆xQ5494pE :02/04/18 00:48
>>113 外郎屋さんへ。
いつもいつもありがとう。
という事は、浜松城もそうなのでしょうか?
石垣一つでも歴史を語る事ができますね。

大磯の件。有難う御座います。

北条氏堯と里見義堯。考えもしませんでした。
同じ『堯』ですか。う〜ん。どう考えよう〜。
115無名武将@お腹せっぷく:02/04/18 11:58
でも里見義堯の父親は実堯だよ。
116月と星より ◆xQ5494pE :02/04/19 04:48
>>115 115番さんへ。
多分、そう。詳しくは知らないの。

え〜と、また、外交の事になってしまうのですが、
1537年の第一次河東の乱。
1538年の第一次国府台合戦。
それまで友好的な今川家と里見家が相次いで敵対してしまうのは何故かしらね?
戦国時代ですから当たり前の事なのかな?
117藤原三位卿:02/04/19 11:16
>>116
孫子に曰く「遠交近攻の策」、と思いますよ
北条氏の版図が拡大して、遠交が近攻に変わったのでは
脅威とならない程度の勢力には、「参加に組み入れる」または
「支配下に置く」という戦略のようです
北条氏の戦略は、関東エリア外に対しては「善隣外交」、エリア内では
「武力外交」を使い分けているようです
(うーん、なんだか生徒が先生に教えているようで気が引ける)
118月と星より ◆xQ5494pE :02/04/20 01:38
>>117 藤原三位卿さんへ。
私、こういう話が大好きなんです。
私の周りにはこういう話をする人がいないので普段はしませんけど。
里見義堯は分かるんですよ。
北条家にとっても里見家にとっても『そろそろ潮時かな?』という感じでね。
関東の覇権を目指す以上、必然ですものね。
でも、今川家はどうなのかな?
北条家も今川家も争う必要があるのかな?(武田家も関係あるのでしょうね。)
駿東郡が問題なのかな?花倉の乱に何かあるのかな?不思議。
私ですね、ここでは意見を書いてくれる人は皆さん先生と解釈していますから、
意見を書いてくれる人に感謝ですよ〜。
それに別の視点から観察した意見なんてなかなか聞く事ができないから、
それだけでも貴重です。(^−^)
119シンタロウ:02/04/20 02:55
話を戻してしまって恐縮デスが、
「相州文書」に、大磯から鉄砲用の玉として使う大磯土24駄を
小田原まで運ばせ(伝馬を使用)、職人頭の須藤惣左衛門に
渡すよう命じた、とありました。

大筒についても、小田原の鍛冶棟梁などの鋳物師に7日に
一挺ずつ、計20挺造らせてます(「相州文書」)
120藤原三位卿:02/04/20 04:00
>>118
私見ですが
甲相駿三国同盟までの、武田、北条、今川の戦略は
武田は、信濃、木曾方面  北
北条は、関東一円への覇権 西
今川は、三河、尾張方面  東
ということで、くしくも富士山を中心にして戦略指向方向が90度づつ
ずれていて、不可侵ということで利害が一致します
武田、今川両家にとって関東は、古河公方、関東管領職等の旧権威と中小
勢力が入り乱れていて、魅力はあっても投下労力を考えると第一戦略目標
とするところじゃなかったと思われます
三国同盟とその前後の背景はこんなところと思われます

今川家の力が弱まり消滅していくころになると武田家は北にライバル上杉
と境を接し戦略方向を西(上洛)に向けます
武田家の圧力を直接受ける徳川家(織田家を含めて)は遠交近攻で駿河を
はさんだ北条家との関係を深めるような働きかけをする必要に迫られます
上洛を目指す(?)武田家は、後顧の憂いを取り除くために関東に出兵し
て、北条の支配に波風を立てておき北条の目を関東に釘付けしておく必要
があり、北条家との関係も新たな局面になります
三方が原前後の状況はこんなとこでしょうか
信玄死去のあとの武田家は、
北は上杉、西は織田により勢力の拡大を阻まれ、東への進出も北条家に
阻止され完全に閉塞状態になり、長篠に至ります
この期間は新たに、上杉家が加わり相、甲、越の関係になりますが、利害が
一致しないので(武田、上杉の戦略が不安定)同盟と抗争が輻輳します
長篠後は、甲斐武田の勢力が低下し、北条家も関東経営に力を注げますが
武田家の滅亡とともに東進する織田家の圧力が加わるようになります
徳川家は、旧武田の家臣と駿河の国の収容のため、直接の脅威とはなって
いませんし、北条家との同盟を尊重しています

このあたりの情勢に疎いのでおかしな点も多々あると思いますが
北条家の西側の情勢、こんなところでどうでしょう
121月と星より ◆xQ5494pE :02/04/20 04:59
>>119 シンタロウさんへ。
ありがとう。ついでに根来金石斎についても、
もう一回調べて見ようかと思います。
122月と星より ◆xQ5494pE :02/04/20 09:18
>>120 藤原三位卿さんへ。
良いと思いま〜す。
123月と星より ◆xQ5494pE :02/04/21 22:50
北条家で家督争いが起きない理由はだいたい出尽くしたのかな?
最近はテーマの家督争いより違う事が書かれていますけどね。(私的には可。)
振り返ってみますといい事が書かれています。(人の視点は凄い。)
さて今回は伊勢新九郎の事を書きます。(注、主観有り。)
初代の伊勢新九郎自身は妹(北河殿)と弟(弥次郎)がいるとの事ですが、
新九郎が今川家に嫁いだ妹の所へ出かけた事が物語の始まり。
出かけた理由はそれまで仕えていた足利義視の所を辞めたからかな?
この足利義視という人は八代将軍足利義政の弟でしたが、
応仁の乱のため伊勢に逃れていました。(あ、家督争い。)
その一行に新九郎もいたみたい。
何で辞めたのかは知りません。(給料が少なかったのかな?)
それで駿河に行く事になりました。
ま〜妹を頼って行くあたり、昔から血の繋がりを大切にしていたのでしょうね。
あ、これ次回に続けていこ〜と。
124外郎屋:02/04/22 01:21
105番さん(>>105)。北条家の近世の可能性について、なんとか考えがまとまったので
回答します。

これは想像の世界です。突っ込み所は多数あると思いますが、長い目で見てあげて下さい。

前提条件として関東は京・畿内政権とは元々独立していた世界ということです。
今通史では畿内を中心に日本という国家が一つにまとまったとありますが、関東から見た
場合畿内政権に支配(屈服)されたという考えがあると思います。戦国時代までの流れをざっ
とまとめてみると以下の感じになります。
元々畿内とは別の国→畿内政権に服従(将門の乱等)→鎌倉幕府の畿内支配→建武の親政(畿
内に支配される)→室町幕府(関東者による畿内支配)→室町幕府VS関東公方(畿内に帰化した
関東者が関東の支配を画策)→戦国時代
さて北条家の近代化を考えた場合、その国が国である権威が必要になります。
畿内政権では天皇家の承認に基づいた将軍家が日本を治めていました。関東においては鎌
倉公方(および分裂後の堀越・小弓・古河公方)と執権職の上杉家でがそうでした。
北条家はこの関東の権威の壊滅・取り込みを行いこれを成功させます(関宿開城)。幕府(足
利幕府)が存続してたら上杉謙信に継承された関東管領職はやっかいな問題になったでし
ょうが幕府の権威の失墜と実行支配によって謙信死後は深刻な問題にはなってません。
滝川一益(織田政権)が関東管領職を受けてますが、これも関東を支配する北条家に対する
織田政権の窓口と認識していれば問題にはなりません。事実織田政権崩壊後の脆弱さをみ
るとそれが明らかです。
戦国時代の主従関係は江戸時代と比べて緩やかです。家に仕えるよりも個人に仕えていま
す。今川・武田家の崩壊、織田・豊臣も同様です。その中で北条家は当主個人よりも家に
仕えるような意識が感じられます。それは北条家が代々行ってきた当主交替時の後見制度
が上手くいった結果です。
さらにその家へ仕えるといった意識から関東政権を治める北条家へ仕える意識に変える為
に、北条家では大途(ダイト:間違ってたらゴメン、月星さんフォローよろしく)という表
現で配下に書面をだしています。これは北条家の命令というよりは関東政権の命令だととっ
てもいいと考えられます。
補足だと三島暦の使用の指示を出していることを考えても、暦を管轄できることでも一つ
の政権ですね。
歴史の中で北条家は積極的に畿内政権・天皇家とは関わってません。文化面では近衛家(氏
綱の正室の実家)に和歌の添削を依頼したりしてますが…。秀吉の征伐の建前上の名目は
皇室に対する反逆ですね。島津はそこを上手く利用して生き残ったのですから、そこを何
とかすれば良かったのかもしれませんね。逆に考えれば、北条家の独立性の高さが分かる
かもしれませんね。
125外郎屋:02/04/22 01:22
>>124の続きです。

内政面からみた場合、北条家は評定を定期的に行っています。これを大名権力の失墜と見
るか官僚機構への移行と意見が分かれると思いますが、100年の歴史と関東の要地を北条
一門と譜代家臣で占めてるのを考えると後者と考えます。民事の部分では『男寡と女寡の
話』なんていう大岡政談のようなものが北条五代記に載ってるのをみると上手くいってい
たのでしょう。
北条家の住民支配方法は他の戦国大名と違い国人衆を上から支配してさらに領民を支配す
るのではなく、北条家は国人衆の解体を狙ったらしく国人衆に領民が不満があった場合領
民が国人衆を飛び越えて国人衆を支配する領主に不満を訴えることができました。そういっ
た意味では領民に優しかったのかもしれません(そういっても逃民が発生してたりもして
ますが)。
これは関東の独立性に関係あるのですが、関東において畿内経済に依存することなくなっ
てきていました。これにも北条家は一役買っています。島田鍛冶を招いたり、小田原鉢や
小田原釜などもそうですね。鉄砲・大砲に関しては武田との黄瀬川対陣の際に武田は北条
家の鉄砲の数に恐れて決戦に至りませんでしたが、若御子の徳川との対陣に措いては徳川
の鉄砲数に負けています。その時点ではその程度だった数が8年後の小田原合戦では豊臣
側と鉄砲合戦ができる程の数に達しています。これを自領で作れる経済力・技術力はもう
少し認められても良いかもしれません。
北条家は後半、明との貿易を行っています。これは堺や大湊(伊勢)経由ではなく、直接小
田原に来てのものです。博多・堺ではなく小田原までの航路を考えた場合、その航海に対
しての需要があったのでしょう。実際小田原に明の住民が移住したらしく、唐人町という
地名が残っています。
文化の面では京の文化を積極的に取り込んで、関東の文化の融合を図っていると思います。
それは氏綱が近衛家経由で絵巻物を依頼したり、和歌の宗祇も小田原を訪ねていますし、
氏政は和歌の添削を近衛家に依頼したり、山上宗二経由の茶の湯もそうですね。
和歌などは関東の文化にどう融合したかは分からないのですが、茶の湯は小田原天明など
とよばれる独自のものに消化されてますね。絵画の面でも京が狩野派に見る多色の世界に
対して水墨画の世界が主のようです(ここは主観です。間違ってるかも)。
そんな面からも北条家の後半では独自の文化の発祥が見える気がします。
最後に北条家の宗教政策です。北条家の宗教に対する考え方は他の大名に比べて明らかに
近代的な気がします。
あくまでも施政のための延長上にあります。鶴岡八幡宮、寒川大社等の造営は自らの権威
付けの為ですし、三島大社等の祈願は現代人と同様のものでしょう。関東は他にも氷川神
社や香取・鹿島神宮、日光などが多くあり、どれか一つに依存することができなかったこ
とも関係あるのでしょう。一向宗に対しても名目上は禁止だったようですが、それほど厳
しくなかったようです。あくまでも権威の補強程度だったのでしょう。

物凄く長文になってしまいましたが、北条家の近世化の息吹を感じられたでしょうか。
いつもどおりうろ覚えのため間違いだらけでしょうが、気付いたらフォローするというこ
とで許して下さい。
ちょっとでも北条家の近世化の息吹が感じて頂けたら幸いです。
126外郎屋:02/04/22 01:23
お久しぶりです。
宿題が一応片付きました(>>124-125)。


>>115
北条氏尭の尭が里見義尭から貰ったのではということ。
氏綱時代の川越攻めには里見義尭が援軍(北条側にね)にきてるらしい。

>>116
今川家は寿桂尼の影響があるかも。
北条家は表向きは義元の協力してるけど、今川家の武田侵攻(福島正成ね)からも福島家
にもパイプを持ってますね。
あと北条家は堀越(遠江今川:了俊の家系)ともパイプを持ってるから、今川家の遠江支
配に不安を持っていたのかも。
里見家に関してはやはり小弓公方の勢力強化による屈服ですね。第一次に関しては小弓
公方の方が積極的だし。あとは里見家が安房に零落した理由が結城合戦敗北後だから、
心情的にも傾いたのでしょう。

127外郎屋:02/04/22 01:26
今日はこれで勘弁。
>>123に対する意見は後日以降に書き込みます。
128外郎屋:02/04/22 18:35
>>123
この時期はまだ応仁の乱が関係してます。
義忠が遠江の斯波氏の対抗上東軍に付いて横地・勝間田の国人衆を征伐後に残
党の一揆に命を奪われます。
で今川家としては東軍の戦況報告と旧領安堵・家督相続を願い出る形で足利家
に依頼をしたのでしょう。
多分最初は縁者で在るが故に上司(義視)に依頼されて仲介したあとに、
氏親が家督を継いだときに義視に暇を願い出たのでしょう。
(史料を見ると氏親元服後に一回京都に戻っているらしいです)

だめだ。なんか昨日の知恵熱がでたような・・・。結局は血縁可愛さっていう点
では同意です。あとは畿内で活動するより、自分の力が発揮できると思ったの
でしょう。

ちょっと家督争いの話に戻るけど、何故北条家は養子に出した子が最終的に
北条の姓に戻っているのだろう(戻らなかったのは葛山氏広くらい)?
毛利は小早川・吉川はもう別姓ですよね。大石や藤田も関東では名家なのに・・・。
確かにその家に取り込まれる危険もあると思うけど、その姓がなくなるという
ことは配下の小豪族にとっては一大事ですよね(反乱の可能性もあり)。
その両方のリスクを比較して北条姓に戻す理由はなんだったのでしょうね?
129無名武将@お腹せっぷく:02/04/22 22:31
結局
北条家の家系そのものが温厚で篤実でのんびり屋が
多かったのでは?
130藤原三位卿:02/04/22 23:26
>>129
そうとは言い切れない
関東の外から見るとそう見える(堅実な外交等)
関東の中で見るとまったく別人(他を圧する権謀術策)
小田原城の中を見ると温厚な人(民主的?合議制)
実態やいかに、という感じ
131105:02/04/23 01:08
外郎屋さま

私の質問に対し長文のご丁寧なお答え、本当に感謝します。
私などが知らなかった事実も多く、大変勉強になります。
「徳川でない近世」の可能性はいろいろあったと思うのですが、
北条氏のそれはとても面白く思いました。
ちょっと自分でも考えてみます。またそのとき改めてお礼を。
132月と星より ◆xQ5494pE :02/04/23 01:16
御免なさい。
今日、ここの書き込みはできないかもしれません。
遅くなっても何とかしようと思います。
みなさん書く事が早いですね。
133無名武将@お腹せっぷく:02/04/23 01:26
>>130
129です、マジレスありがとうございます。
134月と星より ◆xQ5494pE :02/04/24 06:16
>>124 >>125 >>126 >>127 >>128 外郎屋さんへ。
『すご〜い。』一言で片付けてしまいまして御免なさい。
でも、思いつく言葉が見つかりません。
1『大途』の事は私、知らないの。ごめんね。
2評定については良いものと考えています。
 ただ、『小田原評定』という言葉が生まれてしまって残念ですが。
 北条家って、良いものに頼りすぎていますよね。
 評定も小田原城も同盟も、
 それが一番良いから答えは一つみたいな所がありますね。
3北条家だから近代化を目指せたのかなと思います。
 羽柴秀吉が平定した長曾我部家や島津家や伊達家、
 また、親羽柴大名の毛利家や上杉家があります。
 秀吉はこれらの大名に寛大な態度で接しています。
 それに比べて徳川家と北条家にはかなり冷たい態度で臨んでいます。
 その理由は私的に考えますと、
 秀吉がそれだけ脅威な存在と考えていたからかなと思います。
 脅威=近代化かどうかはさておきましても、
 大きな存在である事には代わりは無いですよね。

126で書かれている事、とても面白〜い。
可能性を探す事も歴史が楽しめる一つですね。

128で書かれている事ですが、北条家と毛利家の立場が影響しているかもね。
当然の如く私個人の考えですよ。
毛利家が名実ともに大国になるのは、
1557年の周防・長門平定による大内家の滅亡と考えて良いですよね。
それまでは毛利家、吉川家、小早川家は同等に近い存在。職場の同僚。
三本の矢が一本が立派でも二本がボロでは格好が悪いでしょ〜。
元春も隆景も一城の主として養子に出ているみたい。
それに対して北条家が大石家と藤田家で、
三本の矢を実行するのには無理があります。(氏規くんごめんね。)
北条氏政は名門北条家を名乗る以上、家名は下げたくない。
大石家も藤田家も関東管領上杉家の配下ですからね。
関東での名家も氏照や氏邦にとっては余り良いものではないという事かしらね。
多分、二人とも北条家の一門という意識が高いのでしょう。
ちなみに、氏邦くんは藤田家の義母にあたる方を大切にされて、
また、家臣達をよくまとめているみたい。
はは、根拠の無い主観で書いていて恥ずかしいから終わります。
135外郎屋:02/04/24 20:55
>>134
養子の件は家格のこともありますね。
氏邦に関しては藤田信吉暗殺未遂があるからな・・・。
(弁護したいけどできない・・・)
>>134
お前キモイ
137月と星より ◆xQ5494pE :02/04/25 05:58
今回は真面目に書くと思います。
私は例の『大途』の事を知り合いに聞いてみる事にしました。
その事は分かりませんでしたが、
話の中で『織田信長』と『北条家』は、
近代戦国大名なのでしょうという事になりました。
理由は『今川家、武田家、長尾家、さらに豊臣家や徳川家までも含めて、
連合政権であるが、織田信長と北条家は連合政権ではない』という事だそうです。
今川家の場合、今川義元が生きている時は今川連合政権でも良かったのですが、
急激な当主交代で今川氏真に替わると連合政権が解体し易くなる様です。
徳川家康の自立がその代表との事。
武田家の場合も今川家の場合と同じで、
徳川家康みたいに即自立を考えた人はいなかったのですが、
長篠合戦では武田勝頼の指示を無視している人もいるらしいです。
ここの話は深く考えますと色々な考え方が出ますのでさらりと進めますね。
ただ今川家も武田家も滅亡の仕方が同じですよね。
長尾家(上杉家)も上杉謙信の急死で上杉連合政権の解体を招いています。
この三家の解体の理由は国人衆の力が大きく、
当主の力で押さえ込む事ができなくなっています。
豊臣家の場合も同じでして、ただ国人衆ではなく島津家、毛利家、長曾我部家、
上杉家、伊達家、徳川家という大大名の連合政権であり、
徳川家も基本的には豊臣家と同じ。
これに対して近代戦国大名の織田信長や北条家の方は・・・。
長い文になりましたので、また、今度書きますね。
138外郎屋:02/04/26 19:17
>>137
大途の件。
さし当たって載ってるのは、当三戦板御用達の本(多分)、
学研の歴史群像・北条五代の中の対談コーナーに載ってたような・・・。
(本屋で確認すればいいんだけどね・・・)
話の途中のなので情報だけ。
139月と星より ◆xQ5494pE :02/04/27 01:59
前回の内容。多くの戦国大名は連合政権みたいという様な話。
続き。
織田信長の場合。
皆さんもご存知の様に信長の統治は身内に厳しいものがあるようです。
戦国大名ですから当たり前の話でありますが、
よく見てみますと多くの戦国大名はそうはいかないみたいです。
武田家が一番分かり易いですが、穴山梅雪、木曾義昌、小山田信茂、
この三人の扱いはかなり気を使っています。
領地は本領安堵。穴山梅雪、木曾義昌の二人には信玄の姫達が嫁いでいます。
小山田信茂は独立扱いをされていると論ずる人もいます。
上杉家も揚北衆や長尾政景の扱いには苦慮しています。
織田信長は性格的にも現実的で合理的な発想の持ち主ですから、
自分でこれが一番と思えば相手(特に身内)の事を余り考えていません。
『これが一番。君の意見は聞いてはいない。』という感じですよね。
この革新的な考えに、当時の人達は理解し難いと思いますが。
ですから、他の戦国大名と比べて裏切りがかなり多いですよね。
近代戦国大名であるには家臣団の完全統制が重要であり、
それを運営する能力(政治力、軍事力、経済力)が必要になるみたいです。
『鳴かぬなら、殺してしまえ、不如帰。』
自分の意に添わない者には容赦しない。信長らしいですよね。
北条家については、また、いつかにしますね。
140月と星より ◆xQ5494pE :02/04/27 02:02
>>138 外郎屋さんへ。
ありがとう。でも、分かりませんでした。ははは。
でも信長は割と気が長いところもあるかな。
少なくとも一度の失敗くらいじゃ斬り捨てない(殺すわけではないですよ)。
致命的なミスは別かもしれないですけどね。
信長の意をどれだけ汲めるかにもよるんでしょうが。
142月と星より ◆xQ5494pE :02/04/27 04:42
そうそう、信長という人はみんなに厳しいという訳ではない様です。
信頼している重臣には厳しい。とは言ってもそんなにポンポン斬っていたら、
忠誠心が下がりまし百害あって一利なし。
一家来には寛大な心。治める者としては領民に人気がないとね。
若い頃から遊び回っていますから、そこのところは心得ているらしいです。
ただ潔癖症ですから悪い事と判断するとやはり斬ります。

潔癖症の完全主義者なところがありますから両極端な性格になるのでしょう。
143月と星より ◆xQ5494pE :02/04/28 00:31
織田信長について一つ分からない所があります。
斎藤家は美濃の統治に手を焼いている様ですが、
織田信長は簡単に統治している様に見えます。
美濃衆は斎藤家に余り好意を持っていなくて、
織田家に活路を見出したのでしょうか?
そう考えた方が早いと思うのですが何かちょっと引っ掛かりまして。
144月と星より ◆xQ5494pE :02/04/28 03:55
外郎屋さんへ。
書き込み有難う御座います。
145藤原三位卿:02/04/28 22:32
>>143
我が家のPCシステムがやっと復旧したので横スレします
あちらでも概略を書いていますが

当時、室町幕府の権威は失墜していたとは言うもののやはり幕府体制は残っ
ていたと思われます
概略としては、兵士(戦時)農民(平時)→武士→領主→守護(守護代)、
国司→探題、管領→将軍→御上というような階層構造の権威によって支配体
制を築いていました
幕府がしっかりしている間は、権威=権力できちんと機能しますが、応仁の
乱以降幕府の権威が失墜し始めると、必ずしも権威=権力ではなくなります
例が下克上という一種の実力主義だと思います
織田信長、斎藤道三たちはちょうどこの時期、権威主義から実力主義への移
行期の人だと思います

織田信長は家督相続の時点で四面楚歌の状態でした
外的には、西の今川、北の斎藤から領界を窺がわれ
内的には、親族兄弟とさえも骨肉の争いをしなければならないような状況で
した
このときに力になったのが直属の家臣団で、この家臣団を持って諸勢力を駆
逐し尾張を平定してゆきます
そのため直接統治(他の大名に比べ)が可能となり、その後の躍進の原動力
となりました

一方斎藤家は、道三の代に下克上(クーデター)によって美濃の政権、軍権
を獲得します
一見権謀術策によって土岐氏と入れ替わっただけと考えられがちですが、土
岐家旧臣たちや領主たちの信任がなければクーデターは成立しません
土岐家の旧臣、領主たちが土岐家と斎藤家を比べて斎藤家を選んだというこ
とと思います
そのため、斎藤家の初期の政権は土岐家旧臣を中心にした連合政権の長とい
うような位置関係だったと考えられ、政権基盤はあまり強固なものではなか
ったと思われます
その後、第二の斎藤道三(下克上)によって再度政権を簒奪されないように
また、外圧からも守るために早めに隠居して家督を義竜に譲り、裏から政権基盤の強化を図ったり危険家臣の粛清を行ったのではないかと思います

このように二家の間には政権成立時に大きな違いが見受けられます
146月と星より ◆xQ5494pE :02/04/30 00:00
>>145 藤原三位卿さんへ。
遅くなりました。
織田信長の事は分かります。そして賛成で〜す。
ただ齋藤道三の事は私自身が勉強不足のため正確な事が分からないのです。
朝倉家と織田家の美濃軍事介入。
織田信長と濃姫の婚姻。
齋藤道三の土岐頼芸を追放。
齋藤義龍、家督継承。と、
流れだけは分かりますが、歴史背景は私的になってしまいます。
『再度政権を簒奪されないように』と『外圧から守るために』ですが、
隠居がその手段になる訳ですか?
これは、江戸幕府においての1603年徳川秀忠征夷大将軍に就任と同じかな。
外圧の事ですが仮想敵国は何処になるの?
危険家臣の粛清ですが、誰が対抗者になるの?
この二つが分からない所かな〜。

PCシステム?とにかく大変でしたのですね。お疲れ様でした。
147藤原三位卿:02/04/30 03:10
隠居の件ですが、いろいろな理由が考えられます
古くは、院政があります
これは、隠居することにより巨大化した藤原氏の権力から逃れ、天皇の父と
いう立場を利用して政権を回復しようという狙いでしょう
徳川家康、秀忠の場合は
秀忠政権が安定するまでのサポートする狙いと思います
大友義鑑、義統の場合は
義統の当主としての能力に不安を持つ家臣たちへの不安解消策という意味を
持っていました
長尾家の場合は、
混乱を招いた自分が表舞台から引きき、次の世代を前面に出すことにより事
態の沈静化を図ろうとしたのではないか(超推測)
一元的な書き方をしていますが、もちろんそれぞれの場合でも複合的なもの
で、こんな単純なものではなかったと思われますが、概略といてはこんなも
のかなと

斎藤家の場合は、自分が前面から引くことにより、斎藤家=下克上、主殺し
というダーティーなイメージを払拭するとともに、義龍政権を影から支えて
強化する目的があったのでは、と思います
(推測ですが)
当主義龍と家臣たちという政権に対し、先代という立場、実力者道三という
立場から超法規的なこともできたと思いますし、ダーティーな仕事もできた
と思います
これを利用して斎藤政権の強化安定を図ったのではないかと考えています
美濃の歴史には詳しくないので具体的なことは知らないのですが、その後の
義龍とその家臣団と、道三とその取巻きとの確執を考えるとそういった二重
構造があったのではないかと考えています
極端な例で考えて見ますと、たとえば検地をしようとした場合、当主の義龍
が行おうとすれば斎藤政権に対する反感を買いますが、隠居の道三が強権を
持って行えば、道三個人への反感ですみます
(実際に検地しようとしたかは不明です、たんなるたとえです)

粛清に関しては
記憶便りですが、長井時代からの腹心の暗殺をはじめ、反斎藤色の豪族も暗
殺していたような記憶です

外圧ですが
当時の最大敵国は、尾張の織田家(信長の父信秀)だったと思います
友好の為、娘を信長の嫁に出してます
そこまでして南からの安定を求めているのを見てもあまり強力な政権ではな
かったのではないかと思います
148月と星より ◆xQ5494pE :02/05/02 04:57
>>147 藤原三位卿さんへ。
齋藤道三としては、子の義龍のため、美濃のために動いていたと考えますと、
美濃の蝮も人の子ですね。

織田信秀はどんな人なのでしょう?
実権はあると思いますが、戦国大名と考えるには無理がありますね。

齋藤道三もどんな人なのでしょう?
やっている事は信秀と同じ様に見えますね。
決定的な違いは、主にとって代わって下剋上をしたかどうかかな?

信長と濃姫の婚礼は信秀にとっても道三にとっても、
濃尾の安定を望んだからでしょう。
双方共に安定政権ではないみたいですから。

信秀も道三も1550年代が限界なのかもしれないですね。
149藤原三位卿:02/05/04 21:31
領国体制に、一揆と党というのがあったのはご存知でしょうか
150藤原三位卿:02/05/05 00:54
北条ヲタかと思ってたけどコテハンからいくと、ひょっとして千葉ヲタ?
151月と星より ◆xQ5494pE :02/05/05 01:41
>>149 >>150 藤原三位卿さんへ。
149の事、あまりよく分からないと思います。
党は松浦党や新宮党とかの事ですか?
150の事、いえいえ。
『オスマン=トルコの国旗からなの?』とかは言われた事がありますが、
千葉家は初めてですよ。(私的にはウケました。)
月はそのままです。星もそのままです。(スピカという名前の星から。)
152藤原三位卿:02/05/05 02:44
参考になると思うので(えらそうに一席失礼)
武士が台頭してきて支配階級となってゆく時代には、西日本は一揆に拠る統
治、東日本は党による統治が主体でした
例のごとく、糸魚川−木曽川ラインだったっけ?あのあたりが境とされてい
ますが、はっきりとした線は引けないようです
縄文、弥生の文化の違い、農村の成立発展の違い、朝廷からの影響の違い
等の理由が挙げられています
一揆(西日本型)
有力勢力の対等な関係による連合
唐傘連判状とかありましたよね
あんな感じで、表面的には上下の区別はつけません
有名なとこでは、毛利家と安芸国人衆との関係があります

党(東日本型)
党首を中心に、血縁、構成員等を同心円状に配した集合体
中世の支配体制としては一般的にはこちらを連想すると思いますが
領主→血縁衆→国人衆→兵、農民
というようなピラミッド型の支配構造です
有名なところでは、おっしゃるように松浦等、新宮等などがあります

支配力としては、圧倒的に党のほうが強力で、坂東武士が全国に展開して
行く過程で、一般的な支配体系となり、後の幕藩体制につながっっていっ
たと思います

戦国期の西日本はちょうどこの切り替わっていく時期にあたっており、守護
守護代や探題の持つ意味は東日本や、現代の感覚とはちょっと違ったものだ
ったと思います
153月と星より ◆xQ5494pE :02/05/05 04:54
>>152 藤原三位卿さんへ。
『縦のつながり』と『横のつながり』と簡単に考えてもいいのでしょうか?
毛利家の話は聞いた事があります。
でも、東日本と西日本とではそんな所に違いがあるとは知りませんでした。
丸餅と角餅の違い。
鰻の背開きと腹開きの違い。
たぬきときつねの違い。
そんな事しか知らないのです。

児玉党とかっていうものもあります?
154月と星より ◆xQ5494pE :02/05/05 11:35
さてと、ひっさしぶりに北条家の事を。
前回の内容。織田信長は近代戦国大名みたいかな。
北条家の場合。
織田信長の家臣統制は掌握できていたかなと思います。
では、北条家の方はどうでしょう?
結論は織田信長と比べてしまいますと家臣統制は弱いかと思われます。
理由は色々ありますが、
評定衆制度が北条家の良い所でもあり反面悪い所もあるからかな。
でもそれは仕方が無い事で、
どんな便利な物でも使う人の使い方次第で良い物と悪い物と分かれてしまいます。
安定政権の時(氏康時代の頃)は『三人集まれば文殊様の知恵。』と同じで、
より良い政策を打ち出す事ができたでしょう。
しかし、安定政権ではなくなってしまった時(氏直時代の頃)、
関東地方での絶対政権ではなくなった時ですね。
豊臣家が台頭してきますと評定衆制度の運営は難しくなります。
武田家が滅亡してしまっても、直ぐに織田家の政権が崩壊してしまったので、
あまり困る事は無かったと思います。
次の徳川家も武田家への外交と基本は同じでしたしね。
1586年、徳川家康の豊臣家への臣従からが問題でしょう。
では、何故、評定衆の運営が難しくなるのでしょうか?
やはり人の心は人の数だけあるという事になりますが、
なかなか意見がまとまらない事が大きいでしょうね。
北条氏照と松田憲秀の力が大き過ぎている事も問題でしょう。
安定政権では、多少時間をかけましても良いものが最終的な結果であれば良い。
そうでない場合の政権では、迅速な『決断』と『行動』が必要になります。
評定衆、そういう意味では悪い所が出てしまっていますね。
今までの北条家でしたら先代の指揮があるのですが・・・。
北条氏政、心中どの様な事を考えていたのでしょうね?
この長〜い話は近代戦国大名の資格の話でもありますが、
この続きはまた今度という事で。
155月と星より ◆xQ5494pE :02/05/05 11:38
>>154
長い。誰も読まないでしょう・・・。
156月と星より ◆xQ5494pE :02/05/05 14:34
>>1 1番さんへ。(見ているのかな?)
今更ですが、1番さんって北条家が好きなのかな?
特に好きな人っています?
157外郎屋:02/05/05 23:42
月星さん。
>>151
靴屋だとおもっていた当方は…。
(月と星→月星→月星シューズ(Moon&Star:子供向けの靴屋)
閑話休題

>>154
当方の長文に比べれば(>>124-125)まだまだ短文というわけで、久々に本スレに戻った
というわけで読ませて頂きました。
で久々に反論です。。
家臣統制の弱さが評定衆制度に起因してる点に関しては、他の大名家が当主個人のカリ
スマにより権力が集中していることを考えた場合、北条家という家のもとに権力が集中
している方が家臣統制という意味では上だと思います。
佐野家・千葉・太田家の家督継承における北条家一門の介入等対して反対派がいたとは
いえ本格的な反乱にならなかったこともその証明だと思います。
家臣統制の弱さは衆制度(江戸・川越等)故に兵農未分離のままだった為と個人的には考
えています(北条家としては過渡期、天正期には軍役の強化も図っています)。
多分月星さんとしては当主としての権力が弱くなっているということを言いたいのだと
思うのですが。そう見えるのは前にも書いたけど(>>33)政権交代時期の一番悪い時期だ
った気がします。
徳川家の嫁を持つ氏直と徳川家とのパイプを持っている氏規、関東を百年治めてきた意
地をもつ氏政・氏照・氏邦(豊臣が成り上がりなら北条家はというけど、現代で維新の志
士の血筋は名家でしょ)。結局は氏政の強烈な個性で小田原合戦に流れたけど当主氏直に
はじくじとしたものが残ってしまったのですね。
松田憲秀の影響力というのは多少は歴史の裏を考えなくてはならない訳で…。近頃だと
相模・松田の在地土豪ではなく備中伊勢氏の家臣(つまり早雲に付いてきた)と考え直さ
れています。すると武田家と小山田家とのような関係ではなく、氏政の影響力をバック
にと考える方が正しい気がします。小田原合戦の際も氏政−憲秀−堀秀政−豊臣秀吉と
いう外交ルートではなかったのでしょうか? 堀秀政が陣没してしまったので黒田官兵
衛に変わった際に豊臣側の政策転換があった為、その責任が憲秀一人に責任が行ってし
まったのではないでしょうか。
氏照に関しても氏政あっての観は個人的にはあるのですが。もし当人にやる気があるの
なら氏邦と共に富士川はともかく沼津には出陣してそうな気がします。それをしなかっ
たのは評定制度がそれなりに効いていたいた結果だと思います(そういう意味では氏邦
の方がやんちゃなイメージがあります)。
北条家の安定政権期は若神子の対陣以降〜名胡桃城奪取の時期だと思うのですが。
それまでは当に東西奔走ですから、その期間にやっと腰を据えて関東を統治している気
がします。八王子城の築城、氏政の隠居領としての江戸統治およびそれに伴う佐倉・太
田領の開発。北関東勢の反抗に対しても宇都宮勢は宇都宮城を捨て他の城への移動を考
えればならない程押されてます。そういった意味でも北条政権の一番充実してるときで
はないでしょうか?
豊臣との対決姿勢は当時においては決して間違いではないと思います。従順するにしろ
しないにしろ意地を見せる必要があると思います。どちらかというと何故北条家が豊臣
家と対決したかというより豊臣家が北条家を何故潰す必要にあったかの方が気になりま
す(豊臣家側の事情:秀長の病床、それに伴う千宗易の影響力の低下と奉行衆の影響力の
強化、秀吉の子供誕生に対する心情の変化等)。これは今の話題とは関係ないので、また
別の機会に。

こっちも長い…。
158外郎屋:02/05/06 01:18
ちょいと遅いけど北条五代祭り記念。
ちょいと上げてみる。
千客万来!!
159藤原三位卿:02/05/06 01:45
北条家に関しては、ほとんど知識を持っていないですし時代考証もままなら
ないのですが、一つの可能性として書きます
前回、一揆と党についての概略を書きましたが、北条氏については他の多く
の場合とは逆に党という支配体制の中に一揆の概念を持ち込んだのではない
かということを考えて見ます
後北条氏の支配体制は中心に北条宗家を据え、その下に親族衆、国人衆とい
う東日本型の体制を敷いていますが、北条氏一門(トップ集団)の中では一
揆のように緩やかな連合体制ではなっかったかと考えると、評議を重視する
体質が理解できる気がします
説明するまでもなく、後北条氏初代の伊勢新九郎の出自は備中の伊勢氏とな
っており西日本の出身なので、早雲と氏綱兄弟たち初期の北条氏の体制が西
日本型であった可能性は考えても良いと思います
つまり、上意下達と衆議一致とを併せ持った体質です
また、その体制や思想みたいなものを代々引き継いでいたということも考え
られます
後期のほうの評定衆の運営の難しさということをを考えているようですが、
これも一揆(西日本型)の体質を持っていたと考えればある程度説明がつく
のかと思います
初代、二代目の間は、親族といっても親兄弟の間ですからほぼ利害が一致し
ます
三代目、になると初代からの庶家筋は従兄弟となり縁が遠くなるとともに、
二代目からの庶家筋は兄弟となり、庶家の間に
本家との結びつきの深さが変わってきます
四代目、五代目となるとさらにこの傾向が強くなり、利害に対しての一致性
が代を重ねるごとに低下してきます
さらに、庶家の数が増えるとともに、領土も拡大して地域による利害の違い
も現れてきます
このように考えれば代を重ねるごとに評議、評定というシステムが困難にな
ってゆくことが説明できるように思います
もちろん、これは一つの側面としての仮説ですし、この間に発生したイベン
トなども考慮に入れていない一元的なものです

私も長い、乞許
160外郎屋:02/05/06 14:43
藤原三位卿(>>159)。
党と支配体制に一揆の支配体制を持ち込むという考え方は、言われてみれば納得できます。
当方も党と一揆の区別はぼんやりだったのですが、東国の支配体制が農村的、西国の支配体
制が職能的(例えば服を作る場合、服をデザインするひと、型紙を切る人、布を縫う人は同位)
というのを聞いたことがあります。
そうすると北条家の農民をもって国人衆を解体しようとする経緯も見えてきますね。逆に徳川
政権だと西国の支配体制に東国の支配体制が盛り込まれた結果、職業的差別が生まれたのでし
ょう(ここら辺は知識不足で自信無し)。
161月と星より ◆xQ5494pE :02/05/06 17:47
>>157 外郎屋さんへ。
靴屋さん・・・。皆さん色々な事を考えていますね。何か、ちょっと面白い。

『当主としての権力が弱くなっている。』、あれ、大丈夫です。
前に書いて頂いた事の方が道理に適っていそうですし何より面白いから。

松田憲秀の事、
1590年の小田原城包囲戦での、
氏政―憲秀―秀政―秀吉の外交パイプラインと秀政の死、面白いです。
こんな事でしたら、松田憲秀の本を買っておけばよかったです。失敗。

北条氏照の事、
こちらは氏照のイメージから考えますと城の外で一勝負の様な気がしますね。
ただ、それをしなかったのは、(ここから100%私の世界に突入します。)
以外に氏照が情報収集をしていて戦の専門家としての目で考えた場合、
篭城戦の方が有利と計算したのかもしれません。
豊臣軍22万の軍勢、(色々な意味で)まともな数ではありませんからね。
兵站線という考えがあってこその戦略・戦術。石田三成の活躍ですよね。
あと、篭城戦では後詰が勝敗を決します。
伊達政宗の事、外交面から考えてもかなり期待できたと思います。
氏照自身が伊達家と外交を担当していますからね。
それに、なんていっても北条家よりも悪質(派手)な軍事行動で、
蘆名家を滅ぼしています。(北条家は城一つだけ。)
ただ、豊臣秀吉が最初から北条家を滅ぼすつもりでいたのに対しまして、
伊達家などの東北はついでにしか考えていなかったため、
伊達政宗を対北条家戦の道具に利用したのかなと思います。
そして、伊達政宗もそれを知っていての猿芝居。
脚本・演出家は・・・。話が逸れてしまいました。
ところで、篭城戦を主張していた人って氏照と憲秀ではないのですか?
本(あまり北条家をよく書いていない)にはよくそう書いてありますが・・・。
実際どうなのでしょう。

北条氏邦の事、
上で色々書きましたが、氏邦がやんちゃなイメージは変わりありませんね。
162月と星より ◆xQ5494pE :02/05/06 19:03
>>157 つづきで〜す。
評定衆にはどんな良い所が有り、また悪い所が有るのかなという事を考えて、
上の様な事(>>154)を書いてみました。
(自称)関東管領という名のもとで動いている評定衆、
これって、江戸幕府の将軍と官僚制度と同じかなと思ったりしています。
違う所といえば、江戸幕府は外様大名を外様として扱いましたが、
北条家はスケールが小さい分、他国衆を取り込もうと考えていました。
家康も婚姻外交を展開していたのに、
北条家の様な必要以上の取り込みをしませんでした。
ま〜、時代が違いますので仕方が無いですが。
あと、江戸幕府は次第に将軍家を必要としなくなります。
北条家の方は逆で北条家の血が関東を支配していきますが、
政治(軍事も?)の中枢は評定衆が運営していく事になりますね。
ここのところが『近代戦国大名』かなと思いました。
逆に江戸幕府の将軍家は、
近代の『戦国大名』ではなくなってしまうのかなと思ったりします。
将軍なのですから大名というのも変ですしね。
163月と星より ◆xQ5494pE :02/05/06 20:16
>>157 これで終わりかな。
豊臣家の事情。
そうですね。いつか聞いてみたいですね。その時はお願いしますね。
んで、私の方の考えですが、(例の私の世界です。)
1、関東政権が自立できるほどの経済大国を放っておく事は危険。
  (思いつく言葉が無いので怪しい。)
2、小田原城や坂東武者という軍事大国を放っておく事も危険。
  (多分、秀吉も北条家の事を過小評価していたと思いますが。)
3、徳川家の後ろ盾を潰しておきたい。(徳川家の孤立化。)
4、豊臣秀吉は征夷大将軍になりたくて東国に武威を示し朝廷に認められたい。
5、当時、豊臣家に次ぐ第2位の国力を持つ北条家を滅ぼし天下統一ができれば、
  反抗しようという考えを持つ人がいなくなる。
6、恩賞を与える土地が欲しい。(これ以外に大きいと思いますが。)
7、織田信長のくびき。
豊臣秀吉は初めから北条家を潰す気でやっていると思います。
と、こんなところですが、北条家好きそのままですよね〜。  
164月と星より ◆xQ5494pE :02/05/06 21:08
>>159 藤原三位卿さんへ。
読ませて頂きましたが、この話とても勉強になりました。
まさか、これを狙っての『党と一揆』の話を・・・?
そうですね、これを取り入れてもう一度考えを再構築する必要があります。
評定衆、奥が深いですね。確かに北条家だけが異質の進化をしてますものね。
ここが北条家の秘密になるかも・・・。
党と一揆の事、他の戦国大名の場合とかも考えてみないといけませんから、
しばらく考えてみまして、また書いてみますね。

>>160 外郎屋さんへ。
もう読みましたね。何だかここ(2チャンネル)って凄い所ですね。
『世界は広いな〜。』と思いました。
165無名武将@お腹せっぷく:02/05/14 13:12
良すれ
あげ
166無名武将@お腹せっぷく:02/05/14 23:18
ここにいると上には、はるか上がいることを思い知らされるほどの良スレかと存じます。
応援します。

何かレベルが高すぎて当たり前の質問がしにくいのもあるが・・敢えて質問。
北条水軍についてはどうだったんでしょう?清水康英や梶原景宗など水軍の将はいましたが・・。
武田との戦いで水軍もつかったでありましょうが・・
北条水軍の簡単な組織構成を教えていただけるとありがたいです・・。

つーかありきたりな質問ですいません・・。







167藤原三位卿:02/05/15 01:57
あちら、気にせずに
あの程度はご挨拶ということで、このまま継続しましょう
二代目は、久々の良スレだと思いますよ
168無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 13:13
上杉景虎は見放されたっぽいけどね。
彼の身一つを救おうとすれば
いくらでもできたはず。
まあ、従兄弟説が本当なら仕方ないけど。
169月と星より ◆xQ5494pE :02/05/16 05:46
>>166 166番さんへ。
北条家の水軍の組織構成ですか。私も分かりませ〜ん。
ただ、北条家の水軍は、
@三浦水軍(玉縄城か三崎城)があります。
 ところが、里見家と対立する様になりますと、
 三浦水軍だけでは重荷になります。
A伊豆水軍(下田城)が登場します。
 伊豆水軍の人が対里見家防衛戦線に投入されます。
B紀伊国から水軍を雇って北条水軍の完成。
 この紀伊国の水軍に、梶原景宗がいます。
 1590年の小田原城包囲戦の際は、伊豆の安良里という砦で戦っています。
このような流れですので、
次第に里見家の水軍を圧倒し制海権を握る事になります。
人名は苗字ばかりで名前は分かりませんから省略しますね。

北条家の滅亡は戦国時代の終わりを告げる一大イベントになります。
しかし、勝者の歴史の中では事実が正確に伝わる事が難しいため、
謎である所が多々あります。
『当たり前かな?』という様な事も以外に分からないなんて事もありますよ〜。

>>167 藤原三位卿さんへ。
返事遅くなりました。
はい。後もう少しで終わりですから最後までやっていきますね。
でも、本当にここまで来るとは・・・。

>>168 168番さんへ。
私的な考えを書いてしまいますが、
北条家の立場で考えますと越後に乱入する事は避けたかったと思います。
当時の上杉家は景虎派が優勢でした。
そんな中、北条家が越後に進駐する事は景勝派は勿論、
北条家の介入を恐れた上杉家臣団が、
景虎派の立場を悪くさせる可能性があります。
そして、季節は冬。軍事行動をとるには厳しい季節になります。
迂闊に越後に進出してしまいますと軍勢の維持が大変。
せめて、この冬の間だけは北条家と武田家の軍勢が、
距離をとった圧力だけで静観したかったのかなと考えます。
この勝負、自ら動いた景勝と動かなかった景虎の差が大きいのかな?
(所詮、北条家オタの戯言ですから・・・。)

そういえば、書き込んでないですね。
考えをまとめてからにしようと思っていたのですが・・・。
(まだまだ時間がかかりそう〜。)
何だか放置しているみたい。
真面目に考えてやる事も良いですが、
ふざけてやる事も必要かな?(あ、ふざけるって書くと何だか・・・。)
こちらもちょこちょこと何となく書いて行きますね。
170月と星より ◆xQ5494pE :02/05/19 19:27
さて、もうすぐあちらが終わります。
終了しましたら、こちらに戻ります。
ところで誰に書いているんでしょうね?
見ている人はいないと思いますが・・・。ははは。
どっちも見てるYO!

これからも頑張ってください
172藤原三位卿:02/05/20 00:43
まいった
厨房相手に、自分が厨房なのを書いてしまった
原作はあの三倍くらいあったんですが、出来上がったときには、今川が終了
してて、揚げる状況じゃなくなっていたもんっで
どうも、惣領制や、氏姓(うじかばね)を誤解してる節があったんで
かなり躊躇したんですが、編集してあげました(思い切って)
揚げてみて後悔してます
あまりの厨房な内容に
173月と星より ◆xQ5494pE :02/05/20 09:11
>>172 藤原三位卿さんへ。
私にはありがたかったですよ。(もっとレベルを下げてもいいくらい。)
例の人もあれだけ知っていますから力はあります。
その気になれば、自分で調べるでしょう。
ただ、最初から言うだけ言うが聞く気は無いという感じでしたから、
意見をするには難しい展開かな〜と思いますよ。
自分の正義以外は間違いだ〜という文脈でしたから、
何処にでもある正義と考えるには、まだ難しい年頃なのかもしれません。
あんな感じが2ちゃんねるらしいところなのかな?

で、ここはあちらと環境が違いまして北条家の事がメイン。
参考で他家を扱う事はいいと思いますが、メインは北条家。
さらに一族の事についてです。
しかもここまでの段階である程度、検証されています。
テーマがかなり限定されていますから、
今後は難しい展開になると思います。
北条家を語るにしては、いささか辛いかな〜。
174藤原三位卿:02/05/24 00:54
前にも少し書きましたが、北条家を考える際には、西日本的な柔軟さ
という面も考えてみる必要があるのではないかと考えてます
特に、伊勢新九郎の場合は、出身地が西日本なので、行動や思考の根幹には
西日本風の様な物があったと思われます

@関東管領職や○○公方などの肩書きに対する畏敬の念が希薄である
A新しい文化、技術に対し先進性を持っている
B独裁による統治を敷かず、合議を取り入れている

等、ですがどうでしょう
@とAについては、織田信長の方がさらに顕著ですが、
Bについては、織田信長の徹底的な独裁とは、好対照のような気がします
175月と星より ◆xQ5494pE :02/05/24 03:58
>>174 藤原三位卿さんへ。
通信@(其の1)
関東管領家や足利公方に対する畏敬の念が希薄という事ですが、
全く無いと言っても過言ではないでしょう。
一遍に書き込みますと長くなりますから、短い書き込みを心掛けますね。
つづきは、また今度に。
176北条高広 ◆GrGna78c :02/05/26 00:42
おれは「ほうじょう」じゃないぞ。
>>176
わかってるってば、きたじょうさん
178外郎屋:02/05/26 03:06
>>174
@関東管領職や○○公方などの肩書きに対する畏敬の念が希薄である…にちょいと意見。
早雲自体が関東公方等に畏敬の念が強くないと感じられるのは西国人であるよりは、
室町幕府の中枢にいた人(足利義視の相判衆)だからでしょう。室町幕府から関東公方
を見れば下部組織だし、関東管領は関東公方の目付け役に過ぎません。
足利茶々丸を退治したのも義視の弟(堀越公方)の敵討ちをしたという説もあります。
また今川氏自体が関東公方の監視役を担っていた訳ですから、早雲自体が関東に入国
(当時伊豆は関東公方領)した当時は権威を無視ししていたというより、室町幕府の関東
公方領への介入と考えることも可能です。(幕府の内意を受けていたりして…)。
179月と星より ◆xQ5494pE :02/05/26 19:31
通信@(其の2)
私の場合、もっと極端で足利将軍ですら何の躊躇も無く、
下剋上をやってのける神経の持ち主になっています。
伊勢新九郎は次期将軍候補の下で出世街道(?)を真面目に進んでの結果が、
『将軍後継問題』と『山名宗全と細川勝元』による応仁の乱。
心の中で『何と虚構に満ちた世の中なのか?』と考えていたのかも。
(勿論、私的な世界でのお話ですが。)
180月と星より ◆xQ5494pE :02/05/26 22:12
通信@(其の3)
伊勢新九郎にとって権威は果敢ないものと見えていて、
また、『人間五十年。』と言われているこの時代、
人生観もかなり洗練されていますから、
権威を馬鹿にしていたのかもしれませんね。
『北条家』や『関東管領』にも拘ってはいませんから。
181月と星より ◆xQ5494pE :02/05/26 22:28
通信@(其の4)
伊勢新九郎についてはもういいですね。(私的な世界を謳っていてもね。)
北条氏綱はどうかな?
二通り考える事ができます。
1、駿河育ちの氏綱。
2、都育ちの氏綱。
(氏綱の誕生の地、誰か知っています?)
ここは重要ですか?
通信@はこれで終了です。次回は通信Aに移ります。
>>181
氏綱が生まれた1487年頃に早雲は駿河に下り、
同年興国寺城の城主になったとのこと。
その後早雲が京に上ったのは1491年4月〜8月の間くらい、
本格的に相模入りしたのは1500年以降なので(小田原城攻略は1495年だけど)
氏綱は駿河生まれの駿河育ちと思われ。
(´-`).。oO(実は興国寺城って伊豆にあるのかと思ってた)

早雲はその後伊豆を駆け回っているので伊豆育ちの可能性もあるか?
もっとも1500年前後の早雲は伊豆・甲斐・三河・遠江とあちこち飛び回っている模様。
これだけ激しく動き回って八十いくつまで生きた早雲のバイタリティーっていったい(w

因みに手持ちの資料斜め読みしかしてないので嘘偽り間違い御容赦。
183月と星より ◆xQ5494pE :02/05/27 18:52
>>182 182番さんへ。
返信ありがとう。
うん。多分、その通りなのですよね。
ただ、長享元年の事変って11月9日ですから、
もしかしますと氏綱の都生まれの可能性があるかな〜と思ってね。
都生まれなら危険な駿河よりも安全ですから、
わざわざ連れて来る必要も無いですよね。
(場所は何処でもいいですよ。伊勢でも備中でもね。)
そういえば、その北条氏綱の記録って、
1512年8月に突然登場するようですが・・・。
当時26歳。遅い登場?それとも記録が無いため?う〜ん、何していたのかな。
通信Aは、また今度ね。
184外郎屋:02/05/27 20:37
>>178の当方の意見、権威に畏敬しているという意味じゃなくて、
権威を利用したという意味です。
幕府の中枢にいたから権威の使い方を知っているということ。
月星さんと一緒で応仁の乱の体験から権威とは何かを考えざる得なく
なってしまったと考えてています。

藤原三位卿の東国人は権威に弱いというのは、権威をもってる者を
旗頭にして自己勢力を伸ばすという東国の国人の独立性の表れだと
思います。この件は時間があるときに上げて見たいと思います。

185月と星より ◆xQ5494pE :02/05/28 02:51
え〜と、その当時の関東って両上杉家の内紛が中心。
伊勢新九郎はこれを利用しながら、伊豆と相模を征服していきます。
何故このような状況が出現する事ができたのでしょう?
関東がいつも戦乱の中にあるのは、室町幕府の政策が問題かなと思います。
『鎌倉府の滅亡』と、その後に続く『二人の足利公方』『両上杉家の分裂』は、
混乱をそのまま放置して関東に集中した権力を発生させない様にしています。
この混乱で権威の失墜は確実かなと思います。
北条家の台頭はさらに追い討ちをかけていますよね。
(結論を早急に出してごめんなさい。長くなりそうなので・・・。)
それなのに、北条家は足利公方を担ぎ出したり、関東管領に拘ったりするのは、
北条家がどのような手段を用いても関東を平定しようとする意志の表れかな?
使えるものは何でも使うという感じでね。

北条家だけではなく関東の戦国大名達も権威については、
同じ考えかな〜と思っています。
それでも権威を担ぎ出しているのは、
北条家に対抗する実力が無いので大義名分が欲しいからでしょうか?
あと、関東の武士達が畿内の室町政権を、
どうとらえているのかという点もありますが、長くなりますから終わりにします。
186月と星より ◆xQ5494pE :02/05/29 01:23
通信A(其の2)
この文をご覧なられている方々はもうご存知と思いますが、
文化面と技術面は素人です。
刀や鎧、兜から城の事まで、な〜んにも分かっていません。
北条家が鉄砲を作っていた事や、
明と独自の交易を展開していた事は、
多少知っていますがそれだけです。
そこで、ありったけの知識を使って考えてみました。
次回につづきます。
187月と星より ◆xQ5494pE :02/05/29 02:15
下げているのに何故上がる?
もう一回実験。
ここの人は三戦板の一斉突撃に参加しないの?
189月と星より ◆xQ5494pE :02/06/02 00:55
三戦板の一斉突撃って何?
>>189
1日だけ軍団員になって突撃しましょ、って企画です。
北条家募集してましたよ。
191月と星より ◆xQ5494pE :02/06/02 03:01
え、知らなかった。
北条家の方は1000レスいってから後は、
後継スレを見落としましたので、いまだ発見できず・・・。
歴史板の方にず〜といたので機を逸してしまった。。
192ROM:02/06/02 03:21
>>191
月曜深夜にやるからまだ間に合います
選対スレにも告知あります
もし気があるならどーぞ
193通りすがり:02/06/02 09:49
>>191
北条軍団新スレ

| \
|Д`) 【禄寿】小田原北条軍団に質問はあるか?【応穏】
|⊂   http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1020870466/
|


|  サッ
|)彡
|
|
194月と星より ◆xQ5494pE :02/06/02 10:01
>>193 通りすがりさんへ。
ありがとう。
名前が変わっているのですね。
195外郎屋:02/06/02 22:10
>>190
本来は当方が紹介しなければいけないのに。かたじけないです。
北条家では氏政、氏時、氏広、為昌、氏光、氏房、直定などの一門も
残っております。どうぞ参加して下され。当家以外の方も募集中です。
当方の若も参加予定です。
詳細は下記スレを覗いて下され。
196月と星より ◆xQ5494pE :02/06/02 22:34
>>195 外郎屋さんへ。
大丈夫、三戦板に投票しますよ〜♪
197外郎屋:02/06/02 23:12
198月と星より ◆xQ5494pE :02/06/03 02:28
なんだか、盛り上がっていますね。
6月4日ですよね。忘れない様にしないとね。
199通りすがり:02/06/03 23:50
>>195
いえいえ。
外郎屋殿には痰の薬で世話になっているのでせめてもの恩返しにござる。
200月と星より ◆xQ5494pE :02/06/04 10:09
ようやく投票する事ができました。
あ〜よかった。
201ROM:02/06/05 16:43
>>200
おかげさまで勝ち抜くことができました
ありがとうございます
202月と星より ◆xQ5494pE :02/06/06 03:11
>>201 201番(ROM)さんへ。
次回の戦は6月22日ですね。その時も遊撃戦を敢行します。
一時はインターネットに接続できなくて危機に追い込まれましたが、
投票できてよかった!
age
204月と星より ◆xQ5494pE :02/06/18 02:58
え〜と、お久しぶりです。
今日は神流川合戦(前編)の日という事を、
つい先ほど思い出しましたので書き込みますね。

六月十八日、織田軍は滝川一益が指揮する軍勢一万八千。
進軍してきた北条軍は北条氏邦が指揮する軍勢二千(先鋒)。
(軍勢は正確な数字かどうかはわかりませんが。)
神流川を中心に戦闘が展開される事になります。
数の違いが結果に出たようですね。初戦は織田軍の勝利。
関東の諸将は強い方になびきやすい。
にもかかわらず、一万八千の軍勢を動員できた事は、
滝川一益の実力を感じますね。
北条氏邦も兵二百六十を討たれるほどがんばったのは、
織田軍の結束の弱さを知っていたからでしょう。
ともあれ、戦況は前哨戦。
明日の合戦が双方の命運を賭けた一戦になります。

また、明日に書きますね。
205月と星より ◆xQ5494pE :02/06/20 04:59
ごめんなさい。昨夜は眠りに落ちてしまいました。
ではつづきを・・・。

六月十九日、北条軍は北条氏直が率いる軍勢五万五千が、
先鋒の北条氏邦と合流し戦況は一変してしまいます。
戦闘が再開されると命運をかけた一戦は、
今度は滝川一益が率いる織田軍が壊滅してしまいます。
やはり、数の違いが結果に出たといっていいでしょう。
(北条氏直の軍略も光っていたみたいですが。)
また、織田軍の内部では本国からの援軍が期待できないため、
上野を死守する事の難しさも分かっていたのでしょう。
滝川一益の決断は最良の選択と思われますが、
清洲会議の扱われ方は少々理不尽ですね。羽柴筑前の策略なのでしょうか?
何はともあれ、この一大合戦は北条氏直の軍略が光っていましたし、
事実上、(織田家の)関東管領をまたもや打ち破りましたから、
北条家の名声が高まった事でありましょう。

後日、北条軍は信濃へ進軍してゆき、
徳川軍との戦闘を展開する事になります。

ここからは、私的になりますが、
野戦だけでしたら北条家もいい線いっていると思います。
しかし、調略戦が絡んできますと三河の狸の独壇場ですね。
若神子合戦(対陣)の長期化は徳川軍の望むところとなり、
北条軍にとっては長くなればなるほど戦況の悪化を進める事になります。

では、また。
北条氏邦ホント好き。
もっと評価されてほしい。
207月と星より ◆xQ5494pE :02/06/26 02:58
うん。北条氏邦ってかっこいいね!
208無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 05:36
難しいところだね。
209月と星より ◆xQ5494pE :02/06/28 04:05
そうですね、有名な人物という訳でもないですし、
北条氏照の存在が目立ちますからね。
ところで、北条氏邦って兄弟の中で一番の武闘派の様な気がします。
な〜んとなくネ。
氏照は外交を用いて正攻法で進めていくタイプ。
氏邦は謀略を用いて何でもやってのけるタイプ。
あれ?こう書くと悪役になってしまうよ〜。
でも、武田信玄や上杉謙信を相手に上野戦線を戦い抜いてきたのですから、
まともな人物ではダメなのでしょうね。
210月と星より ◆xQ5494pE :02/07/04 05:49
いよいよ明日は・・・。
211月と星より ◆xQ5494pE :02/07/05 02:43
天正十八年七月五日。小田原城、落城。
百年の栄華を誇った北条家も戦国の乱世に消ゆ。
これをもって戦国時代は終わりを告げる・・・。

そんな日である今日に乾杯。
先日石垣山より小田原を臨みました。

乾杯
213月と星より ◆xQ5494pE :02/07/06 04:51
>>212 212番さんへ。
私に付き合って頂いてありがとう♪
なんだかとても幸せ。
214月と星より ◆xQ5494pE :02/07/11 04:09
天正十八年七月十一日。北条氏政、自害。
戦国時代を切り開いたのが北条家なら、
戦国時代の幕を引いたのも北条家。
歴史のこういうところが好きです。

辞世の句。
『雨雲のおほえる月も胸の霧も、はらたりけりな秋の夕風。』
月星殿がおられる気がしました。

兄とともに、北条氏照も…
『天地あめつちの清きなかより生れ来てもとのすみかに帰るべらなり』

氏直の命は助かりましたが。
そして兄ふたりを解釈したという氏規の心中は如何ばかりや。
216月と星より ◆xQ5494pE :02/07/12 02:00
7月5日につづき、7月11日までも!
>>215 215番さんへ。
北条氏照(辞世の句付き)の事、かたじけないです。
北条氏規や北条氏邦達は武門の意地を通したのですから、
心は意外に晴れていたのかもしれませんよ。

天下を賭けて戦ったのですから、
武運つたなく敗軍の将なれど決して恥じる事は無し。
当時の心は今に届かず、ただ記録が残るのみ。

そう思いますと、少し歴史が面白く見えますね。
217無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 01:13
ほしにねがいを
218月と星より ◆xQ5494pE :02/07/17 02:38
私もお願い事をしてみます♪
『私にも幸せが訪れますように。』

天文十年七月十七日、
北条家第二代当主、
北条氏綱、逝く。

彼がいたからこそ、
北条家が関八州に覇を唱える事ができたといっても良いほどの、
文武両道の名将。
昨日は氏綱公の助けで地黄八幡が河越城を攻め取った日でしたっけ。
220無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 02:44
北条一族に凡人無し
221月と星より ◆xQ5494pE :02/07/18 02:30
>>219 219番さんへ。
河越を制した事により武蔵国の戦況は北条家が有利に展開していく事になります。
わーい!北条氏綱の戦略、お見事。

>>220 220番さんへ。
北条家ってすごいですね。
月星さんは来られるかな?

今日は大道寺政繁が自害しました。
この人も複雑な人ですね。

>>218
氏綱公が亡くなった日を今日とする説もあるようですね。。
自分は他家ファンですが、北条家ではこの方が一番好きです。
223月と星より ◆xQ5494pE :02/07/20 01:08
>>222 222番さんへ。
時、既に遅し。ごめんなさい。
というより、ありがとう。
私、大道寺政繁の命日は知らなかったんですよ。
ということは、松田憲秀の命日も気になりますね。
北条家が好きな人には嫌われているお二人ですが、不思議な事に好きです。
北条家の家臣は好きですね。(一押しは、垪和氏続です。)
224無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 23:45
1502年、連歌師の飯尾宗祗がなくなった日。
墓は二代氏綱の建立した箱根湯本の早雲寺にあります。
225無名武将@お腹せっぷく:02/07/31 00:41
キショスレさらしあげ
魂が貧しい人は可哀想だね。
長いこと、三戦板に住んでいますが、こんな良スレがあったとは・・・
北条好きな俺としましては、嬉しい限りです。

ところで、質問はよろしいでしょうか?
河越夜戦(無かったという話も聞きますが)で、城方と連絡を取った
北条綱成の弟(勝千代でしたっけ?)は、その以後はどうなったのでしょう?
一応、福島勝広と名乗っていた位しか確証がないんですが、
最近、北条五代記に「福島伊賀守河鯰を捕手柄の事」という項を見つけたのですが、
この福島伊賀守は綱成の弟でよろしいのでしょうか?
この福島伊賀守は、伊勢備中守(氏康に上方から招かれた人物?)・山角紀伊守(御馬廻り衆筆頭山角康定の弟定勝か?)と共に、北条氏直の武者奉行を努めていた事から
それなりの出の人だとは思うんですが・・・

なんか、妙な質問な上わかりづらい文面で申し訳ないんですが、
どなたかご存じの方がおられましたら、教えて頂けませんか?
228月と星より ◆xQ5494pE :02/08/01 03:28
>>224 224番さんへ。
7月30日は飯尾宗祗が逝かれた日ですか〜。
あ、今日は8月1日!
慶長五年八月一日。
伏見城陥落。鳥居元忠、戦死。
北条家が滅亡して十年、再び戦乱の火蓋が気って落とされた!

>>227 227番さんへ。
あら、質問が・・・!?私は答えることができません。
知っている人がいるのかな?
伊勢貞運は好きですよ。別に知っている訳ではないですが・・・。
小笠原康広、大和晴統と合わせて三軍師!かっこいいと思います♪
福島勝広は後に北条綱房と名前を変えてませんでしたっけ?
230月と星より ◆xQ5494pE :02/08/09 23:49
みなさんよく知ってますね。尊敬♪
231月と星より ◆xQ5494pE :02/08/15 12:00
永正十六年八月十五日。
乱世の梟雄、伊勢新九郎、逝く。

戦国時代の扉を開き迷うことなく進んだ、この北条早雲。
彼に敬意を表して書き込みます。
北条家の人たちは、みなさん生き様がかっこいい♪
いろんな意味で八月十五日。
232月と星より ◆xQ5494pE :02/08/16 21:05
天文十四年八月十六日。
駿河で今川軍と北条軍が戦闘。
いわゆる『今井狐橋合戦』ですね。
今日は何の日?あげ
明日は有名だが・・・
234月と星より ◆xQ5494pE :02/08/18 06:16
8月18日・・・?
う〜ん、わからない・・・。
アレかな、豊臣秀吉の命日でいいのかな・・・?
できれば正解を教えてね。
235無名武将@お腹せっぷく:02/08/23 01:47
北条氏政は陰険なイメージがありますな
氏照が無骨者のイメージがあるから意外にまとまってたのかも
236月と星より ◆xQ5494pE :02/08/23 02:39
人の想いそれぞれ・・・。
イメージといえば、織田信長や明智光秀、豊臣秀吉といった有名人は、
もう同一人物とは思えないほどに人それぞれ・・・。
過ぎ去りし過去に思いを馳せる。いいですね♪
今日は三船台の戦いの日でしたか。
238藤原三位卿:02/08/23 22:27
飛び入りごめん
いきなり、向こうが書き込めなくなって
管理ミスかな、スレが終了しちゃってます
で、

おかげで
短い間だったですけど、楽しかったですよ
それに、有意義だったですよ
あーいった感じで、中世、戦国史を捉えたこと無かったですから

お礼まで
239月と星より ◆xQ5494pE
>>238 藤原三位卿さんへ。
今、確認しました。本当だ〜。残念。
444KBがいけなかったのでしょうか?

そうですね、あっという間に進行してしました。
考えや見方が勉強になりました。

こちらこそ、ありがとうございました♪