お前ら、しっかり教えてください。
どの辺が改革的なリーダーだったんですか?教科書見ただけじゃ
よくわかりません
2 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:13
地球が丸いということを一番最初に理解した日本人
うおお、2get
息子は恥知らずにも芸能界デビュー
なるほど、
・地球が丸いと一番最初に認識した日本人
そりゃ、凄いっすね。当時にしてみりゃ賢かったんですね。
ひとつ勉強になりました。はい、次、とっととしてください
7 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:18
能力があれば農民でも家臣にした・・・
8 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:18
比叡山を焼き討ちしたのは改革的だった
船に鉄板を貼り付けたのは改革的だった
花押の代用にハンコを使用したのは改革的だった
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
さあ皆さんご一緒に!
10 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:20
子供に変わった名前を付けることは当時では確信的だった。
側室に台所用品の名前を付けるのは当時では革新的だった。
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
さあ皆さんご一緒に!
12 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:21
>>7 秀吉のことですな?育ちが悪くても能力があれば登用する。
過去そんな人はいなかったわけだ。
>>8 おおすげぇ、一気にきましたね。
過去そんな改革的なことを行った人はいなかったわけだ。
でも当時の比叡山は学府として日本人の学力アップにも貢献したと聞きましたが
まあカルト逝ってよしって事で凄いっすね
>>9 くそう偽物め、トリップつけてやる。
はい、次早くしやがれ
13 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:24
黒人を家臣にした
14 :
2じゃないけど:02/03/05 21:26
>>6 賢いと言うよりは、既成概念にとらわれずに物事を
受け入れ、理解する能力があったと言うこと。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:27
桶狭間以外は必ず相手より兵力揃えてる
戦略的視点に優れた名将だったのだろう
>>12 おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
>>13 おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
>>14 おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
おまんこ!おまんこ!後藤真希!!
どんどんしやがれ
他になにかあるかな?
楽市楽座は真似だしなあ
別に革新的じゃないね
ごめん
20 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:28
なんか、こう政治的に後の日本にまで影響を与えた・・・
なんてそういうのありませんかねぇ?
21 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:29
兵農分離制の確立とかは?
22 :
2じゃないけど:02/03/05 21:29
兵農分離して、豪族と土地の繋がりを絶とうとしたのは?
天下統一寸前まで逝った
別に革新的ではないが政治的には大きい
かぶった
結婚しよう
25 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:31
抽象的な文化(茶の湯)に政治的価値を与えて巧みに利用した
26 :
2じゃないけど :02/03/05 21:31
式は丘の見える教会にしてね
27 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:32
>>21-22 勉強になるなぁ、兵農分離は信長だったんですな!
後に世界史的にミラクルピースと呼ばれる300年も
信長があればこそか!
許す。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 21:35
信長はパクリを自分がしたかのようにしてるのも多いよ
後人がそうしただけかもしれんが
スマソ。29は26に向けて。
漏れも名無しに戻るわ。
方面軍制を取り入れた。
33 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:42
まとめるぞー
兵農分離、カルト皆殺し、科学を取り入れる(?)
この辺が改革的か!?
34 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:47
なんだなんだ!なんかこれじゃ、しょっぱいなぁ
大久保利通とか伊藤博文の方がインパクトあるじゃないか
35 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:47
隠さないで全部吐いてくれ!」
36 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 21:48
>>32 方面軍制・・?何となくカッコイイ響きだなぁ
方面軍制とは・・!?
なんかこうしてみると、確かに凄いのは凄いが
秀吉や家康と比べるとそう大差ない気もするなぁ。
まあ3人とも偉人には違いないが
38 :
産毛 ◆BgCVvyQM :02/03/05 22:00
>>37 しかし、革新的と言えば信長じゃないか!
そういわれるんはやはり理由があると思うぞ!
39 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 22:04
例えオリジナルじゃなくても新しいことをやって成功させれば
革新的と言えるだろうな
もういいよ。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 00:51
信長の功績は他人の真似だろうがなんだろうか
全国的に色々普及させたってとこだろ。
よって革命児。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 00:54
黒人差別しなかった人
アフリカでは有名人
43 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 00:56
自分を神に仕立てあげ
安土城下に「あがめろ」と高札を出したこと
44 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 00:58
>>42 資料があるんですか?
アフリカで有名人だという資料。
日本ではじめてISOを取得。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:27
旗揚げ当初から明快に天下統一を意識していたこと。
天王星を打倒しようとしていたこと。
歌が下手、ぽいずん。
>>44 あります。どこの国だったかわすれましたが
彌助を見た信長が「美しい肉体だ」と褒め称えたの事だけが
その国では唯一公式文書に記されている「歴史」なんだそうです。
>>46 ええかんげん事いわない。
>>47 わらった
>>48 岐阜だの天下布武だのの言葉の意味を考えよう。
>>49 厨房よ。それだけで天子を否定した証になるのかよ。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:15
先行者をつくりました
53 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 09:39
日本で最初の街道を作った。
城を守りの要ではなく、攻めの拠点にした。
戦地での婦女暴行・奴隷売買を全軍に禁じた。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 09:43
>>49 岐阜は「旗揚げ当初」とは言わない。
「京に近く豊かな美濃を制した時点で天下への野心が芽生えた」
とかいうのであればまだしも、「旗揚げ当初」ってなんだよ(w
これだから信長厨は(プ
だいたい岐阜なんて地名は信長よりはるか以前からつけられてるわな。
>>53 五街道から勉強して出直せ馬鹿。
肯定派が多いという事実
56 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 09:49
ざっと見て、確実に信長オリジナルの功績と言い切れるのは
>>10しかない。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 10:01
58 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 11:35
>だいたい岐阜なんて地名は信長よりはるか以前からつけられてるわな
マジっすか。井ノ口→岐阜に改名も信長がやったと。
勉強になる。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 11:46
>>58 「岐阜」という呼び名はずっと以前からあったもので、
それを公式に採用したのが信長。
勧めたのは澤彦宗恩あたりか。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 19:36
>>57 いや、事実です。
>>56 安土も確かそうでしたよね。信長の面白い所はそういう地名を
巧みに士気高揚につなげるところにあると思う。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 20:59
>27
信長が兵農分離を成し遂げたというのは嘘じゃけん、信じたらいかんよ。
職能的な兵と農(というか非戦闘員)の観念的な区別は、中世初期まで
遡れるけど、巷間言われているような「兵の専業化・在地性の喪失」と
いう意味での兵農分離は、信長の下では大して進展しなかった。
>>61 じゃ なんで のぶながぐん だけ が
きせつを とわずに しゅつじんできたの?
63 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 21:09
>62
上杉軍なんかも、1年12ヶ月のうち、軍事行動をしていない月なんて
ないよ。全部の大名の事例を調べる気力はないけど、君も調べてみた
らどうだい?
織田軍だけが季節を問わずに出陣できたなんて、与太話にすぎないよ。
ちょっと省略しすぎたかな。
俺は全部の大名の事例を調べるような気力はないけど、
君も少しは自分で調べてみた らどうだい?意外と面白い
ことが分かるよ
に訂正。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 21:24
上杉謙信は戦争フェチだからな。信長の季節を問わずとは一線を画するような気がする。
ちょっと調べてみたけど、毛利も1年12ヶ月のうち、出兵をしていない
月なんてないよ。吉川元春が永禄元年(1558)に、2〜8月まで長期
出兵している例もあるし。丹念に調べていけば、反証は多数あるだろうな。
>65
全然反論になってないよ。
>>61 なるほど。すると今まで兵農分離だと騒いでいた学者連中は
ウソツキ戦法やっていたんだな。
NHKとか歴史群像とかに、ゲストとして持論を得意気に、
知恵者ぶって晒していた彼らは持論目くらなのか、片目なのか。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 22:12
あいつらが兵農分離は信長からだって騒ぎ始めた根拠はどこにあるんだろう?
確かにおかしいとは思っていたが。
いやまあ、信長晩年には、他の大名家よりも兵農分離が進展していた可能性は
否定できないんだけどね。ただ、本能寺の変で潰れてしまったけど、四国遠征に
際して、信孝が北条や徳川のような総動員令を出しているくらいだから、織田
政権においては、遂に最後まで兵農分離は大して進展していなかった可能性が
高いと思う。
また、元亀年間までは、農村(在地)の軍事組織をそのまま活用していた事例が
認められるのに対して、兵農分離が達成されていたことを直接証明するような
史料はなく(まあ天正年間になってもないんだけどね)、少なくとも元亀年間
までは、信長が兵農分離を志向していたとは思えない。そもそも、当時の信長の
置かれた状況を考えてみると、現実主義者の信長が、大量動員が難しくなる
兵農分離を志向するとは思えない。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 23:19
>>68 信長は本拠地を那古屋→清洲→小牧→岐阜→安土と移しているよね。
これこそ兵農分離の証拠だって言ってる人が多いね。
まあ笑っちゃうけどさ。アホかと。馬鹿かと。
>>69 兵農分離の形態によるよね。
どこぞの作家先生が唱えるような「傭兵制」は全くの論外だけど。
71 :
真・信長おた:02/03/06 23:41
>61
あのなあ、それが君の見解ならそれはそれでかまわんけどな。織田軍が数万兵を休み無く
年単位で動員し続けているのは現実なんだよ。石山本願寺や三木城の兵糧攻めは典型的な例だ。
何年も農作業せず農民兵が戦い続けられるのは給料が払われてるからじゃないのか?
当時農民と侍の違いは農作業を主にやってる人間と戦争を主にやってる人間程度の区分じゃないのか?
大名から給料を貰って何年も戦い続けてる農民はもはや侍(=専業兵士)と言っても間違ってないんじゃ
ないか?
織田家以外でそんな大規模長期の軍事行動ができた大名があったか?
>>現実主義者の信長が、大量動員が難しくなる兵農分離を志向するとは思えない。
この辺も意味不明。君の理論なら中国人民解放軍が世界最強ってことになるな。アホクサ
>>69 先生方はその「未発達ながらも他家と比較して兵農分離が進んでいた」と言う事に着目して
信長がその政策に積極的だったととらえているのだったら、「信長は兵農分離を志していた」
の主張はそんなに大声で言うほど間違いでもないんだろうね。
>>71 毛利家は何年も尼子の城を取り囲んでいたりしますね。
最後の君の1行のほうが意味不明ですが(藁
信長全盛期の織田家
土着の足軽=ふつうのかず
雇い入れた浪人=やや多い
普通の戦国大名家
土着の足軽=かなり多い
雇い入れた浪人=やや少ない
豊臣時代以後の大名家のほとんど
土着の足軽=かなり少ない
雇い入れた浪人=ほとんどがそれ
74 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 00:34
>>73 人を雇えばそれなりの証拠が残るの。給料の支払い記録とかね。
それが全く無いという事実をどう説明するか。
君のは想像の域を一歩も出ていない。
秀吉が朝鮮出兵している間、日本でいかに農地が荒れたかってのは
結構記録もあるんだが、「兵農分離」していたらこんな事は起きないんだよ。
漏れのはネタなんだが?
76 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 00:40
ネタかよ
77 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 00:42
喧嘩腰で相手をうちまかそうとするからひっかかる。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 00:45
61は なんのことはない
あれだけ いばっていながら 72の いうとうり
そんなに いばれる しゅちょうを していない ではないか
79 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 00:54
兵農分離については、前から不思議に思ってたことがあるです。
推進してはいたのだろうし、濃尾など古くからの領国ではそれなりに
進んでいたかもとは思うのですが、新しく取り込んだ領国で徹底
できたものなんでしょうか?
というのは、新領地の兵はそのまま当てに出来ませんよね。季節に
よって使えたり使えなかったりするんだから。
(あくまで半農半兵の場合は農繁期は使えない、という前提に立てば、
ですが)
で、無理矢理兵農分離するとして、土豪国人がそのまま降っていた
場合に、彼らは今まで以上の出費をしてそういう兵を擁しないと
いけなくなります。でも彼らは実入りが増えてるわけではないので、
明らかに不満を覚えないでしょうか?
信長関係の小説を読むと、美濃攻めの時には「織田軍は兵農分離の
進んだ軍隊だったので、間断なく侵略することが出来た」なんて
書いてあることが多いですが、不思議とその後その手の記述を見かけ
なくなりませんか?
この辺、まだまだ研究途中の分野なんでしょうか?
80 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:01
ドキュソ名古屋人を率いて天下を統一できるのは信長くらいでせう
81 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:10
信長が凄いのは「兵農分離」の近世的な発想を持ちえたということじゃないでしょうか。
信玄や謙信や毛利にその気概があったようには思えないのですが。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:11
>>79 史料が無いものを研究なんかできません。
史料が無い、つまり信長の軍隊も質や構成は他大名と変わりません。
では何が違うのか?
兵糧供給力が違います。
兵を動員すれば、動員した兵を動員する期間だけ、食わせなければなりません。
信長は商業地から巻き上げた金で大量の食料を準備できたのです。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:13
>>81 できはしなかったけど発想はあったと。阿呆か。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:26
ケンカしたいわけじゃなく冷静にお話したいのですが、コロンブスの卵があるでしょう。
後からなら誰だって出来ますが、最初にやるのは大変だって。
そういう意味です。
信長は中途で倒れたので最後まで推し進められませんでしたが、
発想を受け継いで、部下の秀吉・盟友の家康で完成していくのですから、
信長は凄いと思うのですが。
>>82 史料が無くて、それでは何を持って兵農分離って言う「物語」が
生まれたのでしょうね? それはそれで極端かと。
兵糧供給というか、軍費が潤沢で、給料も支給し続けられただろう事は
想像できるのですが、それだけでは議論として不足している気がします。
つまり織田も他大名と同じなら、その間農地はどうなるのか、という点です。
当時の農業の資料でもあれば、判断つくことでしょうけど...
古代オリエントの本を読んでいる間に、随分と進んでいるなあ。
>71
本願寺攻略に常時何万もの兵を動員し続けていたか?確かに、この時点での織田の勢力を
考えると、かなりの兵が常時張り付いていた可能性はあるが、基本的に本願寺攻めは、
砦を築いて(あるいは近隣にある既存の砦や城を利用して)付城とし、そこに自軍を
入れて敵方の城に圧力をかけつつ長期に亘って攻略していくという、戦国時代にはよく
見られる戦いの形態だぞ。で、機を見て大軍を率いて攻めかかる(あるいは、敵の後詰に
対応して出兵する)ということが偶にあるわけで(信長が負傷したこともあったな)、
これも戦国時代にはよくあること。別に織田軍が特異というわけではない。
>>現実主義者の信長が、大量動員が難しくなる兵農分離を志向するとは思えない。
>この辺も意味不明。
大量動員を可能とするには、軍役衆を増やすか総動員令を出すかということになる
のだけど、後者は制約が多いので(日数や任務などの点で)、前者が一般的なやり方
となる。そうすると、どうしても農村(在地)の有力者を多数軍役衆に組み入れざるを
得なくなるのであり、大量動員を可能にするためには、兵農分離ではなく兵農一致を
志向せざるを得ない。
武田や北条がまさにそうだったけど、元亀年間までの織田も苦しい状況にあったから、
大量動員の可能となる兵農一致を志向していたと考える方が妥当で、農村(在地)の
軍事組織をそのまま活用していた事例が実際に認められる。しかし、周囲を圧倒する
勢力になれば(信長晩年がまさにこの状況)、一定単位(人口・経済力・領域など)
あたりの動員率を下げることが可能となるので、兵農分離を遂行する環境が整うこと
になる。ただ、信長が兵農分離を成し遂げたという直接の証拠はないし、四国遠征の
事例からも、疑わしいと言うべき。
>72
「未発達ながらも他家と比較して兵農分離が進んでいた」という見解が、信長の晩年に
関してはどうだったのか、検討の余地はあると思うけど、元亀年間までは、ちょっと
難しいかなあと。
>74
たださあ、朝鮮出兵に従軍した農業従事者は、殆どが夫役としてじゃないかなあ。一応、
夫役は非戦闘員という建前だから、兵農分離がなされていても、そうした状況は起きる
よね。ただ、実際の戦場ではそうした区分はなかなか通用しなかったし、上杉の事例
などを見ていると(知行高の少ない給人が多数いる)、豊臣政権においても、どこまで
兵農分離が進展していたか、疑問もあるなあ。
>85
兵農分離を巡る議論は複雑だからねぇ。兵農分離という用語をあまりにも安易に使用して
きたことに対する、反省が学界の中から提起されているし。結局、あまりにも奔放に兵農
分離という用語が使われてきた結果、信長は大量に傭兵を云々といった与太話が不勉強な
作家によって一般に浸透したということではないかと。いやまあ、俺もきちんと整理でき
るだけの学識がないから、自信はないのだけど。
炎刀脅油闘(えんとうきょうゆとう)
炎刀脅油闘…達人同士が雌雄を決するために考案された決闘法は数あるが、中でもその極に位置するのが炎刀脅油闘出ある。
その発祥は戦国時代の名将・織田信長が侍大将を決めるために二人の候補者を闘わせたことにある。全身に油をかぶり、
長時間火をともせる松ヤニを刀身に塗り、触れただけでも火ダルマというこの決闘法を考案したのは冷酷非情と言われた信長ならではといえよう。
余談ではあるが、この決闘法をたびたび楽しんだ信長が、後に明智光秀による本能寺の変で炎に包まれ死んだのは皮肉な因果応報と言わざるを得まい。
民明書房刊『炎の武将・織田信長』より
89 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:42
何か、ネタ文献明示義務の日本史板の波及が三戦板にも来てるのか…
ここでやったら、三国志ネタは全部ボツだろう。
孔明を正史と演技で比較することじたいおかしいから。
>>85 史料なんかなくても生まれた「物語」なんていくらでもあるじゃない。
信長絡みでも
・田楽狭間の迂回奇襲攻撃
・長篠鉄砲三段撃ち
なんかは最近有名だし、鉄甲船も実は史料らしい史料は無い。
他の大名なら「んなーこたーない」と言うところ、
「信長は天才だからやったかも。きっとやったに違いない」
なんていう妄想の連鎖。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 01:49
>>89 「ネタ文献明示義務」は三国志にはあまり関係ないよ。
だって正史と演技しかねーもん(w
>>90 一本取られました。いや、マジ笑った。
その部分は同意します。
それでも即「兵農分離は全くの物語」には全面的に同意できないところは
歴史小説オタの業というべきか?
懐疑派のつもりが擁護派になってしまってますがw
93 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 02:00
「ネタ文献明示義務」
モロに学術的な話になりそう…
三国志でそれ言われたら話が続かんな。
戦国では小説ネタが無くなるな。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 02:04
いいスレだ
95 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 02:06
96 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 06:39
つまらんスレに成り下がったな
97 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 07:09
乳母の乳首を噛み切った点
98 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 07:48
のちの太閤秀吉も徳川産百年を築いた家康も頭を床にすりつけて平伏したこと
若き日の秀吉は給料は貰っても土地は貰えなていない。
得体の知れない流れ者をいきなり土地の長にするなど、住民が反発する。
つまり銭で雇われた隊長のまま武功を上げている。
土地を持たないのだから秀吉配下の兵士も銭で雇われていた。
銭で雇う兵士を銭で雇った頭に指揮させるという軍制改革は、
村落共同体制に対する根本的な挑戦であり、反発も凄かった。
こうした現象を一般的に兵農分離と呼ぶが、従来の兵農分離であった
「農業を営むことなく生活できる層による兵農分離」と大きく異なる。
By堺屋太一。って、どうよ?
・大将を討ち取った毛利新助よりも最初に槍をつけた服部を、
その服部よりも今川本隊の動きを知らせた梁田を褒めた。
百
101 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 12:53
>>99 秀吉が例に出たので書きますが、秀吉の麾下は秀吉の出世と共に
質が変わっていったのでしょうか? この辺の史料が読みたいものです。
尾張美濃時代、北近江、播磨、宇喜多調略時で、やはり主力は足軽主体の
専業軍なのか、それとも北近江以降は地元の兵を使っていたのか、
それとも両種混合なのか...
土俵を作ったってのは違ったっけか?
103 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 14:53
>>101 堺屋のは全部妄想だから聞くだけ無駄。
例えば「○○に〜貫文を預ける」という書状があった場合、
戦国時代はまだ土地を貫高で表していたから、これは土地の宛行となる。
ところが堺屋はこれを給料を与えたんだと勝手に解釈する。
阿呆かと。馬鹿かと。
>>103 どゆこと?
普通「○○にて〜貫文を与える」とかかな。
しかし実際にはその土地の上がりを貰っても、
村長につくわけではないし、管理をすべてするわけでもない。
この場合は給料と考えていいのでは?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 22:53
>>104 ある土地の徴税権を与えられる=その土地を所領として与えられる
=軍役・賦役の負担が発生する=その土地の人間を動員してそれにあてる
戦国の常識。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 23:09
>>104 信長はどこかの村長を兼ねていたんでしょうか。
>>105 だからそれは堺屋が言うところの村落共同体性でしょ。
同じく堺屋が言うところの
銭で雇う兵士を銭で雇った頭に指揮させるという軍制改革
って、どうなのかということが聞きたい。
滅亡大名の一族が浪人したり、蜂須賀党の参加とかじゃない、
「侍長屋で祝言を挙げる秀吉が足軽頭についたが、配下は?」
ってこと。妄想の一言で片付けるのなら仕方がないが。
>>106 まず信長は土地を貰う立場じゃないでしょ。従来は土地を貰ったら
即支配者だけど、信長に代官を派遣されたとかって、どゆこと?
利水権や警察権までもった従来の支配者像とは違うってこと。
豪族から支配権を奪いつつ力をつけた戦国大名が成功したね。
信長は新興勢力ということもあり、江戸期の蔵米制のような
制度が芽生えていたとよく言われるが(堺屋は知らん)、
これは給料制といってもいいのか?ってこと。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 23:55
>>107 なんだ、堺屋の妄想に解説が必要なの? それはそれは(w
堺屋的発想
土地
支配↑↓税
信長
奉公↑↓給料
秀吉
奉公↑↓給料
兵士
これが堺屋の考える「信長の兵農分離」。
だがこれは江戸時代中期以降、武士が知行制から俸禄制に移行した後に
のみ見られる形であり、当然ながら信長の時代にこんなものはない。
そっか、ないのか。教えてくれてありがとう。
長屋の秀吉の配下は、秀長等家之子と、立場上与えられる配下ってことか。
>信長は新興勢力ということもあり、江戸期の蔵米制のような
というのも妄想か。いやこれは誰が言っていたとかは知らんが。
しかし堺屋は立派な妄想家として世に認められているのか?
よくテレビなどにも出ているようだが…叩いてるWEBあったらキボンヌ
>>108 堺屋説はそういうことだったんですか?
結構堺屋の小説は読んだと思うんですけど、じゃあ理解が間違ってたのかな。
兵農分離と聞いて当方が考えてたのは下図です。
土地
支配↑↓税
信 長w
帰属↑↓給料 奉公↑↓給料
兵士 ← 秀吉
指揮
秀吉の出世は、大名になるまでは小隊長から中隊長・・・師団長みたいに
出世して逝ってた、っって感じですがこれって電波ですか?w
どちらにしても堺屋説は間違いというのには同意です。
(高校の先輩なんですけどねw)
112 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 00:56
堺屋の小説だと秀吉が自分で兵を雇って連れて行ったら諸将が
驚いてなかったか?
>>110だとそれが起こらないんだが。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 01:07
108も110も双方とも正しいと思うような…
与力もいれば直参もいるだろうし
問題はどっちの比重が高かったのかって事だと思うが
大河では、108みたいな事になってたね
利家にまつが家来を雇えとか言ってたし
114 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 01:09
どうでもいいが1に教えてやれ
1出て来い
呼んだ?
116 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 01:22
117 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/09 22:01
118 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/11 04:27
京の町中で、家臣に叛かれて死に追い込まれるとは斬新な最期だ
戦国ハイスクールで番を張っていること。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 09:13
赤ワイン飲んだ
カステラ食べた
でかい城作った
眼鏡かけた
時計見た
尾張大名の時代から鉄砲500挺買った
半年で上洛した
生き様
死に様
比叡山焼いた
アラブ馬に乗った
ビロードマント着て戦った
ベッドで寝た
南蛮寺を建てさせた
アズチ城は凄いジャン
123 :
無名武将@お腹せっぷく:
二階と二階を空中廊下で繋げた