全国の武将の逸話おしえてくれ

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1笠松但馬守
全国の武将の逸話が知りたい!!なんか教えてくれ。
例・信玄が山本勘助を登用するときのエピソード
  
  山本勘助が信玄と始めて面会したとき、信玄が館助の余りの不細工な
  顔・体を見て100貫で召抱えるつもりが300貫に加増。
  家臣が理由を聞くと「あんな不細工なのに諸国に知れ渡る武辺者だから
  本当の実力はもっとあるに違いない。300貫でもまだ安い。」みたいな。

聞いたことも無い、知らなかった逸話を待ってます。
  
2無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 10:08
立花道雪が島津・竜造寺連合軍と対峙中に死んでしまい、撤退することに
なったとき、島津・竜造寺連合軍が追撃などをせず哀悼の意を表す法螺貝や
念仏・合掌をして見送ったというやつあるぞ。
信玄は自衛隊に殺された
4山中鹿之助:02/03/05 11:05
願わくは我に七難八苦を与えたまえ
>4
艱難辛苦ではなかったっけ?
6利家は:02/03/05 11:16
信長の性奴隷。
7無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 11:22
蒲生氏郷は、
「太閤殿下が死んだら、天下は俺と前田利家殿が治める。
関白殿(豊臣秀次)のような愚人に従うものはいないし、
家康のような器量の無い奴が天下を治めたら世の中が狂う」とか、
大言を吐いたせいで、いろんな者を敵に回して暗殺された。
8miniminin:02/03/05 14:02
田原俊彦は「おれはビッグ」発言で業界から抹殺された。
土岐氏は岐阜を追い出されたあとも駿河で
10水野勝成は:02/03/05 16:38
関が原前夜、浪人にもかかわらず勝手に家康の京屋敷を警護に加わっていた。
衛兵が姓名を問いただしても、ついに名乗らないままだったという。
あからさまに怪しいな…よく斬られなかったもんだ。
そんなライノベ板の住人みたいなことをして。
11無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 17:03
水野は母親の実家です。
家康は承知していた。
竹千代(家康)は駿河の城で各大名、今川家の重臣の前で
小便を披露した。義元は綺麗好きなので皆、竹千代の
首が飛ぶと思った瞬間。
見事なふぐりである、ワッハッハと声をかけた人が?
誰あろう武田信虎であった。
義元は竹千代そなたそう事をしても良いと
誰かに教わったのか?
そうじゃぁーお館様、尾張にいる時信長どのが
出るものこばまず所かまわずと言っておったのです。
いつも二人で飛ばしっこしていたのです。
婿殿面白いではないか?尾張の大うつけ信長尾張も終わりでわぁー
ワッハッハー義元も大笑いシーンと静まっていた
一同大笑いになって新年の祝儀は終わったそうだ。
この10年後に義元今川家滅亡をむかえる。おおうつけと
バカにした織田信長によって。
12無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 17:23
前田慶次郎利太は一時期前田利家の影武者を務めていた。
ある合戦で事もあろうか、
「我こそは前田利家が影武者也」と喚き散らし、利家始め近習たちは冷や汗をかいたそうだ。
13無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 17:23
武田信玄

躑躅ヶ崎に「信玄はハゲ」という噂が広まっていた。
領民は不安に陥り、家財道具を持ち逃げ出そうとする者もいた程だ。
「てえへんだ。 御屋形様はハゲだってんだから黙っちゃいられねえ。」

殿、大変でござる。 領内に不穏な噂が広まっておりまする。
「気にするでない。 勘助よ。 人の噂も49日じゃ。」
14無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 17:30
池田輝政は、督姫(家康二女・元北条氏直室)と結婚するときに、
「父を討ちとった人と会いたい」と家康に頼み、その人の禄高をきき、
「もっと加増してあげてください」と家康に頼んだ。
15竹中半兵衛逸話その1:02/03/05 18:29
竹中半兵衛と黒田官兵衛の酒飲んでいるときの話
官兵衛が抜け目無く秀吉に書かせて置いた誓文を取り出して
「近いうちに知行を増やすといって一生懸命働いてもいつも増やしてくれん」と愚痴ってると
半兵衛がその誓文を火の中に入れて燃やしてしまった。
当然、きれそうになった官兵衛に無言で酒をつきながら半兵衛が
「誓文など持っていると不平不満の種になり、勤めに陰日向をつくるようになり、
上を脅すようにもなり、結局、自分の身にもならないぞ。」
官兵衛は、はっと我に帰り
「それがしの不明であった」と頭を下げたとさ。
現代に通ずるものがあるぞ。
16信長:02/03/05 18:36
人生五十年
17山中鹿之介:02/03/05 19:19
「われに七難八苦を〜」は戦前教科書の嘘。
本当は「今日より三十日の内に武勇の誉れを取り候ように」
(一ヶ月以内に戦さになって暴れられたらええなっ)
と誓ったそうな。
18岡左内定俊@上杉家臣:02/03/05 19:27
戦国の財テクと武士道
http://homepage1.nifty.com/akazonae/ets/oka.html
19 :02/03/05 19:29
我に艱難辛苦を〜,って曹操が言ったんじゃなかったか?
21無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 20:38
>>14
あ〜、もっと嫌いになったよ輝政のこと。
>>14
輝政が家康に小牧・長久手で父親を討ち取った奴の禄が
どのくらい加増されたのか聞いたところ
僅かに加増されただけだったので
輝政は「父の首は価値そんなものだったのか」と言い
涙したところ家康はそいつの禄を増やした
って話だよね。
まぁ、嫌な奴っていえば嫌な奴だな。
23輝政:02/03/05 22:36
徳川家康様はうっとおしい親父と、兄貴を殺してくれたんだから神様。
そのおかげで後継になれたんだし。
24前田利長:02/03/06 01:45
は、鼻毛を伸ばしたのは俺じゃないぞ!
よく勘違いされて迷惑なんだよ!
25無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:51
池田輝政って名君だと思っていたが、
そんな人物だったのかー?
漏れ、引っ越して池田氏の墓所を守る某寺の近辺から
5分のところにすんでいるんだけどねー。
ただ、備前市の閑谷学校は保存状態が良い。
今年で301年目。文化に手厚いのが逝けだ氏の伝統。
26無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:53
名君は池田光政でしょ。
27無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:55
>>23
うん、君にはすごいラッキーカムカム☆な出来事だったね。
28無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:56
加藤清正は虎をぶっ飛ばした。
加藤清正は梅毒で鼻がもげた。
29無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:56
石田三成は関が原の合戦前から激しい下痢に苦しんでいた。
30無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:58
梅毒で鼻がもげたのは結城秀康じゃないの?
31無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 01:59
梅毒だの癩病だのたいへんだな。
32無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:00
前田利家は晩年、凄い色の小便を出していた。
33無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:01
正宗は輝宗を謀殺
34無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:04
実は勝頼も信玄を謀殺
丹羽ながひではブラックジャックばりに
自分のガンを摘出した
が失敗ー>あぼーん
36無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:20
前田綱紀の娘は浅野光晟の息子に嫁いだが、浅野光晟のあまりの
馬鹿さ加減にショックをうけて前田綱紀の娘は切腹した。
37無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:34
加藤清正は
「自分は大坂の陣のまえに早く死にたい。自分が死ねば息子は豊臣家に
関する恩顧はないから徳川家に忠義ができる」
といった。
38無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:38
>>21
池田輝政は、母親(織田信行未亡人)に、「おまえの父は私の愛する夫を
殺した憎い人間だ」と教えられて育ったので許してやれ。
39無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:42
細川忠興は、黒田長政と加藤清正と仲が悪く、
「黒田、加藤に対してのみは礼儀を尽くす必要はない」と家臣に
命じていた。
40無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:45
矢部虎之助

紀州徳川家に仕える剛の者。
大阪の陣において長さ二間の指物、三尺余の太刀という出で立ちで
従軍、大いに衆目を引くが、余りの重さに馬が進まず
もたついている内に何ら功を立てられずに合戦が終ってしまう。
戦の後、家中にて虎之助を嘲る声が高まり、恥じ入って食を断ち、
二十日の後に死んでいたという。
41無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 02:58
前田利家の逸話
・児童虐待
・虐殺
・裏切り
42無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 11:34
前田利家は若年の頃カブキ者であった。
腰には自分の背丈よりも長い物を差し、先端に車輪を付けていたのだ。
ある日も、コロコロと刀の車輪を転がしながら歩いていると
車輪が馬糞の中に埋まる惨事に見舞われた。
利家は「もはやこれまでよ」と観念し、更生したと云れている。
43無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 11:43
1979年、細川忠興と明智光秀の娘(後のガラシア)婚姻。
このとき媒酌人を務めた織田信長、
「とっても愛らしい夫婦が誕生した」
と誰よりも一番大喜びしたそうである。
同年に築山御前と松平信康を切腹させているが、織田家家中もこの時の信長公はまるで別人のように優しく朗らかであったという。
44無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 11:45
45無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 12:03
>>42
なんか微笑ましい
46無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 12:40
花慶が利家を風呂に招待し、出奔した話は有名だが
彼は水風呂の中に氷と一握りの「バブ」を入れていた。

いざ風呂に入り冷たさに悶絶した利家だが、彼はバブを入れていた事に
慶の心意気を感じ、晩年利家を訪ねてきた慶と和解したと云う。
47無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 13:38
>>42
カブキ者=コロ助ナリね♪
49無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 14:48
有名な話としては
羽柴秀吉が明智光秀を討つために
姫路城を出ようとした時に
同行していた占い師が
「今日は悪日でございます。今日出発したら二度と城には戻れませぬ。」
と言ったところ、秀吉は
「城に戻れぬとは何という吉日であろうか、
 そうであろう、光秀めを討ち滅ぼせばこんな所には戻って来ぬからの。」
と言いその占い師を笑い飛ばしたという。
50無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 14:52
>>47
利家が長い刀を腰に差して車輪を付けていたのはホントみたいよ。
52無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 16:23
メール欄で会話するな。つまらん。
>52
じゃあ何か話してくれ
54無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 16:37
上泉信綱

彼は新陰流を肩にひっさげ全国を行脚し、各地で弟子を残したという。
そんな中、大和の柳生という地で柳生ひろしなる剣術家に出会った。
彼に秘伝を授けるべく真剣勝負をしたところ、予想外に強く危うく切られそうになった。
しかし、彼は工夫の人でもあった。
勝負を中止するや裏の竹林に走り、枯れ竹を束ね刀もどきを作った。
彼は刀もどきの竹をひろしに持たせ「いざ勝負」と叫んだ。
ひろしは「勝負はシナイ」と呟いた。
これにより「竹刀」は誕生し現在に至っている。
55無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 22:12
信長は偏執狂
岐阜殿、スレageやめろ。
57無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 03:03
良スレアゲ
58無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 16:21
前田利家は一揆をとらえ釜ゆで、磔にした。
磔も、肛門から竹やりを入れて内蔵を貫き喉に突き出させるというむしろ串刺しというべき残酷なものだった。
釜茹ではゆでられる家族の者に火を起こさせ、串刺しはきちんと喉に通るように何度もやりなおした。
59無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 16:25
前田利家はその処刑風景を平然とみつめ、部下たちと談笑していたという。
利家の加賀一向一揆10万人虐殺での話でした。
60 :02/03/07 17:53
んで、大河ドラマでは加賀一向一揆はどのように扱うのかね。
61無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 17:58
まつがやります。
「私におまかせくださりませ〜」
62無名武将@お腹せっぷく :02/03/07 18:10
俺は二ヶ月風呂に入っていない 下着も取り替えてない
シャツは黄色い トランクスも閉めっぽくヨレヨレだ 股間のあたりが小便臭いし凄く痒い
頭も痒い 痒すぎて夜も眠れない 猛烈な勢いで頭をかきむしるとフケと髪の毛が沢山落ちる
筋トレをする 汗をかく 皮膚がふやける 手のひらでこする
垢が塊となってあふれ出る
肛門も痒い 痒いから指先で直接掻き毟る それを嗅ぐ うんこの匂い 臭いはずなのに癖になってずっと嗅ぎつづける
そのままコンビニでかったバターロールをちぎって食う また指先の匂いを嗅ぐ うんこの匂い
バターのついた手でマウスを握る エロ画像を集める 集まったらオナニー Tシャツで手を拭い ザーメンまみれのペニスにそのままトランクスを重ねる
指先の匂いを嗅ぐ 栗っぽい 食いかけのバターロールをちぎって食べる
63無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 18:28
信長が浅井と組んで六角氏を攻めようと、近江で浅井長政と会った。岐阜に戻る途中
美濃と近江の国境付近の寺で宿泊することになったのだが、それを聞いた浅井方の
家臣、遠藤直経は長政に「信長は大変危険な人物です、信長を討った後、長政様は
近江を平定し、上洛して天下に号令するのです!」と進言したが結局聞き入れられ
なかった。その後の姉川の合戦でも遠藤は味方の首を持って織田の陣中深く
攻め入り信長を討とうしたが結局寸前で正体がばれて討たれてしまいました。
64無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 18:28
しもだかげき
65無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 20:08
柳生宗義

彼は鬼武者であった。
雜賀孫一と安国寺恵瓊と風魔小太郎を引き連れ魔王信長を倒したという。
そこは、本能寺の辺という。
66無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 00:20
あげ
67無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 15:26
>>21
報いがあるので許してやれ。

督姫が大坂の凱旋時に長男・利隆(先妻の子・播磨藩主)を毒饅頭で暗殺はかる
  ↓
利隆は侍女に教えられていたのでそれを食べなかった
次男の忠継(岡山藩主)が気づいて怒ってそれを食べる
  ↓
利隆も驚いて奪い返して残りの毒饅頭を食べる
  ↓
長男・次男アボーン、督姫もその饅頭を食べて自殺
というわけで、利隆の息子は幼かったので播磨を失い、鳥取に減封された
あげく、淡路も失いました。
68無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 15:53
家康大坂夏の陣にて戦死。
輿に乗って敗走中に槍で突かれて
南宗寺にて死亡。
南宗寺の墓が家康の真の墓。
以後の家康は小笠原秀政が身代わりで演じた。

後に秀忠が墓参のために訪問。
数年後
69無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 22:30
加賀の一向一揆に追いつめられた富樫政親は
居城の高尾城の奥にある山から麓の池に飛び降りてあぼーん。
夜な夜なその池からは富樫政親の鞍が浮き上がるという怪談から
その山の名前は「倉ヶ嶽」と名づけられた。
金沢市民には前田利家の人生かは常識。
70無名武将@お腹せっぷく:02/03/08 22:59
>金沢市民には前田利家の人生かは常識

???
71無名武将@お腹せっぷく:02/03/09 00:52
武将ネタでなく戦場ネタ。
静岡県浜松市布橋は三方ヶ原で敗れた徳川が
谷間に白い布を張り、橋にみせかけ、
追撃してきた武田を罠にはめたことに由来する地名。
この辺ではお盆の季節にこの罠にはまった武田方を弔うために
念仏祭りが行なわれているそうだ。
72無名武将@お腹せっぷく:02/03/10 03:59
>>71
500年も経ったんだから、武田方をおちょくるのはもうやめたってくれよ。
地元民。
73無名武将@お腹せっぷく:02/03/10 08:20
kara・age
74無名武将@お腹せっぷく:02/03/10 11:33
>>24
鼻毛のエピソードは利常じゃなかった?
75無名武将@お腹せっぷく:02/03/10 16:49
>>74
だからそういうておろーが。
天然か?
76無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 01:13
あげるのじゃ
77無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 22:41
大昔中日でピッチャーやっていた「フォークの神様」杉下茂は、風呂に入る時、
「ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん」
と、三回音がしたって。(ふつうの人は両足分の2回だけなのにってことらしい)
78無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 22:41
大昔中日でピッチャーやっていた「フォークの神様」杉下茂は、風呂に入る時、
「ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん」
と、三回音がしたって。(ふつうの人は両足分の2回だけなのにってことらしい)
79無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 17:50
毛利輝元も足利義輝から一字拝領にて命名。
最初は“義”を承ったのだが、それでは桶狭間で討死した今川義元公と同じ名で縁起が悪い為、
“輝”の字を戴いた。
80無名武将@お腹せっぷく:02/04/11 23:54
この話は本当?
(どうでもいいけどすごい悪文・・・)

http://www.nasicnet.com/~akilaja/mukku/diary.html
81無名武将@お腹せっぷく:02/04/11 23:59
>>80
らい持ちの刑部が飲んだ茶碗で三成が茶を飲んだ話だろ?
有名な話。
82無名武将@お腹せっぷく:02/04/12 04:10
片倉重綱(のち重長)は10代の時に英才教育する為大坂で育てられたが、
えらい美少年だった為に小早川秀秋にストーキングされたらしい。
83南部下野守:02/04/17 21:09
岩城重隆に美人の娘がいた(エクボが目立っていたので笑窪御前・久保姫と呼ばれた)。
白河・結城晴綱と伊達晴宗から求婚されたが、先着の結城に嫁ぐ事になった。
伊達晴宗は諦めきれずに結城から強奪を計画、婚礼の日を伺い婚礼の日に輿ごと奪った。
この後白河勢が反撃するが伊達の返り討ちにあった(滑井合戦)。続く
84南部下野守:02/04/17 21:27
岩城重隆は道理に反すると伊達と一旦は絶交するが、笑窪御前の嘆願が聞き入れられ「長子が男なら岩城の養子に貰い受ける」条件で許しをもらった。
笑窪御前は晴宗の子を産んだ。男子だったので約束通り岩城家が養子にした(岩城宣隆→親隆)。
85無名武将@お腹せっぷく:02/04/17 21:55
直江兼続、謙信の死を予期する
86無名武将@お腹せっぷく:02/04/17 21:57
徳川家康、自分の死を悟れず
87無名武将@お腹せっぷく:02/04/17 21:59
織田信長は憂つけ物だった
88池田トンガ守:02/04/18 20:46
ちんちん股に挟んで断絶を免れた武家がある。
89無名武将@お腹せっぷく:02/04/21 00:28
前田薩摩守(出羽国大曲城主)

天正年間、出羽角館城主戸沢氏の名代として
織田信長に謁見した。
その際、戸沢氏からの土産である鷹を自ら贈った
ものと偽った。

謁見後、居城(大曲城)に戻ったところ、居城は
謁見中に仇敵の由利十二頭勢に攻撃されて落城。
帰るべき城を失ってしまった(w

後に、前田家の家督が途絶えたとき、戸沢家は
先の虚偽報告(wを理由に前田家の家督相続を
拒否した。

90無名武将@お腹せっぷく:02/04/21 00:40
本多正重と本多政重は別人。
正信の弟と次男。
政重は関ヶ原で宇喜多の将として参戦。
後に直江兼次の養子に。
保守さげ
92無名武将@お腹せっぷく:02/05/13 09:59
(´▽`)
・塙団右衛門直之
 1)関ヶ原で加藤嘉明軍の鉄砲足軽頭として出陣したが、戦が始まると刀を抜いて一人敵陣に突撃、
  鉄砲隊をだまらせてしまい、自軍を唖然とさせた。そして加藤家を出奔。
 2)大阪冬の陣で夜襲を行い、見事成功させたが、帰り際にあらかじめ用意しておいた自分の名前
  を書いた札をばらまいていった。
 3)大阪夏の陣で自分が先鋒と信じて出撃したが、岡部則綱の部隊が先行していると知り、またも
  一人突っ走って岡部則綱と二人で先駆け争いをしてしまい、気がつけば一人で突撃、そして戦死
・山中鹿之介
 1)毛利にとらわれのみになってたときに、股をさして赤痢になったと偽り、便所に通い詰め、
  見張りが油断した隙に便所の穴から肥溜め経由で見事脱出。
・加藤清正
 1)潔癖性だった清正は痔を患っていて、便所が長かったが、便の跳ね返りがいやで専用の下駄を
  用意させた。その高さ30cmとか。
・前田利常
 1)徳川家から疑われないよう、鼻毛を伸ばすことを怠らず、うつけをよそおっていた。ほんとに
  うつけだったのかもしれないけど。
・伊達政宗
 1)大阪夏の陣で後藤又兵衛隊と戦っていたが、そこに横から味方の神保相茂隊がでてきて後藤隊を破る。
  キレた政宗は神保隊も後藤隊も見境無しに鉄砲を撃ちまくる。
・上杉景勝
 1)家臣に、敵より畏れられた景勝。あるとき富士川を船にのって渡っていたとき、人が乗り過ぎて
  いて船が沈みそうになった。景勝が無言で杖を振り上げると、それを見た家臣達は一斉に川に
  飛び込んだ。
>>93
前田利常
利常がいつも鼻毛をのばしていて、江戸城内を鼻の穴から3センチほどのばした鼻毛をそよがせながら歩いた。
その鼻毛を家臣が見かねて、そっと手鏡を出して利常にみせたところ、利常は「この鼻毛が加賀・能登・越中
の三国を守っているのじゃ。お前らが安楽に暮らせるのも、このお陰じゃぞ」といった。
96有吉立行:02/05/13 20:12
細川家家臣で忠興が幼少の頃の遊び相手だった。若い頃はボケーっとして他の家臣からも
軽んじられていた。
忠興と川を渡るときに、忠興を肩に担いで渡ることになった。担いで川にはいっては見た
ものの、予想以上に深く、立行は頭まで沈んでしまった。忠興が方の上から声をかけても
返事はなく、それでも川を渡っていく。
渡り終えて忠興をおろすと、立行はばったりと倒れてしまった。おどろいた忠興がさわい
で、集まってきた家臣がよってかかって立行の腹を踏みつけると、水を吐き出して気がつ
いた。このとき踏みつけられている立行をみて忠興は「こやつタダモノではない」と思っ
たという。
後に関ヶ原の戦いにおいて立行は松井康之とともに豊後杵築城の留守を預かり、黒田如水
と共同して大友義統軍を破っている。
97佐々成政:02/05/13 20:55
 天正十二年(一五八四)冬、佐々成政はひそかに富山城を出て立山のざらざら越えを決行し、
浜松城に徳川家康をたずね、秀吉打倒の強談判をした。
 このとき、近習の一人が病気と称して富山城に残った。
この間、愛妾・早百合がその近習の侍と密通したとのウワサが立ち、激怒した成政は早百合の
黒髪をつかんで引きずり走り、神通川べりの榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬
りの惨刑に処した。近習は言うまでもなく、早百合の一族も皆殺しにされたという。
 早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅
びますぞ」とのろって息絶えた。
 やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室・おね(北政所)に献上したが、
この花がもとでおねと側室・淀様との間がこじれ、やがて成政は切腹させられたという。
亀井茲矩
尼子主家滅亡後は豊臣秀吉の家臣となった。
姫路城の論功行賞で秀吉が因幡半国を与えようとした際に、
茲矩はあえて琉球を望み、渡海して攻め取ると答えた。
秀吉は感心して腰に付けていた団扇(うちわ)の表に亀井琉球守殿、裏に秀吉と書いて判を押して与えたという。
その後、茲矩は朱印船貿易を行ったり、海外雄飛の夢から長崎で西洋型帆船の建造を試みている。
茲矩にふさわしい官職といえる
99毛利元就:02/05/13 22:04
三本の矢の話で有名だが、実は息子は9人もいる。(6人は側室の子だけど)
【毛利勝永】
秀吉子飼いの武将毛利勝信(吉成)の子。関ヶ原で西軍についたため後に領地没収。大阪の陣のころは、
土佐山内家に預かりの身になっていた。大阪の陣のとき、大阪に赴いた山内忠義と衆道(男色、いわゆ
るホモ)の関係なので初陣の忠義を助けたいと申し出てゆるされ、大阪に向かう途中、監視役を斬って
大阪城にはいった。
夏の陣では、真田幸村、後藤又兵衛とともに戦う。
最終決戦となる天王寺・岡山での戦いでは、すでに勝負は見えていた。
死を覚悟した毛利隊は疾風の如き活躍で敵の大将本多忠朝を討ち取る。この時、息子の勝家が首を取っ
て勝永に見せるが、「これが最後の戦いだ。敵の首など取ってもしょうがない。捨てておけ」と言っ
たという。しかし、その後、踵を返して再び戦う息子を見て、「あたら惜しい若者を」と泣いている。
本多隊を破った毛利隊は、家康の本陣に突入するが家康本人は真田幸村に追いたてられ逃げただった。
その後撤退し、大阪落城に際し、秀頼の切腹の介錯をし、そのあと自害したと伝えられる。
【木村重成】
豊臣秀吉の息子、秀頼の乳兄弟。大阪の陣の頃は豊臣家の若き重臣になっていた。
初陣となる大阪冬の陣今福の戦いで、敵佐竹軍を窮地に追い込み、佐竹軍歴戦の勇者
渋江政光を倒すなどの戦功を挙げたため、秀頼が感状と脇差しを与えようとしたが、
「自分一人だけの戦功でないので受け取れない。それに感状は他家に使えるときには
役に立つが、自分は豊臣家以外に奉公する気はないので無用です。」といって受け取
らなかった。
夏の陣では、家康本隊攻撃のために出撃するが、このころ食事を制限していた。妻が
心配して聞くと、「昔、瓜割四郎というものが首をはねられたとき、傷口から食べた
ものがでてきて恥をさらしたという。自分が討ち死にしたとき、傷口から食べたもの
が出ると見苦しいので食を慎んでいるのだ。」と語ったという。
若江の戦いでは、長宗我部盛親とともに藤堂高虎を破るが、そのあと「兵は疲れている
ので一度兵を引いては」という家臣に「まだ敵将軍の首を取っていない。局地的な勝利
など意味がない」と聞き入れない。そして現れた井伊直孝軍との戦闘になり、兵数に劣
る木村隊は敗退。重成も討ち死にする。
重成は死を覚悟しており、頭髪に香をたきこめていたという。家康が首実検をしたとき、
紙にたきこんだ香の薫りが漂ったのに気づき、非常に感心したという。
【佐久間加右衛門】
賤ヶ岳七本槍の筆頭、福島正則の家臣。
関ヶ原のあと、京都で略奪する輩が出てくるのを気にした家康は、京に至る日ノ岡に伊奈図書昭綱を
急行させ、とおる軍団を検問するように命じた。
このとき、福島正則も京都のの守護を命じられていて、正則は京都にいる弟の高晴に使者(佐久間加
右衛門)を送った。
加右衛門が日ノ岡の関にくると急いでいる加右衛門と厳密に検問する伊奈図書の家臣との間でごたご
たした。結局、佐久間は関の者と口論になり、関吏は佐久間を打ち据えた。微禄といえども主命を帯
びた立場上、そこは堪えて任務完了後、主君正則の元へ来て経緯をはなした上、「自分はコレで切腹し
ますのでこの仇はなんとしても取っていただくようお願いします」といって切腹した。
使者に与えられた侮辱は主君に対する侮辱と正則は激昂。正則は佐久間の首を伊奈図書のもとに送り
とどけ、「使者の受けた恥辱は主人の受けた恥辱である。失礼ながら貴下のお首をちょうだいする所
存」と伝えた。これをみてビビった伊奈は、井伊直政、本多忠勝に相談し、足軽6人の首を切り正則
に陳謝した。それでも正則の怒りは収まらない。「自分の求めるのは第一級の首のみ」といい、
「もしそれがかなわないなら残念ながら家康公への忠勤もできないので清洲城から立ち去るのみ。」
といいきった。ことが大きくなって、家康が、「大事のための小事」といって伊奈図書に切腹を命じ、
その首を正則に送った。
103無名武将@お腹せっぷく:02/05/14 02:19
嘘ばっかりで笑える。
>>103
ウソならその根拠を指摘しないうちは(略
105無名武将@お腹せっぷく:02/05/14 02:27
駄スレの悪寒
106無名武将@お腹せっぷく:02/05/14 03:33
どうせならウソでわらわせるスレにしようぜ
107武蔵守:02/05/14 03:36
>>97
その話は有名ですが、後に作られた講談らしいです。
佐々成政が切腹を命じられたのは肥後(だっけ?)の政治に
失敗したかららしいです。
108日向守:02/05/14 03:54
>107
あなたの仰る通りです。
佐々成政は秀吉の九州征伐により肥後一国を賜ったが、その後強行した太閤検地
によって肥後国人達の反感を買い、一揆を勃発させた責任を取らされて切腹させ
られました。
でも、これは秀吉&三成による佐々潰しではないかと私は思います。
出だしの>>1で架空の人物である山本勘助が出てるんじゃ萎えるよ。
110武蔵守:02/05/14 04:54
旧伊達政宗領で一揆が起きた際、秀吉は政宗がこの一揆を誘発したのでは
ないかと疑い問いただしましたが(実際、伊達政宗が書いたとされた
一揆を起こすことを指示した手紙が発見されました。
もっとも、この手紙は秀吉のでっち上げかもしれません。)、
政宗はその手紙を見せてくれと言います。
政宗はその手紙を眺めるなり「この手紙はニセモノです。この手紙の
花押をご覧下さい。花押のまん中(正確には少し違うけど)には針で
穴が空けられていません。それがしがこれまでお送りした手紙をごらん
下さい。どれも皆花押に穴が空けてあるでしょう。」と弁明しました。





【福島正則】
関ヶ原の戦いのあと、正則麾下の家老格の武将三人がそろって家康に拝謁した。
これを見ていた家康の近習たちは彼らをみてコソコソ笑っていた。なぜなら、彼ら、
福島治重は跛(びっこ)、尾関石見守は隻眼(片目)、長尾隼人正は聾(耳が聞こえない)
だったからである。
福島正則は身体の障害など、全く気にせず功名をもって家臣をとりたてていた。
家康は謁見のあとに近習に諭している。
「女は容姿を尊ぶものだが、形はどうあれ戦にて功名をあげてこそ男である。
かの三人は世に優れたる剛の者。お前ら十のうち二、三でも彼らみたいになれれば
よいの。」

【堀秀政】
・戦陣にあって、風雨にみまわれた夜、秀政は部下に警戒を厳重にせよ、と言い
 つけ、さらにこう続けた。
 「こういう晩には盗賊が武具や兵糧を奪いに来るやもしれぬ。だが、盗賊ごと
  きに奪われるのは残念だから、今晩、わしが泥棒に入るからそう思え」
 殿様に盗まれては、それこそ大失態と、堀の陣中は異常なほどの厳戒体制を布
 いたた。おかげで野盗などの被害には遭わずに済んだが、他家の陣ではことご
 とく被害に遭ったという。
・家中にいつも泣いているような顔つきの男がいた。瞳はいつも涙でうるんでおり、
 眉もひそめている。他の家臣が秀政に「あのような者がいては当家の恥ですので
 暇を出させては」と進言したが、秀政は「大名の家中には、いろいろな家臣がおら
 ねばならぬ」ととりあわなかった。
 「お前ら泣けといわれてどこでも泣けるか?あの男は法事や葬儀の使者にはうっ
  てつけである。」

【可児才蔵】
・才蔵は何回も主君を変えているが、最後に仕官したのは福島正則である。
 一人で髷(まげ)が結べるという一発ネタで採用試験を突破したらしい。
・関ヶ原の戦いでは福島隊の先鋒として戦った。戦後の首実検で、才蔵は
 17とも20ともいわれる数の首を取ったというが、持参した首の数はそれ
 にとうてい足りてない。
 「いちいち首を持ち帰るのも面倒ゆえ、討ち取った首の口や耳に笹の葉
  をつっこんでおいたわい。」
 戦場に落ちていた首や他の武将が持参した首に、たしかに笹がつけられ
 たものがあり、それは17個あった。17個という首級は東軍随一であり、
 以後、「笹の才蔵」とよばれる。
・才蔵は愛宕権現を信仰し、権現様の縁日である24日に死ぬと常々公言し
 てたらしい。そして本当に6月24日に死んだ。完全武装で床机に腰掛けた
 格好だったという。
114無名武将@お腹せっぷく:02/05/14 23:19
>>109
本物の馬鹿だな
最近の発見された文献で、実在が証明されたんだよ、ボンクラ
山本晴幸だっけなー。
ボンクラとか言うと、大和先生おもいだしちゃうよ(>>114
>>114
そうなんですか!?
それはどこに行けば(読めば)わかりますかね??
117無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 00:57
>>114
おい、ボンクラ。まさか、市河文書のことじゃないだろうな?
118宣言:02/05/15 00:58
もし、市河文書のことだったら、このスレを荒してぶっ潰す。
119無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 01:01
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>>144にハァハァ
120無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 01:16
>>114
たしかに、山本管助なる軍使は実在した。
しかし、甲陽軍鑑に出てくるような山本勘助なる軍師は架空の存在だ。
121無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 01:19
このスレは、以後、>>114を観察スレになりました。
かんべんしてくださいよ・・・。
そうか、なら勘弁してやるか。
>>114
もっと勉強しとけ。
>>123
ありがとうございます・・・
125無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 13:51
>118
馬鹿?
126無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 14:09
何百年も前の話の真偽を問うほうが滑稽だよ
文書ひとつでコロコロ信条を変えるなんて
逸話なんてどれだけ良い話かで楽しめばいいんじゃん
127無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 18:17
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ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ

>>125にハァハァ
【立花道雪】
・夏のある日、大樹の下で雨宿りをしていた道雪は突然落雷に見舞われた。
 ところが道雪は稲妻を浴びると、とっさに"千鳥"と名付ける愛刀で雷神とおぼしきもの
 を斬りつけた。そのため下半身不随となったが一命は取り留めたといいはなった。
 それ以降、その刀を"雷切"と名付けて生涯身につけてはなさなかった。
・下半身不随となった道雪は、戦の時には長刀と鉄砲を持って、駕籠(かご)に乗って出陣した。
 駕籠は若侍に担がせ、まわりを長刀を持った百名ほどの兵に守らせた。
 戦闘開始となると道雪は手にした棒で籠をたたき、敵陣に担ぎ込ませた。
 「命がほしくば、わしを敵中に担ぎ入れてから逃げよ」と叫んだので左右の侍も長刀をふ
 るって敵陣に突きいった。道雪も必死だが、担ぐ兵はもっと必死だ。
・道雪にはギン千代という娘しかいなかったので、おなじ大友家臣の高橋紹運のなかば無理
 矢理養子としてもらいうけた。のちの立花宗茂である。
>>2
【高橋紹運】
・紹運が若かった頃、兄の鎮理(しげまさ)が紹運のために斉藤鎮実(しげざね)の妹を嫁にと約束していた。
 その後戦続きで婚礼の儀もままならず、紹運は斉藤鎮実に時期を失していることをわびた。が、斉藤は
 婚儀の件はなかったことにという。たしかにその約束はしたが、そのあと妹は痘瘡(天然痘)を患い、
 ふた目と見られぬ醜女となってしまい、とても紹運の妻というわけには行かないと言う。
 それを聞いて紹運は顔色を変えて斉藤に詰め寄った。
 「思いも及ばぬことを聞くものです。斉藤家と言えば武門の誉れ高い名家であればこそ、兄が私の嫁に
  と望んだのです。わたしも容姿がどうのこうのと言う浮ついた気持ちで嫁にと望んだのではありませ
  ん。」といって程なく妻に迎え入れた。そして産まれた子がのちの立花宗茂である。
・のち、大友家も衰退し、薩摩の島津が九州制覇をもくろみ兵をおこした。豊臣秀吉が大軍を率い手島津
 征伐にくるという情報をえて、豊臣軍が九州に上陸するところで撃退するためである。
 島津軍はやがて紹運の岩屋城に攻め寄せてきた。その数二万余。対して岩屋城の守備兵は763名。
 後方の立花城にいる息子立花宗茂などは後方の守りやすい城にひくようにつたえるが紹運は聞かない。
 「地の利は人の輪にしかずという。たとえ堅固な城に立てこもっても人身が一つにまとまらなければ何
  の役にも立たない。残念ながら大友家の家運もすでに傾き、我が家も滅ぶべき時のようだ。もしいま
  だ家運がつきぬなら、この城でも防ぎきれるだろうし、つきてものなら、いくら堅固な城に立てこ
  もっても長くはあるまい。岩屋城でわしが命の限り戦えば十日は持ちこたえ、敵の二、三千くらいは
  討ち取れる。そのうえ立花城なら、ひと月は持ちこたえれよう。そうなれば豊臣の援軍も九州にわたっ
  てくる。わしの死も無駄でなくなる。」
 島津軍は降伏を勧告するが紹運は拒絶。島津軍2万余の攻撃が始まるのは6月14日。
 岩屋城の守備兵は死を覚悟して必死に防戦、島津軍は26日になってようやく外郭(城の一番外側の区画)
 を破ったが、あまりの犠牲に、降伏勧告と言うより、講和に近い妥協を求めた。
 「人生は、例えてみれば朝露が陽光を待つようにはかなきもの。ただ末永く世に残るのは武名のみと存じ
  ます故、決して降参するわけには参りませぬ。」と島津側に回答しているらしい。
 あけて27日、島津軍は岩屋城に一斉に襲いかかり、卯の刻(午前6時)に始まった激戦は午の刻(正午)まで
 つづいた。城兵もはや50名余りで、満身創痍である。
 紹運はもはやこれまでと、“屍をば岩屋の苔に埋めてぞ雲井の空に名をとどむべき”の辞世の句を城の
 扉に書き付けると、城の櫓に登り、敵味方の見守る中、腹を切って果てた。残っていた城兵もそれをみ
 て一人残らず紹運の後を追った。
 島津軍の死傷者約4500。島津軍は損害の大きさにそのあとの攻略が遅れ、立花城包囲時に豊臣軍が
 九州に上陸する。紹運の思惑は見事成就された。
130無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 22:35
118 名前:宣言 投稿日:02/05/15 00:58
もし、市河文書のことだったら、このスレを荒してぶっ潰す。

ぷ、今までのが荒らしなの?
口先だけか(激藁
程度低いな・・・ぷ
市河文書だと何か問題あるのかい、能無し君(激藁
131無名武将@お腹せっぷく:02/05/15 22:35
>>118
生き恥さらしてんなー、おまえ
【立花宗茂】
・島津が九州制覇をもくろみ、軍をはっしたころ、宗茂は立花城城主だった。宗茂の父高橋紹運の
 岩屋城に島津軍が攻め寄せたとき、宗茂は紹運に後方の宝満城にさがることをすすめたが紹運は
 ききいれない。そのうち、島津軍が岩屋城を攻め、やっとの思いで陥とし、立花城に攻め寄せて
 きた。このとき宗茂19歳。島津軍の降伏勧告も、家臣の献策でのらりくらりと時間を稼ぐ。
 そうこうするうちに豊臣秀吉の九州征伐軍が九州に上陸した。島津軍は豊臣軍が来る前に九州を
 制圧しておきたかったがそれもかなわず退却する。島津軍は豊臣の大軍を怖れて宗茂を軽んじて
 いた。宗茂は島津軍が退却を始めたと知り猛然と島津軍に襲いかかり大打撃を与え、そのあと
 島津に取られていた三城をまたたくまに奪還してみせた。
・佐々成政が肥後(熊本県)を治めたときに一揆が起こった際には、一日で十三度の戦闘を行い、
 敵の城塞を抜くこと七カ所という武勲をあげた。
・朝鮮出兵時に、後方からの補給が滞り、碧蹄館まで退却してきたとき、明軍一万七千にたいし
 籠城論が優勢な中、あくまで城を出て戦うことを主張し、三千の兵で明軍をうち破る(明軍の兵数
 は非戦闘員も含まれる)。
 また、朝鮮からの退却時に、小西行長隊が孤立した時には「行長を朝鮮の露とするには惜しい。
 皆が帰国しても私はここにとどまり、生死を共にしよう。これは行長の為でなく日本の為だ」
 と言った。これに感動した島津義弘らも踏みとどまり、結局全員無事に帰国することが出来た。
・関ヶ原の戦いでは西軍に与して大津城の守備についていた。西軍が敗れ、退却するときに、京都
 瀬田の唐橋を焼きおとそうとしたときに宗茂は「古来、東国勢が今日へ攻め上ると、京方はきまっ
 てこの橋を落としたが、それによって利を得たためしはない。往来をさまたげ、国人の難儀とな
 るだけだからやめるべき」と言った。私が誓って防戦する、といったとも伝えられる。
・宗茂は自城に返り籠城するつもりだったが、その勇を惜しんだ加藤清正や黒田如水などの説得で
 開城した。西軍に属したため、領地は没収となった。が、宗茂の人となりに惚れ込んでいる
 家康、秀忠により召しかえられ、ついにはついにはほぼ旧領地で柳川藩の始祖となる。
・宗茂は死の直前周囲に語っている。
 「戦は兵の多少に依らず、兵に和がなくてはいくら大勢でも勝利はない。道雪以来、我らにおい
  ても少人数でたびたび大勝を得ている。これすなわち兵の和によるものである。その和の第一
  は日頃兵と懇ろに接することである。一言の義でも身を捨てることこそ、大将たるものの心得
  である。」
133無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 01:02
>>130-131
真性馬鹿発見〜ゲラ
134無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 01:03
ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ
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135無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 01:06
>>130-131
バカソウダネ
130=131は、煽りしかできない無知厨
知ったかぶりたいお年頃なんだから、ほっとけって
しゃべるゴキブリの糞と思え(w
つーか、みなさん、誰でも知ってるネタでも(・∀・)イイ!から逸話系のカキコおながいします。
ココにカキコしてる人っていろいろ知ってそうなんでよろしこですぅ。
138無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 19:51
意外に知られていないが服部半蔵は槍の名手であり、「槍半蔵」の異名を持っていた。
その持ち槍は穂の長さが一間(!!)もあり、四谷の西念寺に伝えられていたが
惜しくも戦災により焼失してしまった。

南無〜
139アックス:02/05/16 19:56
おぶつだんの長谷川南無〜
140無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 20:01
>138
『槍の半蔵』は服部半蔵正成ではなくて、渡辺守綱。
服部半蔵正成は『鬼の半蔵』。
141138:02/05/16 20:04
>>140 くるとおもった
違いは分かってます。 「鬼の半蔵」+「槍の半蔵」
142無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 20:11
くそっ!釣られたのかyp
143無名武将@お腹せっぷく:02/05/16 22:09
蒲生氏郷のもとに浪人が仕官したときの話
氏郷の訓示
「我が手勢の中に鯰尾兜の者がいて、合戦では必ず先手を駆け武功著しい。
そのほうも遅れを取らぬよう心して励め」

まもなく戦があり、その者も手柄を上げようと張り切っていると・・・
はたして鯰尾兜をきらめかせ真っ先に敵陣に突き入る騎馬武者がいた。
遅れを取ってはならじとしゃにむに後に続き、全員が命を捨てて敵陣に切り込んで行った。

鯰尾兜の騎馬武者とは蒲生氏郷本人である
144松方弘樹 ◆vVcjXTqI :02/05/16 22:47
>>133-136
釣れたYO!
稀に見る入れ食いスレだYO!
145松方弘樹 ◆vVcjXTqI :02/05/16 22:48
定置網は有効だYO!
146無名武将@お腹せっぷく:02/05/17 13:01
柳生宗矩が家光の剣術指南役となり日本一の剣名を謳われるようになると
兄弟子にあたる丸目蔵人が「石舟斎の子倅が日本一とは片腹痛い。 奴が日本一なら俺は何だ」
とはるばる江戸まで出て行って試合を申し込んだ。

賢い宗矩は下へも置かずの丁重な待遇で応酬。
蔵人はすっかり丸め込まれ試合を忘れたどころか、宗矩の弟子たちに代稽古まで付けてやり
上機嫌で帰って行ったという。

ああ上泉公の愛すべきDQN弟子 丸目蔵人
織田信長が上洛した時、今川氏真が訪ねてきて
「あなたに対して、父の敵討ちをしたい」と述べる。
氏真が一兵も連れる事無くそう述べたので信長は不審がるが、
「信長と蹴鞠で勝負して勝ち、それを敵討ちとしたい」との事。
ただ信長は蹴鞠が出来なかったし、氏真の申し出を馬鹿馬鹿しく
思ったのか氏真を蹴鞠の上手い公卿と対戦させた。
氏真の試合振りを見た信長は、
「勝負の急所を心得ているのに、それを合戦に用いぬとは」
と嘆いたとされる。
148無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 16:47
>>147
なんかいい話なのかアホらしい話なのかわからんな(w
149無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 16:49
ちょっとうろ覚えなんだけど、
勝頼か誰かの食事の方法を見て「武田家もこれでおしまいか」みたいなのを悟ったのって誰だっけ?
そんな話があったように思うんだけど・・・・太源か、幻庵あたりだったかな
150無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 19:51
それは氏政の汁かけご飯のことか?
151無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 20:22
島津義弘は晩年はアルツハイマーで完全にボケてたが、
法螺貝を鳴らして家臣が「殿、ご出陣ですぞ」と促すと
往年の武将の姿になったという。
152無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 20:22
>>149 それは北条家ですよん。
153無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 21:24
当時戦場の食事は湯漬け汁かけが普通だった。
ある時氏政が汁かけを取っていると、汁が足りなくなり汁だけお替りをした
ところがまた汁が足りなくなりまたお替り。
あろうことかまた足りなくなり「お替り」。
脇で見ていた氏康は、はらはらと涙をこぼし
「毎日やっていることなのに飯の加減も分からんのか。こんな奴に関八州の仕置きが出来るか」
と嘆いたという

>太源か、幻庵あたりだったかな
それは本阿弥。鑑定で有名な光悦の孫、光甫
本阿弥行状記だと
「一度にて汁かけ飯の加減さえできぬ性質にて、何とて八カ国の人々の善悪を目利きできようぞ」
154149:02/05/22 21:42
うろ覚えだったんだけど
内容はそんな感じだったと思うからそれだと思う
なんで武田だと思ったんだかなぁ
ともあれ、補完有難く候
155無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 22:32
>>153
ゲームとかで氏政の評価が低いのはその為だろうか。
あと、よく実った麦畑を見て、思わず
「麦のオニギリ喰いてーなあ」
とかつぶやいたら、オヤジ(氏康)が聞いてて、
「麦は取ってすぐには食えんのじゃー!!そんな事も知らんのか
このボンクラは…」
と、嘆いたという話も(一部脚色)…確か北条?

でも氏政の時代の北条はとことん強くて、武田上杉織田と渡り合い
ながら、着々と勢力を伸ばしていた訳で。
豊臣という「そんなんありかよ!」という巨大勢力が出て来なければ…
或いは毛利のように潔く頭を下げてれば、歴史は変わってた?

汁がうまいからおかわりして何が悪い。
麦畑を見て、うまそうと思ったからそう言って何が悪い。
(藁)
156149:02/05/22 22:41
>>155
ああ、自分は逆に思ってた
それなら氏真クラスでもいいんじゃないかと
まあ、実績で量るべきだよな
157147:02/05/23 04:29
>>148
はっきりしてるのは氏真がバ(略
158無名武将@お腹せっぷく:02/05/26 01:54
武将じゃないけど
家康の怖い娘たち。家康には養女が死ぬほどいたけど実の娘は3人だけ。

【亀姫】
奥平信昌室。宇都宮つり天井事件で本多を失脚させる。
【督姫】
北条氏直室、池田輝政室。
再嫁先の池田家の長男利隆を毒殺する。
【振姫】
蒲生秀行室、浅野長晟室。
秀行死後、家老の関と対立。失脚させる。
喧嘩両成敗で38歳にして浅野長晟に無理やり再婚させられる。
一、弥七郎に頻りにたびたび申し候らへども、虫気のよし申し候あいだ、了簡 なく候。
  全く我が偽りなく候
一、弥七郎とぎに寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。
  いわんや昼夜とも弥七郎とかの儀なく候。なかんずく今夜は存じも寄らず候の事
一、別して知音申したきまゝ、色々走り廻り候えば、かえって御うたがい迷惑に候。
  この条々いつはり候えば、当国一、二、三、大明神、富士、白山、殊に八幡大菩薩、
  諏訪上下大明神の罰を蒙るべきものなり、よって件の如し

内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あいだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候
   七月五日                 晴信<花押>
     春日源助との
<訳>( )内は妄想高坂ツッコミ
一、弥七郎を口説いた事は何度もあるけど(あんのかい)いつも腹痛と言って断られたんだよう(なければ最後までいったんだな)
  これホント。
一、これまで弥七郎と寝た事はないし、(したいんだな)もちろん昼夜ともそんなことしてないし(したいんだなキサマ)
  まして今夜は思いもしないよ(し・た・い・ん・だ・なキサマ)
一、おまえと仲直りしようと思って、色々するとかえって疑われるんで困ってる。(目立つ事されると迷惑なんじゃボケェ)

もし嘘ついたら<中略>針千本飲ーます
正式な紙に書けばいいんだけど役人がうるさそうなんで白紙に書いた。
明日にでも書きなおすつもり 
 七月五日            晴信<認印>
   春日源助様
やっぱ信玄って(以下略
162無名武将@お腹せっぷく:02/06/03 13:39
奸臣久武親直
1588年、狂気の主君長宗我部元親とつるんで家督を盛親に継がすために
元親の甥や従弟を讒言で殺害。
関ヶ原戦後、長宗我部家改易防ごうとして裏交渉していた
盛親の兄津野親忠を殺害し、主家を滅ぼしたおそるべき破壊臣
163無名武将@お腹せっぷく:02/06/04 13:09
黒田官兵衛が中津に入り、家康が再三の呼び出しにも応じず、
やっと息子が家康に会いに行った時、家康は、両手で握手をしたらしい。
その話しを聞いた官兵衛は、息子にその時お前の左手は何をしてたんだ
言ったらしい。

なぜ脇差で家康を刺さなかったのかと
小1時間問い詰めたという。
165直江兼続の:02/06/04 14:27
閻魔大王の話、教えろ
>165
ならあの世へいけ!
美童信仰にまつわる話があればお願いします。真偽が定かでないのもまた一興。決してそっちの趣味があるわけではありませんよ。
168無名武将@お腹せっぷく:02/06/04 17:10
・佐竹義重・・・初陣で7人殺したらしい
・最上義光・・・父と湯治に行った際、山賊に襲われたが、義光は冷静に首領格の
        男を討ち、危機を脱したという
・直江兼続・・・大坂城で伊達政宗とすれ違った際、陪臣であるにもかかわらず、
        知らん振りして通り過ぎようとしたので、政宗がとがめると、政
        宗の後姿を見て、「おお、これは伊達殿でござったか。戦では後
        姿しか拝見したことがなかったゆえ気づかぬことでござった」と
        言った。
・直江兼続・・・大坂城で政宗が、秀吉から拝領した大判を諸大名に見せびらかし
        ていた。やがてその大判が末座の兼続の元へも回ってきたが、兼
        続は手にとって見ようとせず、扇子に乗せて、ポンポンと跳ね上
        げて見ていたので、政宗は「苦しゅうない、手にとって見てもい
        いぞ」といった。すると兼続は、「それがし、天下の采配を預か
        る身で、このようなものに触れるわけには参らぬ」と言ったとい
        う

・・・あと、閻魔に手紙書いた話とかあるね。
小説からそのまま引用のオンパレードであるが・・・
170無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 01:00
塙直之に面白いのがイパーイある

1.加藤嘉明のもとを離れる際、あてつけのように一句の詩を書院の大床に貼り付けていった。
 逐不留江南野水  高飛天地一閑鴎
 (ここの水はワシには合わん。カモメは大空へ飛び立って行くんだよーん)

2.浪人中大龍和尚のもとで雲水をして「鉄牛」と名乗っていた。いつも大小を差していたという。
 しかも時間に超ルーズ。供養の日に大遅刻をやらかし和尚に怒られると余裕全開で、
 一鞭遅到勿肯怒  君駕大龍我鉄牛
 (ちょっと遅れたぐらいで怒るなよ。あなた「大龍」わたし「鉄牛」)と答えたという。

3.福島正則の所に遊びに行った際、厠に尻をなでる化け物が出るので夜はいけないという。
 塙直之はかまわず用足しに行くと、便器の中から尻をなでる手が・・・
 見上げると屋根の上には大きな目が・・・
 直之おもむろに伸びた腕をつかみ大乱闘。脇差で仕留めるとそこには大猿があったという。

4.大阪冬の陣の際、宿陣に幅一尺長さ二尺の札に「塙団右衛門」とでかでかと張出し、
 曰く、「旧主加藤嘉明が討ち取りたがってるそうなんで分かりやすいようにしてやってんだ」と笑い飛ばした。
 おもしろがった連中が寄せ手の中からも多数訪れたという。
171無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 01:10
>>167>>168
直江兼継は10歳の時、景勝の母仙洞院綾子に見出されたが、そのあまりの美童ぶりに
坂戸城内では「御方様の趣味ではないか?」という声しきり・・・
172無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 01:19
朝倉義景は、信長に破れて落ち延びるとき、
一人の農民に「東郷はどこじゃ?」と、聞いた。
農民「あちらの山路を進めば東郷でございます」
その路を進み辿り着いたのは、越前大野だった…。
居城とは全く違う方向に進んでいたのだ。
側に居た、一族の景鏡は(ここまでか…)と思い
義景を裏切り彼を討った。

東郷は朝倉氏の居城の側にある土地だが、
幾つもの山を超えた山深い盆地、則ち大野にもあったのだ。
173無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 01:27
大坂方だった塙団右衛門の娘が伊達政宗の側室になってますね。
174無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 01:40
真田信之が残した金子。
これは、大坂の陣の折、大坂方に弾薬を売った金だという話がある。
松代あたりで十数万両、どう考えてもありえねー。
納得できる話である。

175無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 07:04
>>171
当時の風習からいって景勝は兼次を寵童としたのは確実。

>>147
信長は蹴鞠も好きで細川昭元等を相手に遊んでたのだが、
わざとウソをついたのかな?
176無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 07:31
>168
武将クラスが敵を討つという記述は
あくまで配下の武士と協力してのものだよ。
177無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 07:47
織田信長

・浅井氏が朝倉氏と結んで、自分に叛旗を翻したとき
「キエーッ」という異声と共に、饅頭を一口で飲み込んだ。
肥満気味だった浅井長政を、饅頭に見立てたらしい。

・口癖は「〜〜であるか」
〜〜の部分は他人には聞き取れない。
部下は「であるか」のイントネーション、表情で内容を察したといわれる。
得意だったのが秀吉、苦手だったのが光秀。
178無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 07:54
織田信長

・虫歯持ち。
その上、声がキンキンと響くほど甲高く、
自分の声が歯に染みて痛む、怒り狂う、後歯痛
という悪循環をくりかえした。部下にはたまらん主君だな。

・宣教師が黒人の奴隷を連れていたのを見て、
その黒人を庭に引き出し、上半身を裸にさせ
自らの手で背中を流した。
肌の色が白くならないのを、見て喜んだとされる。
179無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 07:59
織田信長

・ミルクに興味を持ち、牛乳を所望したが
あいにく、その頃の日本には乳牛がおらず
山羊の乳を飲んだ。
口に出した感想は「〜〜であるか」
結果として、彼の本心を知るものはいない…
180無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 14:32
>>129-132
ここらへんなんか勘違いしてないか?
武将の「戦歴」を挙げるんじゃないぞ?他大名との間の面白いエピソードとか、
そういうのを挙げてくれよ。
181無名武将@お腹せっぷく:02/06/05 19:44
>>180 九州に疎い俺は面白いが。要約して欲しいのなら同意だが(w

結城秀康が出雲阿国の評判を聞きつけ、召しだした時の話。
阿国は襟元に水晶の飾りをつけ、当時流行最先端の傾奇踊りを披露した。
その見事さはその場にいた者皆息を呑むほどだったという。
踊りが終わると秀康は
「世に女は数千万いるとて、そなたのような者をただ一人の女と言うのであろう。
 自分はただ一人の男とは言えん。そなたと比べれば自分のほうが劣っておる」
と言うと、その場で悔し涙をこぼしたという。
182磯野DQN ◆8z91r9YM :02/06/06 03:31
仁科盛信のいい話、教えろ!
183 :02/06/07 01:18
五郎だっけ?
184無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 02:10
>>182 すまんが俺は知らん。代わりに>>181に似たヤツ

謙信が石坂検校(誰?)を呼んで平家琵琶を語らせた時の話。
物語が鵺(ぬえ)の段まで差し掛かると、なぜか謙信ははらはらと涙をこぼした。(話は泣く所ではない)
不思議に思った家臣が「何故の御落涙でござりましょう」と訊ねると謙信は
「八幡太郎義家公は弓弦を鳴らしただけで、たちまちのうちに妖魔を退散させた。
 その46年後、源三位頼政公は鵺を射落とし止めを刺して仕留めたであろう
 頼政公から450年、我が国の武徳は言いようもなく末劣りしておる。
 わが身の武徳のいたらなさを思うと涙もこぼれよう・・・」と答えたという。

あんた一体何を倒したいんだ(w
185無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 04:41
礼儀作法なら三好長慶。
足利義輝の近習として、敵だった細川幽斎ですら絶賛。
さすがは武家作法の小笠原流の血を引くだけのことあり。
186無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 09:17
近藤勇たんは宴会のときにイパーツ芸として口の中に拳を入れて出し入れしたYO!
187無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 11:54
尼子経久
庭の木を誉めた客人にお礼として、その木を
プレゼント。
太っ腹?迷惑?
188無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 16:35
ある時直江兼続は、失態を犯した家来をお手討ちにしてしまったが、それが全くの冤罪であることが
わかり、遺族には相当の補償をした。
ところが遺族はおさまりきらず、「生き返らせろ、生き返らないうちは承知しねー」と騒ぎつづけ、
自分の非を認めていた直江もこれにはついにキレた。
「ちょっと生き返らせて欲しい奴がいるんですが、詳しいことについてはこいつらが直接伺います
ので話を聞いてやってください。宜しくお願いします。閻魔大王様」という手紙を書いて渡した後、
遺族たちの首を全員切ってしまいました。
189無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 17:15
>>187
客人が迷惑がって「もって帰れない」と遠慮すると、経久は
木を細かく切って持って帰るように押しつけたとか。


っていうか、最近急にこのスレ伸び出してますがなんでですか?
190有名武将@お家断絶:02/06/07 18:15
>189
よう気付いたの。
それは名スレだからじゃ。
191無名武将@お腹せっぷく:02/06/07 19:48
ある日ある時、常陸の佐竹義昭の許に関東管領上杉憲政が訪ねてきたことがあった
そうじゃ。

上「おい〜〜〜す」
佐「こっ、これはこれは・・・・かようなむさ苦しいところへワザワザ(何しにき
  やがった・・・?)}
佐「して御用の向きは?(城譲れとか抜かしやがったらどうしよう・・・)」
上「うん、実はな、そちに折り入って頼みがあるのじゃ」
佐「(それ来た!)頼み・・・と申されますと?」
上「うむ。ワシが関東管領として長年坂東の鎮撫に尽力してきたことはそちもよく
  知っていよう?」
佐「それはよく・・(お前がいつ尽力したんだよ、いつ)」
上「でな、ワシももう年でな。この重い役目に疲れたのじゃよ。そこでな、坂東に
  勇名高いその方にこの関東管領職と上杉の姓を継いでもらいたいのじゃ(そう
  すりゃもう北条に小突き回されずにすむわウヒヒ)」
佐「なんと・・・・(どうせ北条にイジメられるのがいやで思いついたのだろう)」
上「どうじゃ。悪い話ではないと思うが?」
佐「それはもう(悪いどころじゃねーよ!)」
上「ならば承知じゃな?」
佐「いえ!!」
上「なに?」
佐「我が佐竹家は新羅三郎義光公以来の伝統ある武門の家柄。例え管領上杉家といえど
  これと引き換えになどできませぬ。平にご容赦」
上「・・・」
佐「どうしてもと言われるのならば、関東管領の役職だけならば(そしたら北条と戦う
  にも便利だし)」
上「なっ、ダメじゃダメじゃ。これは抱き合わせでしか売らん!」
佐「左様にござりますか(チッ)」
上「その方がワシの力になってくれぬならもうよい!(越後の景虎がいるもんっ!)」
佐「いえけしてそのような・・・」
上「だまらっしゃい!憲ピー帰るっ!」

てなことがあったそうじゃ。めでたしめでたし。
戦国名将一日一言 PHP文庫 童門冬二 みんな買いましょう
193>>188:02/06/08 00:18
流石、よく知ってらっしゃる
仁科は武田が滅びる時、唯一裏切らなかった武将では?
まあ勝頼の弟だし当然と言えば当然だけど〜
194無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 11:16
>>192
内容に興味はあるのだが、オレの出した金が同門の懐に納まると思うと買う気が失せ
ます(笑
195無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 11:44
荒木村重

・村重の父は荒木信濃守義村といい、池田六人衆の随一であったが、中年にして子宝
 に恵まれなかった。そこで、あるとき夫婦で摂津中山の観音へ参籠し、十二の灯を
 かかげ、二十八品の経を転読し、「哀れ願わくば、一人の男児を授け給い、其の子
 の成人後は天下に威名をふるう弓取りにして給え」と祈祷した。これを続けている
 と、七日目の暁、十二の灯の光の中より、明るい珠が飛び降りてきて、義村の妻の
 懐中に入った。夫婦は大願成就と喜び、帰路につく。やがて、妻は懐妊し、十五ヶ
 月後に普通より大きな赤ちゃんを出産する。夫婦はこの赤ちゃんに、十二の灯の影
 より出てきた珠の子だから、「十二郎」と名づける。この十二郎、育って弥介と号
 し、後の荒木摂津守村重を名乗る。
196株板住民:02/06/08 21:02
>>195
なんか孔明の延命話に似てるね
ってブラジル2点目かよ
197無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 21:11
>>187
 だから、尼子経久は、客人に自分の持ち物を褒められると、
喜んでその物を褒めた客人に与える奇癖があった。
 だから、それが知れ渡ると、客人の誰もが、遠慮して経久の
持ち物を褒める事はしなくなった。
 で、その客人は、まさか庭木までは、褒めても自分にくれる
とは言わないだろうと思って、庭木を褒めた訳だ。
198無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 21:29
武田信廉は、騙されて馬に絵心をかきたてられているところを
斬首された。
199無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 23:07
高橋紹運
息子を立花家へ養子に出す際、彼は一振りの脇差を息子に与え
「もし父と立花家が争うときはこの脇差にて迷うことなく父を討て
そしてそれができないときはこの脇差にて自分の命を絶て」
と言ったそうである。以後息子、つまり後の立花宗茂はこの脇差を
肌身離さず持ち続けたという
200無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 23:22
立花宗茂
関ケ原の合戦の際、宗茂は大津城を攻めていた。
しかし、石田方の主力が破れ撤退を余儀なくされた。
そしてここで運命的な出会いが彼を待っていた。
関ケ原の戦陣を見事敵中突破した島津義弘率いる軍勢に出会ったのである。
宗茂にとって、尊敬すべき武人であった父・高橋紹運
同じ石田方に属するとはいえ、島津は父を討った憎むべき存在であった。
家臣の一人が宗茂にささやいた。
「今こそ亡き父君の敵を討つ絶好の機会ですぞ。お指図を!」
しかし宗茂は首を横に振り、一言こう言った。
「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」
宗茂にとって父より受け継いだ武人としての矜持は何にも代えがたいものだった。
満身創痍の島津義弘を討ち取れば、父が死をもって守り通した武人としての誇りを汚すことになる。
宗茂は憎しみを乗り越え、父の名を守ることを選んだ。
そして、領国が近いこともあり宗茂と義弘は互いに助け合って九州に帰っていったそうである。
後にこの恩義に応えて宗茂が攻められた際、島津は援軍を出したとのこと。
なかなかさわやかな話しである。
201無名武将@お腹せっぷく:02/06/08 23:30
鹿之助は、便所に飛び込んだ
んで、逃げた
>>201
ありがとな、でもガイシュツですた。
203無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 01:12
>200
>後にこの恩義に応えて宗茂が攻められた際、島津は援軍を出したとのこと
誰に攻められたの?
204無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 01:25
信長、秀吉、家康と三人の天下人の手に渡った名器「松本茄子」と「九十九(付藻)茄子」。
しかし大阪城落城の際、これらは城とともに一度は失われている。
惜しんだ家康は焼け跡から探し出すことを命じ、その破片が丹念に拾い集められ、
これを漆職人 藤重藤元・藤巌父子に渡し、修復を命じた。

後日修復が終わり二人が家康に献上すると、そのあまりに見事な出来栄えに驚いた家康は
これを天下一の技と褒め称え「付藻茄子」を父藤元に、「松本茄子」を子藤巌に与えた。
現代技術でX線解析を行ったところ、その修復技術はやはり驚愕モノであることが判明した。


スレ違いか?
205無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 01:38
>>204
プロジェクトX風に解説すると面白いかも
206204:02/06/09 01:52
よーしパパお宝エピソード始めちゃうぞー



いいのか?>>1
207株板住民:02/06/09 02:08
>>206
1じゃないけど、どうぞ
もしかして、人気トーナメントに感じ入ってみんないきなり書き込みだしたの?
209無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 02:12
>>204

大阪城。

豊臣家の存亡をかけた一戦。

この戦いに勝利した徳川家康は、漆職人の藤重藤元・藤巌父子を召しだし、ある命令を告げた。

信長、秀吉と伝来した天下の名器「松本茄子」と「九十九(付藻)茄子」の修復である。

この難問に、藤重藤元・藤巌父子はどう立ち向かったのか!?

今夜のプロジェクトはご隠居の無理難題に立ち向かった、ある男達の物語であるbyさだとも


こんな感じのやつをキボンヌ
行間には中島みゆきの詩を入れてくれ
んで、エンディングも・・・

2002年、現代技術でX線解析を行ったところ、その修復技術はやはり驚愕モノであることが判明した。
彼らの技はホンモノだった。

ってな感じでよろしく。
210無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 02:19
ついでにフラッシュきぼんぬ
211株板住民:02/06/09 17:27
松永久秀のイイ話はアル?
悪い話は山ほどあるが
213無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 17:44
明智家(坂本城)
明智の血縁が土佐にのがれ
坂本性を名乗った
のちの
坂本竜馬は
その血筋と言われている
過去ログ■プロジェクト×(ネタスレッド)
http://salad.2ch.net/nhk/kako/983/983286377.html
「プロジェクト×〜挑戦者たち〜」公式hp
http://www.nhk.or.jp/projectx/
上の2つを使って誰か>>204をプロジェクト×みたいにして
215204だが別ネタで:02/06/09 19:59
天下三名室と謳われる国宝「如庵」
信長の弟にして利休七哲の一人、織田有楽斎がその美意識の結晶として建てたと伝えられる。

如庵を移築せよ!
男達のドラマが始まった・・プロジェクトエーっクス エークス ェ-ックス

♪風の中のすーばるー 砂の中のぎーんがー
216無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 20:00
三井物産初代社長、益田孝
三井財閥の事実上の総帥であった。
人は彼をこう呼んだ。「三井財閥の大番頭」
益田は茶道においても「小堀遠州以来の大茶人」と呼ばれる文化人でもあった。

時代がキナ臭さを増す昭和11年、政府から一片の通知が届いた。
「三井邸内にある茶室如庵を国宝に指定する」

益田の顔はなぜか沈んでいた。
217つーか戦国ですらなくなってるし:02/06/09 20:01
益田は気付いていた。
事が起きれば帝都といえど安全ではない事を・・・
だが口にする事は許されなかった。

気がかりは自分の身より「如庵」だった。
「灰になる事はなんとしても避けねば・・」
唯一の選択肢は移築であったが「国宝指定」という壁が立ちはだかった。
益田は政府に働きかけた。
218笑いは捨てました:02/06/09 20:02
政府との折衝は難航を極めた。
粘り強い交渉の末、引き出した条件は
「移築は許可する。ただし自費で行うこと」
当然わずかな破損も許されなかった。

益田は自らの別荘のある神奈川県大磯へ移転を決めた。
事は簡単に運ぶと思われた。

・・・・大きな間違いだった   プロジェクトエーックス
続きはサカーの後
220無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 23:28
慎重に如庵を解体し、資材を大型トラックに載せ大磯を目指した。
誤算は道路事情だった。
舗装道路すらまだ珍しかった時代、大型トラックがすんなりと通れるはずもなかった。
慎重にやり過ごして行ったが、とうとう先に進めなくなった。

皆が途方に暮れた。
益田だけは諦めてはいなかった。
221無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 23:29
益田は冷静に言い放った。
「道がないなら造れば良い。金は・・・俺が出す!」
プロジェクトは再び動き出した。

行く先々で付近の住民を集め道路の拡張工事が行われた。
益田の人脈が効果を発揮した。

佐藤トメさん(82)談
「ええ、そりゃ大変な騒ぎでした。三井のお殿様が茶室を運んでると・・・
 大名行列みたいにいっぱい人が出ました。私も炊き出しに借り出されてねぇ」

皆が一つになった・・・
222無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 23:30
この時協力を申し出てきた男がいた。
――松永安左衛門――
小田原の振興に力を注ぎ、のちに「電力の鬼」と呼ばれる財界人だった。

松永「お困りのようですな益田さん」
益田「・・・・」
松永「微力ながら協力させて頂きますよ・・・いやさせて下さい」
益田「金がかかりますよ。いいんですか?」
松永「道路を造るということは日本の為にもなるでしょう。御安い御用です」

益田の目頭が熱くなった。
思わず松永の両手を握り締めた。   エーっクス
223無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 23:31
大磯三井邸
ようやく如庵はたどり着いた。長い道のりだった。
職人たちの手により再び組み上げられると、東京にいた時と少しも変わらなかったという。
昭和13年のことだった。

その年の暮れ、益田孝はすべてを見届けるように帰らぬ人となった。
享年90歳。
移築にかけた費用は現在価格において5億とも7億とも言われている。

戦後如庵は名鉄が買い取り、有楽斎生誕の地である愛知県犬山市に再び移築され、その姿を今に伝えている。
224無名武将@お腹せっぷく:02/06/09 23:59
>>215-223
お疲れさまです。
この話しは初めてだったし、このスレは20世紀ものないから新鮮だった。
また期待してます。
225無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 02:43
冷酷漢というイメージの強い最上義光。
彼には駒姫という美しい娘がいた。
その娘が11歳の時、よりによって後の殺生関白こと豊臣秀次に目をつけられ
義光に「ぜひ姫を侍妾に」と催促される。
いったん義光は断るが、それでもしつこく催促してくる時の権力者には適わず
ついに駒姫は京都の秀次の元に連れて行かれた。

しかし、その後秀次は例の謀反の疑いをかけられ切腹させられる。
その際、秀次の関係者も処刑される事になったが、その中には駒姫の姿もあった。
義光はかわいい娘の為にさんざん手を尽くし、秀吉にも家康にも助命を頼んだが、
結局聞き入れられず駒姫は15歳の若さで処刑された…
(義光の正室、大崎氏も心痛のあまり14日後に亡くなった。自殺とも言う)

義光は娘を弔うために専称寺を建立した。最上家一族の為でなく、娘1人の為に。
それは生前に娘が過ごしていた山形城の居間を移すという手の込みようで
現在もなお面影を残すという。
>>225
悲しいね…。
それでいてよい話と思ってしまうんだけど。
最上義光は好きな武将だけに。
227無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 16:07
>>255
なんとも辛い話だなぁ。。
あの最上義光だけにいっそう悲しく見える。
義光の中ではそれが一番の豊臣嫌いになった理由なのかもね。

他にもこういう合戦、戦略意外でのエピソードをキボンヌ
228無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 16:19
>他にもこういう合戦、戦略意外でのエピソードをキボンヌ
それがもともとの主旨なんだろうけど、勘違いしてる奴がいて困るね。
229無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 18:11
では内ヶ島氏の話などを。

帰雲城を本拠地に、飛騨白川付近に勢力を持っていた内ヶ島一族は
佐々成政と組んでいたので1585年、羽柴秀吉方の金森長近に攻め込まれてしまった。

もはや勝ち目なしと降伏した結果、なんとか所領は安堵。
とりあえず良かった良かったと、城で祝宴を開いたところ
その夜、大地震が発生して、帰雲城は山津波のため倒壊・埋没、
内ヶ島一族は全滅して滅亡してしまった。


なお現在でも、帰雲城の正確な位置は不明らしい。
230無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 18:19
前田利家は自慢話が大好きだった。
特に、佐々成政に勝った末盛城の戦いと、信長と添い寝していたことは
二大自慢話だった。諸大名は秀吉の友人の前田利家の機嫌を損ねてはと
いつも同じ話をする利家に相槌ちをうったり愛想笑いするのに大変だった。
231長宗我部信親:02/06/10 18:22
われは、九州征伐で取り残され
島津の猛攻を受けた
だが、阿修羅のごときあばれ
多数をやっつけた
が、力尽き最後をさっとた
われ、ともども部下は全滅した
主君の為に部下が全滅したというのは
戦国広しといえども
この戦いだけという話じゃ!
われの偉大さが分かったかい
232無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 20:13
>>226
駒姫に関して悲しいのは、京都に到着したのが秀次の処分が既に
決まりかけた当時。つまり秀次の手さえついてない状態だった。
そのため駒姫に対する同情論は強く、あの淀君でさえ秀吉に助命を
嘆願しているのだが結局処刑…。情報の遅れが招いた悲劇。
伊達政宗は大のお茶好きであった。そのおかげで仙台には茶菓子の
店が多いといわれるが、政宗の無茶なところはなんと寒い仙台領内で
茶の生産を命じたことであった。さまざまな検討の結果、北上川流域
桃生町で茶は栽培されることになった。ちなみに現在でもこの地は
茶栽培の北限とされている。
234無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 20:30
政宗は、幸村の娘を保護した
んで、家臣と結婚させた
235無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 20:59
最上もなめられたものだね。
秀次の正室である池田輝政の妹は助かってんのに。
ところで駒姫は政宗の従姉妹だね。
236無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 21:16
政宗が人前で全然寝なかったってほんとですか
237無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 21:45
>>235
なるほどそれは馬鹿にしている
238無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 21:54
関が原で負けた三成を
みんなが、悪者にしたが
唯一、水戸光圀だけが、三成をかばった
武田家の三枝守友の火車退治の話おせーて。
240平将門:02/06/10 23:33
強かった男だが、最後は、奇襲をうけて死亡自分の兵は、500ぐらいあいての兵数十倍
将門は、首をのざらしにされました、そして将門の目が開いて首は、飛んでいきました、
この怨みは、はすれぬぞーといいました、その後にかずかずの災難にあって、くわしこと
わかりませんが、呪いをのがれるため、墓地を築きましたこれで呪いは、逃れましたが、
が、現代でも、将門の墓を移動するとかずかずの事故が、起こります、心霊現象もあこります
>>238
たんなるへそ曲がりですなw
242無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 00:03
>241
いや、違うと思いますよ
この時代に(江戸初期)三成をかばうのは
将軍家に目を付けられても当然
もし、外様大名」が言ったなら
なんらかの処罰をうけていたでしょうね
みんな、将軍家の顔色をうかがっていたので
記憶は、定かじゃないんですけど
豊臣家を守る為に、した事で
それを、攻めるのは、武士の道に反する 
とか、なんか、そんな、事だった
ような 気がする
間違ってたら すいません
243無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 00:39
江戸時代、上杉家では幕府をはばかって、景勝と直江のことを顕彰することを控えていた。
藩主の祖先である景勝はともかく、子孫が絶えた直江はほとんど無視されていたが、ただ一人
公式に菩提を弔ったのが、名君上杉治憲(鷹山)である。
>242
おおむねそんな感じ。同じ論旨で幸村もかばっている。

「真田左衛門佐は常に東照公に敵対して身に村正の刀を離さず、
これ村正は徳川家に不祥なるものと云はるるを以ってなり。
また石田治部少輔は憎からざる者なり。人各々其仕ふる処の為にす。
苟(いやしく)も義によって事を行ふ者は敵と雖(いえど)も憎むべきに非ず」

                       水戸光圀「西山遺事」より
245無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:35
勉強になりますね。みなさん博識ですごい。
246無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:47
長宗我部家は中国皇帝の血筋と言われている
247無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:47
丹羽長英の愛馬は琵琶早英。
競馬のビワハヤヒデはパクリ?












な〜んてな。
248無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:48
>>246
さすがにそれは(^^;
249無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:49
彡    ビュウウウ…
          彡
  彡
        .∧ ∧    寒いなオイ…
       ヾ(,,゚Д゚),)
        人つゝ 人,,
      Yノ人 ノ ノノゞ⌒〜ゞ
    .  ノ /ミ|\、    ノノ ( 彡
     `⌒  .U~U`ヾ    丿
             ⌒〜⌒
250無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:50
>248
ホントですよ
司馬遼太郎も書いてるし
251無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:53
>>250 それを言うなら大内氏は百済(以下略
252無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:53
>>250
ソースが司馬遼か(w
253無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:53
>>250
司馬を出したらあることないこと全部ホントになるぞ
254250:02/06/11 02:59
光栄のゲームの本にも出てたような・・・
司馬は、いちよう伝説と断ってますが
255250:02/06/11 03:18
他にも載ってました>抜粋
長宗我部氏の出自は、秦の始皇帝の血を引く
渡来人、秦氏にさかのぼる・・・以下略
256無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 03:33
すごい (((;゚Д゚))ガクガクブルブル
257250:02/06/11 03:52
またまた 発見
元祖は、太唐人、秦始皇六代孫の流れなり
日本渡海、初め信濃国に住す・・・以下略

一部を除いて諸書の系図では、
長宗我部氏は、秦氏の後裔とされている・・・以下略

系図では、秦河勝 っという人から初まってました
司馬史観
長宗我部が秦氏の子孫かどうか以前に
秦氏が始皇帝の子孫というところが疑問なんじゃないかな?

秦氏を遡るとアラブ人だとかユダヤ人だとか徐福の子孫だとか
羽田元首相は秦氏だとか、、、逸話だからいいか、、、。
260無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 16:24
真田、日ノ本一の兵(つわもの)
島津義弘 伝
261無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 16:35
↑(((( ;゚Д゚)))マタキタヨ
262無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 16:53
>>260
それを言ったのは家久。
問題なのは「島津がそう言ったから真田は凄い」というドキュソ。
263260:02/06/11 17:34
>262
そうか
俺の記憶もたいした事ねーな
264無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 17:38
司馬の先祖は?
265無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 18:00
>>264
うろ覚えだけど、確か福田とかいって播磨三木城に篭城してた兵士の子孫のはず。
266無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 20:23
石田三成が関ヶ原の戦いで下痢だったのは有名だが、敗走中に見つ
かる手がかりとなったのは、追跡していた東軍が野グソを見つけた
から。
その野グソのそばには、上質な美濃紙が捨ててあった。
267無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 20:28
真田幸村は、農民にいくさを教えるときにこう教えた。

いくさとは夜這いのようなもの。
そーっと近づき一突きしたら一目散に逃げるのだ。
268無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 20:31
>267
ぶ! ワロタ

豊臣秀吉は最初、足利義昭の養子となって征夷大将軍となろうとしたが、義昭に拒絶され、果たせなかった。
悔しかった秀吉は太閤となってから、大坂町民に将棋の玉将(王将)の名称を「大将」に改めるよう布告したが、評判が悪かったためしばらくしてやめたそうである。
270無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 21:23
中村橋之助の長男のデビューは、大河の毛利元就(橋之助)での生
まれたばかりの赤ちゃん輝元の役だった。
271無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 21:24
ほほう。興味深いですな。って将棋はそんな昔からあったのか。。。
272無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 22:09
安芸の名将:古葉竹識は、広島城(別名:鯉城)にて、三人の息子
(山本浩二・衣笠祥雄・小早川毅彦)の前でこう言った。

よいか、ここに三本の抜刀がある。
一本の抜刀はなんとか折れる。
だが、三本の抜刀を束にすると折れない。

しかし、三男の小早川は三本の抜刀を床に叩きつけ、その怪力でへ
し折った。

のちに怪物:江川卓は小早川の怪力の前に倒れ、隠居を決意するこ
とになる。
273無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 22:30
>272
追加>江川は、涙を流したという
274無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 23:38
>>239
逸話についてはよく知らんが
火車鬼を退治したと言われるのは多田満頼だと思われ
275無名武将@お腹せっぷく:02/06/12 00:06
>>229
その地震では越中木舟城主の前田秀継も城ごと亡くなってる。
秀継は前田利家の弟ね。
276無名武将@お腹せっぷく:02/06/12 03:57
徐庶元直は何年ぐらいまで劉備の元にいたのかな?
277無名武将@お腹せっぷく:02/06/15 15:57
age
このスレ勉強になります
黒田官兵衛がなくなる前に

ボケ老人になった。

心配した長政が訪ねると

「わしが嫌われれば、おまえに皆がついてくる」と言った。

泣かせる話だねぇ

しかし、長政といい直之といい・・・

だめ藩主だから、栗山・・・(以下続く?)
池田輝政が死んだあとに殉死しようとした家臣がいた。
他の家臣が止めようとしたがきかないので輝政の嫡子の利隆にとめて
くれるように頼んだ。利隆はその家臣の前まで来ると、
「父には忠誠を尽くすのに自分に尽くす気がないならとめないので
勝手に死ねばいい」と言ったので誰も殉死しなかった。
280無名武将@お腹せっぷく:02/06/15 23:20
>>278
そういえば「黒田騒動」ってどんな話なの?
あんま詳しく知らないんだけども。
281無名武将@お腹せっぷく:02/06/16 14:51
赤壁のこと?
>>280
栗山大膳は長政が自分の遺言の証人にするほどの忠臣だったが
後を継いだ忠之が幕府も気にせず浪人を召抱えたりするので、ご意見番よろしく口うるさく諫言。
二人は次第に対立していき、忠之が大膳を誅殺しようとしたりした。
この時は大膳が剃髪して子を人質に差し出したりして引いていたが、忠之は一向に態度を改めず。

業を煮やした大膳は幕府に行状を直訴したが、その内容というのが
「わが主君に謀反の意思有り」と言う過激なものだったので、御家取り潰しもありうる危機的な状況へ
この時点で「黒田騒動」と呼ばれる。

時の将軍家光が直々に裁定に乗り出し、お家騒動の責を問い一度は所領没収。
・・・するもその場で「父祖の功績に免じ、再度所領は安堵する」ということでめでたしめでたし
栗山大膳は事の責を負い南部預かりとなり盛岡に蟄居。
が、その意気や良しということで生涯の身分と食い扶持は保障された。

・・・という話。
戦国期の武断政治から安定期の文治政治への移行期だったんで、これからの家臣のありようのモデルケースとして
幕府が喧伝しようとした意図が感じられるな。
それと、この話のバックボーンに長政が跡継ぎを決める時に、嫡子忠之の粗暴を嫌い
次男の長興にしようとしたことがあったけども、忠之傅役の大膳が
「自分がついているので大丈夫。お家騒動の元になるようなことはするべきではない」
と言い、忠之に後を継がせたといういきさつがある。
おげふぃんなはなしだが
徳川家康が三方が原の合戦で敗北し
浜松城に帰ってきたとき
脱糞していた。
家康ねたでもう一つ。
嫡男松平信康を切腹させた家康は
信長に言い訳できなかった
酒井忠次を非難した。
後に酒井の嫡男家次が
何かやって(ここ忘れてしまった・・・スマソ)
忠次が助命嘆願した際に
家康は「そちも息子がかわいいことがわかったか」と
言ったという。
285無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 00:25
あげ
286無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 00:42
>>284
関東移封の際、筆頭家老の嫡子でありながら家次は3万石しか
与えられなかったので忠次が愚痴ったところ家康はそういった。

後に家次は政務軍務で功を積み自らの力量で加増を得たので、
結果として家次の為には良い人事だったようだ。
287無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 01:27
関が原で三成を捕らえ、手柄のサヨナラホームランを決めた田中吉政
一躍筑後32万5千石の太守になったが息子には恵まれなかった。

長男吉次=パパなんか嫌い!!→家出して出家(野垂れ死に説も有り)
次男吉信=超DQN 早死にしてるのに生涯で53人を手討にした
三男吉興=徳川家に召しだされ二万石で別家を立てる
四男忠政=家督を継いだが、大阪夏の陣に戦が終わってから参陣という大失態。
        嗣子がなく急死したので御家取り潰し
        しかも後に入ったのが、あの立花宗茂。領民は惜しみもせず喜んで宗茂を迎えた。

逸話が多いのは次男吉信
1.功成り名を遂げ保身に汲々とする父をナメ切り、家臣を引きつれ柳川城に押し寄せ空鉄砲を一斉射撃。
 ビビる吉政を見ては喜んでいた。
2.下人を手討にする際反撃されて腿に深手。
 「ここは肉が多くて腐りやすいからこうする!!」
 と言うと文字通り傷口に塩を擦り込んだ。その下人はメッタ切りにされたのは言うまでもない。
3.下人を手討にする際また反撃され今度はふくらはぎに深手。その下人は当然メッタ切り。
  いつまでたっても痛みが引かないので、
 「これしきの傷がこんなに痛むはずはない!!」
 とおもむろにシコを踏み始めたが、傷口がひらき出血多量であぼーん。



いろんな意味で合掌・・・・
288無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 03:19
信長が三好の料理人を捕らえた。
信長「美味いものを食わせれば命を助けてやる」
料理人は腕によりをかけて、京風の上品な料理をつくった。
信長「まずい。殺す」
料理人はもう一度だけ機会をくれと頼み、今度は濃い味付けの料理をつくった。
信長は今度は満足し、料理人の命は助かった。料理人はそのことを後で人に聞かれると
料理人「田舎大名の信長は尾張の濃い味付けのほうが気に入ったようだ」
それを信長に告げ口するものがいたが、
信長「自分の考えに従って行いを改める者は生かす。そうしない者は殺すまでだ。」
関ヶ原の後、捕らえられた三成は家康の居る大津城へ連行された。
しかし家康の前には上れず、城門の前に畳を敷いてその上に座らされて晒されていた。

次々に登場してくる東軍の大名は、縛された三成を見て罵倒したり唾を吐きかけたりしたが、
しかし、黒田長政と藤堂高虎だけは違った。

長政は三成の姿を認めるとすぐに馬を下り、
「勝敗は天運とはいえ、さぞ御無念でござったろう。」
と丁寧な慰めの言葉をかけた上、自らの羽織をぬいで三成に着せ掛けた。

高虎も馬を下りて、敗戦前の三成に接すると変わらず
「このたびの戦において貴公の部隊の戦い振りは、敵ながら誠に見事でござった。
もし貴公の目から見て我が部隊の至らぬ点があれば、ぜひ御教授願いたい。」
と、慇懃に語り掛けた。すると三成は少し黙した後に
「されば貴公の部隊には鉄砲隊に高い身分の指揮者がいなかったように思えた。改善すれば鉄砲隊の威力も大きく変わってこよう。」
と答えた。
高虎は大いにこれを謝し、実際にすぐに鉄砲隊の再編成をおこなった。
290無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 06:59
>287
すげぇ…まさにドキュンだ。
だが変な方向に気合「だけ」は入っててすげぇ。
291無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 07:25
隠遁・蟄居・左遷の名所『山形』
古くは蜂子皇子から始まり源義経も逃避行で通っていきました。
戦国末期は上杉氏・酒井氏(栄転?)から忙しくなります。
あの「前田慶次」なんかも花の都から上杉氏に付いてきたり
加藤清正の子忠弘氏や沢庵和尚もやって参りました。
織田氏や水野氏も次々と左遷と連荘モード・・・
野望をもっても滅亡(最上氏)コースや時の人コースは
古くは清川八郎が有名でしたが、近年もいらっしゃるようです・・
成功したのは伊達氏ぐらいかなあといっても隣県に(笑)
本気で調べだすと止まらないかも・・

292 :02/06/22 10:29
>>287
これが現代だったら2chのヒーローになれてた
293偽善者逝って良し!:02/06/26 06:41
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1024551401/l50
ここにこのスレを潰そうと企んでる馬鹿がいます。
非難を浴びせましょう!
>>293
ウザイ
295無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 20:17
沖田畷の戦いで竜造寺四天王の江里口信常が味方の首を持って島津の本陣に行って、島津家久に怪我を負わせた話しは有名だが、家久が「もしこの者に子息がいれば養子にしたい」と言ったのはあまり知られていないと思う。この話を聞いてワシは家久マンセー
296無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 22:32
フロイスが信長と会見したときの様子を記した手紙から

信長がちょっと手で合図しただけで家来たちは獅子の前から逃げるように
すばやく退き、誰かを呼べば、部屋の外で百名もの家臣が一斉に返事を
するありさまだった。
297無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 22:55
ワイルドかつ野蛮な印象の強い伊達政宗は、千利休に師事し、茶の湯を心得ていた。
ある日手にした名物の茶碗を落としそうになったとき、心臓が止まりそうになりさすがにビビッタ政宗。
彼はその狼狽した自分を恥かしく思い、茶碗ごときになにを、とばかりに、その名物茶器を打ち砕いてしまった。
米一石が約一貫とされていた当時、その茶碗は千貫もした超高級品だった。
298無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 14:57
age
299無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 15:09
石田三成の墓が秋田市八橋にあるそうだ。まだ見に行ってないが。
佐竹氏にかくまわれていたという、ありがち影武者伝説が、三成にもある。
300無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 16:11
>>297
それで名物茶器には目もくれなくなったらかっこいいけど
茶器集めしてたらカコワルイ・・・
301無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 18:48
戸村義國

大坂冬の陣の時、横手城代戸村家の祖戸村十太夫義国は
先方の大将後藤又兵衛基次が槍の穂先に餅をつけてエイットばかりに差し出すと
義国はどっかと座してこれを食した。
大将はじめ居並ぶ強者共もその度胸の良さにあっぱれあっぱれと賞めたたえたという。
以来これを祝ってあっぱれ餅として売り出されたと伝えられている。

大阪方の武将真田幸村と戸村十太夫との一騎打ちは、
侍大将の一騎討ちの最後の物語ともなっていて、
両大将の死闘は今の時間で一時間半にもおよんだと伝えられている。
その時に戸村十太夫の使った太刀は「国宗」と言われ、
現在中仙町の文化財として現存している。
刀の棟には真田幸村が切りつけた時についたと言われる傷が残っている。
戸村十太夫は、この戦いで武名を天下にとどろかし、
その功績により将軍徳川秀忠より感状と「青江次直」の刀を拝領した。
大名ならいざ知らず、一介の侍大将にとっては破格の待遇といえる。

上は横手のあっぱれだんごの由来。
下は「国宗」の由来。いっしょに古文書も残ってるみたい。
302武田珍玄:02/07/01 19:13
徳川家康は家臣をある部屋に招いて、こう質問したそうだ。
「この部屋にある碁石の数はいくらに見える。」
すると、家臣は「黒が400白が600あるとお見受けいたします。」
これに対して家康は、「お主は、少し多めに見てしまうようだが、それでは、
遠くから敵軍を見たとき本当の数よりも大軍にみてしまうであろうな。」と言ったらしい。
家康が家臣の視力を確かめるときの方法にまつわる逸話でした。
303石田三成:02/07/01 19:18
徳川家康は退却するとき、糞をもらして本多忠勝に笑われたそうです。
304無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 19:29
信長が数十人の護衛と山中を歩いているとき突然、銃声が鳴り響きました。
その火縄銃を撃った男は、信長を狙っていましたが完全にスカりました。
信長はその男をすぐに捕らえさせ、顔面のこぎりこきの刑!?に処しました。
信長はやっぱり、残虐趣味ですね。
305無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 19:57
元親は秀吉に聞かれました
お前は どうするつもりだったのか?
元親は答えました
私は、あなたがいたから天下が取れなっかた 
306無名武将@お腹せっぷく:02/07/03 23:33
>>149-152
日本中にある話(らしい)
>>12
豪放磊落と思いきや、裏っ返せばちょうヘタレ
>>272
× 広島城
○ 広島宮城
だろ?たしか…。
309無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 03:42
age
310無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 03:55
有名な逸話で申し訳ないが、延沢信景がいかに凄かったかという逸話

延沢信景(満延とも)が最上義光に力を試された
義光の側近7人を投げ飛ばし、義光が桜の木にしがみ付くと
信景はこれを引き剥がそうとし、二尺ある桜の古木が根元から裂け倒れた

という話なんだが、これって義光もカナーリ凄いんやないかと思うんですけど
311無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 03:59
>>307
450年も前のギャグにケチつけんなよ
312羽川小太郎伝 1/3:02/07/08 15:34
出羽国由利十二頭の一人とも伝えられている。
居城である羽川(現在の秋田市下浜羽川)は、あまり米がとれない
場所だったため、領地経営の一環として、近隣の商家へ押し入り、
強盗を働いてその収入(アガリ)でしのいでいたという。

そのせいか、戦慣れはしており、>>89にある前田VS由利十二頭の争い
では主力をつとめ、大曲城を落城させた。
そのとき陣中で歓喜の舞を踊ったといわれており、現在も地元羽川で
舞が伝承されているという。
313羽川小太郎伝 2/3:02/07/08 15:34
数年後、出羽国では安東愛季が没し、その跡を継いだ安東実季と横手の
小野寺義道・角館の戸沢盛安の連合勢が戦ったときのこと。
(峰の山合戦:現在の秋田県仙北郡協和町峰吉川近辺か?)
安東実季側に加勢した小太郎は、戦場近辺の神社にこんな祈願をしたと
いう。

(むちゃくちゃな要約で)
ま、俺様はこんなかったり〜戦に出るわけだけどよ、聞いてくれや。
いずれはこの俺様がここら辺を全部支配すっからよ!
そんときはよろしく頼むぜBABY!

敵方の反応

小野寺義道
( ゚д゚)ポカーン

( ゚д゚)・・・

( ;゚д゚)・・・・・

(・∀・)ハゲシクワロタ!

戸沢盛安
( ゚д゚)ポカーン

( ゚д゚)・・・

( ;゚д゚)・・・・・

(・∀・)テメエハイナカヘカエレ!

ちなみに、この戦いでは、強盗で培った小太郎のゲリラ戦術によって安東方
優位の講和に導いたと伝えられている。
314羽川小太郎伝 3/3:02/07/08 15:36
数年後、隣の赤尾津家より、
「戸沢家臣の小笠原ちゃんがいい物持っているYO!」との通報があり、小太郎は
早速手勢を引き連れ小笠原家に強盗へ・・・
ところが、小笠原家では手ぐすね引いて待ちかまえていた!(もちろん、完全武装)
さんざんに蹴散らされた小太郎が居城で見たものは・・・

そう、居城は赤尾津勢に乗っ取られたのでした。
かくして、小太郎は帰るべき城を失い、流浪の日々を送ったのでした・・・
>>228
吸収には戦功(過大報告)しか誇る物が無いんです
許してやってください
>>289
遅レスだけど長政の逸話に補足.

罵詈雑言を浴びる三成を見て心を痛めた柳生宗矩は,
黒田長政に陣羽織をかけてやってくれと頼む.
長政は別の陣羽織を用意し,「宗矩の手でかけてやれ」
と言うが,「長政の手でかけないと意味が無い」と断る.

で,長政が嫌嫌陣羽織をかけてやった・・・・・・って話もあります.
お目汚しスマソ.
>>316
宗矩も長政も(・∀・)イイ!
318無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 20:31
age
319無名武将@お腹せっぷく:02/07/16 05:49
ある戦陣にて、
伊達政宗が斥候役をかって出た時の事。
周りからものすごい勢いで野次が飛んできた。
「片目で見えるか!ボケッ!」
政宗、答えて曰く
「一目瞭然!!」
320無名武将@お腹せっぷく:02/07/19 15:58
黒田長政は思慮深くて好きだ。
むしろDQNなのは親父の官兵衛。
地名の福岡の名付け親
322無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 20:05
関ヶ原の戦いにて秀忠が上田城で真田昌幸に阻まれた時のこと、
秀忠は上田城の向こう側にいる先陣の武将に伝えたいことがあって
伝令を送ることにした。

その伝令の任に当たったのが島田兵四郎という者。
島田は回り道をするのは時間がかかりすぎると思ったのか、
まっすぐそのまま上田城の方へ向かった。
上田城の門の前まで辿り着くと、大声で城の番兵に
「拙者は江戸中納言の家来島田兵四郎と申すもの。わが先鋒まで
連絡に走る身、申し訳ないが先を急ぐので城中をお通しくだされ!」
と呼びかけた。
番兵はさすがに驚いて城主・昌幸に報告した。昌幸も当然驚いた。が、
兵四郎の肝っ玉の大きさに感心し、ここで通さなければこちらの
料簡の狭さになると言って、門を開くように指示した。
兵四郎は礼を言うと、帰りにももう一度通してくれるように頼むとそのまま
消えていった。
帰りにもちゃっかり通してもらいに来た兵四郎の前に昌幸が現れ、
兵四郎に上田城の城内の様子を詳しく見せて回った。そして
「真の守りは城主の心の中にある。だからいくら城の中を見られても
こちらはなんとも思わぬのだ。」
礼を言った兵四郎はやはり堂々と正門から味方の陣へと帰っていった。
323無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 21:52
兵四郎 カコイイ!
324無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 00:27
>>317
長政も(・∀・)イイ!!のか?
325無名武将@お腹せっぷく:02/07/31 02:02
age
400年後自分の署名がテレビドラマの題字に使われた毛利元就
黒田騒動で掘主水と加藤嘉明の子供と騒動に似てるね。
328無名武将@お腹せっぷく:02/08/06 12:17
age
329無名武将@お腹せっぷく:02/08/11 22:46
age
330無名武将@お腹せっぷく:02/08/15 14:23
     なんかないのか
331無名武将@お腹せっぷく:02/08/20 01:11
332無名武将@お腹せっぷく:02/08/20 01:42
ののたん最強
仁科盛信

領内で慈悲深い統治を行い、農民たちにこう歌われたという。
武田の殿様 欲深く おいらの刈り入れ 空になる 
仁科の殿様 慈悲深く おいらの刈り入れ 山になる
細川幽斎

 名歌人として知られる幽斎だが、ある日位の高い公家達の歌会に呼ばれた。
緊張で足元もおぼつかない幽斎はなんとそこで転んでしまう。
 意地の悪い公家が「幽斎殿、そこで一首!」とからかったところ、
幽斎は、とんと床に手を付いた私ですが、こんな時に歌を詠めと言われても如何しよう
という意味の歌を見事に読んで居並ぶ公家たちを感嘆させたという。
伊達政宗と直江兼続

大名連中集いて遊戯をしていた。
賞品として各々逸品を提供すれども、
政宗、なんの変哲もない『ひょうたん』を出品。
各大名、しょせん田舎者よと政宗を鼻で笑う。
兼続が賞品を獲得するに至って、政宗出品の『ひょうたん』を選ぶ。
兼続も物好きよとまたも各々嘲笑す。
後に政宗側に寄って曰く、兼続殿待たれよと。
お主にはわしの愛馬をくれてやる。ひょうたんから駒というではないか。と。
336無名武将@お腹せっぷく:02/08/20 10:44
age忘れ
337無名武将@お腹せっぷく:02/08/20 11:49
吉川経家

秀吉による鳥取城攻撃が行われていた頃、城主の山名豊国は一旦抵抗するものの
支城が落とされ、娘が人質となると降伏した。しかし、娘と家臣とどっちが
大切なんだと家臣に詰め寄られると、豊国はなんと単身で逃げ出した。
家臣達はたまらず毛利に新しい城主を差し向けてもらうように懇願した。
そして来たのが吉川経家だった。
しかし秀吉の兵糧攻めに城内は阿鼻叫喚の地獄絵図。
そこで経家は自分の命と引き換えに、家臣の命を救ってくれと秀吉に頼んだ。
ほぼよそ者である経家が腹を切る必要は無かったのだが、彼は
「私は主家に信任されて来た人間である。だから責任は私一人ですべて取る」
と言い見事に切腹して果てた。


338陳寿:02/08/20 12:15
野比のび作

戦国時代の狩人。おとなしい動物しか刈ることが出来ない。
猪を狩るのですらイッパイイッパイ。
未来人が殿様に出世させようとするが、失敗。
利家とまつスレでも書きましたが・・・・

柴田勝家公

家臣にいつも、めそめそしていて泣いているのではないかと
思える人がいました。
他の家臣が勝家公に
 「あのような奴がいたら家臣団の志気が落ちます、暇をとらせては・・」
と言ったところ・・・
勝家公は
 「葬式の使者には、もってこいではないか」
と言って相手にしなかったそうです・・・
大名たるもの多種多様な人材が必要とのことでしょう
これだけでも勝家公が武門一辺倒の人物ではなかったことが
うかがえます。
ちょっとこのスレの主旨が違いますが・・・

クイズ面白ゼミナールでのクイズから・・・

大阪冬の陣(?あってる)で家康が兵達に大阪城に突入したら、まずはじめに
何を確保しろと命令したか?

1、千姫
2、秀吉に差し出した豊臣家(秀頼)に忠誠をつくすと書いた起請文
3、名物の茶器












答え 3番みたいです
   当時の名物は、いまのゴッホの絵みたいだったようです・・・・


>>339
その逸話は、堀秀政ではなかっただろうか。
342無名武将@お腹せっぷく:02/08/21 21:15
石田三成「おまいらみんな氏ね、逝ってヨシ(古」
柳生宗矩「治部殿ともあろう御方が御労しや)長政殿、治部殿に陣羽織を」
黒田長政「陣羽織を用意して宗矩に差し出す)宗矩殿が」
柳生宗矩「( ゚д゚)ポカーン・・・コイツアフォか?豊家を裏切ったテメエが掛けて慰めろってんだよ)」
     「長政殿が手ずから掛けねば意味がありませぬ故」
黒田長政「チッなんで俺がこんな野郎に陣羽織を・・・」

>>316をわかりやすく脚色してやったぞ>>317
343無名武将@お腹せっぷく:02/08/21 23:41
age
344無名武将@お腹せっぷく:02/08/21 23:45
>>339
つうかいつもめそめそして泣いてる武将って何者?
345無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 00:25
もうネタきれしてきたみたいだしこのへんでガイシュツネタランキングでもやろう
>>341
>>339の話は上杉定勝(景勝の後継ぎ)にもある。
なんか元ネタあるのかな
347無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 01:05
>>299
三成の次男は津軽に落ち延びて弘前藩に仕え、
杉山姓を名乗り弘前藩で代々家老を務める家になった。
維新後、石田に復姓したそうだから弘前にあんのなら解るんだがなぁ…
江戸時代、老中が登城する籠はいつも駆け足だったとか。
非常時だけ急ぐと動揺を誘うから。
349無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 11:14
上杉景勝のオヤジ、長尾政景は遊んでる途中で溺死した
350無名武将@お腹せっぷく:02/08/23 01:42
天目山で勝頼親子に付き添った土屋昌次
片手で千人を切ったとか・・・・
その間に勝頼や信勝、女衆の自害の時間を稼いだとか
期待age
352無名武将@お腹せっぷく:02/08/26 01:44
--------------------------------------------------------------------
戦国史研究 第48号
戦国史研究会編集  A5判 並製 48頁
本体14500円 4-642-08920-9
--------------------------------------------------------------------
本誌は、戦国史研究の進化を着実に進めていくことを目的にした機関誌です。
内容は、論文のほか、新発見の史料や新事実の確認など、
個々の成果を発表する場として「羅針盤」と名付けた研究余録等、
毎号充実した編集を図っているユニークな雑誌です。年2回発行。
品切=1〜9・12・14・16・17号。
〈主な目次〉
雑兵物語が戦国時代の史料としてもっとも参考になる…山田康弘/
織田信長に対する武田信玄の偉大さ…神田裕理/
遠江は武田家のものである…新行紀一/
上野沼田衆小川可遊斎は信玄を崇拝している…栗原 修/
上杉家に対して武田家は手加減してやった…山田邦明/
武田信玄の統一的税制確立の背景…黒田基樹/
武田信玄と公家社会…大嶌聖子/
武田信玄は誰か…佐脇栄智/
戦国史関係論文目録
353無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 14:20
ちんこあげ
354伊達政宗:02/08/31 14:33
わしは身長150ちょいじゃ。当時の平均身長じゃ。
おまえら、わしより背が高いのか。やられたのう。
355無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 14:59
>>354
159cmじゃないの?
356無名武将@お腹せっぷく:02/08/31 22:32
利家の経帷子の話が好きだ
武士の心意気のようなものを感じる


大河の利家は・・・はぁ〜
下馬しないのにブチ切れて成田長秦をボコる
松山城主の子息を切り刻む
城が落ちないことにむかついて城下を焼いていく

これって誰の逸話だっけ?
358無名武将@お腹せっぷく:02/09/13 01:57
あげまん
359無名武将@お腹せっぷく
当たりすぎでキモイです。
姓名判断

明 智 光 秀
8 12  6  7

 まず,明智光秀さんの生涯の総合的な運勢ですが,あなたの総運は33です。
これは,非常に強い勢いを持つ“天下取り”といわれる数です。
すぐれた知力と強烈なプライドの持ち主で,人の下につくことはできません。
勢いにまかせて相当な地位にまで昇りつめますが,いっきに転落する危険性もあります。
 つぎに,人運によって性格について判断します。
人運が18の人は,活動的で,つねに目標に向かってつき進み,なにごとも徹底的にやらねば気がすみません。
他人に自分の意見を押しつけようとするのですが,他人の意見を聞く耳はまったく持ちあわせいないので,
団体行動には付いていけません。
 また,地運の13から恋愛運に関して判断を加えますと,
あなたは,恋をおおらかに楽しむ恋多き人です。たとえ相手にすでに決まった人がいようとおかまいなしで,
自分の好みのタイプだと一目ぼれして,すぐに夢中になってしまいます。
結婚相手には幼なじみを選べばうまくいきます。
 最後に,外運による職業運についてですが,外運が15の人は,知的にも肉体的にも,
つねにチャレンジし冒険を追い求め続ける仕事が向いています。
適した職業は,宇宙飛行士,演出家,研究者,作家,デザイナー,パイロット,
評論家,レコーディングディレターなどです。