水原親憲(すいばらちかのり)1546〜1616
大関氏。1561年川中島合戦軍功により、揚北の水原氏を継ぐ。
大坂冬の陣の軍功があり、将軍家より感状を下賜された。
しかし親憲は
「此度の戦は子供の石合戦のごときもの。別に恐ろしくもないし
骨が折れたとも思ってはいない。謙信公に従って今日死ぬか明日
死ぬかという激しい戦に明け暮れても感状ひとつもらったことが
ないのに、このような花見同然の戦で感状を賜るとは」
と、大いに笑ったという。
安田能元(やすだよしもと)1543〜1622
同じく大坂の陣で戦功が大きかったが、直江兼続と不仲であった
ため、功が上に届かず、感状をもらえなかったいう。
能元は感状をもらった人にこう言ったという。
「感状を頂けてよかったのう。俺は手柄を申し立てる者がおらず、
武功は虚しくなってしまった。だが、俺は殿(景勝)の為に命を
捨てて戦っているのだ。この程度の武功など、申し上げるまでも
ない。公方(秀忠)のためになど、これっぽっちも働くことはな
い。お主も今後も殿を第一に考えて働け。公方の感状など、面目
でも何でもない」
(彼の兄は安田顕元。御館の乱では景勝を支持するも、新発田氏
の論功行賞に責任を感じ、自害した)
>>佐々殿
こんなもんでよいだろうか?