今川家の実力って?

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345無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 11:00
留守番をあわせて2万5千とか?
346無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 12:02
>>343
小和田氏の一般に対する説明と
専門家としての説明は区別して考えないと、
あの人はレベルによって説明を変えるしね。
歴史の研究者としての小和田さんと、
テレビのタレントとしての出演や一般向けの本などに
おもしろおかしく書くのはぜんぜん違う。
347無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 12:48
そもそも二万五千というのはどっからでた数字ですか?
348無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 16:33
(・∀・)<とても良スレ

>>347
そうだよね、数ばっかり先行してるけど。
俺名古屋でさ、先生からか何かの本だったか忘れたけど今川3万の兵士を織田は
3千で破ったのが桶狭間だと聞いたことがあった。
単純にすごいなと思ってたけど、根拠はあったんだろうか?

文献によっても2万〜4万の開きがあったりするし。
でも、当時の人だって見たわけじゃないんだろうからあんまり気にしてないのかも
2万〜4万の軍勢が一斉にゾロゾロ移動してたわけじゃないんでしょ?
役割や集団ごとにそれぞれの目標に向かって移動してたわけで、全軍が集結して
数数えるわけないんだからだれもわかんないよね。
349無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 22:16
三河守に叙任されながら官位を冶部大輔に上げた(初期の足利尊氏の兼任官位)
義元は将軍家の補佐どころか天下を取る気概があった
350無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 01:49
三河守叙任なんて嘘嘘
義元の書状に三河守なんて使用されてないし、それどころか冶部大輔すらない、上総介もない
351無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:05
どっからそんな電波なレスがでてくんだよダニ野郎が
352無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:08
そっくり返すよ電波君(w
353無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:42
>>350
じゃあ実際の官位はなんだったの?

氏真は上総介だかで史料に出てくるんじゃなかったっけ。
354無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:51
>352

また(W
つけるやつか?
てっめえいい加減にしやがれクソ厨が!!
てめえみたいな浅学非才の輩はもうくんな!!
355無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:53
>>354
そこで説明できない人も来ない方がいいよ。
掲示板はコミュニケーションの場でもある。
知識を溜め込むだけで自己満足しているなら出て来るなよ。
356無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:55
>>353
氏真は上総介名乗ってたみたいで、「歴名土代」では冶部大輔叙任もあったみたいだな

あ、厨が騒いでる
357無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 06:21
厨ばっか
358無名武将@お腹せっぷく:02/03/29 15:25
軍って召集しないんか?
現代の軍隊とかだと点呼とかで必ず数を確認するよな?費用算出のためにも軍勢の
数を把握する必要があるのではないか?
359無名武将@お腹せっぷく:02/03/29 17:00
>>358
家臣に「今度の戦では〜〜人の兵をつれてくるように」
というふうに動員をかけてるから性格に何人いた、というのは出ないんじゃないかな。
360錬金おめこ:02/03/31 08:41
寿桂尼
‖―――氏輝(長男)、彦五郎(二男)、義元(五男)、氏豊(六男)
氏親
‖―――玄広恵探(三男)、泉奨(四男)
側室

氏豊(六男)って武将なのか?
361無名武将@お腹せっぷく:02/03/31 11:40
氏豊って幼いうちに那古野城主になって討たれたの?
362無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 00:29
織田信秀に討たれた那古野城主の今川氏を
系図上の今川義元の弟と同一人物とするには問題あると言われてるよね。
363無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 11:08
那古屋城を作ったのは名古屋氏、尾張守護斯波氏が今川にやっつけられて講和の
条件が氏豊に娘を嫁がせるということと那古屋城供与。
信秀が氏豊をだまし討ちして那古屋城を占拠したっていう流れでよかったんだっけ?
364無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 11:13
那古屋城を作ったのは今川氏親だよ。
365無名武将@お腹せっぷく:02/04/02 10:35
あ、氏親だったんだっけ。失礼。
信長の野望はある意味歴史に興味を持たせたという功績はあるが、政治的部分をは
ぶいてしまったし、戦国時代に対して間違ったイメージを植え付けちゃったよね。
366無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 05:45
>>449
なんだまだ活動を続けていたのか、無能の煽りクン。
こんな深夜に織田厨の仕業としか思えないカキコが二つも続けば
同一人物だとバレるのは当然だろ?
本当に知恵が無いんだな(w

武田信玄の失策をあげるスレ
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1015791701/l50
449 :無名武将@お腹せっぷく :02/04/02 03:32
なんにせよ信玄厨は精神異常でキモオタ

織田信長vs武田信玄
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1014409127/l50
343 :無名武将@お腹せっぷく :02/04/02 03:37
結果が全て


367無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 08:34
馬鹿プ
368 :02/04/03 11:15
いくらエキスポズでもヤンキースと10回くらい対戦すれば、1回くらい勝つみたいな感じだろ
369無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 11:26
武田が影から手を貸していた
370無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 23:18
>>369
何に?
371無名武将@お腹せっぷく:02/04/04 01:14
え?氏豊って討たれたの?
たしか京都へ逃げたのでは…
372無名武将@お腹せっぷく:02/04/04 11:38
今川の歴史を整理しますか。

13世紀、吉良長氏の子、国氏が三河今川荘を領有したことにより今川氏と名乗る。
国氏の娘は>>363で出てくる那古屋氏に嫁いでる(余談)
その後、国氏の孫、範国が駿河守護になりましてこれが駿河今川家の初代。
範国の孫、駿河今川家3代目泰範の代に遠江守護を兼任。
ちなみに義元で駿河今川家としては9代目になる。

1530年頃の尾張
尾張の勢力図として、有名な織田3家老家(信長のオヤジなどなど)は有名だが
今川家の勢力についてはあまり知られていない。
上記で言われているように、今川家が那古屋城を中心に尾張南西部を支配。
三河から松平家なども度々尾張に侵攻をし、実質3家老家の支配地域は尾張の東
半分というところであった。
それを、織田信秀が回復していくところから桶狭間のストーリーは始まっている
のかもしれません。
今川氏豊が那古屋城主として支配していたころ、歌会を頻繁に催しておりまして。
その歌会には今川家だけでなく、国人衆など敵対していた勢力までもが招待されて
おりました。
今川家にしてみたら「尾張の支配者は我々だ」というとこでしょうか。
あるとき、信秀が歌会に出席していた際。体調が悪くなり日置城(当時の信秀
の居城)に帰れないという理由で那古屋城に近習と共に泊めてもらうことになりました。
その夜、いうまでもなく外から織田の軍勢が、中からは信秀とその近習が一斉に
攻めかかり、氏豊はそのまま城の維持を諦めて京都に逃げたといわれております。

なお、その後の信秀ですが。
今川の勢力を駆逐、松平の勢力も尾張から駆逐するだけでなく三河にも攻め入って
おります。さらに美濃の斎藤へも攻め入り(こちらはデモンストレーションの意味
合いが大きく実質は負け戦ばっかり)息子に道三の嫁を貰っております。
信秀台頭の支持理由として、尾張の独立と侵攻勢力の駆逐だったわけで、その後
信長が跡を継ぐときにまたまた分裂、大きくわけて信長派、信勝派、今川派にわか
れてしまったのです。(実際には信友制圧が先ですが省略ね)
この頃が1555年辺り、この兄弟内戦をしている間に今川が尾張支配に再度のり
出してきたと考えられるので桶狭間は京への上洛ではなく那古屋城再奪回並びに
尾張平定目的の出兵と見るのが正当だろうと思われております。
373無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 10:09
age
374無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 11:01
>370
>何に?
当時、信玄は黒川金山の金に底が見えたため
駿河金山を狙ってたと思われ候。
また、領土に海が欲しかったと思われ候。
具体的に手を貸したかは知らんが死んでくれと思ってたのは。
事実と思われ候。
375無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:07
>>374
そのほう、中井信玄の見過ぎじゃな。
376無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:10
というか、太りすぎて馬に乗れんよーになった時点で
ダメダメにんかと存知まするが・・・
377374:02/04/06 12:13
>375
中井信玄は見たことないのですが・・・
そーゆーこと言ってるんですかいの〜?
どっちかっちゅーと横山光輝。(新田某の)
378無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:13
>>376
そのほう、ドラマのイメージ丸呑みじゃな!
>>378
ん?デブじゃなかったの?
380無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:20
>>379
そりゃ知らんが、義元出陣時の姿を記した資料に残っているぞえ!
ちと調べんとその資料の名は忘れたがのう。
織田3家老家って有名か?聞いたことないが・・・。
ひょっとして下四郡守護代の三奉行のことか?
こちらもマイナーだな。弾正忠家以外は。
383無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:46
>>381
この中って?よーわからん、すまぬのう。
今調べたがのう、『続明良洪範』と言う資料に記されておるぞえ!
それによると
「義元は胸白の鎧に金にて八龍を打たる五枚兜を被り、
 赤地の錦の陣羽織を着し、今川重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、
 壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計なる
 金ふくりんの蔵置、紅の鞦かけて乗られける」
と書かれておるんじゃ。
少なくともドラマで見るよーな輿に乗って出陣などと
ゆー事はなかったと思ふぞえ。
>>383
なるほど。サンクス。
世に広まっている「短足肥満で輿移動」も出典はあったと思うが、
なんだったっけ。
でも木像や画像では中肉くらいをよくみる。
「利家とまつ」でも痩せてたような。。。
あーでもイメージはデブだーなんでだろヽ(´▽`)/
385無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 13:36
>>384
所謂「短足肥満で輿移動」ってイメージは
織田方や徳川方の資料から出来たイメージじゃろ。
敵対した相手を悪くするのが当たり前じゃからのう。
今川家自体の資料(肖像画や宝物)は信玄めの駿府焼討ちで
殆ど残っていないからのう。
>>385
そんなこと言っても、悪意でそう書かれたかは別検証では?
近世の読み物なんて小説じゃん!とか言われたら悔しいでしょう?
でも、『続明良洪範』はググールであんまりヒットしませんでしたが、
一般的に信頼されてるの?
明良洪範は結構ありました。京都大学電子図書館で読める。

というか、「短足肥満で輿移動」の出典探してみます。たぶん。
387無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 15:18
横山マンガでは、デブになってしまい馬に乗れんよーに
なったと、書いてあった。
388無名武将@お腹せっぷく:02/04/07 00:15
そこまで太ってたら最後の抵抗もできなかったはずだよ。
それに「大男の豪傑」の類だって馬に乗ってるってのに
どのぐらい太れば馬に乗れなくなるんだ?

>>374
60年代はまだ黒川金山大丈夫だったけど〜
港は欲しかっただろうけど。
あと東海道も。
389無名武将@お腹せっぷく:02/04/07 00:31
黒川は大丈夫だったが、
大分とってたから先が見えたって事。
それに佐渡に並ぶ駿河は魅力だったんだろう。
390無名武将@お腹せっぷく:02/04/07 00:39
>>389
そんなこと信玄が分かるかねえ?<先が見えた
1573年頃にはまだまだ大丈夫だったみたいだけど。

佐渡に並ぶ?
1560年代の佐渡って砂金を採取してた程度だけど?
391無名武将@お腹せっぷく:02/04/15 23:04
上洛!
392無名武将@お腹せっぷく:02/04/23 18:54
もう語り尽くしたかのう
hosyu
394無名武将@お腹せっぷく
余は 正一位太政大臣 デギン・ソド・ザビである。