1 :
無名武将@お腹せっぷく:
よく解らないんだけどさー
今川義元が上洛した時勢いよく尾張になだれ込んだ割には、御大将を織田軍に桶狭間で討ち取られちゃった訳だけど、総合的にはどうだったの?
今川義元は無能?有能?
配下部将は?
家康は当時はまだ大した事なさそうだし。
三国の太守ったって、配下部将が無能揃いじゃ結局信長にも必然的に敗れてたんじゃないかね。
それとも、桶狭間の凶事が無ければ天下取ってた?
資料を見た限りじゃ、義元は無能そうじゃないんだよね。
息子はアレかもしれないけど。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/17 21:30
@@@@@
( ′n `)
織田を破っても武田にやられる運命にあったろ
4 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/17 21:56
武田もさぁ。今川死んでくれたおかげで得してんのよ。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/17 22:17
>>4 まあ、短期的に見れば得したかもしれんけど、最終的には義元の死が
信長を怪物化させてしまったわけだから結果的にはマイナスだったな。
配下部将が無能揃い
とりあえずこの一文でゲーム厨だとわかった
>>5 中期的に見れば、最終的には義元の死が信長を怪物化させ、
それによって、長年苦渋を舐めさせられた憎き武田を滅ぼしてもらった徳川が得をした。
有力な武田の臣をも召抱えられた徳川ラッキー。
さらに長期的に見れば、甲信の国が大したことのない織田将の統治になったことによって、
本能寺の変後はいとも簡単に同二州を手に入れることが出来た徳川が得した。
有能てほど有能でもない気がする
>義元
9 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:11
今川が弱かったから、ああいった結末になった
とは思わないぞ。
戦国大名の中じゃ、確かに地味感は否めないが...
今川が上洛してたらしてたで、面白いドラマが
生まれてたんじゃないかな。
織田信長のような破天荒な人間に天運があった
ればこそ、今川を阻止出来たと思う。
私は尾張より、無事美濃を通れたかどうかが心
配だ。尾張はどちらかというと平野地形だった
のではないか?そんなイメージがあるので、大
軍を押せばどうとでもなりそうだが、美濃は山
や谷多き国、という認識がある。
そんな場所じゃ、大軍押していっても果たして
どんなものか?
現地での支援無しでは難しかったんじゃなかろ
うか。伊勢路を狙うにしても、そこまで今川が
進んでも盟友・武田が座してみているとは思え
ない。まして、留守居は嫡子氏真。
考えると、物語一つ書けそうな感じだ。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:16
義元は名君であって、名将ではない
11 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:19
桶での死がなかったら、天下取ったと思いまする。
桶狭間の時は上洛じゃねーし
13 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:22
ボケはジャマのタタカイ
15 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:25
今川が天下取ったら足利将軍家も安泰だったか?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:27
イイトコ、三好の二の舞
17 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:29
何とも言えん。
せいぜい三好政権と同じ様な道を進んだかも知れん。
第一まぁ、今川が上洛してしまえば武田も北条も手も足も出せんはず。
武田が今川倒すなんて言ってるヤツもゲーム厨。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:31
だてに、海道一の弓取りと呼ばれたわけじゃないでしょう。
大原和尚が生きてたら、あんな目には…
それとも、最終的には武田と対立することになって、あぼーん?
19 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:34
今川は足利の氏族だから将軍家を擁護すると思ったが…
20 :
名無しさん@お馬で人生アウト:02/02/18 00:34
信玄は義元存命時に駿河に手を出さなかったからな
21 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:35
そりゃ、親父を預かってもらってるしな
22 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:42
今川焼きだけでも実力十分だろ
信玄餅の方が実力あり。
でも、黒蜜つけてたべないんだよな、オレハ。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 00:54
>>23 食べてみたいなー、それってどこでも売ってるの?
それって、携帯食だったの?
織田軍5千はいるだろ
それをひともにするきだったのかね義元は
正直ひともみといいたかった・・・
そんな貴女の胸を、正直ひともみしたかった・・・
29 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:03
もみもみ
30 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:15
中川家よりつおいの?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:16
吉野家とくらべてならどう?
中川コンツェルンの方が上だろう
33 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:17
今川の最大動員兵力は2万ぐらいいたのは確実と思うけど
大将が太りすぎて馬に乗れぬではね・・・
討ち死にするようじゃ大将失格だろ
35 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:21
信長の無鉄砲さが幸いしただけ。
信長が慎重派武将だったら篭城して
織田家滅亡待つのみ。
勝算があるから出撃したんだろ?
島津家久も毛利元就もみんな無鉄砲かよ
37 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:24
討ち死にさせる部下も部下だけどね。ろくなのが居ないといわれても
仕方ないな。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 00:28
初めからいちかばちかの奇襲狙ってたんだろうけど
勝算が十分にあってのことじゃないと思う。
雷雨が幸いした。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 01:08
過去ログに似たようなスレがあったような…
十分に勝算のある戦いなんてそうそうないぞ
41 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 01:22
結果がすべてを語る気がする。
当主が死んでガタガタ崩れていくのは減点対象。
武田みたいなのねえ
織田も豊臣もそうなんだが・・・
一代で急激に勢力拡大したトコなんかは
当人が死んだ後は勢力維持するのが難しいね
勢力拡大途中だったら尚更
45 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 16:21
岡部元信・正網・貞網や朝日奈信置とか
のちに信玄配下としてそれ相応の働きをした武将はいた。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 16:24
それなりね
47 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 16:35
>>42-43 織田なんぞ、目にかけてやった家臣に実権を奪われたあげくに息子を殺されるは、
姪は妾にされるは散々な目にあったよね。
その点、今川の若様は家康を頼り、信長の前で蹴鞠を披露した程肝が据わっていた。
やはり名門今川家は最高ですな。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 16:43
>>18 確かに今川は雪斎で持ってた気もするね。
長年、戦から外交・内政までサポートして、
三河の統治及び織田との戦辺りなんてほとんど任せっきりにしてたんだから。
雪斎が死んでからはろくなことがない・・・。
おまけに、雪斎に英才教育させてた松平元康に領土を半分
持っていかれるんだから・・・。
やはり討たれるのは言い訳できない失態だと思うぞ?
50 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 00:28
朝比奈泰朝って、どうして他家に仕官しなかったんだろ?
実績はあった訳だから、北条家に仕えて北条綱成のようになってほしかった。
忠義の士って好感持てるよ。武門の誉れ!
岡部元信も、戦国人らしい武将だよなぁ。
っていうか朝比奈はどこにきえたんだ?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 02:07
>>19 今川が幕府を新たに開いたとしても格式的にも問題ないくらいだったはず。
というか、足利に人材ないなら、今川に代わるだろう。
ただ……本拠を動かすようなことはしないだろうから、駿河に幕府を開い
ていたのではないか。
で、義元在世中はいいと思うんだが、後継ぐ奴が……だからなあ。江戸幕
府ほどの圧倒的な権力は持てないと思うぞ。となると、小競り合いはやっぱ
り日本中で起こって、早期に幕府が倒れると予想するが。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 02:13
織田・斎藤・三好と一気に片付ける気だったわけじゃないだろうなやっぱ
54 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 11:56
義元は美濃をどうするつもりだったのだろう?
斎藤氏とはどういう関係だったのか気になる。
桶狭間の翌年に義龍が病死していることを考えると、その辺を
踏まえた上で尾張に攻め込んだのかな?
だとしたら満を持しての西上作戦だったわけで他人事ながら
実に残念ですなぁ。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 12:13
>>52 鎌倉みたいに氏真をどっかやっちゃって、家来達で執権政治をやればいい。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 13:32
57 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 13:37
危機管理が行き届いていなかったという意味ではどちらも同じだな
58 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 14:37
今川義元はやっぱ二線級だろ
>>55 というかだな、絶対的な力を持って、一時的にでも諸勢力を服従させるこ
とができるか、って問題がある。今川の駿河幕府が成立するとして、頼れる
のは朝廷の権威と、あとは武田・北条の両家との同盟関係くらい。
これだと、義元がいなくなったら簡単に瓦解するだろ。
鎌倉幕府が早期に北条氏に実権移行したのは、それ以前の段階から実力的
に黒幕として存在していたからであって、それにかわるだけの人材は見当た
らない。あえていえば北条氏と武田氏のどちらかだろうが、両者の力から考
えて、ひどい内乱になるだけだぞ。結局幕府が混乱して、諸勢力は独立独歩
で戦国時代に逆戻りする、と思うのだが。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 23:43
義元のほうが信玄の上洛よりはいけそうな気もするが
61 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/23 23:48
なんでコーエーの今川武将はあんなに低い評価しか受けてないんだろうか・・・
実際ああだったのか、あれは酷すぎるのか、どちらが正しいのでしょうか?
62 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 00:02
最近は岡部とか朝比奈とか普通に高かったようなきがしたけど
63 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 01:22
>61
義元没後に活躍できなかったし
64 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 03:52
>>60 あの時点(桶狭間)でならそうかも
>>61 やはり、桶での大失態が響いているのでしょう。
シミュレーションなんだから能力きめるのはプレイヤーだと思うのだけどな
雪斎禅師がいるじゃないか
66 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 04:13
正直、駿遠三の石高ってどんなもんなん?
濃尾に比べたらたいしたことないでしょ。
それであのカス武将共を率いて天下盗ろうってんだからお笑い。
桶狭間は必然。
駿河 15万石
遠江 25万5千石
三河 29万1千石
煽りヴァカにまともに答えるのも気が引けたが...
68 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 07:59
朝比奈氏
松井氏
天野氏
葛山氏
安倍氏
飯尾氏
といった所が中心人物か
そのまま徳川に仕えていった人物も多いよな
無能だったら家康も採用しなかっただろうし・・・
69 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 09:29
「戦国」なんて状態まで進行したら、
誰かが圧倒的な力で言うこと聞かすことでしか
天下の法は成り立たないということね。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 10:14
さらば〜駿河よ〜♪
旅立つ麻呂は〜♪
い〜まが〜わ〜義元
日本の都 京都の町へ
上洛めざし 今旅立つ〜
必ずここへ 帰ってくると
手を振る息子に 笑顔でこたえ〜
駿河をはなれ 京都の町へ
は〜る〜ば〜る のぞむ〜♪
いま〜が〜わ〜義元〜♪
さらば〜駿河よ〜♪
愛する息子よ〜♪
い〜まが〜わ〜義元
日本を救う 使命を帯びて
戦う男 燃えるロマン〜
誰かがこれを やらねばならぬ〜
期待の人が 麻呂だ〜けなら〜ば〜
駿河をはなれ 京都の町へ
は〜る〜ば〜る のぞむ〜♪
いま〜が〜わ〜義元〜♪
71 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 11:22
67+尾張30万石+金山の収入。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 13:29
やまと世代ってことは棺桶に片足突っ込んだジジイじゃん
73 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 15:20
今川武将の評価は確かに低すぎだな。
織田家が義元に倒されていれば、それこそ織田家武将は全員雑魚評価だし
秀吉なんて名前すら出ない扱いだったと思われ。
そして逆に今川武将の評価が上がる、と。
歴史に埋もれた力量持つ武将は沢山いるハズ。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/24 16:03
んなこたーない
結果がすべてだといっとろうが
76 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/25 11:12
今川焼き
77 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/26 22:49
age
78 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/26 23:12
結果しか見えないやつに歴史語る資格あるの?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/26 23:26
歴史は結果でしか語れませんが?
80 :
綾女 ◆Aya/URIU :02/02/27 00:08
雪斎和尚におんぶにダッコだよね。
サカオタデスマソ
ジュピロ今川 vsヴァンフォーレ武田
82 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 03:55
まあ今川に織田を倒すのは無理ですということで
今川軍て2万いるかどうかも石高てきに怪しい
>73
賛成です。
桶狭間で討たれていなかったとしても、
今川家に天下が獲れたとは思いませんが・・・
歴史の評価は敗者に厳しいですよね・・・
>78
同意見です。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 06:24
>>78 思わず笑った。
厨房だったころを思い出した>資格があるの?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 08:46
あのね、あちこちのスレに書いていることなんだけど、
今川義元以前に将軍を抱えて京都に上洛したり室町政権を握った武将はいくらでもいるの。
細川政元
応仁の乱をあいまいな形ながらも勝利した勝元の息子で、
足利義種、義澄らをかいらいとして政権を握った。
大内義興
周防に亡命してきた、足利義植を立てて、京都に三万の大軍で上洛、義種を将軍に復帰させ、管領職に任じられ、
実験を握るとともに、安芸を攻めるなどして勢力を拡大した。
細川高国、晴元
細川宗家と管領職につき、足利義植、義晴、義輝らをかいらいとして政権を握った。
三好長慶
細川晴元を幽閉し、義輝をカイライとした。
松永久秀
長慶を骨抜きとして、義栄をカイライとした。
特に信長よりも六十年も早く三万の大軍で入京した大内義興の存在は象徴的だ。
彼らは足利幕府を潰すなんて概念はなかった。
彼らは京都に覇を唱え、管領などの地位を得ただけで満足してしまった。
今川や武田はおそらく、彼らと同じ事をしただけだろう。
ましてや、今川は足利の親戚筋で足利宗家を助けようとしただけだと言われる。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 08:48
なお、今まで今川上洛戦と言われていた派兵は
実は尾張制圧戦にすぎなかったというのが、
こんにちの定説です。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 09:00
確か、信長だって、足利幕府が前提の政権しか、
考えてなかったはずだ。
義昭追放と言われる事件自体が
実際は出ていこうとしたのは義昭で、
それを信長は必死で止めたんだよね。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 09:53
>>82 今川軍2万余と言うのは貫高して妥当!
ただ幾つかの方面に軍勢を割いていたので
桶狭間では義元本隊3千程度しかいなかっただよ。
そもそも信長自体が当時の尾張ではone of themだろ?
90 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 12:08
>>87 そうだったん?
その義昭追放うんぬんについて詳細きぼん。
たしかに一益の件見てても信長のやろうとした事は幕府に擬えてるだけだもんな。
関東管領とか。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 12:41
>87
信玄死去後の時期はずれに突然、山城の槇島城で兵を挙げたがあっさり鎮圧、って聞いたんだが・・・。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 13:08
>>90 滝川の関東管領は後世便宜的にそう呼んでいるだけのことじゃなかったっけ?
93 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 13:17
尾張攻めで信長があっけなく、あぼーんしていたら
今川の国力は飛躍的に上昇。位攻めで京までは結構
近いんじゃないかな。
その後の維持ができるかは、また別の問題だが。。。
==2==C==H======================================================
2ちゃんねるのお勧めな話題と
ネットでの面白い出来事を配送したいと思ってます。。。
===============================読者数:95432人 発行日:2002/02/12
どもども、ひろゆきですー。
こないだお伝えしました「佐々木さん」の件ですが、実を言いますと佐々木さんだけが悪いってわけじゃないんですー。佐々木さんはなにもいきなりドアを蹴って騒いだりしたわけじゃないんですー。
佐々木さんは最初は極めて紳士的に接してきたんですけど、おいらがドア越しに生意気な態度をしちゃったもんだから佐々木さんはキレちゃったんですー。。。
ご承知のとおり、おいらってばメルマガでは自分の都合のいいことを、都合のいいようにしか報告しませんが、本当はおいらにもたくさん非があるんですよー、、、えぇえぇ。。。
INSIや谷澤動物病院が裁判に持ち込んだのも、実はおいらの態度に問題があったんですよねー。。
おいらはこれまで2Ch被害者の襲撃から逃れるために、キックボクシングをやっていたなんて嘘を吐いてきましたが、本当はキックボクシングどころか卓球すらやったことないんですー。
おまけに両親とお姉ちゃんにはさんざん甘やかされて育ってきたので、いまいち礼儀というものを学べなかったようなんですー。うぅ、、、
もしなにかスポーツにでも打ち込んで、ちゃんとした両親に育てられてれば、こんな陰湿な人間にはならなかったと思うし、こんなに歯糞もたまらなかっただろうと思う今日この頃ですー。。。
ところでおいらって平安貴族みたいな顔してますかねー?
こないだ埼京線で女子高生の集団に「麻呂だー」「超キモイー」って言われちゃったんですけど。。。
んじゃ!
95 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 13:43
女子高生は歩くまんこ
96 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 14:09
今川は足利の一門ではあるけども窓際族だかんね。
それと上に書いてあるけど将軍を携えて上洛したって政権のイニシアチブを
握るにすぎない。
ましてやただの一門衆、しかも左遷組がいきなり将軍になれるわけではない
から上洛が成功していたとしても傀儡将軍を立てるしかない。
ついでに相次いで起こるであろう政争に勝ちつづけなければならない。
信長の偉業といえば、幕府・朝廷絡みの争いに勝ちつづけたとこにより政敵
がいなくなったことか?
三好・松永・朝倉・武田その他諸々。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 14:42
>>90 >>91 義昭の挙兵は鎮圧されたけど、信長は義昭を握り続けるつもりだったらしい。
それを義昭は拒否した。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 20:12
>85
なる程、そういう意見もあるんだな。
だが私なりに考えたのだが、
細川や大内の頃とは既に時代が異なる、という事は考慮
しても然るべきではないだろうか。
時代はもはや室町の、権威や官職がものを言う時代では
無くなっていたように思えるのだ。
自分で国力も大して持たない官職だけの連中はともかく、
大内や三好は確かに大きな国力を背景に軍事行動を起こ
していたのは無論事実なのだろう。
それにしても、並み居る勢力を踏み潰して上洛する、と
いうのは彼らの上洛とは異なるように思える。
義元が、果たして武力制圧を目的として伊勢や近江に進
軍したかどうか、は解らないが...。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 23:04
細川や大内は足利幕府内での有力大名の家柄だから
自らが天下をとるのではなく幕府を支える保守的考えによる上洛。
足利の御三家に入る義元も同じような目的っぽい。
まあ1560の尾張攻めは上洛よりも尾張併合が目的。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 23:27
尾張併合目的って説もいまや否定されて
現在では、後の尾張併合の為の橋頭堡確保の為の出兵と言われてる。
水野父子が織田を裏切って、今川方に付いたのも理由の一つ。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 23:28
女子高生は歩くまんこ
102 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/27 23:29
弟(一説には叔父)今川氏豊の仇討ちです。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 05:00
女子小学生は歩くつるぺたまんこ
104 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 12:47
定説とか否定されて、とかよくまあ他人のふんどし片手に断言しているもんだ。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 13:25
>>104 1560年の軍事行動が上洛ではなく、尾張併合戦のためというのは
様々な観点からして、もはや確実なんだよ。
尾張併合への足がかりという説はいくらなんでも、及び腰すぎるとは思うけどね。
まあ、どっちにしろ上洛目的ではなく、織田家との軍事抗争での出兵だったって事。
>>91 義昭は信玄死去の情報を知らなかったんだよ。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 13:32
そもそも、本当に今川に上洛の意志なんてあったのだろうか?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 13:45
>>106 足利家の親戚だったのと、
たまたま自領の西に位置する織田家と争ってたんで、
そう思われただけなんじやないの。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 16:43
信長を美化するためだろう。
「天下を狙うほどの大敵を、一か八かの奇襲で屠ったのだ!」
となれば信長マンセーになるわな。
講談やら歴史小説辺りが煽ったんじゃないかなー。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 19:04
街道一の弓取りってキャッチは?
110 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 21:16
武田勝頼も言われてた気がする
>100
水野じゃなくて山口だね。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 07:37
>>106 有力戦国大名だったら誰でも考えていたと思うよ!
桶狭間が上洛途上だとは言い切れないけどさ。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 09:37
太閤立志伝W(PS2)じゃ上洛した途端、二条城に強制移転。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 11:07
上洛=天下人 のイメージはそろそろやめれ
115 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 11:14
上洛。
長尾、松永、三好、その他もろもろ。
必要事項
金と暇。
上洛=必ずしも天下鳥ではない。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 11:56
だよな、そんな事言ってたら謙信は2度も天下取ってる事になるわな。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 12:49
上洛=天下取りではない
しかし上洛せずに天下取りはできない
また、軍事力を伴わず上洛した場合は天下取りとまったく関係なく
軍事力を伴っていた場合であっても資格だの格式だのがあって即天下人となるわけ
ではない。
政治のお話しだから釈然としない。
その都度ルールも変わるし、朝廷から相応の官位を受けねばならない。
征夷大将軍妄想もやめれ。
信長神話も一度リセットしてから考えれ。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 13:05
ちなみにだが。
室町幕府が事実統治権を持ち始めたとされる義満の時代。
当時の源氏氏長者を認められる(それまでは久我だったっけかな?)
これにより家格があがり朝廷への影響力が増し実質天下人と認められる。
この流れをしばらく後に移した権力闘争が戦国時代である。
今川家に関しても足利一門内で絶対的な発言権を獲得できれば源氏長者とし
て君臨できる可能性はなかったといえない、しかし1560年当時ではそこ
まで力はなかったし義元もそこまでの人物と認識されていなかったことで
あろう。
そこでもし義元が軍事力を背景に上洛したとして、権力基盤を整えるために
は義元を氏長者として認識させることからはじめなければならない。
かなり難しい話であるかもしれないが、1560年当時のちの天下人として
君臨する信長に比べればかなり有利な条件にいることはまちがいない。
今川家は一門であるから実力さえ伴えば自らが幕府を開くきっかけになる。
それをもたない信長は後にかなり大変な思いをしている、義昭を絶対に手離
さないようにしている。
この力学は秀吉も苦しめられる。
結局は源氏の氏長者としてではなく藤原氏の氏長者として君臨するのが秀吉
そして家康が徳川を名乗るのも(徳川も足利一門吉良家のながれ)この氏長者
理論によるもの。
もし義元が当時真剣に上洛・権力奪取の計画を綿密に練っていたとするなら
当時家臣だった家康がその計画を数十年後に実行しただけということになる。
あくまでもこれは一つの側面だけど、キチンと前後の歴史を認識してから
議論していただきたい。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 15:14
今川に本気で上洛だの天下取りだの考えてた証拠はないね。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 20:25
>>119 >今川に本気で上洛だの天下取りだの考えてた証拠はないね。
↑その逆の証拠もないね!
121 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 21:07
あほか
122 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 21:11
御前がアフォじゃ
123 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 21:23
貴殿がアフォじゃ
お歯黒殿
125 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 00:57
信玄や謙信より現実味のある上洛戦だったはずなんだが・・・
126 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:18
127 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:23
今川家が天下取っていたら、日本文化はさらに躍進していただろうに。
いまさらながら惜しいことをしたな。信長のような野蛮人さえいなければ・・・!
128 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:25
たられば大好き
鱈もレバーも大好きですが、何か?
いやでも惜しい思うぞ
つーかむしろ今岡が最強と思われるが如何に。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/09 04:49
信玄が天下取れたっていう信玄厨は山ほどいるのに
なんで義元厨はおとなしいんですが?
133 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/09 05:19
あのやられザマと公家好みではファンも少なかろうw
ただ、ファンはその数が少ないほど先鋭化するような気もするが。
あ、自分は結構好きですよ。
ただ天下取れた気はせんなー
135 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/09 10:45
大義名分が無かったってのもあるね。
信玄は義昭から信長倒してくれって頼まれて立ち上がった、当時の信長は権力をに
ぎってたから倒せば次の権力者みたいな構図ができあがる。
義元は名分がなかったし、当時信長を倒しても尾張の一部を併合できるだけにすぎ
ないから権力者への道の一歩に過ぎなかったからだろう。
へ ノ y /ソ /
ヽ v|ト レ/_/ヘ_ヘ
ヽiiヾi;ii//ヾ゙
|;i:;.|:;|
|:;i;.|i;|
|::.;.|.;| ∧ ∧
|;;i;:|::| ( ´Д`)
|::,.i|;i| |σ[] ∬
|;:;.:|.:| ι⊃⊃旦
"""'"""""'""""""'""""''""""'"""
137 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/09 11:53
今川は尊氏にせわになって大領をうけているわけだし
三好・松永の手から主家を救うとか
なんぼでも名分はたつと思うが
むしろ信玄のほうが名分は苦しい
二万五千も出したのに?
140 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 12:19
25000人全てが戦闘要員ではない。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 12:24
>>97 それは一説に過ぎないんじゃなかったっけ?
142 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 17:58
>>140 それを言ったらどの大名の軍隊もそうだろ。
何頓珍漢なことを指摘して悦に入ってるんだボケ。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:20
嫡男がサッカー小僧ではのぉ〜
144 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/14 23:34
信長の
地の利、
義元の
戦力分散
義元本隊だけではな
145 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 00:32
図書館で桶狭間の本を借りてきた。
信長公記を分析して桶狭間を語って居るんだが、
目新しい説で凄く面白い。
ただ厨房なんで、信じていいかどうかはわからないが。
信長のもともとの戦略方針は、
戦線の伸びきったの後方遮断、三河地方への襲撃。
「中入れ」だと作者はいうておる。
義元を討てたのは怪我の功名だそうな。
作者の経歴を見る限り、歴史とは無縁の仕事ばかりだが・・・
でも面白いんだよな。
そんな洩れはDQNでせうか?
146 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 00:36
>>145 著者と書名、できれば出版社を教えてくらはい。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 00:58
講談社サービスセンター発行
井上 力
「もうひとつの桶狭間」です。
>>147 ありがとう。
検索にかけたけど、信長マンセーな内容の本みたいだね。
>■井上 力(いのうえ・つとむ)
>1937年、大阪市生まれ。大阪大学法学部卒業。
>電気メーカーを定年退職後、1998年に小規模企業マネージメント・サポート業を開業し、現在に至る。東京都在住。
>中小企業診断士・社会保険労務士
たしかに経歴だけ見ちゃうとひっかかるな。
発行元の「講談社サービスセンター」って自費出版の会社だし…。
http://www.kodanshashuppan-sc.co.jp/top.html
149 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 01:16
>
>>147 あ〜『もう一つの戦国時代』のトンデモ作家さんね〜
あう〜、やっぱりトンでも作家さんなのか〜〜。
おもしろいのはいいけど、面白すぎるから、ちょっと「?」なところもあったんだ。
危なく信じるところだったよう。
作者曰く、
「信長ほどの戦略家が、家督を継いで10年、
対今川との決戦構想が無かったはずがあろうか?
否!信長は見通しを持って桶狭間を実行したのである!」
思いっきり引き込まれた自分のうぶさがハズカチィ・・・
152 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 19:30
正直、織田家を併合(信長滅+家臣吸収)したとして、
三好・松永に勝てるのかヨ?
153 :
( ´_>` )フン:02/03/15 19:37
あの頃は三好の全盛期だからなぁ。
遠征で三好を撃破するのは無理だと思われl
154 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/15 19:49
信長が濃尾を押さえただけで、天下への基盤として十分に強力だったんだよな。
それに駿・遠・三が加われば相当なもんだろう。
信長滅ぼした後は、美濃も戦力比から言って七年懸かるとは思えないし・・・
155 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 12:39
尾張併合は無理ないとして、美濃はどうだろう?
斎藤が敵対しないとわかればほっとくと思うけどね、伊勢北部を押さえて近江にでる
と思うんだが。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 19:17
狭い狭間に誘い込んで
イチカバチかの襲撃にでたってのが本当のとこだろう。
それで義元あぼーん
157 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 20:05
158 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 20:57
>>157
いや、それを言ってしまうと、
信長の分国なんて広すぎて、至る所で補給困難っていうことにならない?
日本よりずっと広い大陸で、十万とか言う大軍が動いていたことを考えると、
要は距離よりも体制作りなんじゃないかと思う。
街道整備とか。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 21:20
>>156 >イチカバチかの襲撃にでたってのが本当のとこだろう。
>それで義元あぼーん
そのとおりだろうな!
ただ、義元も馬鹿じゃないから
桶狭間山に陣取っていたらしいぞ。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 21:46
いや討ち取られるのはやはり馬鹿だろう
危機管理能力に欠けている。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 22:03
「危機管理能力」、職場で最近よく耳にする。
やはり義元は馬鹿か。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 22:52
籠じゃなくて馬で逃げればよかったんだよ、ダイエットして
163 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 22:54
二万五千じゃ上洛は無理かもね、六角が協力すれば
そのまま尾張から京に上るかもしれないけど
武田信玄時と違って諸勢力の障害が多そうだし
164 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 22:58
美濃の斎藤氏ぐらいの兵力では今川に逆らえないでしょ。
それに「今川」というネームバリューもある。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/19 17:33
あの領土で2万5千も動員できるだろうか?
166 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/19 18:26
できる
167 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/19 21:47
厨房の頃から疑問だったんだけど、
駿河と遠江の石高ってほんとにあの程度だったの?
温暖だし、海にも恵まれていて、
実際の動員能力はずっと高かったんじゃないのかって、ずっと不思議だった。
太閤検地=実際の国力ではない、っていうやんか。
越後が39万石なのは、上杉家が軍役を軽くするためごまかした結果(つまり脱税)
という話しを読んだことが・・・歴史読本レベルなんだけど・・・ごめん厨房で。
でも、上杉家がやることなら、
徳川家がやってもおかしく無いんじゃーないかと妄想してみたり。
詳しいかた、ぜひ教えて!
168 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/19 21:56
三河と遠江は脱税してないと思う、よ
169 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 14:17
>166
馬鹿のくせに断言してんなよ
170 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 14:18
いまさら煽るなよ(w
171 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 15:59
172 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 16:47
金山の存在を忘れんなよ。
173 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 17:38
174 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 17:40
三河24遠江27駿河19尾張東部20=合計90
175 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 17:45
写真を見たかぎり越後の39万石ってのは絶対嘘だろ
176 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 18:34
甲陽軍鑑には「駿河はほかの国より人口が少ない」と書いてある。
もっとも別に人口調査したわけじゃないようだ。1国で平均して8千の兵が
出せるというのが甲陽軍鑑の主張で、これは甲斐や信濃の経験で言っている
のかもしれない。しかし駿河はそんなに人口がないと言っている。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 18:46
石高の時点で少ないし
178 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 18:50
尾張東部20万石なんてないだろ
179 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 18:50
そんなに持ってないって事
180 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 19:12
じゃあ90→80くらい
181 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 20:19
太閤検地の数字って、三国が疲弊してる状態の数字じゃないのかな。
今川の没落や徳川と武田の間に何度も交わされた戦乱の結果、
国力が落ちたためにあんな数字になったんじゃないかと思う。
今川氏の全盛期にはもっとあったんじゃないかなあ。
すべて推測だけど。
みんな、レスありがとう。
駿河・遠江の国力はそんなもんってことですか。
海道一の弓取りのっていう称号は案外軽いんだなあと落胆・・・。
でも、お答えありがとうでやんした。
>>158 いや、そうじゃなくて。
横に長い領地だと分断されやすいと思ふ。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/20 23:58
誰に?
185 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 00:16
この場合、地理的に今川領を分断できるのは・・・武田ぐらいかな。
でも、上杉を敵に回した信玄が、全盛期の今川まで敵に回すのは不可能かと。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 00:35
駿遠の北は日本アルプスだもんなぁ。
長いと言っても天竜川沿いと富士川沿いしか南北ルートはないよね。
>>175 39万石は確かに少なすぎる感があるが、
越後の開拓が進むのは江戸時代以降だよ。
越後平野なんて今でこそ一面の田んぼだけど、
もともと信濃川・阿賀野川の氾濫原だから
ほんの50年ほど前まで見渡す限り沼地だったらしい。
187 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 00:46
越後は寛永年間の検地でも40万6000石しかないんだよね。
上杉家もたいして誤魔化していたとは思えない。
188 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 00:51
厨房な質問ですが
石高の石という単位は米の収穫高ですよね?
現代的な単位に換算すると1石はいくらくらいになるんですか?
そもそも単位は体積ですか、それとも重量ですか?
189 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:16
体積
約150kg
190 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:23
1000合=100升=10斗=1石。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:24
雑穀も石高に入れるんじゃないの?
192 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:31
>>189 それは「体積」ではないだろ・・・・150kgってのは(笑)
一石=十斗=百升=千合=180リットル
一合=180ccは知ってるよね?
>>188 太閤検地は単純な米の生産量ではないぞ。
田んぼは一反ごとに上中下にランク分けしてランクに応じた石高を
割り当てる。
畑も同じ。
家屋敷も同じ。
田畑家屋敷全部を米に換算して一定率を米で徴収するんで
農民に米はほとんど残らない、となるわけだ。
193 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:33
一石=人一人が一年に消費する穀物
でよかった?
すると、50万石の国には50万人ほどの人口が
あったと言うことでよいのだろうか
194 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:36
195 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:36
>>193 実際に米食ってたら無理だろ。
武士は日常一日5合の米を食うとされていた。
戦場では兵一人あたり一日5〜6合は支給されていた。(もっと多い例もある)
単純計算で一年で最低1石8斗。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:39
そうか、石高=人口には無理があるんだね。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:47
女・子供・年寄りとか食う量すくなそうだからそういうの平均すれば
198 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:53
>>196 ところがだいたい一致するのが不思議な所。
まあ偶然だと思う。家屋敷まで石高にしてるんだから。
>>197 だから石高は純粋な生産量じゃないんだから意味無いでしょ。
純粋な生産量が知りたければ検地帳引っ張り出して田地の
所だけ集計せにゃならんのだが。
畑も家屋敷も含めた石高で石高=人口が成り立っちゃうってことは
むしろ米は一人あたり一石も無いってこと。
食える人間はほんの一握りだけってこった。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:56
戦国時代は2000万石で人口1200万人ではないのか?
200 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 01:59
農民でも飢饉でも起こらないかぎり結構まともに食えるでしょ
201 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 02:00
雑穀が混じっているからこそ
一石=人口一人なのか!
ありがとう。為になった。
百万石の大名はおよそ百万の領民を抱えているんだね。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 02:04
>>199 検地帳読み直せ。
>>200 江戸時代の平均で自作農は5反ぐらいの土地を持ってたようだ。
とすると収穫は7〜8石ぐらいか。
半分取られて3.5〜4石。
一家平均5人て時代が戦前までずっと続いていたようだけど、
米だけじゃ暮らせないのは確かだわな。
農作物以外の物は米を換金するか米を使って手にいれにゃならんし。
結局米は農民にとっては食用というより商品作物なんだと思う。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 02:36
最近では農民の生活が以外に豊かだったと(米食ってた)という見方もあるがどうよ
なんでも計算すると食えるらしいよ
204 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 02:38
>>203 時代によると思う。
秀吉の領地では実質7〜8割取られてたつーし。
だが江戸時代で元禄の頃ならかなり税率下がってるし。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 02:42
まず石高=人口は無理
毎月大量の軍事費諸々の費用と貧富の差を
考えれば下層民の食い道が無くなる
雑穀に石高と同等の収穫があれば別だがな
206 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 02:55
>>205 米なんてもんは盆暮れ正月しか食えなかったなんて
話は腐るほど聞くわけだが。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 03:06
269 名前:無名武将@お腹せっぷく :02/03/21 02:51
>>268 それも観念論なんだよな。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 12:36
農民の所得が米に頼ってると計算するから無理になるんだよ。
江戸の中期以降は米を売って現金化もあるだろうけど副収入だって多かったしかなり
余裕ある生活をおくれている。
ただし地域格差はある。
戦国期に限って言えば、安部金山などがあったから今川家はかなり富裕な家だろう。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 12:40
非戦闘員も含めて2万5千人なんて普通の規模だろ。
戦闘員が8千人程度だぞ?
210 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 15:24
>209
よくわかんないいんでしゅけど
>208
なぜ安倍金山があると裕福になれるんでちか?
211 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 15:24
>209
8千人は無理だから
212 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 15:26
で、戦国期の石高:人口の比はどれくらいよ
213 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 16:39
金山から金を採る
↓
金で商品や食い物が買える
↓
実体の農地以上の人間が食っていける
↓
(゚д゚)ウマー
214 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 22:51
>>213 金をばらまく
↓
インフレ
↓
一般人は生活できなくなる
↓
マズー
215 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 23:54
石高の6割くらいだろ一人1石7斗は必要だし
216 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 00:02
>>215 灌漑技術の発展で農地が増え農耕技術も向上した江戸時代より
石高あたりの人口が少ないってのはどうよ?
米だけで計算してたらアカンでしょ。
217 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 00:09
金なんてのは上層階級のほんの一部にしか流通してないシロモノだったんだが
218 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:02
>216
世の中が安定すれば人口も増えるんじゃないの?
219 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:11
220 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:14
詳しく説明してくれないとわからないよ
221 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:17
浦長瀬隆氏が畿内・西国の土地売券を収集整理した結果、
1560年代には土地売買の代価が畿内西国では銭から米へ転換し、
伊勢では銭から金へ転換したと指摘しているな。
武田の甲州金は一両の256分の1まで単位があったが、これだと
最小単位の小糸目中でだいたい十数銭といった所。
かなり低額の取引にまで金の使用が想定されていたとわかる。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:21
上流階級もなにも絶対量が明らかに少ない金が流通する事はない
223 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:25
>>222 それは誤解だな。信長も撰銭令で金銀の換算率を示しているが、
流通していなければそんなものは定めないだろ。
そして事実として西国で米本位が進んだように東国での金使用が
認められる(
>>221)
224 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:26
金山があっても生活が楽になるかどうかは大名次第
その分税金を下げてくれるのならありがたいが
わざわざ税収を減らす必要もない
225 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:29
金銀の換算率を定めただけで庶民に金が流通していたと言えるのか
226 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:35
>>225 流通してなきゃ浦長瀬氏の研究は嘘だってことかー
庶民では層が広すぎる、だが上流階級では上過ぎる。
ある程度以上の商人層には流通していたと見るべきだろう。
特に東国では。西国では米なわけだが。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:36
どちらにしても金山が民の生活を楽にするわけじゃない
228 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:37
東国に金が流通したと言うなら西国は銀が流通したと言うべきではないか?
229 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:41
関ヶ原で毛利が勝てば大阪まで銀の橋が、徳川が勝てば米の橋ができる
230 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 01:44
>>228 銀は掘った先から輸出したんじゃねーかな。
それこそ明の経済を揺るがすぐらいの量が日本から出てるわけで。
まあそれでも一枚=48匁の換算率がほぼ確立するなど
国内での使用も認められるが。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 02:38
てか銀の方が金よりはるかに流通してたし(当然か)
>228はどうよ?
232 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 02:38
>228→>229
233 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 03:36
金山から取れた金って実際どういうふうに利用されてたん?
戦国時代に金を貨幣として流通させてたのは武田家のみだとか聞いた事があるけど。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 03:43
>>233 伊勢でも使われてたっつーんだから計数貨幣としての使用が
武田家だけで、秤量貨幣としてはもっと広まってたんじゃないの?
銀なんてずっと秤量貨幣のまんまだし。
しかし「武田家だけ」って何か言いづらくないか?
235 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 11:09
貨幣として流通させなくても重さで当時の通貨らしきもの(米とか)に換金できれば
十分意味があるだろ。
どっちにしろ金を欲しがる人がいて、それが商品なり通貨になるならば十分だと思う
のだが?
236 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 11:12
それは当然だろ
237 :
これは嘘なのか?:02/03/22 11:13
関ヶ原で毛利が勝てば大阪まで銀の橋が、徳川が勝てば米の橋ができる
238 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 13:47
今川が金を使う
↓
経済効果抜群
↓
(゚д゚)ウマー
239 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 23:40
今川が金を使う
↓
インフレマズー
掘り出してただ使うと必ずこうなるんだが……
240 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/23 09:27
金を領内に限って使うならインフレかもしれないけど他領から買い物するときとか
領内で使われたものも持ってる人が他の国で使うので今川領内だけインフレになる
ことはないんでないの?
民間の流通がかなりおこってるころでしょ?たしか日野富子が関所を作るたびに
金持になっていったというくらいの時代だし。
241 :
神聖】筋肉無我03:02/03/23 09:41
/ ̄ ̄ ̄\
/ ∧ ∧ \
| ・ ・ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| )●) | <
>>1って基地外だな
\ ー / \________________
___/\___/_
/ | | ノ | |
| | | / |, | .|
__| | | \ .| _|_| コノヴァカ!! イッテヨチ!!
ヽ、(_二二⌒)__). \ ≡≡∧,,∧ ≡≡∧ ∧
____| | \二 ⌒l. \ ≡≡ミ,,>∀<ミ ≡≡(,,・∀・)
| | ̄ ̄ | | ̄ ̄|| ≡≡ミ_u,,uノ ≡≡ミ_u,,uノ
| | | | .|| "~" """ ::: "~""~"
| |_ | |_ .|| """ ::: """ ::
(__) (__) ||
242 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/23 10:58
>241
で、何?
243 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/23 17:09
>>240 日本全国インフレ(w
まあ全国的な経済活動の発展に対して銅銭の供給量が絶対的に不足してた
時代でもあるから(それが米経済への転換の理由の一つでもあるな)、
多少ばら撒いても吸収力はあると思うが。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 03:20
今川焼き
245 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 23:36
米経済への転換????
銅銭が流通してたのは畿内と裕福な人間だけで、一般(つっても農民)は物々交換
246 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 23:43
>>245 それは知識が遅れ過ぎ。
関東の農民でも租税を現金で納めてたよ。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 23:46
関東の農民が治めてた訳じゃねーし
農民が村の長に米で納税して、長が換金、そして納税
248 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 23:52
惣村の村掟でも罰則が罰金になってたりするけど。
どうも発想が古いね(w
249 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 23:59
アフォ丸出し
換金納とか代銭納とか知らんのだろう
この板で語尾に(wなんかつけて言うヤツって大抵知ったか低脳だしな
250 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:02
251 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:06
低脳らしく代銭納だけ捉えてる
252 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:07
間違いを認めない低脳は氏ね
253 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:07
(w
254 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:09
“市”がどうして出来たのか知らんのだろ。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:10
農民層は物々交換とか言ってるのは痛いと思うが。
銭使用は14世紀にはほぼ完全に浸透してる。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:12
北条が銭納を無理して行なった結果をしらないようだ
榎下郷百姓遠藤 借銭不済儀 無是非候 何分ニモ既促可取候
257 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:17
低脳逃亡
258 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:17
市の起源を持ち出すのも痛いな。
銭使用が米使用に急激に転換するのが永禄・元亀年間頃で、
北条家で銭納がキツクなったのもこの頃。
経済規模の拡大に対する輸入銭の不足と輸入銭の信用低下などが
理由としては挙げられるだろう。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:20
戦国時代で銭納が行われたのは畿内など商業の
発展していて地域のみです。
260 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:22
銅銭が流通量に比べて絶対的に不足してたので
米・布が物品貨幣として流通してたんだがね。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:23
262 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:27
>>259 だからそれが痛い。
銭納が先に崩壊したのが西国で、ぎりぎりまで持ち堪えたのが東国。
>>260 布・米は一旦その通貨機能を銭に吸収されたあとで、米が復活してる。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:28
大名は中央との取引に銅銭が必要だったので、税を銭で納入させてた。
農民は税を払う為に、作物を銭に交換して、税を納めた。
銭が貨幣として機能してないのは当然だな。
264 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:31
市場で銭が通貨として通用してなきゃ換金する主体である
商人が存在できないだろ。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:34
東国でも現物納を認めてますが?
米穀計運送之苦労可存者 員数相当次第黄金永楽絹布之類麻漆等有合之物ヲ以可納之
266 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:36
もしかして、こんな簡単な漢文も読めないとか?
267 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:37
>>265 年代を示さないと意味がないと思うけど。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:39
天正九年に北条が代替検地を行なった際にだされた
超有名な一文
269 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:42
>>268 だから代銭納は永禄から元亀の頃に終焉を迎えたと言ってるのに。
天正の頃に北条家でも物納を認めてたなんて有名だろうが。
代銭納は鎌倉後期に起こり室町期に普及定着し戦国末に破綻した。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:44
あらら、読めないようだ
265の文には代銭納?関係無いんだだけど
271 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:48
>>270 阿呆か。米の代わりに金・永楽銭・絹・麻・漆などでも良いなんてのは
読めるに決まってんだろ。
だから代銭納の崩壊によって天正期には現物納が中心になってたから
こんな文書が出るんだつってんだよ。
読めてないのはオマエだろ。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:51
>米の代わりに金・永楽銭・絹・麻・漆などでも良い
代銭納とは現物納を銭で納める事を言うんですが?
273 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:52
>>272 「銭で納めるのが基本」と「現物が基本で銭等でも良い」の違いが
分からんのか。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 00:57
おかしな事をいうアフォだな
代銭納が崩壊とか言いつつ「現物が基本で銭等でも良い」と主張してるし
ワケワカンネー
キー
276 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:02
代銭納崩壊前→銭だけ、銭がメイン
崩壊後→現物を基本とし、銭は補助的な役割に過ぎなくなる
これぐらいの事が分からん奴なのか。
やれやれだな。
277 :
猿@羽柴猿軍団ボス:02/03/25 01:05
278 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:06
>>276 >代銭納崩壊前→銭だけ、銭がメイン
現物納が基本のトコに銭で納めてもOKってのが代銭納なのに
銭がメインと答える謎
>崩壊後→現物を基本とし、銭は補助的な役割に過ぎなくなる
崩壊と言うくせに、代銭納自体を認めてるが補助的と誤魔化す謎
知ったか低脳本領発揮だな
279 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:07
>銭納が先に崩壊したのが西国で、ぎりぎりまで持ち堪えたのが東国。
こんなヴァカもいたな
280 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:12
>>278 >現物納が基本のトコに銭で納めてもOKってのが代銭納なのに
>銭がメインと答える謎
「銭でも良い」なんて甘いもんじゃないぞ。
年貢・公事が本義的には現物・労働で納める所を銭で納めるから代銭納。
代銭納の進展・普及とは銭納メインへの移行を示す。基本だろ。
>崩壊と言うくせに、代銭納自体を認めてるが補助的と誤魔化す謎
現物が基本である時点で制度としての代銭納は崩壊している。
これも基本。
阿呆が必死だな。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:14
>>279 土地の石高表記が先に西国で広まり始めた事を知っていれば
そんなくだらん反応は返すまいに。
オマエが馬鹿だということに気付け。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:16
>銭納が先に崩壊したのが西国で、ぎりぎりまで持ち堪えたのが東国
これは馬鹿でしょ
283 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:22
西国では宋銭が良銭で明銭が悪銭だったが
東国では明銭が良銭で宋銭が悪銭だった。
古くて流通量に限界のある宋銭中心の西国で先に銭経済が
崩壊したというのは至極当然。
死ねよ2重カキコ
285 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:27
基本とか根拠無しに言ってるのは、まるでどっかの宗教団体だな
>年貢・公事が本義的には現物・労働で納める所を銭で納めるから代銭納。
>代銭納の進展・普及とは銭納メインへの移行を示す。
ハァ?万雑公事ってわかってんのかね?なんだ年貢・公事ってのは、笑わせすぎ
北条とかどう説明するんだろうか、このアフォは
つーか銭納の時でさえ納法の通り現物納認めてるトコが殆どなのにな
>現物が基本である時点で制度としての代銭納は崩壊している。
頼むから、都合のいい脳内解釈は勘弁してくれよー
代銭納も基本が現物、なにも違わんのにこっちでは崩壊、前では移行・普及
アフォかと、ヴァカかと
西国なら自然に宋銭から明銭に使用が変換していくはずだが
287 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:29
>285
内容は知らんがおまえの文体は最低だな
288 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:31
さぁ先に煽ってきたヴァカに言ってるだけだし
289 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:34
これまた読解力の無い奴だな。
室町期には耕地からの税の徴収についても段銭徴収方法が全国化している。
棟別銭・諸役等も銭で徴収している。
それぐらい基本だろ。
アフォでヴァカはオマエだろ。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:36
収穫を農民が換金して銭で税を納めると?
291 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:39
>>286 大内氏や室町幕府の撰銭令では永楽銭などを低く評価している。
東アジア圏での渡来銭の信用低下減少はより新しい銭においてこそ
顕著であったということではなかろうか。
292 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:39
>室町期には耕地からの税の徴収についても段銭徴収方法が全国化している。
>棟別銭・諸役等も銭で徴収している。
基本っていうからヴァカ丸出し
室町期にも戦国期にも棟別銭・諸役等を貫高表示して現物で納入して
和市で換算するってのが当時からの手法なんですが?
年貢の納期を見れば一目瞭然
293 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:42
>>292 換金して納入、だろ。
納期も何も収穫が無けりゃ換金もできんわ。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:45
>>290 税を村単位でかけられてるから、村の長(土豪百姓)が収穫を集め
市で捌き、銭に替えて納付する
市場価格によって左右される事があるので、銭が足らない土豪百姓は
商人から借金をして納付、それで破産する土豪があとを絶たずに徳政令って訳ですな
295 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:47
>>293 だから額面に達するまで税を納めろって事だ
296 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:47
年貢は惣村で「請負」のが中世のパターンで、規定額を村単位で
納めればよろし、というのが多いね。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:49
>>295 規定額を納めろであって額面分の現物を納めろとは言ってないだろ。
現銭での徴収が室町期には普及しているが。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:52
大名は米を商人から買うわけ?
馬鹿じゃない?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:55
>>298 税収のうち米として消費する分の方がよほど少ない。
現銭徴収の方が理に適っている。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:55
>>297 だからヴァカなんだよ
銅銭自体が不足しまくってるんだから
銅銭で納めさせて普及させようにも、銅銭自体がねーんだよ
だから撰銭禁止令なんか出てるんだよ
301 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:57
>>298 だから殆どが米・麦の現物納
そして余剰の米は大きい商いに使われる
302 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:59
>>300 銅銭の不足は15世紀中頃からの問題で、
13世紀までには貨幣経済は定着してる。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:00
304 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:03
商人と、その土地の有力な豪族や地頭など
一般は物々交換
上層の人間の世界だけで成り立ってる経済だったら貨幣経済で定着って言うかもな
305 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:03
306 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:07
>>303 室町期にも変わりません
なぜなら、唐・宋・元・明・朝鮮・琉球などなど
さまざまな貨幣が入り乱れてた為
307 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:09
>>304 1334年11月に百姓が遠敷市場からの帰途に悪党に襲われ
所持品を奪われるっつー事件があったけど、
勧心名と一色田を耕す小百姓の二人連れが銭3貫250文を所持していて
奪われたりしてるわけだが。
一般層にも銭使用が普及していたと見れるんじゃない?
そうでなきゃ市場の帰りに銭をこんなに持ち歩かんよ。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:11
出典
309 :
柴田勝家 ◆6XPvd1vk :02/03/25 02:13
信長軍団推参じゃ!!!
310 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:15
土豪の使いで市場で村の作物を売ってきた帰りかもしれん
つーか一百姓が、3貫250文も持ってるって凄い金持ちなんだがね
銅銭一枚一文なんだが
謙信が奴隷売っていた値は、25文とか30文。
『大日本古文書 東寺文書 一』より
「若狭太良庄雑掌申状并悪党人臓物注文案」
現金以外に絹片・縫小袖・紺布三片・白布二片・錦五両・抽出綿一
刀五腰・布小袖二・細々雑々物を奪われている。
彼らの所持物は「買物」とある。
「新検校并孫次郎以下百姓等」とあるから二人以上の集団だろうが、
身分の高い連中でないことは確か。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:26
身分が高くない連中が
>銭3貫250文・絹片・縫小袖・紺布三片・白布二片・錦五両・抽出綿一
>刀五腰・布小袖二・細々雑々物
を持って買い物帰り?おかしいだろ!!
314 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:28
>「新検校并孫次郎以下百姓等」
ていうか土豪じゃねーか
315 :
柴田勝家 ◆6XPvd1vk :02/03/25 02:29
放置
316 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:31
>>314 新検校は正安4年の太良庄「早米納帳」から、勧心名と一色田を
小作している小百姓とわかるわけだが。
何故土豪?
317 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:35
>>316 并孫次郎以下百姓等と書いてあるだろ
小百姓なら米納帳にも名前は載らん
318 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 02:49
土豪と百姓の一行が悪党に強盗された。そんなとこか。
時に当時の太良庄は年貢のほとんどを現銭で納入しているから
そのための換金目的+余りで買い物ってとこか。
市での買い物にも税金払うにも銭がいる。
銭を得るには自分とこの作物を売るわけだ。
ところでこの場合、銭使用はどこまで浸透していたと言えるんだ?
「孫次郎以下百姓等」はただの荷物持ちで銭は使わないのか?
319 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:01
買い物は主に交換取引
銭は公卿や寺社関係に払う税用だな
320 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:11
買い物が主に交換取引ちゅうのがわからん。
商人サイドは商人サイドで座役などを払うじゃろ。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:14
13〜16世紀にかけての時期で私鋳銭の鋳型が大量に見つかってるから
社会の銭需要が相当にあったことは間違いない。
15世紀末には大内氏の撰銭令が出るなど悪銭が社会問題化してくるわけだが。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:18
市にいるのが全て商人って訳じゃなし
商人は中央で地方で仕入れた品物を銭に替え、地方で物品と交換以下繰り返し
農民は農民で税の為に、品物を銭に替え、他の生活必需品は物品交換
だから畿内の物価なんて地方に比べて数倍だった
商人以外は銭なんて殆ど税に使う目的
323 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:20
室町幕府も出してる>撰銭令
324 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:29
税を払うには農作物や加工品を市場で売って銭を得ていたわけだから
日用品もその流れで銭で買うのが普通だとは思うがね。
「今堀日吉神社文書」に収録されとる惣村の村掟なんかだと
村内での諸事も銭で解決していたことが詳細に書かれているわけで、
銭の浸透度はかなりのものだと思うわけだが。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:33
>>323 大内氏が初見(1485年)であるのでこの頃問題となったとしたのだけど。
もちろん、室町幕府も1500年、5年、6年、42年、44年などに
出しているがね。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:40
銭が必要なのは商人なんかと取引が多い支配者階級のみ
だから税を使って銭を集めようとした訳だが
村なんかも税を納める為に銭を集めなければならなかった
それほど銭自体の絶対数が少なかったんだよ
だから撰銭令なんかだして、銭の良し悪しを分けるなとか
徳政令で商人に銭を返せなくなった土豪やらを救わなきゃならなかったんだし
最悪、納税期に農民の質入禁止なんて布令もでるとこもある始末
幕府の権力者や大商人が多く集まる畿内で流通してた銅銭に
地方の支配者階級は合わせなきゃならなかった
その結果が無理な銅銭集め
327 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:42
>>325 幕府は明応9年から永禄10年まで19回
大内は文明17年から永正15年まで5回
328 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:55
>>326 時期的に戦国期に偏りすぎてる気がするんだが。
撰銭禁止とかさ。
絶対量が少なかったというよりも経済は発展するのに
中国銭の輸入量が減った(東アジア圏が銀本位に偏りだしたためかな)
ことが問題だろう。
銅銭も使い続けるうちに割れ・欠けなど生じて悪銭の類になるから
最低でも一定、経済の発展を考えれば相当量の輸入が必要であった
のにそれが為されなかったことが16世紀の銭経済から米経済への
転換につながるわけで、銭経済の浸透を否定する材料ではないでしょ。
むしろ銭経済が一度浸透してしまった事が問題を大きくしていると
思うんだけど。
あと銭不足の問題はむしろ西国から起こり始めている感が強いんだが。
それは貿易が盛んなだけに中国銭の信用低下をモロに受けること、
相対的に経済規模が大きいことで銭不足の発生が早まることとかが
原因だと思うわけで。
甲斐武田氏あたりは信玄時代では徳政も出てないし、だが一方で
現銭徴収の税項目はむしろ増えているしといった感じだしね。
北条氏も現物納を認めだしたのはかなり後だし。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 03:59
>>327 いやだから大内氏が早いでしょ。
室町幕府が永正年間に出した分を忘れたのは悪いけどさ。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 04:00
京の物価は信長が関所を廃止したら3分の1になったちゅう話を
聞いたことがあるけれども。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 04:25
>>328 撰銭禁止は室町中期からで、銭経済が主流になったのは畿内と支配者層のみ
その畿内でさえも、悪銭の増加と一部に銅銭が集中した為の慢性的な銅銭不足により
1570年以降には米に戻ってる、地方はあくまで中央にあわせただけの証明として
これ以降は、地方でも17世紀初頭まで米取引が主体になってる
銭不足なのに無理した結果が、私銭であり、島銭や加治木銭、長崎銭などの銭を生み
武田の甲州金、西国の古丁銀である
武田は徳政をだしてないが、現物納も併用して認めており
北条も永楽通宝を標準貨幣として銭納を無理して押し進めた結果が
土豪の破綻と現物納への転換
332 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 05:06
>>331 「畿内と支配者層のみ」ってのがどうも納得いかないんですが。
貨幣に関する最近の論文等でそう断じている物を見た覚えがありません。
13世紀半ばには米・布・絹に取って代わり、14・15世紀に隆盛、
15世紀後半に綻びが現れ始める。基本的に全国規模でそうであると
理解しているわけですが、そうでないとする文献などあれば、
ご教授願いたいものです。
畿内と西国の土地買券の集計の例だと1560年代に西国では銭から米、
伊勢では銭から金への転換が認められる。伊勢は東国への玄関口である
からして東国では金への転換があったのでしょう。まあいずれにしても
それ以前では銭使用が前提なわけです。
これは何も中央に合わせて起きたわけではなくてこの頃から
銭不足が全国的に顕著になってきたということでしょう。
日本の流通が海運を中心に全国規模で発達していたことを考えれば
貨幣の循環は極めて流動的かつ全国的なわけで、貨幣不足の問題が
全国で同時期に起こるのは当然だと思うわけですが。
まあそれでも西国が早く東国が比較的遅く思われるのは既に述べたわけですが。
「中央にあわせただけの証明」ってのはちょいと偏った見方では?
あと武田氏が現物納を認めた例を教えて頂けますか?
信玄の代に定着したと思われる数多くの役は現銭納であると思いますが。
北条氏は無理をして推し進めたというよりは従来型の銭納の発展形を
目指したが全国的な貨幣不足に潰されたという印象です。
333 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 09:41
だから今川家の実力はどーなのよ?
334 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 10:24
なんにせよ、今川軍は本当に二万五千も出せたかという論議と
石高=兵員動員数は間違いだったということからスレ違いへと発展してるよね。
なにはともあれ、一万石=二百五十〜三百が最大動員力という公式は今は否定されてて、
実際は四百〜五百は可能だというのが昨今の定説。
この計算だと、今川家が八十万石だとしても四万の動員は可能な計算なりますね。
まあ、私もそこまでは動員したとは思わないどね。
ただ、今川家は金山もあり商業や港湾利益も盛んな事を考えると、経済的には相当裕福だったと思うよ。
まあ、二万五千もしくは二万余くらいは楽に出せたはずです。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 11:20
で、本題に戻すが1560年前までの時代。今川家に金山があったことが国力的に
有利に働いたという事実はあるのか。
また、それで耕作地や漁獲量以上の人口を養えたのか。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 14:55
人口≠兵力
耕作地や漁獲量以上の人口は養えないでしょ。
耕作地から割り出される以上の兵を養う事は出来ても。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 15:21
今川?バカかオマエラ?
信玄公に蹂躙されまくった弱小チンカスじゃねーか(W
おめでてーな
338 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 15:41
>>337 愚か者めが!
甲斐の山猿、信玄とて東海の雄義元公は勿論、
その御生母である駿府の尼御台、寿桂尼様が存命のうちは
今川領に手出し出来なかったんだよ。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 00:04
>>334 仮に今川家が全体としてかなりの兵力を動員できたとしても、
遠江の有力豪族なんかに留守番が多いことから、桶狭間の時は
2万5000でも多く見すぎなんじゃないかって説もあった気がする。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 00:37
4万と号したくせに2万5千以下では情けないぞ
341 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 01:22
>>340 武田信玄も実質3万程度の軍勢を8万だと宣伝してる。
それに4万と書いたのは織田家側の方で、敵は多くしておいた方が
カッコつく。そんな例はたくさんあるよ。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 06:07
>>339 それは初耳だ!
小和田教授も2万5千が妥当と言ってるけどね。
>>341 そうそう!
今川と同盟関係にあった北条や武田の
資料には2万余って書いてあるからね。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 06:32
>>342 小和田氏は研究者としてあまり信頼できないような・・・・
344 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 06:56
>>343 でも貴方と小和田教授の意見だったら
小和田教授の意見を受け入れるよ。
345 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 11:00
留守番をあわせて2万5千とか?
346 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 12:02
>>343 小和田氏の一般に対する説明と
専門家としての説明は区別して考えないと、
あの人はレベルによって説明を変えるしね。
歴史の研究者としての小和田さんと、
テレビのタレントとしての出演や一般向けの本などに
おもしろおかしく書くのはぜんぜん違う。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 12:48
そもそも二万五千というのはどっからでた数字ですか?
348 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 16:33
(・∀・)<とても良スレ
>>347 そうだよね、数ばっかり先行してるけど。
俺名古屋でさ、先生からか何かの本だったか忘れたけど今川3万の兵士を織田は
3千で破ったのが桶狭間だと聞いたことがあった。
単純にすごいなと思ってたけど、根拠はあったんだろうか?
文献によっても2万〜4万の開きがあったりするし。
でも、当時の人だって見たわけじゃないんだろうからあんまり気にしてないのかも
2万〜4万の軍勢が一斉にゾロゾロ移動してたわけじゃないんでしょ?
役割や集団ごとにそれぞれの目標に向かって移動してたわけで、全軍が集結して
数数えるわけないんだからだれもわかんないよね。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 22:16
三河守に叙任されながら官位を冶部大輔に上げた(初期の足利尊氏の兼任官位)
義元は将軍家の補佐どころか天下を取る気概があった
350 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 01:49
三河守叙任なんて嘘嘘
義元の書状に三河守なんて使用されてないし、それどころか冶部大輔すらない、上総介もない
351 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:05
どっからそんな電波なレスがでてくんだよダニ野郎が
352 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:08
そっくり返すよ電波君(w
353 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:42
>>350 じゃあ実際の官位はなんだったの?
氏真は上総介だかで史料に出てくるんじゃなかったっけ。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:51
>352
また(W
つけるやつか?
てっめえいい加減にしやがれクソ厨が!!
てめえみたいな浅学非才の輩はもうくんな!!
355 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:53
>>354 そこで説明できない人も来ない方がいいよ。
掲示板はコミュニケーションの場でもある。
知識を溜め込むだけで自己満足しているなら出て来るなよ。
356 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 02:55
>>353 氏真は上総介名乗ってたみたいで、「歴名土代」では冶部大輔叙任もあったみたいだな
あ、厨が騒いでる
357 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/27 06:21
厨ばっか
358 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/29 15:25
軍って召集しないんか?
現代の軍隊とかだと点呼とかで必ず数を確認するよな?費用算出のためにも軍勢の
数を把握する必要があるのではないか?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/29 17:00
>>358 家臣に「今度の戦では〜〜人の兵をつれてくるように」
というふうに動員をかけてるから性格に何人いた、というのは出ないんじゃないかな。
360 :
錬金おめこ:02/03/31 08:41
寿桂尼
‖―――氏輝(長男)、彦五郎(二男)、義元(五男)、氏豊(六男)
氏親
‖―――玄広恵探(三男)、泉奨(四男)
側室
氏豊(六男)って武将なのか?
361 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/31 11:40
氏豊って幼いうちに那古野城主になって討たれたの?
362 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 00:29
織田信秀に討たれた那古野城主の今川氏を
系図上の今川義元の弟と同一人物とするには問題あると言われてるよね。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 11:08
那古屋城を作ったのは名古屋氏、尾張守護斯波氏が今川にやっつけられて講和の
条件が氏豊に娘を嫁がせるということと那古屋城供与。
信秀が氏豊をだまし討ちして那古屋城を占拠したっていう流れでよかったんだっけ?
364 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/01 11:13
那古屋城を作ったのは今川氏親だよ。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/02 10:35
あ、氏親だったんだっけ。失礼。
信長の野望はある意味歴史に興味を持たせたという功績はあるが、政治的部分をは
ぶいてしまったし、戦国時代に対して間違ったイメージを植え付けちゃったよね。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 05:45
367 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 08:34
馬鹿プ
いくらエキスポズでもヤンキースと10回くらい対戦すれば、1回くらい勝つみたいな感じだろ
369 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 11:26
武田が影から手を貸していた
370 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/03 23:18
371 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/04 01:14
え?氏豊って討たれたの?
たしか京都へ逃げたのでは…
372 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/04 11:38
今川の歴史を整理しますか。
13世紀、吉良長氏の子、国氏が三河今川荘を領有したことにより今川氏と名乗る。
国氏の娘は
>>363で出てくる那古屋氏に嫁いでる(余談)
その後、国氏の孫、範国が駿河守護になりましてこれが駿河今川家の初代。
範国の孫、駿河今川家3代目泰範の代に遠江守護を兼任。
ちなみに義元で駿河今川家としては9代目になる。
1530年頃の尾張
尾張の勢力図として、有名な織田3家老家(信長のオヤジなどなど)は有名だが
今川家の勢力についてはあまり知られていない。
上記で言われているように、今川家が那古屋城を中心に尾張南西部を支配。
三河から松平家なども度々尾張に侵攻をし、実質3家老家の支配地域は尾張の東
半分というところであった。
それを、織田信秀が回復していくところから桶狭間のストーリーは始まっている
のかもしれません。
今川氏豊が那古屋城主として支配していたころ、歌会を頻繁に催しておりまして。
その歌会には今川家だけでなく、国人衆など敵対していた勢力までもが招待されて
おりました。
今川家にしてみたら「尾張の支配者は我々だ」というとこでしょうか。
あるとき、信秀が歌会に出席していた際。体調が悪くなり日置城(当時の信秀
の居城)に帰れないという理由で那古屋城に近習と共に泊めてもらうことになりました。
その夜、いうまでもなく外から織田の軍勢が、中からは信秀とその近習が一斉に
攻めかかり、氏豊はそのまま城の維持を諦めて京都に逃げたといわれております。
なお、その後の信秀ですが。
今川の勢力を駆逐、松平の勢力も尾張から駆逐するだけでなく三河にも攻め入って
おります。さらに美濃の斎藤へも攻め入り(こちらはデモンストレーションの意味
合いが大きく実質は負け戦ばっかり)息子に道三の嫁を貰っております。
信秀台頭の支持理由として、尾張の独立と侵攻勢力の駆逐だったわけで、その後
信長が跡を継ぐときにまたまた分裂、大きくわけて信長派、信勝派、今川派にわか
れてしまったのです。(実際には信友制圧が先ですが省略ね)
この頃が1555年辺り、この兄弟内戦をしている間に今川が尾張支配に再度のり
出してきたと考えられるので桶狭間は京への上洛ではなく那古屋城再奪回並びに
尾張平定目的の出兵と見るのが正当だろうと思われております。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 10:09
age
374 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 11:01
>370
>何に?
当時、信玄は黒川金山の金に底が見えたため
駿河金山を狙ってたと思われ候。
また、領土に海が欲しかったと思われ候。
具体的に手を貸したかは知らんが死んでくれと思ってたのは。
事実と思われ候。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:07
376 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:10
というか、太りすぎて馬に乗れんよーになった時点で
ダメダメにんかと存知まするが・・・
>375
中井信玄は見たことないのですが・・・
そーゆーこと言ってるんですかいの〜?
どっちかっちゅーと横山光輝。(新田某の)
378 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:13
>>376 そのほう、ドラマのイメージ丸呑みじゃな!
380 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:20
>>379 そりゃ知らんが、義元出陣時の姿を記した資料に残っているぞえ!
ちと調べんとその資料の名は忘れたがのう。
織田3家老家って有名か?聞いたことないが・・・。
ひょっとして下四郡守護代の三奉行のことか?
こちらもマイナーだな。弾正忠家以外は。
383 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 12:46
>>381 この中って?よーわからん、すまぬのう。
今調べたがのう、『続明良洪範』と言う資料に記されておるぞえ!
それによると
「義元は胸白の鎧に金にて八龍を打たる五枚兜を被り、
赤地の錦の陣羽織を着し、今川重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、
壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計なる
金ふくりんの蔵置、紅の鞦かけて乗られける」
と書かれておるんじゃ。
少なくともドラマで見るよーな輿に乗って出陣などと
ゆー事はなかったと思ふぞえ。
>>383 なるほど。サンクス。
世に広まっている「短足肥満で輿移動」も出典はあったと思うが、
なんだったっけ。
でも木像や画像では中肉くらいをよくみる。
「利家とまつ」でも痩せてたような。。。
あーでもイメージはデブだーなんでだろヽ(´▽`)/
385 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 13:36
>>384 所謂「短足肥満で輿移動」ってイメージは
織田方や徳川方の資料から出来たイメージじゃろ。
敵対した相手を悪くするのが当たり前じゃからのう。
今川家自体の資料(肖像画や宝物)は信玄めの駿府焼討ちで
殆ど残っていないからのう。
>>385 そんなこと言っても、悪意でそう書かれたかは別検証では?
近世の読み物なんて小説じゃん!とか言われたら悔しいでしょう?
でも、『続明良洪範』はググールであんまりヒットしませんでしたが、
一般的に信頼されてるの?
明良洪範は結構ありました。京都大学電子図書館で読める。
というか、「短足肥満で輿移動」の出典探してみます。たぶん。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/06 15:18
横山マンガでは、デブになってしまい馬に乗れんよーに
なったと、書いてあった。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/07 00:15
そこまで太ってたら最後の抵抗もできなかったはずだよ。
それに「大男の豪傑」の類だって馬に乗ってるってのに
どのぐらい太れば馬に乗れなくなるんだ?
>>374 60年代はまだ黒川金山大丈夫だったけど〜
港は欲しかっただろうけど。
あと東海道も。
389 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/07 00:31
黒川は大丈夫だったが、
大分とってたから先が見えたって事。
それに佐渡に並ぶ駿河は魅力だったんだろう。
390 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/07 00:39
>>389 そんなこと信玄が分かるかねえ?<先が見えた
1573年頃にはまだまだ大丈夫だったみたいだけど。
佐渡に並ぶ?
1560年代の佐渡って砂金を採取してた程度だけど?
391 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/15 23:04
上洛!
392 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/23 18:54
もう語り尽くしたかのう
hosyu
394 :
無名武将@お腹せっぷく:
余は 正一位太政大臣 デギン・ソド・ザビである。