701 :
無名武将@お腹せっぷく:
甲斐一国で20万石弱
尾張一国で60万石弱だとおもったが
702 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:30
35 :a :02/02/22 08:53 ID:Hy/7fXtM
韓国に旅行に行った私の知人の女子大生がディスコに行ったそうです。
その女子大生が日本人とバレると、いきなり数名の男に連れて行かれて
「従軍慰安婦のカタキ!」
と、かわるがわるに輪姦されたそうです。
必死に泣き叫んで回りの人に助けを求めたそうですが、回りの人は女性を含め
笑っていたそうです...
703 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:31
>国人達の御輿から脱するのに
神輿だったのか?
具体的に言ってくれ
704 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:31
なんだ信玄厨?
いま落ち着いて来てたのに
705 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:32
706 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:35
金山が武田家の収入になると思う奴は厨房レベルだな。
織田家が海運の重要拠点の一つである熱田湊を支配していたことの
経済効果を考えないのも厨房レベルか。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:36
金山は武田家の収入じゃねーの?
708 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:39
>703
信虎の専制主義に反発した家臣団が
晴信を担いで追放したんじゃなかったっけ?
709 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:44
>>708 んな事はここの住人なら誰でも知ってるだろ
それで何処が神輿だったのか、具体的な事例を踏まえて教えてくれ
710 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:45
>706
どっちが厨房だか
711 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:53
慶長検地の結果だけなら
甲斐:22万7616石
尾張:57万1737石
灌漑技術が進んで耕作地が大幅に増えるのはこの後の時代だから、
16世紀の石高はこれより少し少ないぐらいか、あるいはほとんど
同じと見てかまわないんじゃないか?
この時の検地を元にすると織田信秀の獲得したのが20万石ほどで、
信長は1555年には清洲を取って尾張南半を収めたわけだから、
まあ30万石ぐらいか。
同時期の信玄は第二次川中島の頃だから、川中島以北の支配は
まだまだとしても、50万石ぐらいはあるかもしれん。
しかし1564年には信長は犬山城まで支配して尾張を固めたのに、
信玄はやっと信濃から謙信を追い払ったというところで、
ここで国力が並んでいる。
信玄の不運は謙信の存在か。
しかし『兵庫北関入船納帳』など見ていると主要港を押さえることは
金山がいくつかあるなんてことよりよほど金になると納得するな。
山国に生まれたのも信玄の不運だな。
712 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 01:58
そこで信長なら絶対謙信と戦わないだろう
713 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:00
714 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:01
武田の金山は民営だというのが最近の流行だね。
ていうかこの当時は金山銀山てのは民営が多かった。
一方で、金山経営者と武士の境界もあいまいで、
銀山経営していた江間氏(飛騨)とか
金山経営していた内ヶ島氏(飛騨)とか
金山経営していた穴山氏(甲斐)とか
所領の割に高い経済力を持ってるやつもいた。
だが武田氏が黒川金山を経営していたとは言えないようだ。
715 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:02
ソースは?
716 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:03
>>712 色々あるんだよ。謙信の性格的に。
あと川中島以北を押さえないと国力的に信玄も外にでる力は
得られない。
>>713 今川氏→運良く逆転必殺
斎藤氏→義龍絶妙のタイミングで病死、義興無能
謙信の性格と戦術能力ってのは洒落にならんと思う。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:08
>>716 余力があれば笹本正治氏の『武田信玄』読んでおいて。
中公新書で出てるやつ。
説明と史料の引用面倒だから(w
運良くとかいっても信秀なんか普通にかってるし
720 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:10
>>717 運良く逆転?運だけ?
義興無能ってのは何を基準に?
>718
そんなもんをソースにしてんの?
722 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:11
723 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:12
>>718 ソースはそれだけ?
数ある研究本の一冊だけ持ち出して流行りとは(藁
724 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:15
(´Д`;)イクッ!
725 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:18
>>723 歴史は多数決ではないぞ。
桶狭間あたりでも「田楽狭間への迂回奇襲」を最初に否定したのは
藤本正行氏だが、今じゃこっちが主流になってるわけで。
笹本さんの説もだいぶ広まってるよ。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:21
>>719 信秀も人生の後半は負けっぱなし人生だし(w
727 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:26
>>725 京都大学名誉教授の小葉田淳氏の論文では
黒川、中山、保村での金の採掘や武田の貨幣制について書いてあるから読んでみればいい。
そんな説が広まってるって話も初耳だし。
一、御分国諸商い一月に馬一疋の分、役等免許の事
一、本棟別壱間の分、御赦免の事
一、向後抱え来たり候田地、軍役衆の如く検使を停めらるべきの事
一、郷次の人足普請、禁ぜらるるの事
以上
この度深沢の城において、別して奉公候間、褒美を加えられるものなり、よって件
の如し
元亀二年辛未
二月十三日(竜朱印)山県三郎兵衛尉これをうけたまわる
信玄が深沢城を攻めたのは1571年のこと。
つまりそれまで金山衆は一般商人と同じように関所で通行料を払い、
棟別銭も払い、賦役にも駆り出されていたということである。
もし武田家が黒川金山を直接経営していたならば、これはおかしいだろう。
なぜなら、直営の金山ならば産出した金は全て武田家に納められる
はずであるのに、関所で通行料を取る必要など、全くないからである。
また金を掘るべき人間を賦役に駆り出して生産量を減らすのも、
おかしな話である。
棟別銭を払わせていたというのも、彼らが一般人に過ぎなかったという
証左である。棟別銭は武士や軍役衆などは免除されるものであったからだ。
武田家が金を掘らせるために彼らを雇っていたというのであれば、
当然免除されて然るべきものであろう。
つまり、金山衆というものは民間業者であったと見なすべきであると
考えられるのだ。
実際、初期の佐渡金山など、民間人が採掘していた金山の例は
他にもある。
黒川金山も、民間業者が金を掘り、武田家はその金を「購入」していた
のだと考えられる。
729 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:40
>>727 あなたも、笹本さんの本を読んでみるといい。
730 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:49
>>728 >棟別銭は武士や軍役衆などは免除されるものであったからだ
棟別銭を免除されてたのは、軍役を義務付けられた人だけ。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 02:56
金山衆などの御用商人や職人は軍役免除などの諸役免除と
金山採掘などの特権を受ける代わりに、収益や採掘した金を上納してた。
これは君の言う笹本正治氏が論文に書いてるよ。
7〜8年前だけど。
732 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 03:07
>>730 だから武士や軍役衆だと言ってるでしょーが。
>>731 それだと1571年以前は金を上納していないのかな?
1571年以前って信玄の治世のほとんどの期間だよ?
そりゃ笹本さんも考え直すよ。
中公新書で『武田信玄』出したのは1997年。
そこでは少なくとも黒川金山は直営ではない、勝頼の代に黒川金山が
枯渇したとしても武田家の財政難には直結しないだろうと言ってる。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 03:20
>>732 1571年に拘ってるのは井川郷の金山と勘違いしてるから?
それ以前からも金の採掘行なってる。
その証拠に、前年の駿河攻めの時に金山衆を使っっただろ。
それと直営ではないのは金山衆、いわゆる御用職人に金山採掘の特権を与えて掘らせてるからで
金山自体の所有権がないと言う訳じゃないだろ。
棟別銭免除は職人には当てはまらんのだから、棟別銭を持ち出すのは勘違いだろ。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 03:28
>>728の書状は駿河侵攻の時に、富士金山や井川金山で働いていた駿河の金山衆に対してじゃねーの?
735 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 03:49
>>733 >1571年に拘ってるのは井川郷の金山と勘違いしてるから?
信玄が黒川金山衆に出した書状の中で現存する最古のものが
>>728で上げたやつだよ。だから元亀二年に拘るのは当然でしょう。
宛名が抜けてたけど、田辺四郎左衛門尉宛ね。
ちなみにこの田辺家は1583年6月2日に徳川家から本領安堵
されて武士になってる。1775年の屋敷図からすると典型的な
土豪の家。だが元亀二年(1571)以前には棟別銭を
払っていたわけだから信玄の代には武士ではなかったのも確か。
上記書状からすると金山の経営者の一人であり、田畑を持って
農業もやってたようだから、やはり土豪なんだろう。
>それ以前からも金の採掘行なってる。
「採掘」の話じゃなくて「上納」の話だと言ってるのに。
金の採掘自体は信虎の代から確認できる。
棟別銭や諸役免除の代わりに金を上納してたと貴方が言うから
でも免除されたと確認できるのは1571年じゃんと言ってるわけで。
>その証拠に、前年の駿河攻めの時に金山衆を使っっただろ。
1565年の松山城攻めでも使ってるね。んなこたー知ってる。
>それと直営ではないのは金山衆、いわゆる御用職人に金山採掘の特権を与えて掘らせてるからで
>金山自体の所有権がないと言う訳じゃないだろ。
やはり笹本氏の説で、近世、黒川金山のあたりは地元の入会地に
なっているが、もともと武田家の御料所であったのなら後の領主も
それを引き継ぐのが普通でいきなり入会地になるようなことはない、
つまり金山自体の所有権も武田家にはなかったとしている。
>棟別銭免除は職人には当てはまらんのだから、棟別銭を持ち出すのは勘違いだろ。
いやいや、経営者が棟別銭払っていたんだから雇われていた金堀も
推して図るべし、ですよ。軍役衆なら足軽でも免除されるもの
なんだから、金堀たちだって直営なら免除されて然るべきでは?
金山衆は地元の土豪で、個々に間歩・堀間を所有し、金堀を雇って
自らの資金で金山を経営していたというのが笹本さんの97年の時点
での説ですね。
736 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 03:53
>>734 というわけで(
>>733参照)これは黒川金山の金山衆であった
田辺四郎左衛門宛てだから。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 04:26
>>735 今見つけたんだが、その塩山の田辺氏宛ての書状は
田辺氏が大工頭に認められた時に宛てられた書状という見解を小葉田氏が論文で載せてる。
これにより田辺氏は棟別が新屋から本屋に格上げされて、棟別役免除となったとある。
それまでは職人としての地位が低かったって事ですな。
田辺氏なんかに見られる金山衆は他国出身者が多く、この田辺氏も信虎の代に招かれた
御用職人と言う説もある。根拠は信虎以前には名前が見られない。
>つまり金山自体の所有権も武田家にはなかったとしている。
金山自体の所有権がなければ、採掘権の認可も与える事が出来ない。
>軍役衆なら足軽でも免除されるもの
棟別銭免除は上記。金山衆は武田から経営や採掘を委託されてるだけ。
笹本氏の唱えてる説を証明する、金山の所有権が金山衆のものという書状がないから。
普通は所領を認める朱印状が発行されてるはずだし、一枚ぐらいは残ってると思うが。
そもそも、招かれた技術者で構成された金山衆に採掘権を与えておきながら
「購入」しなければならないと考える方がおかしい。
それなら金座衆が作った甲州金も「購入」していたのか?
738 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 05:14
信玄だったら元就や氏康の方が優秀だろうに
739 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 05:19
(*^o^*)
740 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 06:43
>>737 >田辺氏が大工頭に認められた時に宛てられた書状という見解を小葉田氏が論文で載せてる。
>これにより田辺氏は棟別が新屋から本屋に格上げされて、棟別役免除となったとある。
>それまでは職人としての地位が低かったって事ですな。
笹本正治氏の言を引用。
「この文書を得た田辺氏は金山衆を代表する人物で、同様の文書が
その他の金山衆にも出ているが、……」
まあ鵜呑みにするのはどうかとしても、「同様の文書」が
「他の金山衆」にも出ているというのは注意すべきでしょうな。
それに書状で「この度深沢の城において、別して奉公候間、褒美を
加えられるものなり、よって件の如し」と明言しているのだから
深沢城での働きに対する褒美=諸役免除であるという以外の事は
読み取るのは難しいですな。その小葉田氏の論文とやらでは
何を根拠にしておられるのですかな?
>田辺氏なんかに見られる金山衆は他国出身者が多く、この田辺氏も信虎の代に招かれた
>御用職人と言う説もある。根拠は信虎以前には名前が見られない。
信虎が自身で呼び寄せた「御用職人」の類であるならば、
関銭免除の特権が1571年まで認められなかったというのは
あり得ない話だと思いますがね。御用商人などには関銭免除が
出されているわけですからね。
(しかも笹本氏によれば、田辺に限らず、他の金山衆も?)
また先の書状から田辺四郎左衛門が田地を所有する農民としての
性格を有していたことも明らかなわけですが、信虎の代に呼ばれた
というのであれば、それこそその「田地」を与えるような知行の
宛行に関する書状が一通ぐらいはあって然るべきでしょうがね。
残念ながら信頼できる書状でそのようなものは一通も無いんですな。
武士ですらないただの土豪や富農の類だったのであれば、灰吹き法の
登場で金産出量が増大した信玄時代まで彼らの名が見当たらないから
といって確たる証拠とは言えますまいて。
むしろ名の出てこないことこそ、(最古の書状ですら1571年!)
彼らがただの民間業者であったことの証左でしょうな。
(続く)
741 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 06:44
(続き)
>金山自体の所有権がなければ、採掘権の認可も与える事が出来ない。
つまりは採掘権なんて与えていないんでしょう。
だからその土地の土豪が勝手に経営していた「民営鉱山」だという
考えに至ったんですな。
信玄は「商品としての金」を購入して褒美や高額取引や贈答に
使ったんだということになりますな。
>そもそも、招かれた技術者で構成された金山衆に採掘権を与えておきながら
招かれたのか金を求めて勝手に住み着いたのかは分からんでしょう。
採掘権を「与えた」とする根拠は確かなんですかな?
結局黒川金山を武田氏が所有していたとする史料の無いことが笹本氏
をして方向転換させたんでしょうからな。
>「購入」しなければならないと考える方がおかしい。
>それなら金座衆が作った甲州金も「購入」していたのか?
おやこれは困りましたな。
ではちと趣向を変えまして、越後の話などいたしましょうか。
上杉謙信の残した遺産は2万7000両と言われるわけですが、
その内訳が『上杉家文書』は「春日山城内惣在金目録」にありまして、
「御利平の金」「かい金」「所々より参金」つまり「貸付の利子」
「購入した金」「献上された金」となるわけなんですな。
でまあこの「かい金」すなわち購入した金の存在が重要でして、
当時の金の流通商品としての性質が読み取れるわけですな。
また金を買うためには何か対価が必要だったはずで、それを消費しても
金として蓄える需要があったということが分かるわけですな。
武田家の場合も同じでしょう。金を購入して様々の用途に使って
いたわけです。何しろ黒川金山を所有していた証拠も何も
ないんですからな。これが普通の考え方でしょう。
碁石金の逸話として、戦場で信玄は袋に碁石金を山ほど詰めていて、
働きのあったものにその場で渡していたなんて話がありますが、
大名の金の用途はやはり褒美・贈答などでしょうな。
同じ事を銭でやろうとすると金一両で済んだものが3〜4000枚
にもなるんですから、まあ金に「換金」して使うのが省スペース化
にも労力の節約にもあるわけですな。
甲州金も褒美・贈答に金を使ううちによりその価値が明示しやすい
計数貨幣への発展を思いつき、購入した金の加工を外注したという
ことなんでしょうな。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 07:36
たしか甲州金山の精錬方法は通常と違うんですよね?
金とは見分けのつかない黒い岩石から、金を抽出できる
ようになった経緯を知ってる人の講釈を希望。
金山の所有の話は面白いけどスレ違いでもある(w
目立ちあげ
744 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 17:35
横槍レス。
>>730 竜王の住民が棟別銭と諸役免除で堤防管理を任されていたけど。
棟別銭免除が軍役かけられた人間だけというのは極論だろう。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 21:02
信玄様萌え
746 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 22:33
「厨房!」とかのレベル低い言い争いじゃなくてイイ!
747 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 23:24
信玄公はむしろ過小評価されています。
天下をとれる可能性のあった大名は信玄公ただ一人でしょうね
早死にが惜しまれます
748 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 23:26
>747
信長の方が早死ですか何か?
749 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/03 00:55
信玄より早死の奴なんていくらでもいるだろうが
所詮信玄厨か
750 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/03 03:58
>同様の文書がその他の金山衆にも出ているが
これは、同時期に同様の文書が出てるのか、そうでないかで全然解釈が違ってくるがどうだろうか?
>何を根拠にしておられるのですかな
これは龍朱印状による諸役免除状は、本屋に格付けされた、村落内上層部に発せられたモノが多い。
これは小葉田氏以外の研究家でも証明されている。
>御用商人などには関銭免除が
御用商人と御用職人を混同してると思われる。商人の活動範囲は武田領内に限定されたものではない。
金山衆などの御用職人に関銭免除は出てない。
>>728にも伝馬役は免除されてるが
関銭免除はされてないし、通行手形発行の事さえ書いてない。
そして呼び寄せるのは諸役免除だけではない、採掘の独占権や知行を与えるなどがある。
>「田地」を与えるような知行〜信玄時代まで彼らの名が見当たらない
確かに無いが、逆に言えば田辺氏の知行安堵の書状も無い。旧来から存在した土豪なら
信虎とは言わず、それ以前でも知行関係の書状が残ってても不思議ではないが?
君の言葉を借りて言えば、1571年まで確たる書状が無いのは、
土豪ではなく、招き入れた御用職人となるがどうだろうか?
ついでに灰吹法・抜銀法は1520〜28年頃に、神谷寿貞によって中国から伝わった最先端技術で
それまでの砂金を中心とした採取方法を根本的に変えた訳で、その最先端技術を
導入する為に技術を持った職人を、当時の戦国大名は知行を与えたりして呼び寄せた。
これは笹本氏が主張してる事で、その技術を、一土豪が手に入れるのは不可能だと思うが?
というか、土豪と主張したり民間業者と主張したり、主張が一貫性に欠けるぞ。
>「商品としての金」を購入して褒美や高額取引や贈答
名古屋学院大学助教授の浦長瀬氏の論によると、当時の金銀は主に貯蓄用、贈答用、褒美用に用いられ
大名同士の取引や大商人と大名の取引に使用されるのみで、一般の商取引には使用されなかった。
金自体が必要なのは大名や大商人であり、職人には必要ではなかった。
ということは、金山衆は技術を使って金を採掘し、武田に上納。
武田は見返りとして知行地を与えたり、諸役免除の特権を与えたとなる。
>招かれたのか金を求めて勝手に住み着いたのかは
これは上記を読んで参考にして欲しい。また、以前から勝手に住み着いていたなら
必ず知行に関する書状が残ってるはず、それか戦国期に勝手に住み着く事は可能なのか?
黒川金山が元々武田の直轄領であれば、自家に対して所領安堵などの書状なんて出す必要性がない。
無いから金山衆の所領と考えるより、よっぽど自然と思われるがどうだろうか?
>『上杉家文書』
上杉家が誤用職人に採掘させた「土蔵在金」を入れなかった理由を是非聞きたい。
「春日山城内惣在金目録」に他の3つと共に、内訳としてしっかり記載せれてるが。
「かい金」については、謙信の時の越後の金の産出量が少なかったのと、
直江津から出雲などの山陰方面と交易して手に入れた銀や鉄という説もあるが。
>同じ事を銭でやろうとすると
上記で書いたが、さらに付け加えると少額の商取引に使われるのは銅銭、高額商品には米や布。
てか甲州金は計数貨幣と言う話も初耳なんだけど。
分けて書こうかと思ったけど、興味ない人が読み飛ばせるようにレスは一つがいいと思ったので。
一応付け加えますと、
>>740-741の人や笹本氏の説を論破とか、
そういう目的じゃありませんので。
普通にマジメなやり取りも良いかなぁと思ったまででして。
もし、気に障ったトコがありましたら是非言ってください。謝ります。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/03 04:21
>>750 土蔵在金は採掘した金ではなく、謙信以前の代からの遺産であると
解釈する方が普通だと思う。
>>711 1564年には信玄の上野経営もそこそこ進んでいて少なくとも10万石くらいの
上積みはあるんでは?松井田とか箕輪・岩櫃あたりも武田支配に
なっていたし。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/03 14:12
>>753 箕輪城は1566年落城説の方が有力だと思ったが。
755 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/03 21:11
箕輪で6回も敗退したのか
756 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/03 22:56
負けてあげたんだよ
(その1)
>これは、同時期に同様の文書が出てるのか、そうでないかで全然解釈が違ってくるがどうだろうか?
笹本氏に聞いてくれとしか言いようはないが(苦笑)
文脈としては同時期であると読める。
また元亀二年に与えられた特権を再確認する文書が天正二年に出ているとのこと。
……深沢城攻めに従事した金山衆は何も田辺家だけではあるまいて。
>これは龍朱印状による諸役免除状は、本屋に格付けされた、村落内上層部に発せられたモノが多い。
>これは小葉田氏以外の研究家でも証明されている。
それに関して思い出した事があるんで、
>>737の下の部分と併せて。
>これにより田辺氏は棟別が新屋から本屋に格上げされて、棟別役免除となったとある。
>それまでは職人としての地位が低かったって事ですな。
棟別銭は本屋200文、新屋100文(50文とも)のはずだから、
本屋になれば棟別銭が免除されるというわけではないし、本屋でなければ免除されないという
わけでもないと思うが。
もっとも竜朱印状が発せられるのが村落内上層部宛が多いというのは私も理解しているが。
(とはいえ信玄の代だと村落の中のさらに一個人などに名指しで送られる書状というのはそもそも
ほとんどない。これが増えるのは勝頼の代だから、形式というよりは郷村自治に対する君主の
支配力の浸透の問題ではないかと私は考えているのだが)
奉公に対して棟別銭などが免除された文書は多いが、それだけにこの文書を特別扱いする理由は
やはりわからない。職人であれば個人単位でも棟別銭免除が行われている例はあるのだから。
竜朱印状が出ているのはむしろ最初から田辺家が本屋であることの証左ではないか。
(その2)
>御用商人と御用職人を混同してると思われる。商人の活動範囲は武田領内に限定されたものではない。
>金山衆などの御用職人に関銭免除は出てない。
>>728にも伝馬役は免除されてるが
>関銭免除はされてないし、通行手形発行の事さえ書いてない。
確かに、職人の場合だと職人役の負担に対して棟別銭免除という場合が多いが。
「御分国諸商い一月に馬一疋の分、役等免許の事」という文面からして
商売人が関所の通行時に取られる通行税の免除は当然含まれるだろう。
(その点で、一般人が通行時に払う関銭とは別だから、間違いと言えば間違い。すいません)
過所は通行できる関所を限定して発せられる竜朱印状だから(宛名が関所名になっている)
領内一円に通用する特権として考えるならこの書状自体が「万能過所」だと思うぞ。
あと「伝馬役」は伝馬衆が人馬の調達義務を課せられるものだから「伝馬役の免除」なんて
全く書かれていないと思うのだが。
(その3)
>そして呼び寄せるのは諸役免除だけではない、採掘の独占権や知行を与えるなどがある。
例えば穴山信君が黒桂金山・芳金山に代官を置いて直接経営していたことは確認できるので、
この場合は採掘された金は基本的に穴山家のものとなったと見て間違いないだろうと言える。
が、信玄と黒川金山との間にはそのような関係は一切、確認できない。
まして信玄が黒川金山を領有していたとする証拠も一切ない。
信玄自身の所領ではない山なのだとすれば、採掘の独占権を外来の人間に与えるのは
無理である。だが、地元の人間、すなわち既存の業者に新規参入を制限するという形の
独占権を与えることはできるだろう。そういった形の保護を与える代価としてある程度の
上納金を収めさせることは可能だろうが、産出した金の全てあるいはほとんどを運上させる
などということは無理というものだ。結局は必要な量の金を彼らから買い取るということに
なるだろう。
仮に黒川金山が信玄自身の所領であったとすればどうか。これならば、外来の人間に
採掘の独占権を与えることも知行を与えることもできるだろう。
しかし採掘の独占権を与えるというのであれば、呼び寄せた技術者たちの取り分が充分である
必要があるわけで、取り分が充分であるということは、産出した金のかなりの分は
結局は武田家の買い上げ、若しくは彼ら自身の手で他国へ売るということになるだろう。
ならば知行を与えたのかということになると、金山衆との間に知行の宛行や安堵に
関する書状は一通も見つかっていない。
また君主から知行が与えられたというのであれば、1571年になってやっと
「向後抱え来たり候田地、軍役衆の如く検使を停めらるべきの事」などという特権が
認められるというのはおかしな話である。踏出分の扱いが問題になるのは農民が所有地の
額面を誤魔化している場合の年貢のかけ方に関わるからなのであって、「知行」として
与えられた土地ならばその土地から上がる年貢は知行を与えられた人間のものであるから、
信玄が1571年にもなってこんな特権を与えるということはあり得ない。
760 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/04 01:27
(その4)
>確かに無いが、逆に言えば田辺氏の知行安堵の書状も無い。旧来から存在した土豪なら
>信虎とは言わず、それ以前でも知行関係の書状が残ってても不思議ではないが?
>君の言葉を借りて言えば、1571年まで確たる書状が無いのは、
>土豪ではなく、招き入れた御用職人となるがどうだろうか?
前述の通り、与えらた知行において踏出分が問題にされることはない。
それが1571年以前には問題にされていたということになるから、件の田辺四郎左衛門
の扱い、名目上の身分はただの百姓と同じであったということになる。
武士が相手であれば封建体制の特質上、知行安堵や知行の宛行に関する文書が全く無い
というのはおかしいということになるが、ただの百姓相手にそんな文書が存在するというのも、
やはりおかしな話だろう。
領内の番匠(大工)などにでさえ、信玄の代においてごく早期(初見が1555年)に
職人役の代価として棟別銭の免除をしたことが確認されているというのに、
金山が武田家の重要な収入源であったのならば、金山衆への御用商人としての特権付与が
あまりにも遅すぎるとは言えないだろうか。しかも、わざわざ呼び寄せた職人であるなら、
なおさらである。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/04 01:27
(その5)
>ついでに灰吹法・抜銀法は1520〜28年頃に、神谷寿貞によって中国から伝わった最先端技術で
>それまでの砂金を中心とした採取方法を根本的に変えた訳で、その最先端技術を
>導入する為に技術を持った職人を、当時の戦国大名は知行を与えたりして呼び寄せた。
>これは笹本氏が主張してる事で、その技術を、一土豪が手に入れるのは不可能だと思うが?
石見銀山で灰吹き法が始まったのが1533年だと記憶しているが。
まあそれはよいとして、黒川千軒の発掘調査の結果によれば、この鉱山町は1530年には
現れ、そして17世紀中頃まで存在したということが分かるとのことである。
まあ自分で灰吹き法と書いておいてこんなことを言うのもなんなんだが、次のページを
見てもらいたい。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/01_02/iseki.html どうも発掘の結果からすると当時の黒川金山では灰吹き法が使われていなかった節がある。
>というか、土豪と主張したり民間業者と主張したり、主張が一貫性に欠けるぞ。
土豪であり、金山を経営する民間業者でもある。両方とも正しいのだから仕方がない。
あと貴殿は金山衆=職人に拘っているが、実際に職人と呼べるのは金堀たちの方で、
金山衆はその雇用者だと思うぞ。
762 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/04 01:28
(その6)
>名古屋学院大学助教授の浦長瀬氏の論によると、当時の金銀は主に貯蓄用、贈答用、褒美用に用いられ
>大名同士の取引や大商人と大名の取引に使用されるのみで、一般の商取引には使用されなかった。
>金自体が必要なのは大名や大商人であり、職人には必要ではなかった。
>ということは、金山衆は技術を使って金を採掘し、武田に上納。
>武田は見返りとして知行地を与えたり、諸役免除の特権を与えたとなる。
その浦長瀬氏が畿内・西国の土地売券を収集整理した結果、1560年代には土地売買の代価が
畿内西国では銭から米へ転換し、伊勢では銭から金へ転換したと指摘しているが。
浦長瀬氏は東国はカバーしていないが、伊勢以東では金の貨幣使用が普及してきていたという
ことではないか?
伊勢はむしろ金の産出地からは遠いぐらいで、飛騨・甲斐・駿河・伊豆など産出量の多い
地域ではもっと早くから金の商取引への使用があったとは言えまいか。
西国では銀は輸出への用途があったわけだが、東国では金は国内の取引が主な用途ということに
なるだろうな。
信長の発した撰銭令(1569年)では高額商品の売買に米の使用を禁じて金銀と銭との
交換比率を示しているが、金銀の商取引への使用がそこまで限定的であったならば
こんな命令は出すだけ無駄だということになるだろう。
また貯蓄・贈答・褒美に金銀を使用したとして、特に褒美として与えられた場合、
それが商取引に使用できなければ意味が無いわけだから、その論はリアリティに欠ける。
金山衆が黒川金山の主な者で八人。金山衆に雇われて実際に金山で働いた金堀たちは数百人は
いるだろう。彼らの生活をささえるには相当な収入が必要だったと言えるわけだが、
それならば金山が黒川に限らず甲斐だけでも複数あったことを考えれば、大規模な知行宛行が
必要となったはずで、その証拠が全く無いのはあまりにも不自然である。
まして件の田辺の所領が1571年以前には惣百姓の土地と同じ扱いで「知行」とは
とても呼べそうにないことなど考えれば、「知行説」はほぼ否定されるだろう。
諸役免除は負担軽減にはなっても収入ではない。
金山衆と金堀が生活の糧を得るためには金を市場で売るというのが最も現実的であると思うが?
実際越後上杉家が「かい金」を行い、織田信長が西国では産出の少ない金をも大量に使用していた
ことを考えれば、彼らは金を得るために流通商品としての金を購入していたと考えるのが
自然であるし、こういった需要があるのならば金山衆は金を売る商人でもあったと言えるだろう。
飛騨の江間氏や内ヶ島氏が所領は少ないのに繁栄できたのも金銀が市場商品として流通していた
からであろう。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/04 01:28
(その7)
>これは上記を読んで参考にして欲しい。また、以前から勝手に住み着いていたなら
>必ず知行に関する書状が残ってるはず、それか戦国期に勝手に住み着く事は可能なのか?
>黒川金山が元々武田の直轄領であれば、自家に対して所領安堵などの書状なんて出す必要性がない。
>無いから金山衆の所領と考えるより、よっぽど自然と思われるがどうだろうか?
既に書いたが、所領安堵などは被官関係のある武士相手に行われるものだろう。
あるいは百姓相手に所領を安堵した例が多数存在するのだろうか?
そして金山衆の田地は百姓の土地扱いである。
また、たかだか八人ばかりの金山衆ではなくて、黒川金山の最盛期に黒川千軒で暮らし、、
そして衰退と共に他所へと移っていった金堀たちの方が技術者だろう。
だから信玄なり信虎なりが技術者を呼んだというのであれば、大名と金堀との
被官関係について史料があって然るべきであろう。
だが彼ら金堀たちに対しては信玄から直接命令が出た形跡はなく、あくまでも
信玄――金山衆――金堀という支配形態である。
764 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/04 01:29
(その8)
>上杉家が誤用職人に採掘させた「土蔵在金」を入れなかった理由を是非聞きたい。
>「春日山城内惣在金目録」に他の3つと共に、内訳としてしっかり記載せれてるが。
>「かい金」については、謙信の時の越後の金の産出量が少なかったのと、
>直江津から出雲などの山陰方面と交易して手に入れた銀や鉄という説もあるが。
それはその書き込みをした時に引っ張り出した本で土蔵在金が抜けていたからだな。
言われて確認をしてきたが、土蔵在金は謙信以前の代からの遺産であるとされていたぞ。
「土蔵在金」という言葉からしても、分類できない以前から蔵に在った金ということに
なるだろうが。
>上記で書いたが、さらに付け加えると少額の商取引に使われるのは銅銭、高額商品には米や布。
>てか甲州金は計数貨幣と言う話も初耳なんだけど。
取引については上で浦長瀬氏の調査結果を書いたからそちら参照。東国では金が使用されている。
そして初耳ですか?<計数貨幣
甲州金と言っても初期のものは刻印も無く、重さもまちまちであきらかに秤量貨幣である。
が、その後のものは刻印があって重さも定められており、かつ四進法からなる単位が
定められていた。単純な秤量貨幣から計数貨幣への発展の過渡期にあると見て
間違いないと思うが。
765 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/04 01:42
>>761に補足
黒川金山では灰吹き法を採用していなかった可能性もあるし、
採用していた可能性もある。
・採用していた場合
黒川金山では以前から砂金の採取は行われていたはずで、
金山衆はその頃から金山経営に当たっていた人間か。
彼らが新技術が日本に持ち込まれた事を聞いて金堀を呼び寄せた、
あるいは新技術で金銀を採掘して利益を上げようとした技術者たちが
古くから砂金の出る場所であった黒川金山に活躍の場を求めて
やって来たのを金山衆が雇い入れたといった所ではなかろうか。
・採用していなかった場合
金山衆とそこで砂金採取に当たっていた連中が石英岩盤中の
金鉱脈を掘ることに思い当たり、独自の工夫(砂金採取技術の延長)
で金の採掘にあたった。
1530年頃から鉱山町が発展するのは、金の産出量が増え、
金山衆が人手不足から人足を募集したか、金が出るという噂を
聞きつけた人間がやって来て雇われたかといった所だろうか。
ながっ!!!!
2chでコレだけのものを読めるとは
768 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 01:39
長編さらしage
769 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 08:32
武田はむしろ過小評価
勝頼の馬鹿のせいで武田の権威は完全に失墜した
なんで偉大な信玄公の子息が箸にも棒にもひっかからないような愚図なんでしょうか?
770 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/05 11:53
771 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/06 05:27
勝頼のどこが馬鹿なのか説明しろ
信玄厨には無理だろうがね
国つぶした
773 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/07 05:12
信玄は地方の有力大名としては大勢力だろうな
でも天下の器じゃない
774 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/11 05:30
@@
775 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 02:46
>>772 勝頼じゃなくても信長ならば必ずや武田を滅ぼしたと思お。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 02:51
諏訪野郎なんかに仕えたくねえよ
777 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 02:53
778 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 02:56
>777
ケツほられた
779 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 03:03
諏訪ッピング大好きな勝頼ちゃん
780 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 03:05
武田信勝に子供はいたのか。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 06:22
信玄公は内政派、信長は戦略家ってことでいいでしょ。
で、武田家滅亡後に家康が武田家臣の取り込みで治世の
ノウハウを得た、と。
謙信はキティガイ。
782 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/12 19:12
>>781 そういう一面的な結論は真実を見えづらくすると思うけど。
783 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 04:35
あげ
784 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 08:35
むむむむむ、ななななんんでおれがばかなのか?ばかだとーーー?
いいか、のーたりんのむめいはらきり(以下、ムキリと勝手に略す)
オヤジはたしかにりっぱだったよ、俺は、山梨県人からは、あほと、いわれてるよ、
それは事実だ、だけどなーかんがえてみろ、先代が立派だとそのあと次ぐものが
どれだけたいへんかということをかんがえてみたことがあるのかい?
おい。ムキリ、オメーは、俺の嫌いなタイプの山梨県人だろ、
親父が、跡取のことを考えずにいきなりしんじまって、こっちはめーわくしてんだよ
俺の言う事を全然聞かない家臣とかがたくさんいて、そもそも、長篠の戦だって、
おれは、勝てない戦をするのは良くないといったんだが、バカな信君とかが、
言う事聞かなくって、たたかいがはじまったんだろーが、結局あの、信君は
まっさきに退却しやがって、こっちはかなりめーわくしてんだよ
織田、徳川連合軍がせめてきたときにも、真っ先にねがえりやがって
それでもって、四郎殿は、だめでござるなどという流言を甲斐の百姓に流したのも、
信君だろう、ばればれなんだよ、・・・・・・その流言がいまもいきていて、
おれは、だめ勝頼などといわれてんだ、ほんとめーわく
いまおもえば、あの、誰を信じていいかわからない(織田、徳川連合軍が責めてきたとき)に、
真田昌幸の言う事を聞いていればよかった、上田城に落ち延びていれば、そうすれば、
上杉からの支援もあったと思うし、・・・・小山田なんかの言う事を聞いたから、結局
小山田も家臣に裏切られ(織田の謀略に単純にひっかかって)岩殿城をめざしてたんだが
とちゅうで、天目山に・・・・そしておらはしんじまった
で、あとののこった農民には、ばかだといわれるし、もーいや
789 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 10:05
だから上を読めよ、アホ
791 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 12:52
>790
つまらんこと書いてるクズにいわれたくはないw
792 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 13:06
信長は管理能力がない 家臣に殺されたから
793 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 13:15
危機管理能力だな
794 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 13:47
天下を取るか滅亡するかは
信長と信玄の個人能力の差ではなく
尾張人と甲斐人の能力差なんだろうと思う
きっと甲斐人は現代の山梨県人もセコイ裏切りなんかして結局
大成出来ない人が多いのじゃないかな?
795 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 14:15
挑発するなよ厨房
796 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 14:46
797 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 14:48
>>796 明智光秀を尾張人と思い込んでる厨房はっけん
798 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 17:29
>>794理論によると。
明智光秀は裏切り者=岐阜県民は裏切り者
豊臣秀吉は織田家をないがしろに=愛知県民も裏切り者
明智光秀は三日天下=岐阜県民は大成できない
豊臣秀吉は一代限り=名古屋人(限定)は大成できない
799 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/17 01:22
勝頼は可哀想だね
甲斐の人は人情というものが無い人非人ぞろいだね
800 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/17 02:24
勝頼の辞世の句って何だか好きだ
勝頼は繊細な心の持ち主だったに違いない
朧なる月もほのかに雲かすみ 晴れてゆくへの西の山の端