続きです。
・夏侯称
字は叔権。夏侯淵の三男です。
幼き頃より子供を集めてその大将になることが好きで、遊びは常に戦争ごっこで、
規律に厳しかったと言います。
かなりの武芸達者で、16歳の時、虎を一矢で倒し、曹操に激賞されます。
曹丕とは身分に関係なく仲が良かったそうです。
残念ながら18歳の若さで早逝しました。
・夏侯威
字は季権。演義では次男とされていますが本当は四男です。
侠気あふれる人物で、荊州・エン州の刺史を歴任したそうです。49歳で亡くなりました。
演義のような個人的な活躍の記載は正史にはありません。
その死に関しては朱建平の予言の逸話がありますが、それはまた後で・・・。
・夏侯栄(207〜219)
字は幼権。夏侯淵の五男です。
夏侯称が武で幼き頃から名を売っていたのに対し、夏侯栄は文で知られた子供でした。
7歳にして文章を書くことができ、一日に千字の書物を読み、目を通せばたちまち覚えたといいます。
曹丕がその評判を聞いて招き、賓客百人に一人一人に本籍地、氏名を書かせた名刺を持たせて
夏侯栄に挨拶させましたが、夏侯栄はすべての賓客の本籍地、氏名を正しく覚えていたそうです。
それを見た曹丕は夏侯栄を高く評価したといいます。
そんな天才児の夏侯栄でしたが、219年、父夏侯淵に従い戦場に出ます。そこはあの定軍山でした・・。
夏侯淵の戦死を聞いた左右の臣下たちは夏侯栄に逃げるように勧めましたが夏侯栄は
「主君や親が危難にあっている時に、(自分が)助かることなど出来るはずがあろうか」
と言って受け入れず、そのまま敵陣に斬り込んで戦死しました。わずか13歳でした。
・夏侯恵
字は稚権(演義では雅権)。演義では三男とされていますが正史によれば六男です。
幼い頃から才能と学問によって称賛され、とくに奏議(上奏文の一種)を書くのを得意としていました。
散騎、黄門侍郎、燕国の相、楽安太守を歴任しましたが、37歳の若さで亡くなったといいます。
しばしば鍾毓(鍾ヨウの子。鍾会の兄)と議論を戦わせましたが、
多くの場合は夏侯恵の意見が採用されたそうです。
・夏侯和
字は義権。演義では四男とされていますが正史によれば七男です。
弁舌さわやかで才気に満ちた議論をしたと言います。
魏の五代皇帝・曹奐のときに相国(司馬昭)の左司馬となりました。
264年、鍾会が蜀で反乱を起こしたとき、使者として成都にいましたが鍾会に荷担せず、
節義を守ったため、乱が終息した後、その功で郷侯に昇進したそうです。
以後は不明です。
以上が夏侯淵の息子たちです。確かに概して皆優秀ですよね
(長男だけ少々夏侯楙と同じニオイがしますが・・・)。
字の末尾に皆(夏侯衡は推測ですが)「権」の字があることを考えると、
司馬朗・懿らの兄弟が「司馬八達」、馬良・謖らの兄弟が「馬氏の五常」と呼ばれていたように
「夏侯七権」などと称されたのかも知れませんね。
(ちなみに夏侯惇の息子たちは皆、字の頭に「子」の字がついたようです。
例えば夏侯楙の字は子林です。)