さて廖化です。
字は元倹。荊州襄陽郡の人で、元の名は淳と言いました。
(いつ化に名を改めたのかは明らかではありません。
また明帝紀の注に出てくる廖惇という人物も彼と同一人物ではないかと言われています。)
関羽に主簿として仕えていましたが、関羽が敗死した際、呉に降伏しました。
しかし劉備の元にどうしても帰りたかった廖淳は自分が死んだという偽情報を流し、
老母を連れて昼夜兼行で西へと逃げ、丁度東征して来た劉備とシ帰で合流します。
劉備は大変喜び、彼を宜都太守に任命しました。
陸遜伝などによれば夷陵では別督として一軍を率いて戦いましたが、
運良く戦死せずに生還出来たようです。
劉備が亡くなった後、丞相参軍となり、後に督広武となりましたが、
次第に昇進して右車騎将軍・仮節にまで登り、并州刺史を兼任し、
中郷侯に封じられました。果敢な激しい人物として知られたと言います。
(先に触れた廖惇は蜀の陰平太守として238年の9月に魏の守善羌侯の宕蕈の陣営を攻撃し、
雍州刺史の郭淮が派遣してきた広魏太守の王贇、南安太守の游奕を撃破したと、
『魏書』に記されていると明帝紀の注に引かれています)。
『漢晋春秋』によれば、262年に姜維が狄道に出陣した時、廖化は
「『(戦争とは火のようなものだ。)戦争をやめなければ、必ず自分の身を焚くことになろう』
(『春秋左氏伝』の一節)という言葉は伯約(姜維)にあてはまる。
智謀が相手を上回っていないうえに、武力も敵より劣っているのだ。
飽くことなく戦争を仕掛けたとしても、どうして手柄を立てられよう。
『詩経』の『我れより先だたず、我れより後れず』
(どうして自分の生まれる前か、死んだ後にならなかったのか)という言葉は、
現在の事態にあてはまるものである」と言ったと伝えられます。
(廖化って博学なんですね・・・意外・・・)
263年、ケ艾・鍾会の蜀侵攻に際して奮戦し、
姜維や張翼、董厥らとともに剣閣に立てこもって鍾会を防ぎますが、
その間に難路を切り開いたケ艾が一気に成都に迫って緜竹で諸葛瞻軍を撃破し、
劉禅が降伏して、蜀は滅亡してしまいます。
翌年の春、宗預らとともに洛陽に移住させられることになりましたが、
すでに70歳を越えた老齢の身にはこたえたのでしょうか、
途中で病気になって亡くなったと言います。
蜀を最後まで支えた名将でした。
(正史での廖化は『演義』と違って山賊上がりではありませんし、
関羽にもさほど長くは仕えていません。
むしろ蒋エンや費イ辺りと同世代の人物であったと思われます)。
こんなものでよろしいですか?
>>283様
長文&連続書き込み失礼しました。