武将データ

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1無名武将@お腹せっぷく
実在する武将の名前を書くと
誰かが生年、没年、主な功績などを書いてくれます

ゲームの能力値じゃないからね(汗)
2無名武将@お腹せっぷく:02/01/04 21:36
|    今だ!
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
 ヒョイ ,  ∧∧
   ( _(,,゚Д゚)     ミ  ___
  ⊂___,.つつ      て.  ) クルリ
彡               ⊂  .ノ
               ("  )           ∧∧     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.               ∨∨ 彡       (,,゚Д゚)  <   2番ゲットォォォ!
                           /  ,つ    \_______
                          〜、 ノつ  スタッ !
                           .(/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
3無名武将@お腹せっぷく:02/01/04 21:38
平教経
4島崎安定:02/01/04 21:51
よろしゅおま
5>>3:02/01/04 21:54
たいらののりつね
平 教経  (1160年〜1185年)

平治元年(1160年)平教盛の二男に生まれる。
源氏との戦いの中、常に義経をライバル視して彼に挑みました。
壇ノ浦の戦いでも彼は、義経が小舟に乗り込んだのを見ると「判官が姿を見せたぞ」と、自分の船の舳先を義経の船へ衝突させて斬り込んだのです。
一刻も早く合戦に決着をつけたい義経は、教経に関わろうとはせずに、見方の船から船へと逃げました。
「判官卑怯なり!末代までの笑いぐさぞ!」叫びながら教経も二隻、三隻と船を渡り飛びましたが、ついに義経を見失ってしまいました。
(イベントでは、義経の八艘飛びを再現しました)
そこへ安芸大領実康の2人の息子が、教経を押さえ込もうとして組み付いてきました。
「死出の通づれは、判官義経と思うておった。そなたら2人では役不足なれど、いざ参らん。やあやあ、敵も味方も御覧そうらえ。平家の能登守教経、今こそ世を辞するべし。」
もはやこれまでと観念した教経は、2人を通ずれに、海へと飛び込んだのです。

享年26才。

情報源
http://www.anjaweb.com/~genpei/noritsune.html
6>>4:02/01/04 21:55
佐竹に殺された人?
7無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 08:56
佐藤継信

調査よろしこ
8無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 09:25
だれが答えるんだ?
>>1は「誰かが」て書いてるし
9無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 09:54
さとうつぐのぶ  ?〜元暦2(?〜1185)
 父は信夫壮司佐藤元治。弟は忠信。本拠は陸奥国信夫郡。
義経が陸奥から出陣する際に、藤原秀衡の命により弟忠信とともに従軍した。

 源平の争乱においては終始、義経軍に属して活躍したが、屋島の戦いでは
主君義経の身代わりとなり能登守平教経に射られ戦死した。 
10無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 10:37
阿多美五郎左衛門尉平盛方
11無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 10:39
>>9
さんくす
私の先祖は身代わりで死んだのか
12無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 10:44
なんか教経って大活躍だなあ。
13無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 22:47
平影清
14シャクシャイン:02/01/05 22:51
大立目右衛門って何者ですか
15無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 23:28
>>14
生没不詳
天文二十二年、晴宗から横越郷の御成敗や、棟役、田銭、諸公事が免除された。
16無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 23:30
木村義清・清久親子(特に葛西・大崎一揆で改易後)
17大立目右衛門:02/01/05 23:30
生没年不詳
古来より伊達家に仕えて一族衆並の格式であり、筆頭の地位でもあった
天文の乱の際には晴宗側に付く
天文二十二年交付の知行判書により出羽国置賜郡下長井荘高玉の地を安堵、
同荘横越の御成敗や、棟役、田銭、諸公事免除の権が与えられている
18無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 23:35
>13
平景清って源平討魔伝のあれ?
19無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 23:38
源平討魔伝って回復が追いつかなかった・・
20無名武将@お腹せっぷく:02/01/05 23:39
>>13
平安末期の武将。一一九六年没。藤原影清とも言う。
伯父大日坊を殺したことから悪七兵衛と呼ばれた。壇ノ浦の合戦で捕らえられたが、
食を断って東大寺供養の日に没した。墓は鹿児島にあるという。
21シャクシャイン:02/01/05 23:43
>>15
>>17
感謝!
太閤立志伝とかに出てくるから何者なのかなと思ってた
そうか結構活躍してたんだね
22木村吉清(義清):02/01/05 23:50
葛西・大崎一揆で改易後の消息
一揆の責任から領地没収後、蒲生氏郷の与力となり出羽米沢城主となる。
氏郷が92万石の封を得ると福島城5万石を与えられ家臣団に編入される。
氏郷死後、秀行が宇都宮へ移封となると豊後にて1万4千石を給される。
後、関ヶ原において西軍に参加、戦後改易
なお子の秀望が浪人後大阪城に入城、夏の陣の5月7日、討死した

しかし5000石取りの小身をいきなり30万石の太守にするかね普通?
23無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 00:26
[織田無道]
調査お願いシマスです
24■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■:02/01/06 00:28
>1

あれ?
私へのあてつけかと思った・・・(^^;)
25曹豹:02/01/06 00:34
>>23
小田急の本厚木駅のホームの看板に昔
織田無道がいるお寺の看板があった。
神奈川のお寺の住職なのかね?
2617とか:02/01/06 00:40
>>23
カンベンして下さい(笑)
27無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 00:44
小西行長の家臣

調査願います。関ヶ原本戦に参加した武将を調べてるんだけど、小西の家臣には
一人も名前が出てこない
28無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 01:19
織田無道
生年月日 昭和27年8月8日
出身地 神奈川県
血液型 A型
趣味 車、
特技 マラソン
スポーツ ゴルフ
好きな色 紫、イタリアンレッド
Webページ http://www.odamudo.com

臨済宗建長寺派 圓光禅寺(えんこうぜんじ)第49代住職

●圓光禅寺 神奈川県厚木市愛甲
平安後期に開山。 1300年の歴史を持つ名刹。
ご本尊は三十三観音の1つである円光観世音菩薩。

元・関東仏教会会長
帝京大学法学部 昭和50年卒業
鎌倉建長寺にて3年間修行

禅僧として厳しい修練を積み、1000以上の檀家の人々の厚い信頼を集め、
現在も精心鍛練のため、夏は火行、冬は水行を欠かさず行っている。
29無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 01:22
とりあえず、
小西行景 ????〜1600 小西隆佐の三男。兄と同じキリシタン。
関ヶ原では行長の居城宇土城を守り、加藤清正と戦い、
西軍敗北を知ると開城し自害した。
30無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 01:23
佐々成次
31曹豹:02/01/06 01:23
>>28
感動!!
32織田無道:02/01/06 01:25
1952年8月8日〜
神奈川県厚木市愛甲 圓光禅寺住職。
「 禅僧として厳しい修練を積み、1000以上の檀家の人々の厚い信頼を集め、
現在も精心鍛練のため、夏は火行、冬は水行を欠かさず行っている。」
との紹介文が現存してるが、保存状態が悪く真偽は不明。
1990年代に各方面での活躍が見られる。著作も多いが後世に残って居ない。
織田信長の子孫とする文献もあるが、
かつて仙術を習得したと自称する修験者の虚偽を暴き処刑した経歴を持つ信長公が
彼をどう評するか聞いて見たいものである。
またかなりの生臭との風評もあり、
独逸国の産と言う弁津なる高級馬を強奪されたとの記録もある。
3329:02/01/06 01:25
>30
政次ならわかるんだけど。
34無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 01:29
>>27
参戦した武将だけか?
35無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 01:30
>>29
情報ありがとう
しかし俺が知りたいのは関ヶ原本戦に参加した武将なんだよね
小西隊4000の中で、一人も名がわからないとは・・・
36曹豹:02/01/06 01:32
>>28
でも檀家数1000とはでかい寺にいるんですね。
外車乗り回してたりして。
37無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 02:01
>>35
島原の乱起こしたのは小西旧臣と言われています
天草四郎時貞の父親(益田勘兵衛好次?)は関ヶ原に参戦
してたそうです。
38無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 02:07
前田幸長
39無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 02:17
>前田幸長
中日→巨人の?
40無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 02:19
>>36
奴はベンツコレクターだよ
41無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 02:21
俗っぽい坊主だな 
>>40
ランボルギーニ・カウンタックの方がTVでの露出度は高いね。
普段乗ってるのこっちか?
43無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 14:40
角田信朗
角田信朗
戦84知89政60魅70
列伝
正道会館の宿老。若干16で正道会館に入門。その後の鬼のような
戦いぶりにより「角丸」の異名をもつ。
45無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 14:58
春一番
春一番
戦10知30政5魅50
列伝
猪木のモノマネを生きがいとする駄目芸人。
47無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 15:25
小泉純一郎
48無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 15:29
池田親興
小泉純一郎
戦20知80政89魅96
列伝
内閣総理大臣。森総理の後を継ぎまたたくまに民衆の人気を
得る。圧倒的なカリスマパワーで構造改革を目指す。
50無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 15:46
春一番
架空の人物。

田代まさし
実在を疑われている。
51無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 16:11
>>44
知力高えーー!!
5210:02/01/06 17:30
平盛方
53無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 17:54
>>51
英語話せるし、関西外大(?)卒だったし、
何といっても天才テレビ君。
>>1のルールが早くも無視されている点が興味深い。
55無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 18:02
小川直也
56無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 18:06
名佐?日本之助
謎の人です
小川直也
1968年3月31日東京都杉並区に生まれ、高校時代、柔道を始める。
明治大学に入学したばかりだった1986年に全日本学生柔道選手権で優勝。
翌1987年、史上最年少で柔道世界選手権の無差別級を制覇するという快挙を成し遂げる。
大学卒業後もバルセロナ五輪の柔道95kg超級で銀メダルを獲得、
全日本柔道選手権を史上初の7回優勝を飾るなど柔道家としての地位を築き上げる。
ところが、1997年3月にフリーの格闘家に転向。新日本プロレスやK-1、
アントニオ猪木率いるUFO(世界格闘技連盟)の興業などに参戦する。
1999年にはPRIDEシリーズにもプロレスラーとして参戦し、
ゲーリー グッドリッジに勝利を収めている。
真の格闘王を目指すいかつい外見に似合わないユニークなキャラクターが人気で、
ニックネームは"オーちゃん"。
2001年10月〜12月 連続ドラマに初登場
  日本テレビ系列の秋の連続ドラマ「歓迎! ダンジキ御一行様」に
  レギュラー出演
10月25日 ZERO-ONE 真撃第III章 日本武道館大会に参戦
    伝説のボクサー、ジャック・デンプシーのひ孫にあたる
    ジョシー・デンプシーに勝利
2002年1月4日新日本東京ドーム大会で佐々木健介と世紀の塩試合を演じ、
     今後の動向が注目される。
58無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 18:26
武力と知力わかんないの?
1氏が能力値じゃないって言ってるから・・・。
60無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 18:50
★★★ ここまで読んだ ★★★

未解決の人名ある?
61奈佐日本之助:02/01/06 19:06
なさ にほんのすけ(やまとのすけ)
?〜1581
隠岐水軍。但馬の出とも伝わる。
1569年、尼子勝久・山中幸盛と共に出雲忠山の上陸。
1570年には尼子の船手大将として満願寺城を攻略。
しかし1573年山陰に進出した吉川元春に降伏。
1581年に秀吉が山陰に侵攻し鳥取城を攻略すると海賊行為をしたとして
丸山城で佐々木三郎右衛門らと自刃させられた。
能力付けたいなら、既存の能力値スレでやれってことですな>1
63無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 19:44
万見仙千代
小川直也
戦78知50政01魅50
列伝
橋本慎也を倒した事で名をあげるが、その後目立った活躍はなく
戦いから逃げてばかりいることから「逃げ坊主」の異名をとった。
65万見重元:02/01/06 20:02
まんみ しげもと(仙千代)
?〜1578
神子田長門守の子。
信長、信忠に小姓として近侍、主に政務面に実績を残す
1578年、荒木村重の謀反の真偽を質す為、
明智らと共に糾問使として派遣された。
村重の謀反が確実となると
摂津有岡城攻略に堀秀政・菅屋長頼らとともに参加するも討死。
664:02/01/06 21:34
>>6
そうです
67無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 21:55
若江三人衆を教えて下さい
三好三人衆じゃないよ
68518:02/01/06 21:57
池田教正
多羅尾常陸介
野間左橘兵衛
69無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 21:59
518さん即答

ひとしくん人形いっこあげます。
70無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 22:08
氷室信成って実在ですか?
71島崎安重:02/01/06 22:11
(治定・左衛門尉)
?〜1591
常陸国南方三十三氏筆頭。
1590年豊臣秀吉より4万5千石を安堵されるが、
翌年2月佐竹氏により謀殺された

島崎安定はこの人物で良いでしょうか?
724:02/01/06 22:14
>>71
ありがとう、生年は不詳なんだね
(4万5千石て本当かな
73無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 22:18
島崎俊郎
74518:02/01/06 22:21
氷室信成
手元の資料では判断できませんでした
調べ得たことは
・武田家が信濃に侵攻した際、土豪たちが村上の支援をえて安曇郡「氷室」
に陣を構えたという事が見つかりました
・山梨県増穂町に氷室神社なるものが有るそうです。
武田と氷室を結ぶ点は是ぐらいしか見つかりませんでした。
お役にたちませんでした。
清原和博
76無名武将@お腹せっぷく:02/01/06 22:45
>>74
むむむ、すごいですね。よく調べましたね。半分ネタだったのですが、
意外と真実を衝いているのかもしれないですね。おみそれしました。
7710=52:02/01/07 18:29
>>60 :無名武将@お腹せっぷく :02/01/06 18:50
>★★★ ここまで読んだ ★★★
>未解決の人名ある?

平盛方(阿多美五郎左衛門尉)これ誰もわからないのか? 残念だ・・・
78無名武将@お腹せっぷく:02/01/07 19:55
ただ人名を書くだけより、
ご本人様がどこで知った名前のか書いたほうがいいかもね。
79518:02/01/07 20:25
・坂東(北條)平家直流
・熊谷直貞(熊谷氏し始祖)の父
・天皇(六条天皇?)により1176年、佐渡へ流罪
・弟?の聖範が阿多美(熱海)郡に入り阿多美四郎を称した
だめだ、これぐらいしか分からない・・・
80無名武将@お腹せっぷく:02/01/07 20:33
足利直冬
81無名武将@お腹せっぷく:02/01/07 20:53
公文重忠
 餅つきする金が無かったなんて可哀相すぎる
82さるぼぼ:02/01/07 21:02
  足利直冬
父は、足利尊氏、母は越前の局(ただし、越前の局の名は太平記にしかみられず詳細ははっきりとしていない)
太平記に「大樹思はずに一夜の新枕をかはされたりし越前殿と申す女房達の腹に出で来玉ひし」(つまり、
尊氏が深く考えずに契ってしまった一夜妻にデキちゃった…とゆーこと)あるように、どうも尊氏にとって
不本意に生まれてしまった子供だったらしい。東勝寺の喝食として育つが、成人し、還俗して京にのぼるが、
尊氏は実子であることを認めず、会おうともしなかった。
玄恵法印の口添えにより、直義に認められ彼の養子となる。紀伊国の宮方追討で功績を上げた後、
長門探題に任ぜられ備後に下るが、高師直の追討をうけ肥後国に逃れた。ここで、少弐頼尚が直冬を
婿に迎えたため「佐殿方」という一大勢力を築くことに。
観応二年の尊氏・直義の和睦により、鎮西探題に任ぜられるが、直義の死後、父との関係は悪化。
長門に下った後は南朝と結び、中国地方で勢力を得て、尊氏・義詮と真っ向から対立した。
しかし、やはり実の父を敵にするのに後ろめたさがあったのか、天地の神々に捧げた祈願文に
「(この戦いは)彼(尊氏)の前後左右の梟党(悪人ども)を治罰せんがためなり。
全く逆徳を思ひて我がために義旗を掲げず」といいわけがましく書いてみたり、
(太平記では)尊氏との最後の決戦をすべきか否か、石清水八幡宮の託宣で
決めようとするあたり、ファザコンだったことが伺える。しかも神様には
「たらちねの親の守れる神なれば此手向をば受くる物かは」と告げられる始末。
しかも、これを聞いた配下の武将は「これでは勝ち目なし」と直冬を見捨て、
去っていったという。入京を果たしたものの、このような状況だったので、
勢力は没落するばかり。安芸・石見と移り、その後の行動は明らかではない…。 
83>82:02/01/07 21:38
ttp://www23.tok2.com/home/sakuradukiyo/tadahuyu.htm
そのまんまはいけないな。
少しは自分流にアレンジするなり考察つけるなりしたほうが良い。
84さるぼぼ:02/01/08 06:49
だれだこの82、まぁいいや
85無名武将@お腹せっぷく:02/01/08 08:57
楠木政虎
86妖怪ハンタ〜:02/01/08 10:01
源(多田)満仲
87無名武将@お腹せっぷく:02/01/08 20:35
>>85
信長の右筆でしたよね確か
88518:02/01/08 20:54
楠正虎
1520〜1596
(甚四郎、長諳、式部卿法印)
織田信長、豊臣秀吉の右筆。
世尊寺流の一流書家とされる。
最初大饗姓を名乗ったが、後に楠木正儀の子孫と称し、
信長を通じて正親町天皇に楠木氏の朝敵勅免を願い出これを許される。
以後楠姓を称する。
信長の死後、秀吉に使え文禄の役では名護屋城にて記帳を行っている。
慶長元年1月11日没。
89無名武将@お腹せっぷく:02/01/09 13:17
陶弘護
斎藤妙椿

ヨロスク。
森田一義
91518:02/01/09 21:28
斎藤妙椿
1411〜1480
(利藤、越前守、従三位法印)
美濃守護代。稲葉山城城主。
応仁期の名将とされる。
最初僧籍であったが父利永の後を受け守護代を勤め守護土岐成頼を補佐する。
応仁の乱が勃発すると成頼を西軍参加させ足利義視を支援する。
自身は美濃に残り国内の統制に勤める他、周辺の東軍勢力の制圧や上洛した成頼への
補給線の確保などに勤めた。
この間に求めに応じ近江六角高頼、越前朝倉孝景らの支援をも行っている。
戦えば必ず勝つとまで言われた手腕により西軍中に大きな発言力を有し、
東西の和戦は妙椿次第とまで言われたという。
また、学芸にも秀で当時一流の文化人たちとの交流も活発におこなっている。
特に東常縁とは常縁の歌十首と引き換えに彼の城を返却した逸話をもつ。
1479年に隠居、翌文明十二年70歳にて没。
この報に接した足利義視が困却している旨を記す文献も残る。
92無名武将@お腹せっぷく:02/01/09 23:02
良スレage誉れ!
93無名武将@お腹せっぷく:02/01/09 23:11
服部知貞
94無名武将@お腹せっぷく:02/01/09 23:35
服部Qえもん

よろしこおねげえしまっす
95518:02/01/10 21:18
陶弘護
1455〜1482
(尾張守)
周防・筑前守護代。周防富田若山城城主。
陶氏は大内氏と同族である。
幼名を鶴寿丸としたが、大内政弘の偏諱を受け弘護を名乗る
応仁の乱が勃発すると、政弘は西軍に属して上洛、
以後11年に渡り京にとどまる事となる。
この間留守居役として領国統治に当るが、
1471年、政弘の叔父・教幸が謀反、この際教幸より誘降を受けるも、
主命を奉じ坑戦、同年中に教幸を自害に追い込んでいる。
また同じ年、吉見氏、仁保氏に備える為、富田若山城を築城。
以後陶氏の本拠となる。
これ以後、政弘の重臣として少弐氏討伐などに活躍するも、
1482年、宴席で吉見信頼と刃傷に及び双方とも死去。享年28歳。
96518:02/01/10 21:23
服部友貞
http://salad.2ch.net/warhis/kako/979/979834572.html
このようなスレを発見しました(笑)
97無名武将@お腹せっぷく:02/01/12 07:05
良スレあげ。
98日和見平和主義者:02/01/12 12:47
未確認者一覧
・池田親興
・源(多田)満仲
・公文重忠
・平盛方(阿多美五郎左衛門尉)
・服部知貞
(現代人、ネタ?除外)
俺はさっぱり解からない(w
9989:02/01/12 20:55
有難うございます518さん。その時代を代表する人物だったんすね。勉強になりました。
ついでに某サイトから。

陶弘護 すえひろもり (1455〜1482)

【 寸評 】
 室町時代の武将。大内氏の有力家臣。
幼少時よりその才能は高く評価された英明の武将。
『応仁・文明の乱』で、主君・大内政弘が上京した留守をよく守った。
政弘の叔父・教幸が謀反を起こした時も、
 教幸は有能な弘護を敵に回すことを避けようと、
 弘護を自陣へ勧誘したが拒否し徹底的に戦い討伐した。
以後、政弘の懐刀として活躍するも、
 宴席上の騒動でその命を落とすこととなる。
 享年28歳であった。
【 年表 】
 父・陶弘房、母・仁保盛郷の娘。
<康正元(1455)年>9月3日、誕生。幼名・鶴寿丸。
<文明元(1469)年>元服、大内政弘の偏諱を受け「弘護」と名乗る。
<文明2(1470)年>周防守護代。
<文明3(1471)年>政弘に謀反を起こした、大内教幸を討伐。
<文明6(1474)年>尾張守。
<文明10(1478)年>筑前守護代。少弐氏討伐遠征。
<文明14(1482)年>5月、宴席で吉見信頼と喧嘩となり、相討となり双方とも落命。
     法名・昌竜院殿建忠孝勲大居士。

この人の画像は今日まで残っています。
ttp://www.city.tokuyama.yamaguchi.jp/~ed-shogai/bunka/bunkazai/suehiromori.html
16歳で叔父・教幸を討ち、28歳で亡くなったとの事ですが、
意外にも豪放磊落タイプのように見える。(とでも言っときゃいいのか?)(w)
100無名武将@お腹せっぷく:02/01/13 13:03
池田親興
元阪神のしょぼい投手だと思われ
101日和見平和主義者:02/01/13 21:45
>>100
煤i ̄□ ̄)現代人だったのカー!!
102無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 10:56
age_te_mi_ma_su
103無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 13:29
水野勝成
104無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 13:33
大岡越前って本当に武芸に秀でていたんでしょうか?
105103:02/01/16 13:37
俺の先祖はこいつに三河から連れてこられた下級戦闘員
106無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 13:45
あの〜ちょっと気になっていたんですが、14のシャクシャインって和人との戦いで知られるあのシャクシャインっすか?
昔、98版の『信長の野望・全国版』の蠣崎の説明文に表記されていたので懐かしくなってカキコんだんだけど…
107無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 16:29
六角氏綱
蜷川新右衛門
内藤弘矩
108無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 16:38
>>107
どのしんえもんさんだYO!蜷川家は全員その名前もってるYO!
109無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 17:34
物識りはかせの活動が停止してはや1日
どうしたものか・・・
よし!ここはひとつ!
                  ( ((自爆)) )
>シンエモン
蜷川新右衛門入道智蘊(親当)であります。∠( ̄∧ ̄)

蜷川智蘊(にながわ・ちうん)という武将が烈風伝PKに歴史上の有名武将として(時空を越えて)
登場すんだけど、智蘊の読みがわかんないから検索できないなと思いきや、蜷川新右衛門でお目当て
の情報にたどりついた(馬鹿)。

 蜷川新右衛門親当(にながわ・しんえもん・ちかまさ 生年不詳〜1448)

室町中期の人。丹波園部の蜷川城主。6代将軍足利義教に政所公役として仕える。
(恐らく一休宗純よりも年下・・・・だと思う。一休の生年は1394年。)
晩年、出家し智蘊を号した。飯尾宗祇にも認められた連歌の達人。
「連歌の七賢」(とはなにか?)の一人。新撰筑久波集、竹林抄などに作品が残る。

一休との接点は、

・息子の親元は大徳寺の檀越である。
・宗祇の弟子の宗長が一休の法弟子である
・「道歌問答」の中に一休との掛け合いの歌がある。(後作とも。)

といった所。ゲームには、子孫と思われる以下の人物が登場する。

蜷川新右衛門親長(1530)〜(1607)

入道道標。元室町幕府政所代。室町末期には幡根寺を領すが、幕府の衰退等により
税も徴収できない状態となり、幕府の滅亡後親戚となる土佐長宗我部氏を頼って土佐に赴く。
連歌の達人であり、京の礼法に詳しく長宗我部家にて重用された。京都等持寺の僧策彦周良(
岐阜の地名を考えた人)の元へ元親夫妻の雅号(雪渓、水心理因)を貰い受けに使わされた。
元親百ヶ条を製作した人物と言われる。長宗我部氏改易後は徳川幕臣となり五百石を給される。
慶長十二年五月京都にて七八歳で没。
六角氏綱
内藤弘矩
は、わりと真面目に興味があるんで、どうかたのんます。
六角(佐々木)氏綱
1492〜1518
(亀寿丸、四郎、近江守)
近江半国守護六角定頼の嫡男。
1506年に家督相続。
同年細川氏の内乱に乗じて上洛。
しかし1513年には足利義稙を奉じた越前
朝倉孝景に近江を攻撃される。
これらの戦闘による負傷から1518年、父高頼に先立ち死去。
なお家督は僧籍より還俗した二男定頼が継承。
113無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 19:57
sageちまった。
114無名武将@お腹せっぷく:02/01/16 20:00
氏綱は高頼の嫡男ですか?
115114:02/01/16 20:04
>114
は無視してくだされ(汗)
内藤弘矩
?〜1495
(弥七、弾正忠、肥後守)
内藤大炊助盛世の子。
大内政弘より長門守護代に任ぜられる。
以後上洛した政弘の留守を陶弘護らと守る。
1482年、宴席にて、陶弘護を殺害した際、吉見信頼を討っている。
また、文人としても活動があり当時屈指の連歌師宗ぎとも交流している。
1494年、病態の政弘は家督を義興に譲る。
しかし翌年、陶武護より家督相続に際して高弘擁立を画策したとの讒言を受け、
嫡男弘和共々義興に誅伐される。
なお、大内家最後の当主、大内義隆の母は弘矩の女であった。
117無名武将@お腹せっぷく:02/01/17 16:50
>103
水野勝成は?ええのん?
水野勝成(みずの・かつなり)(1564〜1651)

江戸前期の大名。三河刈屋城主水野忠重の子。従五位下日向守。
父と不和となり(なんで?)、諸国を遊歴。豊臣秀吉、佐々成政、小西行長に歴仕。
慶長5年(1600)帰参、父の遺領を継ぐ。関が原では大垣城を攻める。
ttp://www.ginet.or.jp/oke/episode/ogakijou/
三河国刈屋で3万石(初代藩主)、
元和元年(1615)大阪の陣では松平忠明に次ぐ殊勲を立てて(道明寺の戦い)
6万石で郡山城主となる。郡山城は十数年に及び廃城であったので
城内はほとんど田畑となっていて、勝成自身も洞泉寺を仮住居としていた。
石垣、堀の修理は幕府の直轄事業とし、
二の丸・台所隅櫓・本丸御殿・三の丸・家中屋敷などは勝成の手で行われた。
元和5年(1619)福島正則改易のあと、備後に入封(10万石)、毛利氏の押さえとして
福山城を深津郡常興寺山に築く。領内の商工業の促進に努め、
備後表や木綿の栽培を奨励した。また用水の開削等を行なって
大規模な新田の開発に努め、寛永7年(1630)藩札を全国に先がけて発行している。
寛永16年(1639)家督を勝俊に譲る。

元禄11年、5代水野勝岑が継嗣無く水野氏は断絶.福山には松平(奥平)忠雅が入った。

森本繁氏著「水野勝成」という本があるらしい。
ttp://www.fukatsu.co.jp/rekisi.html

適当だけど許して。
119無名武将@お腹せっぷく:02/01/18 08:32
>>118
御苦労様

家康と従兄弟なんだってね
水野家は性情が激しい一家だったらしいよ
どこかで家康の母(水野家の女)が勝成にそう述懐してるのを観たよ。
なんか子孫に有名な旗本がいたんだってねぇ
5代で断絶したんだ〜
120無名武将@お腹せっぷく:02/01/21 13:31
熊谷直貞

伊達政宗の家臣でござる。どうかよろしく。
121無名武将@お腹せっぷく:02/01/30 20:14
岡部孝信
斎藤浩哉
122無名武将@お腹せっぷく:02/01/30 21:02
上泉信綱
123無名武将@お腹せっぷく:02/01/30 23:34
佐野元春
124無名武将@お腹せっぷく
長沼宗政