ところで、騎兵の話はいろいろと出ているが、歩兵の話は余り出ていませんね。
ということでスイス槍兵に関する話。
一般的にはファランクスの再来といわれ、
>>178 では
>15世紀以降、スイス槍兵は確かにヨーロッパで軍事的名声を博した
>しかし、その戦術を完全に模倣できたヨーロッパの軍隊は存在しない
>イングランドの長弓戦術と同様、軍制よりも個々の兵士に大きく(しかも過剰に)
>依存する戦術は決して一般化しない
>確かにスイス槍兵の戦術が猛威を振るったのは事実だ
>しかし、これが戦術の「夜明け」だとは思えない
と例外扱いされる始末。
スイス槍兵の特徴で、重要なのは傭兵でありながら、任務を死守すること。
当時の傭兵はいろいろとあるが、だいたいにおいて、傭兵同士の戦いとなると、裏で話をつけて、
戦った振りしてインチキな水増し請求をするのが一般的なのに対し、スイス槍兵は妥協の余地無く戦ったことである。
そして、文字どうり、任務を死守できる歩兵は他にいなかった。
騎士などの貴族階級ならば任務の死守はできるだろうが、歩兵などの平民階級で任務の死守などできはしない。
ヤバイと思ったら尻に帆をかけて逃げ出してしまう。
スイス槍兵だけなにゆえここまで士気が高かったのか?
これは、スイスは傭兵以外にろくな産業が無かったため、傭兵でしか食っていけなかったからで、
また、「自分が不名誉なことをして他の仲間に迷惑をかけることはできない」(スイス槍兵の評判が悪くなれば傭兵で食って行けなくなる)という、誇りと意識の高さからくるものである。
たしかにこれでは他の国が真似しようとしても、そうそうできるものではない。
なんか、軍事板の「限定戦術スレ、最強の白兵戦団は」が弓兵の論争になっています。 ここの方達も参考になるかもしれないので、逝って見るといいかも。 ただし、某研究者も大暴れなので素人にはお勧めできない。諸刃の剣でし という事で、某研究者を読み倒す気力がある人だけGOがいいでしょう(藁
すまん 上げてしまった・・・逝ってきます
>>214 が最後だったんだが、何か他人のレスまで俺のせいになってるな
最後に取り敢えず
>>226 に返答しとく
「A history of the art of war in the 16th century」
Sir Charles Oman著
図書館に行けば、他にも展開図や戦闘の経過の載ってる本が何冊か見つかるだろう
詳細はウザがられるから省くが、まあ認識の違いってとこだろう
もう書き込まないので何でも俺のせいにしないでくれ
実りのある議論を期待します
>>235 >何か他人のレスまで俺のせいになってるな
>もう書き込まないので何でも俺のせいにしないでくれ
>詳細はウザがられるから省くが
だれも貴兄にそんなこと思ってないですよ。どんどん書きこんでください。
邪魔が入った為に「sageたまま話しません? 」と言ったんですから。
>旧651さん
お気に入りにいれてみてますよ「限定戦術スレ、最強の白兵戦団は」 。
ほんと最近AOCでもやったのか某研氏は中世世界に心中してますな。
ちょくちょく三戦板でも見かけるし。装備を語らせたら天下一品、最強ですね。
彼が云ってた「亀甲車、馬で運ぶ」考えた事有りますよ。
要衝を結ぶ幹線でさえ幅数bしかない当時の交通事情じゃ無理ですな
それに速歩より速いとは思えない。
中国等は攻城戦でそんなような物を使ってたが野戦ではどうだろうと思う。
ま、霧雨氏、旧651氏、無名武将@お腹せっぷく氏
どんどん書きこみお願いします。
237 :
ここで途中経過入ります :01/12/13 20:21
やはり攻撃方向は重要だったのでしょうか。 左回りに逃げられると攻撃できないとか。
238 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/13 21:48
左巻きだけに常識が通用しないからね
239 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/13 22:21
>>238 オートマチックのガンだったら方向は修正が少なくてすむが、リボルバーや弓は左へは連射が聞かない。
理由はわかるよね。
あとファランクス等の集団戦はいきなり運用方向を変更できない(盾と武器の持ち替え)。
陣地取りも重要な要素。
>239 リボルバーでもダブルアクションなら方向関係なく連射可能 シングルアクションのいちいち撃鉄を引き起こす型であってもかなりの範囲で射撃可能 西部劇でも見て見なさい。 映画とはいっても、実際にシングルアクションのステージガンを使っている映画も多く その操作自体が可能ということは実銃でも射撃は可能ということ。 弓は同意しますよ。そりゃ当然。弦を引けないもんね。
レスありがと。 いや玉の補充のこと。オートマチックならば弾装を捨てるだけだが リボルバーは左に弾装を出すため基本的に補充できない。 まあスレからすれば、些細なことですね。
>241 そっか補充か。確かに! 一応、6発程度は可って事で それにオートも排莢の方向があるから、撃ちにくいよ。 やけどに注意ですね。 でも左利き用のリボルバーって特注可能だお(w でも、たしかに普通はないよね。
警視庁、機動隊はジュラ盾の使用はありでしょうか。
>>243 軍いたの方のスレと間違えたのですか?
有り有りですよ。ジュラルミン盾で防御、攻撃どちらもやるんじゃないでしょうか。
ヤンキなんかはジュラ盾で跳ね飛ばされてますでしょう。
使い方次第で両横の隊員の力も加える事が出来るのですかな。
機動隊員の方は素手での戦闘(喧嘩?)なら自衛隊員の方よりも強いようです。
(自衛隊板に書いてあった。)
PS やっぱり散兵は使えるような気がする。
敵にとって戦場が「霧が立ちこめた場所」になるようにする為に。
ウザい名無しを追い出したのはいいが、あっという間に廃墟になったな。 誰がこのスレを盛り上げてたのか一目瞭然(藁
246 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/20 01:55
晒しage
247 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/20 01:56
寂れてしまったようなので、このレスの最初のほうの要請があったクレーシーの戦いをやります。 戦闘前の状況 フランス南西部の領有権を巡って開戦した百年戦争が、10年目を迎えた1346年8月、 フランスに侵攻したイングランド王エドワード3世は、輸送船団が早々と引き上げてしまったために補給に支障を釆たすことを恐れて予定を変更し、自軍に友好的なフランドルに進路を転じた。 イギリス軍が進路を変えたために、貴重な時間を稼いだフランス王フイリップ6世は、国内の騎士階級を糾合する一方、ジェノバ人傭兵を集めて、イギリス軍を上回る戦力を集合させた。 フランス軍は北進するイギリス軍の行く手を塞ぎ、エドワードはやむなく進路を変更した。地元の住民から聞き出した渡河点の近辺に、戦闘に通した地形を見出したのだ。 フランス軍が騎士をかき集め、重装騎兵を中心とした軍編成であることを採り当てたエドワードは、フランスの騎兵戦力が自軍を上回ることを察知した。 イギリス軍の兵士は、大部分がヨーマン‥…自由な身分を持つ農民であり、騎士ではない。 もちろんイギリス軍も、国王の家臣団を中心に重騎士隊を揃えているが、数のうえでは、劣勢は免れなかった。 そこで、エドワードは手持ちの歩兵隊を使って騎兵を殲滅する作戦を立てた。 その戦術のためにあつらえたかのような地形の丘が、渡河地点の間近にあった。 そこは帯状に連なる丘陵地で、なだらかな斜面から、広い平野に続いていた。 騎兵が展開して突撃をかけるには最適の地形で、事実フイリップは、平野に布陣した騎兵隊で決着をつけるつもりでいた。
戦闘経過 騎兵を防ぐ秘策 斜面に沿って布陣したイギリス軍は、背後に森林地帯を控え、帯状に隊列を敷いた。 エドワードは直属の重騎士団を左_翼に配置し、歩兵の密集横隊を右翼に配した。 そして、両翼と中央に、長弓を携えた弓兵隊が密集して整列する。 中央の弓兵は約1000人、両翼はそれを上回る数で、それぞれ敵陣に向かっ て、X字型に突き出していた。 さらに、エドワードが陣取る本陣の両翼も、長弓隊が励めている。 親衛隊として温存される重騎兵ともども後方に下がった司令部の後方には、 矢を補給するための荷馳隊が、森を背にして並んでいる。 イギリス軍の渡河地点を見つけ出すのに手間取ったフランス軍が布陣を終えるまでには、若干の時間があった。 イギリス軍歩兵隊はその時間を利用して、弓兵隊の前面に、落とし穴を掘り始めた。 そして、穴の問に丸太を埋め込んでいく。 布陣したフランス軍重騎士隊は、イギリス軍の真意を計りかねた。 確かに、丸太に阻まれては騎兵は使えない。 それならば、歩兵を揉摘すれば済むことだ。 フランス軍の重騎兵隊は、目標を歩兵隊に変更した。 さらに、フイリップはイギリス軍の弓隊が、長弓を装備していることを知らされて、 対抗策としてジェノバ人傭兵を前に出した。 フランス軍の遠距離攻撃を担う傭兵隊は、貫徹力に優れた雪を構えている。 一射あたりの破壊力は、イギリス軍の長弓をはるかに凌ぐ。
射撃戦・長弓対弩 戦いは、フランス軍の側から開かれた。号令一下、ジェノバ人傭兵の弩が、一斉に放たれた。 貫徹力に優れた弩の矢が、イギリス軍の戦列に襲いかかる。 矢を受けた兵士が倒れ、戦列に隙間が開いていく。 対して、イギリス軍の主力をなす長弓隊が、矢をつがえるなり射線を上方に向けた。 弓弦が鳴り、数千本の矢が、一斉に飛翔する。 空を覆うほどの密度で放たれた長弓の矢が、雨となって落下した。 強力な努を構えたジェノバ人傭兵は盾をかざすこともできず、針鼠のように矢を突き立てられて倒れ伏す。 必死に反撃を試みるが、弩の発射速度は長弓よりもはるかに劣る。 傭兵隊が一度矢を放つ間にイギリス軍の矢は五度、六度と襲いかかり、ついに戦力を激減させた傭兵隊は崩れたった。 前衛の弩隊が崩壊し、イギリス軍は照準を、フランス軍騎士隊に振り替えた。前線の騎士は逃れる術もなく、上方から降り注ぐ矢に体を貫かれていく。 騎士の甲宵も、急角度で落下する矢の重い鏃を防ぐことはできなかった。 致命傷を受けた馬が狂奔し、逃げ惑う従兵を踏み潰す。 一方的な戦局に、フランス重騎兵の後衛が躍り出た。 行く手をふさぐジェノバ人傭兵を斬り飛ばし、騎士の集団は、イギリス軍の戦列めがけて突進した。 しかし、落とし穴と丸太の防御策のため、矢の雨を注ぎ続ける弓兵には手が出せない。 騎士の集団は、矛先を歩兵隊に向けて馬腹を蹴った。
重騎兵、敵陣に届かず これが、イギリス軍の作戦の根幹だった。一見無防備に見える歩兵に向かった騎兵隊は、X字形に突き出した弓兵隊の、左右からの集中射撃を浴びせられた。 長弓の速射性能は際立ったものだった。混乱したフランス衛兵隊は、歩兵隊の側面を守るイギリス掛兵隊に進路を振り向けた。 しかし、そこにも長弓を携えたイギリスの農民兵が、X字形の陣形を敷いていた。 左右から浴びせられる矢の雨は距離が詰まるにしたがって激しさを増し、フランス衛兵は立て続けの縦射に切り裂かれていく。 それでもフランス掛士団は、幾度となく突撃を繰り返した。 都合15回に及ぶ突撃が失敗に終わったとき、ついにフランス軍は崩壊した。 ほぼ終日に及んだ戦闘が終結したとき、戦場は日没により、退却するフランス軍の追撃は不可能になっていた。 待機したイギリス衛兵隊に出撃の機会はなく、フイリップは、辛うじて帰還することができた。 当時、絶対の戦法とされていた重衛兵の突撃が、防御に優れた歩兵と、徹底した遠距離攻撃に敗れた戦闘だった。
布陣図 イギリス軍 エドワードV世 約1万 フランス軍 フィリップ6世 約1万2千 ●-落とし穴 森 長弓隊>● ジ 森 荷 長弓隊> 重騎兵> ェ 重 森 駄 本陣> 長弓隊>● < ノ < 装 森 隊 長弓隊> 歩兵> バ 騎 森 歩兵> 傭 兵 森 長弓隊>● 兵 1 フランス軍ジェノバ傭兵のクロスボウ発射により先端が開かれる。 イギリス軍は、長弓隊の一斉射撃で応戦 2 フランス軍の重装騎兵が苦戦するジェノバ傭兵を斬り飛ばして突撃を繰り返す。 しかし、長弓隊の一斉射撃により無駄な死者を増やすのみだった。
戦術の意義 戦術思想は、騎兵の攻撃範囲外から投擲兵器による攻撃を加え、壊滅に追い込むというものだ。 騎兵の長所は、戦略的にはその機動力を生かした迂回奇襲にあり、またその威力を抑止力として活用するものである。 一方、戦術的には速度と合いまった打撃力の発揮によって、敵陣の動揺を誘い、崩壊に追い込むことにある。 騎兵の打撃力は、歩兵の戦列が動揺しているときにのみ発揮される。 エドワードは歩兵の恐怖心を押さえ込み、騎兵の機動力を殺し、打撃力を分散し、長弓兵のキルゾーンへと誘導し徹底したアウトレンジによって粉砕した。 また、射手の腕に頼ることなく、多量の矢玉で公算射撃を仕掛けている。 その射手は自由農民であり、一般大衆の集団であった。 貴族の手に握られていた決戦兵力が、最高司令官から直接支配を受ける、民衆に移行したのである。 個の転換は戦術史の上で大きな意義を持つ。 領地を持ち、郎党を養う封建領主の盟主に過ぎなかった最高司令官が、意のままに動く莫大な兵力を手に入れることになる。
訂正
誤 正
>>250 騎士の甲宵 騎士の甲冑
>>251 側面を守るイギリス掛兵隊 側面を守るイギリス騎兵隊
う、鬱だ。氏のう
255 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/20 23:27
本の丸移しかいな……。 でもごくろうさん。
たまに観に来てるよ。 霧雨さん、お疲れ様 覇者の戦術は素人に簡単に説明するのに便利な資料です。 こういうのこそ、ちょっと戦術に興味あるけど どの本も難しそうだなぁという方にお勧めですな。 でも、もっとこういう本でて欲しいなぁ。 そうしないといつまでたっても裾野が広がらない。 仲間が増えない。
防衛関係者が殆どの軍事関係の物をマルヒにしているからそれをやめるか、 歴史学から左翼色が抜けない限り無理じゃないですか? 両者がタッグを組んだら良い本できるんだろうけどなー。(柘植や三野はおまんま食い上げだ)
>236さん そりゃ最強ですな。 でも、それこそ素人にはお勧めできない本になってたりして(w そうそう、ここらでばらしときましょう。 旧651=軍事板Lans です。はい。 あっちで見かけたらよろしくです。はい。じゃ。よいクリスマスを(w
>236さん 大体、同意できるけど、それができたとして、問題はわかりやすく解説できるかが重要になりますね。 また、素人の軍事知識の欠如は、かなりひどいですよ。 私の知人に、軍事関係に興味あるけど、難しくて何書いてあるかわからん、という人がいます。 歴史群像や、学研M文庫などに興味はあるのだが、理解できないよ、とぼやいています。 私が、それなりに解説してやると、ようやくわかったような気がした、などといってますが、軍事に興味があるといってもこのレベルだったりしますからね。 その上、素人さんは、興味すら持ってくれないこともありますからね。 それでも、何人かの友人に布教(w が成功したけれど、そんなのはごく一部ですからね。 日本の軍事アレルギーが抜けるまでは、なかなか大変てとこですか。
260 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/22 21:45
>>259 軍事アレルギーは同意。 軍事が理解できると軍事ができるはべつもの(軍厨さん向け)。 知識はないに越したことはないが、?が重要。 素人に勧める本は『冒険者たち。ガンバと15匹の仲間』 ここからですね、基本的なことはすべて書いてあるから(W。
261 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/22 23:42
サフルの会戦の戦術に関して語ってくれませんか? 戦術的に意義のある会戦だと聞いたもので・・・
>サフルの会戦の戦術に関して語ってくれませんか? サフル? サルフ(薩爾滸)の戦い(1619)後金VS明のことでしょうか?
>>261 間違ってたらスマソ。
満州鉄騎兵の話かな?
あれは馬の目まで鉄板をおおう重装備だったようですね
サフルの戦い(1619)後金VS明 と勝手に解釈して話を進めます 会戦前の状況 明帝国の遼東鎮に隣接する地域には、かつて12世紀に金を建国した女直(女真)が居住していた。 その中のひとつ、建州女直(遼東付近)のヌルハチは、1583年(25歳)に挙兵して以来、戦えば必ず勝つ用兵の天才であった。 健州女直を統一し、他の女直の諸部を降して参加に加えたヌルハチは1616年スレ・ゲンギェン・カン(英明汗) に即位し対外的に金(後金)と称する女直の国家の成立を宣言した。 後金と明の関係は、交易問題と国境問題のために悪化の一途をたどっていた。 1618年4月、ヌルハチは明のこれまでの非道な行いを天に告発し(七大恨)、遼東の長城を越えて明の撫順を攻めた。 守将の李永芳は降伏し、遼東総兵官・張承蔭が率いる救援軍は大敗した。 両国の長い戦争が始まった。
両軍の兵力 後金の兵士動員数は諸説あり、1万から6万まで諸説あるが、この戦いは後金の存亡を賭けたものだけに、 可能な限りの動員が行われたと推測される。 ここでは2万数千に達するものとみなしておく。 この時期、後金軍はまだ火器を装備しておらず、冷兵器主体の装備であった。 (冷兵器とは火薬を使わない武器のことで、刀剣、槍、弓などで攻城戦用の大型武器も含む) 主力である甲士は、重装備の騎兵で兵士は鎧甲を着用し(馬甲は無し)、弓矢を必ず装備し、長兵として大刀か槍を、短兵として手刀を装備していた。 後金軍の得意とする戦術は、騎兵による包囲と矢を連発しながら行う騎兵突撃であったが、ヌルハチは明軍が使う火器の対策として、重装兵を下馬させ、 徒歩の戦闘工兵として使う戦術を考えていた。 一方の明軍は朝鮮の役を経験した楊鎬を兵部右侍郎・遼東経略に起用して対後金戦争の総指揮を取らせることにした。 楊鎬は遼東や朝鮮での作戦経験のある宿将達を起用した。 しかし、予算不足のために、予定していた10万の集結にその冬までかかった。 そこで戦力補強のため朝鮮とイェヘ(南関、ヌルハチに敵対する女直の部族)に援軍を依頼した。 朝鮮には火縄銃隊が、イェヘには騎兵戦力が期待された。 軍が集結すると47万と号する全軍を4集団に分け半円状の4ルートより進撃し、ヌルハチの根拠地ヘトゥアラを包むように攻撃しようという作戦が立てられた。 実兵力の参加数は明軍88000、朝鮮軍13000、イェヘ軍は2000であり、総兵力は予定の10万に達した。 4個軍は以下のとおり。 ○ 左側北路軍 司令官 馬林 兵力約二万にイェヘの援軍二千を加え、3陣よりなる。 鉄嶺より出発しサルフにて主力の左側中路軍と合流予定 ○ 左側中路軍 司令官 杜松 兵力約三万で、2陣よりなる。瀋陽より出発、撫順、サルフを経由しヘトゥアラへ向かう予定。 ○ 右側中路軍 司令官 李如柏 兵力二万五千 遼陽を出発し、清河を経てフラン路よりヘトゥアラへ向かう予定。 ○ 右側南路軍 司令官 劉挺(手偏ではなく糸編)兵力一万三千に朝鮮軍一万三千を加え2陣よりなる。寛奠(カンテン)より出発しドンゴ路を経てヘトゥアラに向かう予定 このほか、遼陽と広寧に予備軍、楊鎬は瀋陽にて総指揮を取った。
サルフの戦い 明軍の動きに対してヌルハチは、明軍の主侵攻ルートにあたるサルフ、ジャイフィアン山上に築城を開始して防備を固めた。 ヌルハチのねらいは内戦の利を生かした各個撃破である。 明軍の侵攻予定日は2月21日であったが、大雪のため出発を延期しなければならなかった。 主力を率いる杜松は功をあせり、他の軍と連携せずに先に行動を開始した。 彼は勇猛ではあるが文官の統制を聞かないという欠点があった。 3月1日、杜松軍が接近すると、後金の築城部隊はジャイフィアン山に撤収した。 (地形はT字型の河川の左下がサルフ、右下がジャイフィアン山、明軍はT字の上から進軍、という感じ) 杜松は増水した河川を渡れない車営を後方にとどめ、冷たい河を渡河してサルフ山と占領し、1万余の兵を配置した。 彼自身は主力を率いて追撃し、再び渡河してジャイフィアン山を攻めた。 後金の護衛部隊は抵抗しつつ後方のキリンハダに後退した。 8時頃、明軍侵攻の報を受けたヌルハチはヘトゥアラに集結した主力に出撃を命じ、夕刻にサルフとキリンハダをのぞむグレに到着。 サルフを破れば他の明軍も動揺するであろうと見て、夕闇を利用してサルフを攻撃することに決めた。 サルフの明軍は予想もしない急襲を受け、また夕闇の視界がきかない状況のため火器の威力を発揮することができずに接近戦にもちこまれ壊滅した。 サルフの明軍を撃破した後、三方向から杜松軍を挟撃し、これも同じように撃破した。
>>264 うげ、つられてタイプミスした。
サフルじゃなくてサルフです。
申し訳ない。
アブダリ、フチャの戦い 北路軍に勝利し、兵力再集結をさせたところへ、明軍はドンゴ、フラン路より進撃中との報告が入ってきた。 ヌルハチは全軍をヘトゥアラに引き上げ、次の目標を南路軍と定め、右側中路軍に備えてヘトゥアラに4000の精兵を配置した。 左側軍の壊滅を知った楊鎬は、右側の両軍に退却命令を出した。 しかし、南路軍の劉挺には命令が届かなかった。 南路軍のルートは他と比較すると長く、劉挺が慎重で、朝鮮軍の補給が続かなかったこともあって、行軍速度は速くなかった。 2日ドンゴ路においてトボらが率いる後金の警戒部隊500と交戦し撃破した。 この勝利のあと、杜松軍がヘトゥアラに先行しているとの情報が入ってきた。 杜松に功を独占されるのではないかと劉挺はあせり4日攻城装備を中心とした部隊を率いて先行した。 康応乾の部隊、姜弘立の朝鮮軍が後に続いた。 その頃、後金軍の先発隊はトボの敗残兵を収容し、ワルカシの森に潜み、劉挺軍をやりすごした。 劉挺軍は10時頃、ダイシャンが率いる後金の主力と遭遇し、少し後退してアブダリの丘の上に布陣し後続部隊の到着を待った。 ダイシャンはホンタイジに右翼を指揮させて丘に連なる山上から攻撃させ、自身は左翼を率いて西側から進み、後方からワルカシの森の伏兵が襲い掛かった。 三方向からの攻撃に耐えられず明軍は全滅し、劉挺も戦死した。 そのころ後続部隊はフチャの野に駐営していたが、これを知ったダイシャンは小休止のあと、ホンタイジを先頭としてフチャに進み、明軍の後続部隊と対陣した。 この後続部隊は長槍と火器の層をつくってが、火器の射撃が始まったときに大風が吹いて、炮煙が明軍に吹き寄せた。 これを好機として後金の騎兵が弓を連射しながら突撃し、明軍の戦列は突き崩され、総崩れとなった。
戦いの結果 楊鎬が出した退却命令は李如柏のもとには届いた。 副将の賀世賢は南路軍を救援しようと主張したが、李如柏は撤退することに決めた。 李如柏軍は後金の20名ほどの哨戒部隊を見て逃走するほどの動揺ぶりだったが、かろうじて完全な形で帰還することができた。 後金の戦果は明が発表したものだけでも、将校314名、兵士約45870名、馬匹28400頭、兵器の損失は計算不能、朝鮮軍の生き残りは全軍を挙げて後金に降伏。 生還できたものは約42360名であったという。 明と後金の最初の決戦は、後金の大勝利に終わった。 以上、学研の戦略戦術兵器辞典7 中国中世・近代編より抜粋しました。 私見として、後金はヌルハチの見事な内戦作戦と巧妙な作戦指揮によって明軍は各個撃破されいった。 騎兵の戦略的な機動力を十分に生かし、火器に対しては下馬して戦闘する柔軟さも見事。 逆にいうと明軍の作戦が指揮官の独走からつまずいたのはいただけない。 外線作戦において連携無視で、相互支援が失敗するとこういう目にあうという、いい例になってしまっている。
あら?サルフの戦いの後に入れるやつが抜けてました。 たびたびすみません。 シャンギャンハダの戦い 一方その頃馬林軍はシャンギャンハダに進出していた。 2日、その接近を知った後金軍はダイシャンが300の兵を率いて先発した。 馬林は杜松軍の壊滅を知り前夜の宿営地まで戻り、そこで3重の塹壕を堀り、壕外に大砲を配置し、その外側に密集した騎兵を配置するという厳重な陣を布いた。 これを見たダイシャンはヌルハチに援軍の要請を出しつづけた。 第2陣を率いる潘宗顔は1.6Kmほど離れたフィエフン山に陣を布いた。 この日の朝渡河しなかった左側中路軍の車営、騎兵などの残存部隊約2000がワフムに駐営していた。 主力を馬林軍に向けたヌルハチはホンタイジとともに1000に満たない兵を率いてこの部隊を急襲した。 明軍は塹壕を掘り戦車と火器を並べて守りを固めていた。 ヌルハチは半数の兵を下馬させて工兵ととして使い戦車の防衛線を突破し、後続の騎兵によって左側中路軍を完全に壊滅させた。 ダイシャンからの報告を受けたヌルハチは兵を後に残してわずかな護衛をつけただけで駆け付けた。 そして明軍の陣を観察し、近くの山を取り、上から下に攻撃させようとした。 ヌルハチの意図を察した馬林は兵をその山に移動させ、両軍の衝突が始まった。 激しい混戦となったが、勝敗を決めたのは増援の有無だった。 後金軍は戦場に到着したものから続々と戦闘に加わったのに対し、明軍には増援がなく、フィエフン山の明軍は傍観するだけであった。 馬林軍は後金軍の攻撃を支えきれず敗走し激しい追撃を受けた。 馬林は脱出できたが多くの将兵が倒れた。 フェイフン山の第2陣、潘宗顔は勇気はあったが将才なく、交戦中の馬林軍を救援しようとはしなかった。 しかも山中に布陣したために塹壕を掘らず、戦車を並べるだけの防御しかしていなかった。 ヌルハチは馬林軍を撃破した後に、兵力の再結集を行いフェイフン山を攻めた。 対火器戦のために半数を下馬させて先に進ませ、騎乗の兵が後に続いた。 戦車の陰から射撃を浴びせる明軍に対して下馬した兵が突入して戦車を排除し、そこから騎兵が突入し、潘宗顔軍を殲滅した。 イェヘの援軍は中固城まで進出していたが、この敗報を聞いて撤退してしまった。
霧雨さん、ありがとうございます。 ものすごく面白かったです。 まったく知らないことだったので・・・ おまけに会戦の名前まで間違えてるし(汗 しかし、ヌルハチはよく勝てましたね。 戦術の上手さもあるけど天も味方したような勝利だったんですね。
すみません資料は何ですか?
きっちり読んだら資料書いてました。早とちりスマソ。
274 :
無名武将@お腹せっぷく :02/01/02 17:30
hage
保守しとくかのー
ちょっと関係無いかもしれませんが・・・・ 古代や中世で歩兵が隊列を組んで戦うと言う表現を良く聞くのですが これが実際の兵士の動きとして どうなっていたのかと言う事が判らないのです 隊列を組んで戦う事は 兵士の恐怖心や戦力の集中ということに 凄く意味があると思うのだけど 実際に隊列を組んだ兵士同士が正面からぶつかったら 戦闘が行われるのは、その最前列においてのみ行われるのでしょうか? それとも多少なりとも最前列近くの兵士が歩みよって戦闘に参加するので しょうか? つまり前線の方だけ隊列を維持しないで崩した状態で戦うのでしょうか? 自分としては、戦闘が始まったら戦闘の行われている周囲の味方兵士は 加勢しに行くと思うのですが・・・ そうなると隊列は保てなくなるし 実際の戦闘での隊列の維持と戦闘の様子について 「どう感じているか」教えてもらえないでしょうか?
だれもいないんですね・・・・・
久しぶりにレスついてた。 >セサミンさん 崩れるかは一言でいえば時代、地域によって大きく変わります。 古代のファランクスだと私の見ている感じではきつきつに詰めた後ろの兵士、横の兵士の 「押し競饅頭」力を戦力にしている節があります。隣の人間の盾で己の身をかばいます 中世の騎士の打撃力での決着時代をはさんで火力の増大と共に歩兵が「復権」してからだと 効果的に軍隊の持てる能力(機動力・火力等)を効果的に発揮することの為、学校でやるような 一糸乱れぬ「行進」が入ります。銃を撃つ時も「狙いも付けずに前へ一斉に射撃」 戦場で「列を乱す余計な」行動をとれば後ろの下士官に撃たれます。 しかし軍隊の持てる大砲・銃火力が増大し、列を組んで行進していたのではただの的に なってしまう(その他の理由も有る)ので隊列を組んでの戦闘は無くなりました。 どちらにしろ隊列を組んで整然と行動するのは、(士気の低い傭兵の逃亡防止効果)や (隊伍を組む物同士の不安を和らげる)等の効果があったようです。 でもご想像のとうり第一線の人間しか戦闘できません。近世の場合単純な戦力的には 後方の列は意味がありません。でも前述した諸理由でこれがないと戦えません。 しかし日本では隊列を組んで行進はなかった様です。当然崩れます。 幕末に徳川家が西洋の戦術を取り入れようとした際隊形を組んでの行進を見た 軍奉行・高島秋帆は「まるで子供の遊びのようだ」と評しています。
これまでの所 HPを探しまくった結果と 別の掲示板での質問によって 自分の疑問はある程度解明されてきました 隊列の維持は命令伝達や士気の維持、兵士の逃亡などの点から 非常に重要視されていた それゆえ、戦闘は基本的に隊列を組んだまま行われていた可能性が高い この場合も、最前線の一列だけが戦うと言うのではなく後続の兵士は 前の兵士を押す事によって隊列の圧力によって敵の隊列を崩壊させる ために働いていて、決して見ているだけと言う状態ではない ただこの場合にも疑問が残る、それは、隊列の密度についてである 隊列を組む場合、ファランクスなどは「肩が触れ合うくらい」の密集隊形 であったから、「圧力」を発揮するのは容易であろうが そうでない普通の隊列と言うのが一体どれほどの間隔で並んでいたのか? その間隔が「前の兵士を押す」のに適当な間隔でなければ押す事が出来ない この間隔については現在調査中 そして、剣などを振るう兵士の場合 指揮官の判断によって隊列を崩して戦ったりという事もあった この場合に考えられる状態は、兵士がそれまでの戦闘(飛び道具など による攻撃も含む)で「勝ち」を意識して隊列を保っていなくても 逃げ出さないような状態になっていたであろうと考えられる 敗走する敵を追撃する時もたぶん隊列は崩れていたはず 隊列の状態においては、「保つ」か「崩す」の2つの状態のみで 中途半端に前線の方だけ崩すというようなことはあまり考え難い 隊列は崩れ出したら一気に崩れる 今のところ、日本の合戦についてはまだちゃんと調べていないのですが 隊列を組まないで戦った要因を調べるつもりです そう言う考えが無かったのか、士気が高くて隊列を保つ必要が無かったのか 盾などの装備がないので隊列を組んでもそれほどに 効果が得られなかったか 軍団としての集団が小規模であったために、隊列を組んで統制しなければならない ような状態にならなったか・・・ 色々要因は考えられるけど・・・ほんとの所どうなんだろ ゆるゆるとしらべていきます
280 :
無名武将@お腹せっぷく :02/01/27 14:08
( ´_ゝ`)ホホォーー
281 :
無名武将@お腹せっぷく :
02/01/27 15:10 某国O動隊の隊員でござる。6月より海の向こうからの一揆の衆を迎え撃つべくべく猛訓練中でござる。 合戦中はとにかく一人になるな。これにつきまする。隊列を乱さず、中隊・小隊・分隊単位で動き、班長に従い、バディと常に共に いることが強調されまする。まあ、現代によみがえったカエサルのレギオンと言ったところでしょうか。 ところで戦国の一騎がけ、一番やりあたりはやはりおかしいのでは? 一騎の衆に近づく時は威嚇も含めて集団で行く必要があります。一揆から一人でも飛び込んでくればもっての幸いそいつから拘束していくわけです。 戦国と言えどもかなりの集団戦だったのでは?