1 :
無名武将@お腹せっぷく :
01/11/27 16:59 いろいろと戦術を語ってください、初心者でもかまいません。
2 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:03
風林火山 −−−終了−−−
3 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:11
早っ・・・・
4 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:18
とりあえず、向こうの1にはついていけん 手始めにさっきの図を使ってカンネーの検証でもするか?
5 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:21
>4 そうしましょう。
6 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:21
カンネー会戦における布陣略図 ---------------------------------------- ローマ軍→ ←カルタゴ軍 ☆☆ ★★ ▼ □□□□△△ ▼▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● ○○ □□□□△△ ▼▼ ●● ○○ ▼ ☆ ★★★ ---------------------------------------- 星印は騎兵 三角は軽装歩兵 四角は重装歩兵 円は予備兵力(精鋭部隊) ・ローマ軍の作戦は、主力の歩兵で中央突破を行い、 敵を分断後に予備兵力10000で留めを刺すつもりである。 なんかズレてるらしいのでメモ帳に張りつけるなどするといいそうです カルタゴ軍軽装歩兵の配置は弓状だそうで
孫子を読破してからの参加が義務づけられていますか?
8 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:22
>7 初心者歓迎って1が言ってます。
9 :
戦術好きグンオタ :01/11/27 17:23
>>4 古代ローマ時代の戦術思想って概して全体を物体のような捉え方を
しているようのは気のせいでしょうか?
>6 見た感じ南側のカルタゴ騎兵隊が優勢なのですか?
もとの形に戻したよ。八頭氏thx カンネー会戦における布陣略図 ---------------------------------------- ローマ軍→ ←カルタゴ軍 ☆☆ ★★ ▼ □□□□△△ ▼▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● ○○ □□□□△△ ▼▼ ●● ○○ ▼ ☆ ★★ ---------------------------------------- 星印は騎兵 三角は軽装歩兵 四角は重装歩兵 円は予備兵力(精鋭部隊) ・ローマ軍の作戦は、主力の歩兵で中央突破を行い、 敵を分断後に予備兵力10000で留めを刺すつもりである。
12 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:24
---------------------------------------- ローマ軍→ ←カルタゴ軍 ☆☆ ★★ ▼ □□□□△△ ▼▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● ○○ □□□□△△ ▼▼ ●● ○○ ▼ ☆ ★★★ ---------------------------------------- こんな感じ?
ああ、この図作ってる間に話が進んでる(´Д`;) 618 :八頭 ◆tbTTLMJM :01/11/27 16:46 >615 ずれたのでメモ帳に張りつけて見てくれ。 カルタゴ軍の軽装歩兵は、弓状になってるのだ。 を参考にしたんだよ〜。
>>11 すいません。かぶりました
(しかも直したつもりがズレてるし)
とりあえず、 「生兵法は怪我の元」 実戦で(ツッコミ無用)怪我をする前にこのスレで怪我をして学んでおきましょう。
16 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 17:31
前スレもそうだけど数人しか参加していないような^^;
すみません、ミスです おわかりとは思いますがカルタゴ軍の左翼騎兵隊に一部隊加えて下さい
18 :
戦術好きグンオタ :01/11/27 17:35
敵の機動を利用した包囲ってのがすごい。 凡人だったら騎兵を翼防護に使うだけかも。
:
20 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:02
戦術を議論するなら、過去の戦闘を俎上に載せて検証するより先に 戦術のパターンを全て列記したほうがよいと思われ
21 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:09
22 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:17
経過T ローマ軍→ ←カルタゴ軍 ☆☆ ★★ ▼ □□□□△△ ▼▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● ○○ □□□□△△ ▼▼ ●● ○○ ▼ ☆ ★★★ 経過U ローマ軍→ ←カルタゴ軍 ★★ ☆☆ ▼ □□□□△△ ▼▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● ○○ □□□□△△ ▼▼ ●● ○○ ☆ ▼ ★★★ 経過3 ローマ軍→ ←カルタゴ軍 ▼ ★★ ▼▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● □□□□△△ ▼ ●● ○○ □□□□△△ ▼▼ ●● ○○ ☆ ▼ ★★★
23 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:20
>>22 Vの段階でローマ軍主力はそこまで打ち減らされたのか?
なんかカルタゴには被害出てないし、衝撃力弱すぎねえ?
>23 すまそ、めんどくさくて手を抜きすぎたYO!
3でカルタゴ陣の中央がちと厚すぎるのでは。
26 :
戦術好きグンオタ :01/11/27 18:25
>22 Vの段階のカルタゴ軍中央は「予定どうり」破綻寸前のはず。 形勢が大逆転するのはローマ軍騎兵が無力化してから。
>25 すまそ、それも手を抜いたYO!できればかきなおしてYO!
28 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:27
ロマー軍の精鋭一万は後方待機?撤退?
29 :
戦術好きグンオタ :01/11/27 18:27
>>23 済みませんお尋ねしますが衝撃力をどの様に定義されていますか?
訂正として、カルタゴ軍の中央軍の駒の数を減らす。 ハンニバルにより、過程Uではローマ騎兵は壊滅していたのでローマ騎兵を消してください。 過程U以降は状況判断を誤ったローマ軍司令官が軍を中央へ推し進めた結果、逆に方位される形になり、方陣の側面を衝かれたというのを表現しました。
31 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:32
というより中央をsageることによりローマ軍の衝撃力(これは微妙な言葉なのか? をそのままいなして騎兵で包み込んだんだろ。見事。
初期配置でのカルタゴ重兵を二分してそれぞれもっと上下に置くのが正しいのでは?
33 :
戦術好きグンオタ :01/11/27 18:36
>これは微妙な言葉なのか? いや違います。衝撃力の定義を詳しく書いたのを見たことが ないので聞いた次第です。 損害まで見越して考えるとはハンニバル凄過ぎ。
元はといえばローマ軍の過信が原因。
35 :
よくわからないけど :01/11/27 18:42
中央が後退して両翼が包囲したんですか?
36 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 18:43
側面を衝いたというより、むしろ突撃によって隊列が崩れたところに 新手の敵の逆襲を喰らって組織的戦闘力を喪失して壊乱したというのが 実相だろうな 当時の戦闘では隊列をいかに保ち続けるかが勝敗を決める重要な要素だった 突撃は衝撃力はあるが、それ故に隊列が崩れて部隊としての戦闘力は喪失し、 再編成も容易ではない 確かにローマ軍は状況判断を見誤っていたかもしれないが、 あの状況ではローマ軍は遮二無二攻撃前進を続けるしかなかったと思う ローマのレギオンは攻撃の時にこそその真価を発揮する戦闘隊列であるし 結果としてローマ軍の突撃は破砕されて包囲されることになったが 特筆すべきは両翼を包囲したことよりも、両翼包囲を達成するために ローマ軍の戦力集中を中央に誘致しつつ、その衝撃力を破砕したところにあると思う
少し解説をすると カルタゴ軍の中央前衛部隊は主にガリア人の軽装歩兵。 これがローマ軍に押され、分断気味になる。 で、勝機と見たヴァッロは予備兵力を投入。 その時ガリア人部隊は左右に分かれ、カルタゴ軍の精鋭2万がローマ軍に相対する。 一方、その頃に騎兵同士の戦いは、カルタゴ軍の圧勝で終わりつつあった。 また中央での歩兵同士の戦いも、最終局面に移行していく。 左右に分かれた軽装歩兵がローマ軍の側面を圧迫し始め、カルタゴの騎兵も ローマ軍の背面から襲い掛かる。 この時点でハンニバルの包囲作戦は完成した。 上の方でフォローしてくれた方々、どうもありがとう。
>29 単純に突撃(貫通)力と思って良いのではないかな。 特に古代戦では相手の陣形を粉砕(分断)すれば、再編が困難な為に ほぼ戦の趨勢は決まるからね。
39 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 20:50
全スレとは打って変わってハイレベルなスレだな。
40 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 20:54
>39 三戦板の全てのスレを上回るというのか(w
41 :
39(誤字) :01/11/27 20:56
鬱…
42 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 21:49
カンネーの戦いは大体終わりましたね、次はクレーシーお願いします。
43 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 21:53
ひとつ質問、イングランド軍の射撃ってどんなやり方?
前スレの1ですら大概イライラしたのに、 頼むからこれ以上俺をむかつかせんでくれ。 ===========糸冬============
45 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:11
車懸りの陣は実際に使えます
47 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:13
>46 前スレ1よ、自作自演は止めろ。
48 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:14
ここの1も前スレと同じ奴?
49 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:16
車懸りの陣てどんなの?
50 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:23
ここのスレの1は前スレの1とは違うと思うよ 前スレのは脳内麻薬垂れ流しの低能自身過剰野郎
51 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:28
車懸って絶えずぐるぐる動き続けなきゃならん陣形だっけ? あの形を見るとただ遊兵をつくるだけのように思えるのだが 本当にこの陣形で敵を破れるの?詳しいひと教えて
52 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:28
イングランド軍の射撃は長弓による射撃 熟練した射手なら1分間に10本射撃可能 これが大量の矢を間断なく発射して敵を殲滅するのを可能にした
53 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:29
>>51 前スレにちゃんと考察したレスあったよ
見事に黙殺されてたけど(w
54 :
なんちゃって :01/11/27 22:36
●● ○ ●○ ○ ●● ○○ ● ○ 『引き込む』⇒『後続部隊が追加攻撃』 の繰り返しで敵の陣形をかき乱していく、 守備側はとにかく守りを固めて兵を前に出してはいけない
55 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:36
前スレから車掛の陣関連を移植
363 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/26 20:27
折角だから車掛りの陣についての説明キボソヌ!
364 :254 :01/11/26 20:36
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hyouhou/index05.html に全部の陣形の解説があります。
365 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/26 20:37
車掛りの陣は本陣を中心として、各隊が放射状に並び
風車のように回転しながら敵に当たるというもの
つまり、最初に敵に当たった部隊が一旦退くと、すぐ次に新手の部隊が攻撃する。
これを繰り返すことによって、敵は常に応戦しないといけないが、
自軍は休憩を挟む部隊が出来る分有利になる。
もちろんこれも軍そのものが強くなければ出来ないかもしれない
敵よりも少勢でも有効に戦えるようです
366 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/26 20:43
>>365 基本的な理論は分かってるんですが、果たして実際に使ってみるとどうなのかと思いましてね。
367 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/26 20:48
>>364 のHP(・∀・)イイ!ね。ども。
ちょっと勉強してこよ。
368 :無名武将@お腹せっぷく :01/11/26 20:49
>>363 恐らく、行進隊形のまま重畳に配置した梯隊状の部隊を戦闘展開することなく
逐次戦闘加入する戦術だと思います
接敵した前衛が敵部隊を拘束、後続部隊が逐次前の部隊を超越して
敵を圧迫していきます
利点として、戦闘展開しないためほぼ無停止で攻撃前進でき、
また戦闘正面を緊縮できるため戦力集中と衝撃力の維持が可能であり、
結果として奇襲効果が高く、縦深戦闘力の発揮が容易なことが挙げられます
欠点は、戦闘準備のための時間が十分でないことから、
各部隊の連携が困難で、戦力の逐次投入になり易く、
総合的な戦力発揮が難しいことでしょう
また、最初に戦闘加入する前衛は相対的に優勢な敵と衝突するため、
逆襲される危険性もあり、また各部隊指揮官も高い戦術能力が
要求されると思います
恐らく、「車懸」を実行するにはかなりの高練度が必要でしょう
56 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:45
ちなみに新田次郎の『武田信玄』では義信が血気にはやり兵を前進させたため 陣形に隙ができ上杉軍の攻撃を受け信繁が敵を引きつけて討死している
車懸りの陣に関しては、有効性が今一つ見えてこないんだよな。 先例として川中島の合戦でしか出てこない上に、実際の運用についての資料が少ないので、 コメントは差し控えるよ。 ちなみに昔、NHKか何かの番組で実験してなかったっけ?
59 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 22:58
少なくとも、本陣の周りを風車のように走り回るってのはヨタだろ もっと楽に部隊交代できるのに、兵隊無駄に疲れさせてどうするんじゃ
60 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:01
自部隊を移動させて敵部隊も一緒に引き込むんだよ
61 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:03
コウヤクの陣の応用だからね 資料を見ると円形というわけでもないし。。。 相互支援が容易というのにプラスαなのかな
62 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:09
全部とは言わんが、陣形の種類ってあんなに沢山必要なのか? 実際に全種類使われたのかな?
63 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:09
四回目の川中島の戦いについては、武田軍の啄木鳥の戦法を看破して、一挙に本陣を突いたのが謙信の優れた戦術であったと思う。 むしろ車懸りの陣は枝葉であるように思えるし、少し講談的な戦法のように思える戦法だと思える。 ただ思うに、武田軍の迂回軍がいつ戻ってくるかわからないこういった状況においては、“休憩を挟み挟み戦う”ような迂遠な戦法はむしろ適しておらず、 全軍総がかりの全力攻勢を謙信はとったのではなかろうか? 神がかったカリスマ的指揮能力を持つと言われる謙信の率いる上杉軍は、むしろそういった打撃力に長けていただろうから。
64 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:12
啄木鳥の戦法というのは信玄が城を落としては即座に退却して 敵と正面から戦わない作戦を例えたものだと聞いた事がある
65 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:12
>>63 迅速に勝負を決しなければならないとすれば、
全軍展開しての全力攻撃は戦闘展開に時間をかける余裕はなかっただろう
とすると、
>>55 の368が最も現実的だな
すまん、日本語変だった × 全軍展開しての全力攻撃は戦闘展開に時間をかける余裕はなかっただろう ○ 全軍展開しての全力攻撃のために戦闘展開に時間をかける余裕はなかっただろう
67 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:17
車懸りの陣だけど、兵を変わるがわる投入して休息を与えながら戦うというのはちょっとてアレだけど、 次々と新手が現れてくる戦法というのは結構敵兵に与える心理的影響力の大きな戦法だったかもしれないね。 車懸りの戦法が実在するとしたら、むしろ、そういった心理的効果を狙った戦法だったのかも、とちょっと考えてみたりして……。
68 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:20
それで信玄の本陣まで謙信が突入するんだからすごいね
>>65 確かにそうですね(笑)
どうも休息をとりながら戦うというのが車懸りの利点だったというのがちょっと納得いかなかったので。
>>55 の
>>368 さんの意見なら納得いきます。
70 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:29
なるほど、軍を展開する余裕のない場合は車懸かり(コウヤク)の陣か
71 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/27 23:35
雁行の陣の使い方がよくわからないんですが どなたかわかる方いらしたら説明を。。。。
カンネーの戦いをもう少し補足すると カルタゴ軍の勝因: ・ローマ軍の布陣から中央突破を予測し、カルタゴ軍は中央部分を厚くした。(背後に精鋭の予備兵力を配置) これにより敵の衝撃力を受けとめる重点とする為である。 また弓状に張り出しているおかげで、前衛部隊が後退する余地が有り、 一度崩れた後に態勢の立て直しを図る事が出来た。 さらにはそれを見たローマ軍の指揮官ヴァッロは、カルタゴ軍に崩壊の兆しと見て、 予備兵力を全て投入を行ってしまうという二時効果もあった。 これにより以後の戦いは、ハンニバルの作戦通りに推移していくのである。 ・ハンニバルが敗北したザマの会戦以外の全てに共通するのは、常にローマ軍のそれを上回る 騎兵を擁していた事だ。当時のローマ軍は騎兵を主力である歩兵部隊の補助程度に 考えており、その機動力を生かす作戦をとっていなかったのである。 事実、カルタゴ軍の騎兵により後背や側面を突かれて、ローマ軍はその衝撃力を急激に失ったのだ。 もしも前年のトランジメーノ戦で失った4000の騎兵がローマ軍にあれば、 カルタゴ軍の騎兵がローマ軍の後背を突くまでの時間を十分稼ぎ、当初の作戦通りに 中央突破を成功させる事ができたかもしれない。 この事からも敵を上回る騎兵力を用いて、戦場における主導権を得る事は 非常に重要な事だと理解できるだろう。 こんな所かな?抜けてる点があれば、補足を宜しくー。
で、次はクレーシーの会戦をやるの? 14世紀のヨーロッパにおける対騎兵戦だな。
74 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 00:19
>>71 「雁行」は、敵に応じて陣形変換を行うという点が激しく疑問です
敵前で戦闘展開をやり直すということは手間と時間がかかり、
敵の奇襲を許す危険性があります
しかしながら、雁行状に部隊を配置する要領は、部隊の相互支援の点では
合理的だと思います
通常、隊列は正面に戦力を集中するため側背は脆弱で、そこに戦力を集中されれば
撃破される危険性があります
「雁行」では、斜め前の部隊の側面を防護しつつ、一方の側面を斜め後方の部隊
に防護されるため、正面の戦闘に集中することができるでしょう
それなら横一線に並べばと思われるでしょう
確かに横一線の横隊は側面掩護の点では有効ですが、いざ攻撃前進するとなると
全軍を斉一に動かさなければならず、隊列が崩れる可能性があります
中世〜近世にかけてのヨーロッパの戦闘では、歩兵の戦術的な役割は
主として防御でしたから単純な横隊でも問題はなかったと思いますが、
歩兵に攻撃的な任務も付与していた日本では、単純な横隊では戦力発揮が
難しかったのだと思います
「雁行」では、部隊が攻撃前進する際に斜め前方の部隊がその前進を掩護するため、
各部隊が逐次に攻撃前進を行うことができるでしょう
また、後退の時は斜め後方の部隊の掩護を受けることができるでしょう
勿論、全軍の肩部にあたる部隊は相互支援に欠けるため、兵力的に有力な部隊を配置したり、
堅固な地形や陣地に依託するなどして容易に消耗しないようにする処置が必要でしょう
「雁行」は部隊の相互支援を容易とし、総合的な戦力発揮が容易な反面、
各部隊の安全性を確保するために逐次に動かさなければならず、
機動の発揮に問題があったと考えます
長文すいません
75 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 15:10
age
76 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 17:33
対騎兵戦はいかに相手の機動力、突撃力を封じるか そのためには徹底した大量の飛び道具使用と 馬防柵や落とし穴などの障害物を使うのがポイントですか?
77 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 17:57
常識的だけど @強い相手に勝利するには事前工作が必要 A騎馬兵は機動力は高いが障害にかかりやすい
78 :
初心者戦争ヲタ女 :01/11/28 18:19
中世騎士の戦いからは、なんか戦術が見出せない感じがしますね。 ただ敵より強い騎士を多く揃えば勝ってるって気がします。 中世の戦いに優れた戦術を用いた戦例を教えてください。
79 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 18:36
>>78 騎士はない。時代ならばクレシー、アジャンクールの長弓かな
80 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 18:39
>79 長弓は熟練しないとなかなか。
81 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 18:44
政治も哲学も軍事もそうだけど人間としての 「全体の合理」 みたいのをヨーロッパ世界内で考えるのは十字架の時代を過ぎてからかな。
82 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 18:48
83 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 19:05
中世ヨーロッパは暗黒時代だからね 古代に確立されたアレクサンドロスなどの戦術も廃れてしまった
84 :
初心者戦争ヲタ女 :01/11/28 19:24
>79 長弓の話なら私だって知ってますよ。 甲冑を貫いて足をも貫いてその向こうの甲冑まで貫いて騎馬に刺された 話とか。 >83 なるほど、ありがとうございます。
85 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 19:33
おれがかいたのは長弓の威力の話じゃないぜ 対騎兵戦術としての遠戦武器歩兵の活用と戦術上の歩兵復権の話だ
86 :
初心者戦争ヲタ女 :01/11/28 21:20
>85 そうですか、間違ってごめんなさい。でも、長弓の他にパイクフォーメーションも歩兵復権に繋がりますね?
87 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 21:38
中世の徒歩兵士を歩兵として一括りに論じる時点で間違っとる
88 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/28 23:59
中世の歩兵って種類ありすぎたっけ?
89 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/29 00:11
重装歩兵、軽装歩兵 飛び道具担当。。。くらい?
ちょっと話ずれるが、中世ヨーロッパの兵士は、領主の私兵だけ? 日本の様に農兵とか、もっと高度に訓練にされた専業兵士はいないの? 国土の広さの割に兵数少ないなとか思ったので。
クレーシー会戦の説明に入る前に、騎兵について説明が必要か。 >76 正解。 クレーシー会戦において、エドワード3世もそれで勝利している。 あと一点補足すると、地形もかなり重要だな。 >78 中世は重騎兵同士の戦いが主流となり、戦術の発展は見られない。 それ故にクレーシー会戦の劇的な勝利が、戦術の再確認を促してくれるだろう。 ちなみに中世で見るべきものは、79の言うようにクレーシー、アジャンクール位かな。 >87 古代より歩兵は二種類に分類できると思う。 ・重装歩兵 ・軽装歩兵(散兵:飛び道具担当) 軽装歩兵も散兵も基本的な役割は同じなので、同兵種と見なして良いだろう。 ちなみに重騎兵の誕生は紀元前4世紀の頃。
>90 >日本の様に農兵とか、もっと高度に訓練にされた専業兵士はいないの? 俺の調べた範囲ではそう言う話は聞かない。 常備軍が誕生したのは、もっと後の時代なのさ。 >国土の広さの割に兵数少ないなとか思ったので。 国土が広大と言っても、中世当時にはまだ未開の土地が多いのさ。 大量の兵士を動員する為の兵站能力に、その原因があったのではないかな? あと百年戦争をやってる時点で、国力は常に消耗気味と見るべきだろう。
>92 ありがとう。 じゃ、当時の軍隊はヤクザの寄せ集めでモラルが低そうで、高度な戦術とか取れなそう。
>78 少し異色だけど、13世紀のリーグニッツ会戦も見るべき戦いかな。 モンゴル軍とヨーロッパ連合軍との戦いだが、着目すべき点は かなり多いと思うね。
>93 中世ヨーロッパは封建制の為に、軍隊は地方領主の私兵と化していた。 戦が一度起きても戦後の互いの勢力争いがあるので、連携が上手く取れず 高度な戦術を実行するのは容易では無かったようだな。 リーグニッツ会戦において、モンゴル軍に敗れ去った一因もそこにあると思うよ。
96 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/29 05:15
ところで戦術指南書というのはありえるだろうか? 私はないと思うのだがみんなはどう思ってる? 孫子みたいなのは抽象的すぎて実際に応用できない つーかあれ読んで戦術に応用できる奴は元から天才。 今言うのは凡人が秀才になるための指南書。 かといって具体的にすると応用範囲が狭くなりすぎる。 また分量が多くなりすぎて手に終えなくなる。 戦術とは才能ですか、学問ですか、経験則ですか?
97 :
初心者戦争ヲタ女 :01/11/29 11:53
では、クレーシー、アジャンクールとリーグニッツ会戦について 簡単な解説をお願いできますか?(まだはその会戦の英語の名を おしえてください)
98 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/29 11:55
その時代時代で各軍隊には兵の運用などを書いたテキストが作成されたりしています。 戦術指南書ではなく、“操典”と呼ばれていますが、そういったマニュアルみたいなものはどこにでもあったようですよ。 例えば三国志の時代だと、歩兵の運用法を書いたもので曹操が作成した『歩戦礼』というものがあります。
そんな事より、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
このあいだ、三国志・戦国板逝ったんです。
そしたらなんか「戦術に関して議論するスレ。」ってのを見つけたんです。
で、よく見たらなんかマキャベリの「戦術論」に出てくるような文章ばっかなんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
「中世の騎兵に戦術はない」「正解」とか「中世に戦術の発展は見られない」とか
「中世は戦争の暗黒時代」みたいな主張繰り返してんじゃねーよ、ボケが。
中世だよ、中世。
なんか「中世の歩兵は重装歩兵と軽装歩兵」とかいうレスあるし。
中世の槍兵の方陣をファランクスやレギオン扱いか、おめでてーな。
そこで今どき「歩兵の復権」とか言ってるの。もう見てらんない。
お前な、歩兵つっても槍兵、矛槍兵、弩兵、銃兵とかいて、それぞれの戦術的な役割も全然違うからそりゃ大勘違いと。
中世ヨーロッパの戦争ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
決戦兵器として強襲戦術に特化し、奇形とも言える発展を遂げ、
それ故に他兵科の支援に大きく依存しなければならないヨーロッパ重騎兵、
その活躍の舞台をしつらえるために必要とされる巧妙な戦術行動、
一つ間違えばいつ敵の騎兵の逆襲を喰らってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
中世の戦術を舐めてる奴は、すっこんでろ。
で、やっと最後まで読んだと思ったら、「ちなみに中世で見るべきものは、クレーシー、アジャンクール位かな。」、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、長弓戦術なんてきょうび流行んねーんだよ。
得意げな顔して何が、「高度な戦術を実行するのは容易では無かったようだな。」、だ。
お前は本当に考えたかと問いたい。何で長弓戦術はイングランドのお家芸で終わったのか問い詰めたい。
小1時間問い詰めたい。
お前、戦術って言葉に酔ってるだけちゃうんかと。
戦史ヲタの俺から言わせてもらえば今、中世ヨーロッパ戦史での最新流行はやっぱり、ムルテン、これだね。
「スイス槍兵戦闘隊形」。これが通の中世ヨーロッパ戦術。
「スイス槍兵戦闘隊形」ってのは防御兵器である槍兵で重騎兵顔負けの突撃機動。
そん代わり損害も半端じゃない。これ。
で、それでも隊列を崩さず敵陣を粉砕、捕虜は作らない。これ最強。
しかし、他の国が真似してもダプリン・ムーアの二の舞になる危険も伴う、諸刃の剣。
ドイツの傭兵如きにはお薦め出来ない。
まあ素人は、輪切り図鑑「ヨーロッパの城」岩波書店
ttp://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/11/0/1105330.html でも読んでなさいってこった。
100 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/29 23:00
↑何気にマジレス・・・
>99 >何で長弓戦術はイングランドのお家芸で終わったのか問い詰めたい。 15世紀に大砲の発達があったからと認識しているが、お前さんの意見は? あと素人にいきなり中世のスイス傭兵の事も述べろってのか? そこまで言うならお前さんが代わりにやれよ。 俺だって仕事があるんだぜ。1から10までディープな語れってんなら、お前が責任を持ってやれ。 俺は知らん!!
103 :
無名武将@お腹せっぷく :01/11/30 00:52
確かに中世の戦術ってのは99の言うとおりのものでしょう。 だから、中世は戦争の暗黒時代って言われるだけど・・・ 結局は突撃だけってこと。
5時くらいまでは結構レスついてたけど2ちゃんではこの時間帯が一番静からしい
105 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/01 07:28
陣を建て直しage 銃兵なんて14世紀のイギリスにあったのかよw それに散兵を歩兵に含めないで弓兵というカテゴリーに入れる人もいるね
106 :
初心者戦争ヲタ女 :01/12/02 22:04
初心者だって言ってるのに、きびしい返事ばっかりですね。 私はただもっと知りたいだけですよ。ちょっとやさしくしても いいんじゃないんですか?
107 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/02 22:06
>106 あなたの態度が問題なんじゃあ? それにしても少数が多数に勝つのは双方に原因が会って初めて成立するか。
108 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/02 22:11
取り敢えず、コピペネタでスレを沈黙させた
>>99 の戦術は
尋常でないと認めざるを得ない。
誰か99を論破する大戦術家はいないのか?
>>106 あんたね、素人考えを述べるならともかく「教えて君」じゃ駄目だよ。
ちょっと検索すれば解ることを・・・・
109 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/02 22:15
コサックスとAOKやれ
110 :
初心者戦争ヲタ女 :01/12/02 22:56
はい、わかりました、ほんとにごめんなさい。 これからはもう「教えて君」はやめます。 態度も改めます。で、ひとつ言いたいけど、 銃器の前に、強力なクロスボウも騎士を戦場の主流から 退場させた原因でしょう?
111 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/02 22:59
将星録やると陣形が自然に馴染んでくるよ。 あそこまで単純化されていると。。。 雁行は、奇襲に強いし建て直しが早い。ただ、攻撃力は中途半端。 前衛がやられるとかなり危険。 それを方円にすると、攻撃力も上がる。両脇を前進させればすぐ攻撃できるから。 ただ、両翼が遅れるとかなり致命的になるので諸刃の刃。
113 :
名無し三等兵 :01/12/02 23:43
「クロスボウ」は強力だったけど、数がそろわなかったし発射速度も遅かったから それほど脅威にはならなかった(戦場以外では脅威として見られたが) クレシーでもフランス軍のクロスボウ傭兵をイングランド長弓兵が沈黙させているしね
騎士が衰退したのは十字軍とかでの消耗で弱体化したからっけ?
116 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/03 01:17
ポーランドではナチスドイツ戦車隊の侵攻に、騎兵が槍で立ち向かったしな(一部俗説)。 うーん。燃え。 戦術レベルでは、歩兵優位←→騎兵優位の交代は何度か繰り返されたと考えた方がいい鴨。
117 :
戦術好きグンオタ :01/12/03 01:26
こんばんは戦術好きグンオタです。 騎士の時代〜ヨーロッパ中世の軍事・戦術に関しての本として 皆さんはどんな本を読まれてますか? いやースイス傭兵の以前の騎士突撃の時代が 余り見かけないものでお聞きしてる所存です。
118 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/03 01:51
>115 一つは、戦国時代にも言える事ですが、戦術の変化。 つまり、集団戦が主流になっていった、という事。 もう一つは、傭兵集団の台頭でしょう。 ま、一般論ですが。
119 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/03 07:40
そろそろ99がやってきそうな予感・・・・
120 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/03 10:43
射程と破壊力ならクロスボウが優れているけど速射性は長弓の6〜7分の1
>116 事実らしいです、それ。 しかもビビッた独逸軍、一時的に後退したとか………。
では、リーグニッツの会戦について解説します。 会戦前の状況 モンゴル帝国は広大な帝国を打ち立てたが、チンギス・ハンが死亡した後には、 その大帝国も支配が行き届かず、一度は滅亡した国々が勢力を盛り返しつつあ る中で、モンゴル帝国の後継者は、全部族をあげたクリルタイ(モンゴルの最高 決定機関。部族会議)を催し、緩みかけた帝国のたがを閉め直す為の大遠征軍 の西制を決定した。 総司令官はチンギス・ハンの長子ジュチの息子バトォ、副将にスブタイを戴き、モ ンゴル騎兵隊5万、トルコ系の歩兵7万からなる大軍だった。 出陣したモンゴル軍は西アジアからヨーロッパ・ロシアに至る各国を征服し、ポー ランドに駒を進めた。 この頃には、モンゴル軍の陣容は降伏した国や都市から徴発した兵士を加えて 15万を超えている。 ポーランド領内に侵入したモンゴル軍はヨーロッパ各国にとってはまったく理解不 能の悪魔の軍団であった。 度々十字軍を起こしてイスラム領内に侵攻しているヨーロッパにも、イスラム教徒 でも、キリスト教徒でもない異形の軍団はなんとしても阻止しなければならない敵 だったのだ。 ヨーロッパ軍総司令官となったシレジアの大公、ヘンリック二世は各国から送られ た増援にポーランドから最大限の動員をかけた大軍を加え、4万の軍団を組織して、 防衛線を敷いた。 その場所は、ポーランドの西方、ドイツとの国境に近いリーグニッツ。 ここを破られればモンゴル軍はドイツに雪崩れ込み、小さな領邦国家に分裂してい るドイツは各個撃破されて、ヨーロッパは無防備な平地と化す。 最後の防衛線に、ヘンリックは絶対の自信を持つ、ヨーロッパの重装騎士団による 突撃で臨もうとしていた。
戦闘の経過 1 両軍の布陣 ヘンリック二世は全軍をあげて、リーグニッツの東南4km、ワールシュタットに 布陣した。 ヘンリックの戦略は、4万の軍をそれぞれの出身別に5個の部隊に分け、それを 梯団編成により、モンゴル軍を漸減しつつ、最後部に配置した最強の装甲重 騎兵で蹴散らそうというものだった。 第1陣は、モラヴィア辺境伯の嫡子ボレスラフが指揮する歩兵中心の部隊である。 第2陣から第3陣までは、各州の地方領主を中心とする部隊で、封建領主と しての騎士と、その従者、そして農民を徴発した歩兵の部隊である。 第4陣と第5陣が決戦部隊だった。 異教徒たるモンゴル軍を殲滅するための、重装甲を施した騎士を中心とする 騎兵部隊である。 第4陣はプロシアのチュートン騎士修道会、そして第5陣は、ポーランド騎士団と ドイツの傭兵部隊である。ヘンリック自身は第5陣に本陣を置き、自らを決戦部隊 の司令官としていた。 梯団状に配置したヨーロッパ連合軍4万に対し、モンゴル軍は圧倒的に優勢だった。 司令官バトゥは総勢15万を各3万の5個軍にわけ、ヨーロッパ軍を包囲する横隊陣形 をとった。 直接正面にあたる部隊は、チンギスハンの第二子チャガタイの子バイタルだった。 バイタルは敵が5段の陣を敷き、各団ごとに防御線を敷いて、モンゴル軍を疲弊、 漸減する戦法であることを看て取った。 その思惑の裏をかくために、バイタルは前線に押し出す騎兵の小部隊を編成した。
欧州連合軍の編成 第5陣(歩兵+重騎兵)------ポーランド騎士団 ドイツ傭兵 第4陣(歩兵+重騎兵)------チュートン岸修道会 第3陣(歩兵+軽騎兵+弩兵)-地方領主部隊 第2陣(歩兵+軽騎兵+弩兵)-ポーランド隊 クスコフ人 第1陣(歩兵+弩兵)-------モラヴィア辺境伯嫡子 (ボレスラフ)
戦闘の経過 2 モンゴル前衛部隊の敗走 両軍が対峙し戦端が開かれた。ボレスラフの指揮する第1陣が前進し、モンゴル 騎兵隊も、猛然と疾駆してきた。 短い戦闘の末、モンゴル軍は混乱し、馬首を巡らせて、逃げ出していった。 意外なほど脆い敗走だったがボレスラフは疑問を感じることなく、全部隊に追撃を 命じた。 第2陣も意外な展開に驚きながらも手柄の一人占めは許さないとばかり、全部隊に 前進を命じた。 必勝を期して組み上げた陣形が崩れはじめた。慌てたヘンリックは命令を飛ばして 制止する。しかし言葉も違い、統一された指揮系統にあるわけでもない連合軍には 意思統一は望むべくも無く、眼前にちらつく手柄に目を奪われた連合軍は、周囲の 状況など目に入らず突進した。 気づいたときには、第1陣、第2陣共に本体から大きく引き離されて、大平原のただ中 に引きずり出されていた。
図1 モンゴル軍の先遣騎馬隊が、欧州連合軍を挑発。 軽い戦闘の後後退 欧州連合軍 第5陣 第4陣 第3陣 第2陣 第1陣 ___ ↑ | 先遣 ↓ 騎馬隊 モンゴル軍
戦闘の経過 3 伏兵 敗走するモンゴル前衛部隊を追撃する連合軍第1陣だが、距離は詰まらず、しかも 付かず離れずの距離を保って逃げていく。連合軍将兵の胸に疑念が射した。 そのとき、行く手に白い旗が翻った。同時に歓声があがり、地響きが轟いた。 左右両翼から土煙が上がり、何万という騎兵が疾走してくる。 モンゴル軍の主力、軽騎兵が連合軍を覆い潰すように突進し、呆然と立ちすくむ 第1陣を嘲笑うかのように、敗走していたはずの前衛部隊までが馬首を再度巡らせた。 モンゴル軍が得意とした、擬似敗走による釣り出し戦法である。 圧倒的な兵力を用意して敵軍に対する鶴翼陣形を取り、それを伏兵として、小兵力の 前衛部隊を突出させる。軽く戦った後に敗走を装って後退し、敵の追撃を誘いつつ、 味方の包囲網の中心に誘い出す。 そして敵の兵力を引き離し、騎兵の大集団が自在に行動できる平原に誘引して、 伏兵となった騎兵集団が左右から突撃。同時に前衛部隊も反転して敵の前進を阻み 、動きの止まった敵集団を主力騎兵の大密集集団で押し潰すという、必殺戦法だ。 事態の急変に右往左往するボレスラフの第1陣は、完全包囲され、矢の雨が降り注ぐ。 第1陣が包囲され、なぶり殺しの窮地を救おうと第2陣、第3陣は、全力で進軍した。 しかしその戦場にたどり着くより早く、モンゴル騎兵の大軍が彼らを続けざまに挟み込み 、矢の雨で殲滅していく。 無秩序に前進した連合軍の各部隊は、いつのまにかモンゴル軍の伏兵が潜む中に 放り出されていたのである。 梯団編成をとる敵に対しては、伏兵を重層的に配置し、釣り出し戦法と併用する。 その上で分断された敵を各部隊毎に包囲し、各個撃破するという戦法だった。 圧倒的な優位を保ちながら、なお敵を分断するという非情なほどの殲滅戦法に、 連合軍は為す術も無く倒されていく。ヘンリックが計画した漸減戦法は、逆にモンゴル軍 によって実行されていく。 やがて見る影も無く討ち減らされた連合軍は、必死に囲みを破って逃げ出した。 分散していたモンゴル軍は終結し、大集団となって前進する。
図2 後退したモンゴル先遣隊を追った欧州軍1、2陣は、本体から離れ、平原中央に引きずり出される。 気が付いたときには、姿をあらわしたモンゴル軍本体に包囲されていた。 欧州連合軍 第5陣 第4陣 第3陣 第2陣 第1陣 ↓ 軽騎兵 軽騎兵 先遣騎兵隊 軽騎兵 モンゴル軍 図3 欧州連合軍第3陣は、包囲された1、2陣の救出に向かうがたどり着く前に、新たに姿をあらわしたモンゴル軍の攻撃を受ける。 欧州連合軍 第5陣 第4陣 軽騎兵→ 第3陣 ←軽騎兵 軽騎兵→ 第2陣 ←軽騎兵 第1陣 ↑ 先遣騎兵隊 軽騎兵 モンゴル軍
戦闘の経過 4 連合軍壊滅 ヘンリックは勝負に出た。潰走する味方を追撃してくるモンゴル騎兵隊に向かって、 決戦兵力を出撃させる。 精強を誇るチュートン騎士修道会が、短い祈りをささげてから馬腹を蹴った。 続いて、ヘンリック自身が指揮するポーランド騎士軍が突撃にかかる。 しかし、精鋭騎士団といえども全員が騎乗しているわけではない。従者や歩兵をひき連れた 騎士団はせっかくの機動力を生かすことが出来ず、モンゴル騎兵隊に捕捉、包囲されて 一方的に倒されていく。 モンゴル騎兵隊は短弓の速射性を活かして、まず弩を持つ歩兵を倒し、次に騎士が目標と なる。モンゴル軍は一定の距離を保って包囲し、矢の雨を注いで騎士団を殲滅していった。 モンゴル軍の矢には毒が塗ってある。たとえ鎖帷子が防いでも、わずかな傷をつければ 、それで勝負が決まる。 次々と味方を討たれ、それでも必死の指揮を続けていたヘンリックは、最後に起死回生の 突撃を試みた。しかし命令を伝える伝令の声は戦場の喧騒にかき消され、それを退却の 命令と聞き間違えた者がいても不思議はない。 ヨーロッパ騎士団は一時に崩れ、退却を始める騎士が出たために、全軍にわたって乱れが 生じた。 それを見逃すバイタルではない。追撃命令が出、勢いを増したモンゴル軍は攻撃を強め、 連合軍は全線に渡って崩壊した。 もはや万事窮す。ヘンリックは退却の道を探ったが、その時飛来した毒矢が彼の命を絶った。 もはやヨーロッパは風前の灯火だった。 しかしモンゴル国内で後継者問題が再燃。再びクリルタイが招集されたため、バトゥはドイツ を目前にして全軍を反転させた。
図4 欧州連合軍は4、5陣の決戦兵力を投入するが、距離をとっての攻撃を仕掛けるモンゴル軍に肉薄するまもなく、殲滅されていった。 欧州連合軍 軽→ 第5陣 ←軽 騎 第4陣 騎 兵→ ↑ ↓ ←兵 第3陣 ↑ 軽→ 第2陣 ←軽 騎→ 第1陣 ←騎 兵 兵 ↑ 先遣騎兵隊 軽騎兵 モンゴル軍
131 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/03 21:54
確かポーランド軍は各個に包囲された筈だが それに、包囲のトドメを刺したのは軽騎兵じゃなくてモンゴルの重騎兵だよ モンゴル軍の包囲戦術では慣用的に軽騎兵が拘束部隊、重騎兵が包囲部隊を担任するから つまり、ポーランド軍は弓の一斉射撃ではなく、近接戦闘によって撃破された筈だ それと、モンゴル軍は毒矢を使ったというがヨタだろう ステップ系騎兵の合成弓は城壁防御用の鋼製弩ほどではないがイングランドの長弓よりも威力は高い 毒なぞ使う必要はなかったに違いない
132 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/03 22:13
あと、当時のヨーロッパの慣行では騎士の従者のうち徒歩の者は、 戦闘時には騎士に随伴せず、徒歩の者だけ抽出されて部隊を編成するのだが、 チュートン騎士団やポーランド騎士が日本の騎馬武者のように徒歩の従者を引き連れて 突撃した理由が解らない ちなみに当時の騎兵は既に騎士身分の者は少数派で、 傭兵や平民、奴隷出身の騎兵のほうが多数派だった筈
世界史板スレからのコピペにそんな鋭い突っ込みはいくら何でも可哀想。
134 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 01:02
モンゴル軍15万というのは、当時ポーランドに侵入していたモンゴル軍の総兵力 リーグニッツで会敵したモンゴル軍は、ポーランド軍より兵力的に劣勢だった ま、リーグニッツではモンゴル軍の圧倒的な兵力に揉み潰されたという説が流布しているが これはヨーロッパの苦し紛れのヨタだろう モンゴル軍の兵站能力を考えると、敵地で15万の兵力を1カ所に集中するのは容易ではない モンゴル軍2万、ポーランド軍3万程度が実相だと思う ヘンリク率いるポーランド軍は、領土に侵攻する敵を迎え撃った訳ではない 実際には、ポーランドの野戦軍撃破を狙ったモンゴル軍に捕捉されたのであって、 その証拠に、モンゴル軍は前進経路上のブレスラウを素通りしている これは、要塞を基盤とした消耗戦略を戦う当時のヨーロッパ人には不可解だったに違いない ポーランド軍はヨーロッパを侵略者の魔の手から救うために戦ったのではなく、 文字通りモンゴル軍に襲撃されたのだ それ故に、ポーランド軍の作戦目標はあくまでもモンゴル軍の撃退であり、 撃破は望成目標だった このような状況で、功名心にはやって追撃する程ポーランド軍はアフォ揃いだったとは 思えない 間違いなく追撃命令はヘンリクが下した筈だ ハンガリーを除けばステップ系騎兵と戦った経験を有する唯一のヨーロッパ軍である ポーランド軍は、モンゴル軍の誘引作戦を十分承知していたに違いない 結果的に歩騎分離となり撃破されることになるが、敵の後退に乗じて危険を冒して 戦果を拡大することがポーランド軍に唯一残された選択肢だったのではないか
>>134 なるほど、そういう見方もあるわけですか。
俺の手持ちの資料じゃ、そういうことはないので、こういう反論は勉強になります。
ありがとう。
136 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 10:57
>>131 132 の無名武将@お腹せっぷく さんと霧雨さんは
どんな資料を読まれてるんですか?
良かったら一例を教えて下さい。
ところでモンゴル軍てのは全部隊騎兵(後方支援も!)ですよね。
歩騎砲の概念でいうと(突っ込みなしね)
軽騎兵が砲兵の役割(敵の機動の制限、撹乱)で
重騎兵が歩騎の打撃部隊の役割をしている。騎兵なので
機動打撃戦力といえるだろう。
でこの場合モンゴル側は退却のふりをすればヨーロッパ側は
歩・騎分離すると分かってたんでしょうか?
あ、それとモンゴル軍は全兵力が騎兵化されていて高機動化
されていたので戦略の段階でまず優位に立てることが多く、
それが戦術レベルでの優位もあいまって無敵だったと聞きま
したが、補給能力に問題があったのですか・・
でも当時のヨーロッパ側はもっと補給能力に問題あり
てか皆無だったような。
でも西欧の城砦縦深防護群をもみつぶさずに素通りとは
モンゴル軍は自らの戦略・戦術の優位を自覚していて、
「後方連絡線が脅かされたら脅かす奴を野戦で倒せばいい」
と考えたんだろうか?
(なんか三方が原のヨタのパクリみたいな事を書いてしまった)
>>116 マンシュタインが士気を気にして戦車部隊に
「ポーランド騎兵おそるるに足らず」
と触れて回ったと云う話を見たことが有ります。
「どう考えても槍と騎兵銃しか持ってない敵なんぞ
密集突撃してきたら弾を使わずとも踏みつぶせば
いい」と思うのは素人の机上妄想でしょうか。
137 :
旧651(w :01/12/04 14:06
>「ポーランド騎兵おそるるに足らず」 騎兵部隊といっても乗馬騎兵だけではなく、砲や装甲車(軽戦車)なども その編成に入っております。 当時でいう機械化された偵察部隊であり、 ポーランドの場合はさらにその編成内に 乗馬騎兵があったのです。 乗馬騎兵でも歩兵部隊の前線に対しては、 突入さえ出来ればそれなりの戦果をあげられます。 (機銃があるとはいえ、白兵戦はWW2で多数発生しています) (完全な突撃破砕には、それなりの火力を必要としますので) それにドイツ軍というのは以外に戦車が少なく どこの戦場にでも戦車が居るわけではありません。 戦車のいない場所を騎兵の機動力を使って襲撃し 戦車の反撃の前に退避するという戦術を考えていたのかもしれません。 しかし、実際にはドイツは歩兵部隊といえど、当時の機銃装備量は列強最大級であり 付属砲兵も充実していましたので・・・ 騎兵だけの突撃はポーランド戦よりも初期のソ連戦で連隊規模の コサック騎兵が行なってドイツ軍の阻止砲火で破砕されたそうです。
138 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 14:15
>>137 ポーランド騎兵って乗馬騎兵ばかりだと思っていた。
正直「ポーランドの機械化の程度など へっ」
と、読んで字のとうりだと思っていた。 有難う。でも鬱だ
139 :
旧651(w :01/12/04 14:49
>ポーランドの機械化の程度 TKSというガーデンロイド系の小型装軌車を主力に7TPという系戦車を保有。 さらにポーランド軍はボフォース(英国)製の37mm対戦車砲を装備しています。 この37mmなら、当時ドイツの主力戦車である2号や1号戦車なら 簡単にしとめられます。 実際、ワルシャワ郊外(市内?)の戦闘で ドイツ側参加戦車120台中、57台を撃破するという戦果も出しています。 (約3時間程度の戦闘だったらしいです) 話は騎兵に戻りますが、 騎兵部隊というのは各国ともWW1初期まで十分に活躍していました。 その為、歴史と精強を誇る(練度と士気が高い)ポーランド騎兵は ヨーロッパでも強力な部隊であると「戦前」は考えられていました。 また実際に攻撃初日にドイツ第2自動車化歩兵師団の部隊が ポーランド騎兵襲撃に怯え、一時期後退したりしてます。 この時の話が例のマンシュタインの言葉です。
140 :
旧651(w :01/12/04 14:59
あ、そうそう >ポーランド騎兵って乗馬騎兵ばかりだと 確かに組織としての騎兵部隊の大隊以下の部隊は 乗馬騎兵が殆どってのが多数ありました。 それに戦車、装甲車の数はそんなに多くありません。 (集中配備された軽戦車旅団は一個だけです) で一番、大事な事は、乗馬騎兵だからといって、 いつも乗馬突撃するわけではない。と言う事です。 降りてしまえば、歩兵(ただし精鋭)です。 この「精鋭」ってのと戦場外での移動速度(機動)が 当時の騎兵部隊の肝ですね。
141 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 16:20
たしかドイツ軍ってのは「機械化」ってイメージが有るけど 輜重なんかは馬匹が多かったって見ました。 機械化部隊もかなり機動の発揮が制約されたと。 そーいや独ソ両国からの挟撃侵攻時ポーランドは 無意味に国境線に戦力を貼り付けてましたよね。 或る意味あのスレの1みたいですね。(藁 冗談は置いといてなぜあのような配置をポーランド軍は したんでしょうか? (私の見た本では今も不可解だと書いてました)
142 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 16:38
それと私が言うのもなんですけど、好きな戦車は kv2 です。意味不明なまでに高められた対戦車砲防御力と 砲塔の形、失われた機動力・・サイコーです。
>ポーランド軍配置 あれは、第1次大戦の流れから見れば、そんなに不可解な事ではないです。 「戦力は戦線として地域に貼り付ける」WW1の常識です。 しかも、ポーランド軍はドイツの侵攻に対し、一部の地域で逆襲に出て ドイツ領内へ逆侵攻し、ドイツの勢いを止める事を考えていたようです。 その為の部隊を準備していた所、逆侵攻の前に自分達が後方を遮断されてしまったと・・・ 相手の機動力を予測できなかった結果です。
144 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 17:12
なるほどWW1の流れから考えると自然ですか。 ところであのスレの1は新しいスレを建てないようですね なんか残念です。
>KV-II あの重装甲はあくまでも陣地突破戦闘の為です。 ゆえに、重装甲・・・ 動かない戦線の拠点を潰す為の戦車なので、機動力は必要ありません。 また主砲は大口径の榴弾砲(直接射撃用)なので 歩兵主体の陣地攻略にもってこいです。 重装甲で対戦車砲弾をはじきかえし、榴弾で陣地を破壊してまわる怪物 ある意味、登場当初の戦車理念を体現化したような戦車です。 ちなみに、私の好きな戦車は「4号戦車系」と「M4シャーマン系」(w
M1エイブラムスはどうYO!
>1 は様子を見ましょう(w 我慢できずに、きっと出てきますよ(爆
M1は強すぎて、面白くないYO!(藁
149 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 17:19
軍事板にのこのこ出向いていったんじゃないだろうか。 そして伝説になる
150 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 17:23
そうですそうです。ドイツ軍でいう突撃砲役でしたね。 ただアレが活躍した時期ってのを見てると 「何でも投入できるものがあれば投入して阻止しろやー」 っぽい使われ方だったような気が。 88をたしか7発食らってまだ生存していたというのも聞いたことが あります。驚きです。 なるほど「軍馬」が好きですか。私も長口径化(L45だっけ) してからの軍馬は好きです。
151 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 17:34
で、ここが次スレ化するわけだ(藁
後半の言によると、
>>1 は実戦経験に置いて包囲最強の結論を得た
というような流れになっているが、実のところスレッドのごく初期に置いて
「スレッドを立てた日の昼間に思いついた」を言っている。
されば
>>1 は数多の戦場を無策で駈け抜けたのだろうか。
152 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 17:34
150は
>>145 へのレスです
ソ連軍って「猛獣」狩りに自走榴弾砲を多数投入してましたね。
/85化までは。SU152やらSU122やら。
そんでもって歩兵は戦車の上にのっとけですか。
歩兵は使い捨ての感覚ですね。
ところでドイツ軍とソ連軍ってのは同じような戦術を
取ってましたけど、ドイツ軍はある種「司令部一点狙い」なのに
何故にソ連軍は「敵野戦軍殲滅」にこだわってたんでしょうか?
153 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 17:50
1よ びびってないで出てこいや
偽1ならここにいるが。1は、自ら包囲殲滅されたのか。
155 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 18:03
本物1よ びびってないでシコってないで出てこいや
>149 大丈夫、既に現段階で伝説と思われ(w >戦術好きグンヲタさん >歩兵は使い捨ての感覚ですね。 彼ら車戴歩兵はタンクデサントと呼ばれ、配属後数週間の命と言われてたそうな・・・ さらに酷いのが懲罰大隊・・・ 徒歩で武器もなしに突撃部隊の先頭を走らされ地雷を踏み潰させる・・・ 逃亡兵は政治将校が容赦なく射殺・・・ なんだかなーもう・・・鬱 >ドイツ軍はある種「司令部一点狙い」 簡単に言うと自軍の数が少ないからです。 >ソ連軍は「敵野戦軍殲滅」 実は、ドイツも包囲によっての野戦軍撃滅を何回か狙っています。 しかし、兵力が少なく、包囲網が穴だらけで、かなりの数を逃がしています。 という事で、本当はソ連だけじゃなく、ドイツもやりたかったんですよ。 最終的に兵力の包囲撃滅は確実に相手の体力をもぎ取ります。 司令部狙いの場合は速攻でいかないと相手が回復しますが 包囲撃滅の場合は回復も不能です。 たぶん、ソ連はWW1のタンネンベルグとかが忘れられないのかも(w (自分がやられた時のダメージをよく知ってるため) 後、ソ連は教義に忠実ですから(藁
157 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 18:26
そうですか。まあ実際フランス侵攻の時も当のドイツ軍は 機甲部隊が分断撃破されないか怯えていた様ですしね。 確かに相手の指揮系統が比較的しっかりしていて 機械化部隊を持っている場合、「司令部狙い→麻痺」 だけじゃ足りないのですかね。 それと「政治委員」は無敵ですね(藁 ところで秘密警察も戦線に投入されたようですね。 あまり「警察部隊の編成・戦い」を見かけたことが無いので これも見てみたいです。
モンゴル軍ならまだしも第2次大戦は明らかな板違いと思われ
159 :
戦術好きグンオタ :01/12/04 18:42
136あたりから話がずれましたね。スミマセン
では、そろそろ軍板に帰還します。 でも、1が降臨なされたら軍板にも教えてね。 じゃ
161 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 18:59
で、リーグニッツの講義はどうなったの? 戦闘経過を説明して終わり?
162 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 19:02
偉大なる1書記長同志に解説をしていただこう(ワラ
1は「死体の山」を築いて遁走中。
164 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/04 21:09
>>136 資料は手当たり次第
モンゴル軍の慣用的に偽装退却を行ったに過ぎない
中世ヨーロッパの軍隊は、古代ローマ軍とは比べものにならぬ程
高度に相互支援を重視する戦術システムを構築していた
追撃を命じたことによって結果的にこの戦術システムが崩壊したのだ
残念ながらモンゴル軍は全軍騎兵編成ではなかった
モンゴル軍には歩兵もいた
モンゴル軍が戦略や戦術で優位に立っていた訳ではない
ただ単に「異質」だっただけだ
それを優位と呼んでもいいかもしれないが、
それではその後ヨーロッパの軍隊がモンゴルの戦術を模倣しなかった理由を
説明できない
補給能力に問題があったとは一言も言っていない
そもそも、1カ所に15万の兵力を集中できる軍隊なぞ当時は存在しない
最後の質問だが、モンゴル軍はそんな高尚なことは考えてなかっただろう
あと、当時のポーランドには縦深防御地域はなかった筈だが
165 :
戦術好きグンオタ :01/12/05 09:20
>中世ヨーロッパの軍隊は、古代ローマ軍とは比べものにならぬ程 >高度に相互支援を重視する戦術システムを構築していた この話をもっともっとお聞かせ願いたい。 騎士の時代で一括りに「打撃部隊騎士の突撃殆どオンリー」としか思ってな かったので。 >補給能力に問題があったとは一言も言っていない >そもそも、1カ所に15万の兵力を集中できる軍隊なぞ当時は存在しない この話も詳しく聞きたい。 教えて君になっちゃってますが
リーグニッツの会戦の場合は、新紀元社「覇者の戦術」からの引用です。 >中世ヨーロッパの軍隊は、古代ローマ軍とは比べものにならぬ程 >高度に相互支援を重視する戦術システムを構築していた そうなんですか。 この本によるとぼろくそに書かれています。 引用始め エバミノンダスが歩兵戦術に革命を起こし、アレクサンドロス大王がさらに改革を加えて騎兵を主力主力兵種としたのも束の間、キリスト教の勃興と封建体制の確立によって、ヨーロッパの戦術は大きな退化を起こしていた。 中世は暗黒時代といわれるとおり、人間の精神活動や社会活動にとどまらず、軍事面にも長い停滞を引き起こしていたのである。 引用終わり。 かなり、短絡的な書き方だが、中世暗黒時代は、あのとおりだったからなあ、と思ってしまうんですが。 もっとも、中世といったって、リーグニッツの会戦が1241年、クレーシーの会戦が1346年と100年の開きがあるので、中世のどの部分によるかで、戦術システムは雲泥の差が出るんだろうけどね。
全然関係ないが1241も1760もフリードリヒ2世がおるな。
168 :
戦術好きグンオタ :01/12/05 12:50
>>霧雨さん 「覇者の戦術」は私も持ってますが、長篠合戦についての記述も かなりおかしな事が書いてありあまり会戦の内容一つ一つは正しい とは言えないです。戦術の考え方は分かりやすいですが。
169 :
戦術好きグンオタ :01/12/05 18:19
>資料は手当たり次第 そこをどうか数例出して頂けませんか。市販されている本ならば。
170 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/05 18:31
防衛大学筋の近世戦史研究は当てにならない。 なにしろ 信長の奇襲迂回による今川義元攻撃や 鉄砲三段撃ちによる武田勝頼の撃退 というデンパな説を旧軍が確立させたおかげで 現在、デンパ説を崩すのに苦労しているから。
171 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/05 18:35
>170おいおいコピペすんなよ
172 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/05 20:11
ギリシャのファランクスは、いわば攻撃に特化した重装歩兵の密集陣で、代償として 縦深戦闘力に欠け、防御においては致命的に脆弱だった マケドニアは、従来の重装歩兵の片手槍を長大な両手槍に持ち替えさせることにより 防御的な性格を強め、かわりに低下した攻撃能力を補完するため重騎兵を整備した そんな贅沢の許されなかったローマは重装歩兵を攻防の基幹とした つまり、攻撃と防御の両面において、隊列を組んだ重装歩兵を戦術遂行の核に据えていたのだ 一方、中世ヨーロッパの軍隊では各兵科の戦術的な役割が分化した つまり、攻撃では重騎兵、防御では槍兵が中核兵科となり、他の兵科の支援を受けた 例えば、重騎兵は戦場にいて一撃で勝負を決めるための決定的な打撃力を担い、 突撃戦術に先鋭化していった この点で、完全被甲鎧と前方に半固定された騎槍を備えた中世ヨーロッパの重騎兵は、 非ヨーロッパ地域の重騎兵と完全に一線を画する これ程高度な専業化を達成した兵科は他に類を見ない だからといって、騎兵が何も考えずにただ突撃を繰り返していた訳ではない 事実、中世ヨーロッパにおいて単純に騎兵突撃のみで決定的な成果を上げた戦例は皆無に近い 反復して突撃することなど容易でないため、騎兵突撃を行うためには慎重で巧妙な 準備が必要とされた 弩兵や銃兵が攻撃準備射撃を行い、槍兵が敵の隊列を圧迫し、突撃する時機と場所と方向を 慎重に見極め、時には作為し、突撃の際は槍兵や矛槍兵、軽騎兵が進出して突撃の 支踏を確保し、肩部を掩護し、突撃の失敗に備えて突撃開始線を防御した 騎兵は、他兵科と独立して単独で突撃機動を行っていた訳ではない このような中世の戦術のどこが「暗黒」なのだ? それぞれの任務に適応するため特化し、その弱点を相互に補完し、総合戦闘力を発揮 できるように発展した軍隊に戦術などないとする考えは自分は理解できないし、 これ程洗練された突撃を高度な戦術ではないとする考えにも全く同意できない そもそも「高度な戦術」とは何だ? 10万を超える人口を擁する都市すらほとんど存在しなかった当時、 地域の人口をはるかに上回る軍隊が進駐したならば、その結末は容易に想像できる 15万の兵力を1カ所に集結させても飢えるだけだ 自分の資料は、全て市販のものを片っ端から購入しただけ 決め手となるような資料などない 強いて挙げればメンアットアームズはイメージを掴むのに手頃だと思う ただし、各本の著者が違うので意見に食い違いが散見され、訳もややおかしい部分が あると自分には見受けられた マール社の「武器」もいい本だと思う 旧軍もJ隊も、戦史から何らかの教訓、つまり集中や奇襲等の普遍的法則を 導き出すことを目的に編纂されている ちと暴言だが、導き出したい概念のためには事実の整合性はある程度犠牲になっても 構わないと考えている節がある これは、その手の戦史が戦略や戦術の教育資料である以上、仕方がないのかもしれない 教育とは、教育の成果を上げることが最優先されるからだ 淡々と事実のみで構築された戦史など軍事教育の訳には立たない 何故なら、そこには普遍的法則に劣らぬほど反普遍的な事実も存在するからだ 戦史から教訓を抽出して現代戦に当てはめようとする行為は確かに魅力的だ 中世ヨーロッパの軍隊をぼろくそに描写したり、グスタフ・アドルフや ナポレオンを不世出の英雄と賛美することにカタルシスを伴うだろう しかし、戦史から戦略や戦術の教訓を学ぶという姿勢に全く欠けている自分は、 このような戦史には全く満足できない だから、「覇者の戦術」は立ち読みですませた
173 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/05 20:16
174 :
戦術好きグンオタ :01/12/05 20:52
>>172 >10万を超える人口を擁する都市すらほとんど存在しなかった当時、
>地域の人口をはるかに上回る軍隊が進駐したならば、その結末は容易に想像できる
>15万の兵力を1カ所に集結させても飢えるだけだ
分進合撃って可能性は無いですか(こじつけになってる俺
それと
MEN-AT-ARMSがいいですか・・。確かに細分化して出版されており
全部買いたいのはヤマヤマなんですが、一冊1000円もしたら学生の
身分では全部揃えるのは無理です(;´Д`) 。このシリーズも今月
の二冊で終わりらしいですね。
で、戦術の概念・用語や「普遍的法則に劣らぬほど反普遍的な事実
も存在する」というのをお知りになられたのはどのような本でしょうか
よろしければ具体的に挙げていただけませんか?何度も図々しく済
みません。
そういや批判されていた防衛庁編纂の戦史の本、
中古ですけど全冊揃いで68万でしたよ。
175 :
戦術好きグンオタ :01/12/05 21:11
>このような中世の戦術のどこが「暗黒」なのだ? >それぞれの任務に適応するため特化し、その弱点を相互に補完し、総合戦闘力を発揮 >できるように発展した軍隊に戦術などないとする考えは自分は理解できないし、 >これ程洗練された突撃を高度な戦術ではないとする考えにも全く同意できない >そもそも「高度な戦術」とは何だ? では逆説的になぜ貴方は一般的にスイス槍兵以降の戦術が「夜明け」として 取り上げられると考えられてますか?
>>175 あんた、質問してばっかだね。
自分の意見書いてみれば?
177 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/05 22:03
172=176なの?そう見えないんだけど
分進合撃でも飯の数は減らない そもそも、リーグニッツはブタペストへ進む主作戦の側面を掩護する支作戦だった リーグニッツ戦と同日、主力部隊はサヨ河でベーラ2世率いるハンガリー軍と交戦している 資料によって様々だが、ヨーロッパに侵攻したモンゴル軍の兵力は10〜20万と言われている 支作戦に15万も投入できたとは思えない ヨーロッパ諸国でも同様で、当時15万の兵力を野戦に投入した事例はない まして、まともな地図も存在しない当時、分進合撃はまず不可能だっただろう 例えば、1632年、ヨーロッパに展開していたスウェーデン軍は18万だった しかし、リーグニッツで戦っていたのは2万程度だった しかも、グスタフ・アドルフの野戦軍の中核は外国人傭兵だった 1544年のチェレゾーレで、当時ヨーロッパで最も高度に火力装備化した軍勢同士の戦闘で、 勝敗の帰趨を決めたのは時代遅れの筈の重騎兵の突撃だった 朝鮮戦争において中国義勇軍と対峙した米軍は、縦深を放棄して1線防御によって 人海戦術に対抗した 15世紀以降、スイス槍兵は確かにヨーロッパで軍事的名声を博した しかし、その戦術を完全に模倣できたヨーロッパの軍隊は存在しない イングランドの長弓戦術と同様、軍制よりも個々の兵士に大きく(しかも過剰に) 依存する戦術は決して一般化しない 確かにスイス槍兵の戦術が猛威を振るったのは事実だ しかし、これが戦術の「夜明け」だとは思えない >177 違う
176さんそれもそうですね。 >そもそも「高度な戦術」とは何だ? 現代まで続く戦術の(大まかな )歴史を見ていて私も感じました。 例えば米英の独本土戦略爆撃(これは「戦略」ですが、私の場合 勝手に敵の攻撃が届く所は「戦術」に含めて考える事もあります。) なんかは一般的に「敵戦意を挫き、敵の生産力を大幅に低下させた」 と拍手喝さいの意見は良く聞くものですが、実はどうも 「敵戦意は挫かれるどころか祖国防衛意識を高揚させ、敵生産力も 大して落ちなかった。それどころか最高潮は1944年だ」そうなんです。 これの前の方は米軍戦略爆撃調査団の日本に対する調査でも同様な ようです。もし日本が作るなら一機しか経済的に無理なような物を(「軍 産複合体」を応援する意図もアリっぽいが)何百何千とつくって投入し て民間の物を灰にして「殆ど効果無し」とは・・ それでも米英は圧勝しました。(勿論ソ連の圧力が大きかったでしょうけど) その時思ったんです 最強の戦術とはこうだと。 (本当に下らない駄論なんで今まで出すのは自重してきましたが 論が安っぽいのはご容赦。) 戦術とは戦略もそうだが固定的ではなく孫子の説いたように水の様 である。しかも軍事と言う物はゲームでもスポーツない。政治と密接に 連携したものである。したがってあらゆる所にあらゆる合理的でない 制約がかかる場合がある。しかしながらこれだけはいえる(かな) 「ある軍隊が その時 その場所で 176さんそれもそうですね。 >そもそも「高度な戦術」とは何だ? 現代まで続く戦術の(大まかな )歴史を見ていて私も感じました。 例えば米英の独本土戦略爆撃(これは「戦略」ですが、私の場合 勝手に敵の攻撃が届く所は「戦術」に含めて考える事もあります。) なんかは一般的に「敵戦意を挫き、敵の生産力を大幅に低下させた」 と拍手喝さいの意見は良く聞くものですが、実はどうも 「敵戦意は挫かれるどころか祖国防衛意識を高揚させ、敵生産力も 大して落ちなかった。それどころか最高潮は1944年だ」そうなんです。 これの前の方は米軍戦略爆撃調査団の日本に対する調査でも同様な ようです。もし日本が作るなら一機しか経済的に無理なような物を(「軍 産複合体」を応援する意図もアリっぽいが)何百何千とつくって投入し て民間の物を灰にして「殆ど効果無し」とは・・ それでも米英は圧勝しました。(勿論ソ連の圧力が大きかったでしょうけど) その時思ったんです 最強の戦術とはこうだと。 (本当に下らない駄論なんで今まで出すのは自重してきましたが 論が安っぽいのはご容赦。)
おかしくなったのでもう一回書き込みなおします。 176さんそれもそうですね。 >そもそも「高度な戦術」とは何だ? 現代まで続く戦術の(大まかな )歴史を見ていて私も感じました。 例えば米英の独本土戦略爆撃(これは「戦略」ですが、私の場合 勝手に敵の攻撃が届く所は「戦術」に含めて考える事もあります。) なんかは一般的に「敵戦意を挫き、敵の生産力を大幅に低下させた」 と拍手喝さいの意見は良く聞くものですが、実はどうも 「敵戦意は挫かれるどころか祖国防衛意識を高揚させ、敵生産力も 大して落ちなかった。それどころか最高潮は1944年だ」そうなんです。 これの前の方は米軍戦略爆撃調査団の日本に対する調査でも同様な ようです。もし日本が作るなら一機しか経済的に無理なような物を(「軍 産複合体」を応援する意図もアリっぽいが)何百何千とつくって投入し て民間の物を灰にして「殆ど効果無し」とは・・ それでも米英は圧勝しました。(勿論ソ連の圧力が大きかったでしょうけど) その時思ったんです 最強の戦術とはこうだと。 (本当に下らない駄論なんで今まで出すのは自重してきましたが 論が安っぽいのはご容赦。)
戦術とは戦略もそうだが固定的ではなく孫子の説いたように水の様 である。しかも軍事と言う物はゲームでもスポーツない。政治と密接に 連携したものである。したがってあらゆる所にあらゆる合理的でない 制約がかかる場合がある。しかしながらこれだけはいえる(かな) 「戦うという行為上失うものが出るのはいた仕方ない部分もある だからある軍隊が戦場において制約の中でその軍隊や支える組織が(私の戦術 考ならば20世紀では後方も軍隊)どれがどのような事が可能なのか、または出来ないのか を整理した上で @行動の主体が考える目的とこうむる損害を秤にかけたときに 前者>=後者 なおかつ A概念的・物理的を問わず相対的に無くしても良いもの・出来る限り守らなければ ならないものを考えたうえで、どれだけ無くして良い物を無くしつつも 守らなければならない物を守れたか を達しえたかの度合いが高い者の戦術」 ここで出した概念自体が事後論的で、曖昧さが目立ち、2つの条件以外にも 検証時は外交戦略・第3勢力の動き等が入ってこんなに簡単には論じれませんね。 戦略論的に変質してしまった節もある。やっぱり無茶苦茶難しい・・・
おー、皆さん議論が白熱してきましたね。 いろいろな意見が聞けて、とても面白いです。 さて、私も参考資料をいろいろと読み直してみましたが、中世暗黒時代の戦術が退化したといわれる理由なんですが、 アレクサンドロス大王の陣形が古代世界の完成形というのが、一つの定説だからじゃないでしょうか. で、中世暗黒時代でそれが廃れ、ルネサンスによって、古代ギリシャ、ローマが見直され、戦術面でも古典的な陣形が復活する。 テルシオ陣形→機動火力横陣(マウリッツ型、グスタフアドルフ型)→火力重視型斜線陣(フリードリッヒ大王)→オーダーミックス陣形(ナポレオン)と進化したが、 フリードリッヒ大王の陣形からナポレオンの陣形への発展は、エバミノンダスの斜線陣からアレクサンドロス大王の陣形への発展とほぼ同様の過程をたどっている。 そしてナポレオンの陣形はアレクサンドロス大王のものとほとんど同じもの。 一度忘れ去られた陣形が、2000年の時を隔てて再発見されたことになる。 こういういきさつがあれば、やはり中世暗黒時代は戦術も退化したといわれてもしょうがないんじゃ。 ところで、172さんのいう、いわゆる諸兵科連合についてなんだが、中世といっても、初期の暗黒時代と後期のルネサンスあたりじゃ全然違いますよね?。 いやね、「単純に騎兵突撃のみで決定的な成果を上げた戦例は皆無に近い」のはそのとおりなんだが、実際にそれをやって大失敗した人間がいろいろといれば、いくらなんでも学習すると思うんですよ。 クレシーの会戦なんかはそのいい例ですよね。 それを積み上げていけば、貴方の言うように洗練された戦術になるでしょう。 でも前述したように、古代に一度完成したものが失われ、中世の戦乱の中から出てきたものが近代で完成し、それが結局、古代のものと同じようなものになったのであれば、やはり「退化した」と、いうと思うんですが。(ナポレオンは近代でいいよね?)
モンゴル軍の兵站について (出典 万里の興亡 西野広祥 著) 彼らモンゴルあたりの漠北の遊牧民は遠征に際して馬の飼料を持っていかない。 一人あたり、馬を数頭連れて行くが、人間の食料もほんの少しの乾し肉や乳製品など非常食ぐらいしか持たない。 基本的に食料を馬などに運ばせる、いわゆる輜重に頼ることをしませんでした。 また、輜重に頼ってるようではそんなに遠くまで遠征し戦争することはできません。 モンゴル軍についてマルコ・ポーロは記している。 「彼らは優れた兵士で、戦いのときは勇敢である。他の民族より困苦に耐え、必要とあれば一月でも食料を持たずに走りつづけ、ただ乗馬の乳と狩猟の獲物だけで暮らすこともしばしばである。 彼らの馬は草原の草だけで十分生きて行けるので、大麦、藁、燕麦などを持っていく必要はない。 しかも極めて扱いやすい。彼らは必要なときには武装のまま、馬から降りず、馬も主人を乗せたまま、終始草を食んでいる。・・・」 モンゴル馬は草だけで耐えられる。穀物を食している大型馬にはスピードや持久力ではかなわないが、その分を、モンゴル人は作戦と補充馬への乗換えで克服した。 人間の食物はどうしたか。基本的には乳と肉ではあるが、例えば昼食は、 「各自乾燥ミルクを10ポンドぐらい持っていく。朝方にこれを半ポンド皮袋に入れ、好きなだけ水を加えておく。騎行している間に乾燥ミルクは溶けてパン粥のようになり、これを昼食にする。」 (マルコ・ポーロ) モンゴル人は遠征の際、乳を入れる皮袋、料理するための料理するための小さな素焼きのつぼを持っていく。これで食生活は十分なのだ。 また、草原には動物が以外に多くこれらを狩って食料としている。 その他、危急の場合についてもマルコ・ポーロは記している。 「雨を防ぐための小さなテント以外、道具は何も持っていかない。緊急なときには火も燃やさず、食事もとらず、連続十日間騎行する。そんなときには馬の血だけで飢えをしのぐ。まず血管を切り開き、血を自分の口中にほとばしらせ、満腹するまで飲んで、血止めをしておく。」 砂漠では草や潅木が決して多いとはいえないが、モンゴル馬なら少量で耐えられる。 次の草原につくまでは、あるいは徴発や略奪によって飼料が入手できるまでは、行く先々のわずかな草や潅木を食べさせた。 しかし、草も潅木もない時だって珍しくはない。それが一週間とか十日間にわたったときもあり、人馬ともにぎりぎりの状態で飢えと戦ったという。 人間が十日間ぐらい食わずに耐えられたとしても、馬については信じ難い。 誇張があったにせよ、モンゴル馬ならではの底力というべきだろう。 ちなみにモンゴル馬は小型馬で、ポニーといわれる部類に属す馬で、当時西方に遠征したときも「ねずみのような馬」とあきれられた馬だった。 しかしこの小さい馬だからこそ、粗食に耐え、悪天候をしのぎ、悪路をも克服できたのである。 ということで、リーグニッツに15万いても問題無し?
184 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 13:49
変な文章昨夜いっぱい書いてすまなんだ。 ところで昨日の補足みたいになっちゃうけど 「軍事革命(RMA)」 なんか読んでますと一昔前までなら戦略・後方の概念で語られていた 区域までが、最近戦術の範疇に入れて考えられているんじゃないか と思いましたね。特に「要攻撃」の考え方なんかは。 ま、「精密誘導兵器とITの普及と発展」が前提って書いてあったですけど。 また横道にそれたすまん。
訂正「要攻撃」→「要打撃」
186 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 17:22
それとなんで中世が暗黒でその後の事が「夜明け」→復興といわれる 理由として、どうしても軍事という物が政治や哲学の発展との相互連繋 が外せないからではと私は考えます。実際日本ではルネサンスの哲学者 ・権謀術数の大家として名高いマキャべリですが、軍事史的にも現代の 軍事論の精神の雛型を作った人として有名です。で、そのルネサンスと はキリスト教以前のギリシャ時代を理想として見ていた運動ですよね。 こういう所もスタートラインの再来と、自然とあっちの人は考えるのかなと。
187 :
有名武将@お腹せっぷく :01/12/06 17:42
旧651よ帰ってこい(W
188 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 19:39
>182 勝っても2割3割の損害は当たり前と言われる近世の戦術が「進化」なのか? すまんが自分には理解できない 決定的な打撃力を有し、一撃で決着をつけられる可能性を保証する唯一の兵科である 中世スタイルの重騎兵が16世紀後半に消滅したことにより、 未曾有の大損害を覚悟しなければ野戦に勝利できなくなったのだ これが「進化」か? 大出血を覚悟しなければならない戦術は、むしろ「退化」に見える テルシオは騎兵突撃に対抗するために編み出された隊形であり、 中世スタイルの重騎兵が消滅したことにより、マウリッツのスタイルに「変容」したのだ しかも、マウリッツの編み出した斉射戦術は、単位時間当たりの投射弾量の点から言えば 従来の戦術に比べてそれ程優位に立っている訳ではない 当時からマウリッツの斉射戦術について疑問を抱いていた軍事関係者は少なくない それに、「機動火力横隊」の意味が自分にはイメージできない フリードリヒの斜行戦術は、編み出された当初は火力よりも白兵を重視していた筈だ 戦場での大出血の経験により、斉射を重視するようになっただけだ ナポレオンの陣形は総合戦闘力の発揮において大きな欠陥がある つまり、高練度の兵士でないと実行できない それに、時代も場所も違う軍隊を同列に論ずるのはいかがなものかと思うが、 それ以前にアレキサンダーとナポレオンの陣形に共通点を見いだせない >いやね、「単純に騎兵突撃のみで決定的な成果を上げた戦例は皆無に近い」のはそのとおりなんだが、実際にそれをやって大失敗した人間がいろいろといれば、いくらなんでも学習すると思うんですよ。 >クレシーの会戦なんかはそのいい例ですよね。 >それを積み上げていけば、貴方の言うように洗練された戦術になるでしょう。 すまない、意味が理解できない 古代の戦術で完成し、中世に失われ、近代に完成したものとは何か教えて貰えないだろうか? ちと抽象的で理解できないのだが >183 確かにモンゴル兵は耐久力にかけては高いものがあったと思う 当時の記録にも、モンゴル兵は何でも喰った(一説には人間まで)と記されている しかしながら、1週間から10日も飢えに苦しみながら戦闘に従事できただろうか? 無補給の状態が2週間も続けばどうなるのか? 敵地で作戦行動中に狩猟に従事できる余裕が常にあったとは思えない 戦略機動中ではそれでも良いかもしれない しかし、戦闘中に無補給の状態ではまずいのではないか モンゴルの兵士や馬は耐乏生活に強かっただろうが、 それをすなわち飢えに耐えながら戦ったとするのは曲解だと思う リーグニッツのモンゴル軍が15万だとすれば、サヨ河で戦ったモンゴル主力部隊の 兵力がどれ程か教えて貰えないだろうか? 支作戦のリーグニッツで15万ならば、主力部隊も同程度だとは思えない 自分は5〜6万程度と思っていたのだが >186 マキャベリが作り上げたフィレンツェ市民軍がどうなったかを考えれば、 そんなことは言えないと思う
189 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 19:46
それは当然知ってますけど、こういう物って戦術の実態という現実 だけ見てどうのこうのいう問題以前に西洋人の「ヨタ」みたいなところが あるんじゃないの?
190 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 19:57
>勝っても2割3割の損害は当たり前と言われる近世の戦術が「進化」なのか? 損害率で進化・退化を考えるんですか? >すまない、意味が理解できない 人間てのは学習能力が有るから「封建制」という規制の中でも 経験則を積み上げたら「洗練された戦術」になったてことじゃないの?
191 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 20:18
>190 確かに、損耗率だけで進化・退化を論ずるのは乱暴すぎたかもしれない では、戦術の進化と退化を具体的に説明して貰えないだろうか? >人間てのは学習能力が有るから「封建制」という規制の中でも >経験則を積み上げたら「洗練された戦術」になったてことじゃないの? だから、自分は中世にも「洗練された戦術」は存在したと言ってるんだが・・・・
何か進化だの洗練だの抽象的な言葉が踊りだしてきましたね。
193 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 20:24
そだね、具体的な話がぜんぜん出てこないね
194 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 20:27
つーかさ、188の質問に答えてないね、 188は取り敢えず全部答えてるのに。
んー、具体的とかの話ではなく、 戦術・戦略とは状況・条件に合わせて考えるだけのことで、 時系列的に比較することに何の意味もないと思います。
197 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 20:32
勝っても2割3割の損害は当たり前と言われる近世の戦術が「進化」なのか?
すまんが自分には理解できない
>決定的な打撃力を有し、一撃で決着をつけられる可能性を保証する唯一の兵科である
>中世スタイルの重騎兵が16世紀後半に消滅したことにより、
>未曾有の大損害を覚悟しなければ野戦に勝利できなくなったのだ
>これが「進化」か?
>大出血を覚悟しなければならない戦術は、むしろ「退化」に見える
改めて考えるとここの辺りと重なる事を駄文ながら
>>180-181 に書いた
つもりなのだが、余りの文章の拙さに読んでも頂けなかったのだろうか。
私も良い戦術とは損害率が低い戦術だと考えていた。前までは。
でもそれは全てが同等の軍隊で戦った時の場合だと思う。
前述レスでも同じような事を述べたが、
戦う相手がいてはじめて戦いがある。だから「善」方向の志向性
(戦いの原則)は導き出せるが、あくまで相互に作用し合う相対的な物
物理的な物の考え方をしながらもあくまで「概念的」
それも考えうる一区分時代だけに言える物であり、
それぞれの時代の「最高の戦術」とはそれぞれの時代の答え
としか云えないと考える。
いや逆に「最高の戦術」と言う物があるのならば、未だに
「戦闘教義作成」の為に米軍は何千人も飼わないだろうと
思ったりする。
それとめっちゃ事実関係にくわしい
>>188 氏よこのスレだけでも
コテハンにしてくれないか。
198 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 20:41
197はおれ。
>>194 詳しい非コテハンさんがかなり纏めて(これかなり時間かかってる作業も
あるんじゃないか)くれるのでそれをベースに聞き手に
回ったほうが良さそうな所は回ろうかと。
199 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 20:57
>197
>>180-181 と中世の戦術の因果関係が見出せない
中世の戦術が古代の戦術と比べて具体的にどう「退化」したのだ?
>198
こっちは曲がりなりにも質問には答えようと心がけていた
筆が滑ったり説明不足の部分もあるが、
責任をもって発言したからには責任をもって答える積もりだった
聞き手に回る?
こっちは議論してた積もりだったのだがな
もしかして俺は試されてたのか?
200 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 21:08
197、198は191への返答じゃないです。あくまで188へのレスです。
お互い比較的長文なのでタイムラグが生じますね
>>191 >では、戦術の進化と退化を具体的に説明して貰えないだろうか?
具体的には貴方からそこら中に突っ込みが入るので無理。
ただ貴方の言う「後退した」原因と云えるかなとおもうのは
「比較的平和な机上思考時代の存在」と「軍隊を支える社会構造の問題」
と思います。
201 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 21:13
>聞き手に回る? >こっちは議論してた積もりだったのだがな >もしかして俺は試されてたのか? いえいえ、戦史に関しては年季が入っておられるようでお詳しいので。 べつに試そう等思ったつもりは毛頭御座いません。 戦史に関しては完全に教えていただく立場です。
202 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/06 21:47
>200-201 16世紀後半以降、戦術が「退化」したとするのは言い過ぎだった しかし、この「変容」のきっかけは188でも述べたように 中世スタイルの突撃に特化した重騎兵の消滅にあったと考えている 重騎兵の消滅により対抗兵科である槍兵の比率が減少し、 その結果、火器に大きく依存できるようになったと考える 一撃で勝負を決める攻撃兵科の消滅により、戦闘は銃の斉射の応酬と槍兵の殴り合いによる 延々と続く消耗戦を戦わなければならなくなった これが損害が増加した原因と考える ちなみに、700年から1800年までの間にヨーロッパで10年間戦争がなかった ことは一度もなかった 近世はもっと悲惨で、16世紀に平和が保たれたのは10年間、17世紀では4年間、 18世紀で16年間しかなかった フランスとスペインは、16世紀の間ほとんど常に交戦状態にあった その他の国、オーストリア、スウェーデン、スペイン、ポーランド、ロシア、オスマン・トルコも 戦争状態が常に平和な期間を上回っていた 近世ヨーロッパは、歴史上でも稀に見る好戦的な時代だったと言えるのではないか? 更に、近世において軍隊は要塞への依存と規模の増大を強め、 これは当然社会構造に大きな変化をもたらさない訳にはいかなかった 貴方の言う「社会構造の問題」が何を指しているのか解らないが、 資源の戦争への投入が増大したと考える 自分はそちらの突っ込みは全て受ける積もりだったが・・・・ どうせ匿名だから気にすることはないと思うのだが では、こちらも戦線を縮小しようか? しかし、お互い都合のいいところだけ発言しても 議論は進まないと思うがな
203 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 22:36
「比較的平和な机上思考時代の存在」ってのは 例えば日本の江戸時代の軍学者のような思考。 ただ16C以降のヨーロッパは「善の志向性」を模索 するスピードは他の分野に違わず上昇していたように思えます。 「社会構造の問題」ってのは政治形態の変化を大分に含み なぞったような事云いますけど近代ヨーロッパでの変化として 「中世封建制度→専制君主制→至国民国家への道」 てな形です。中世封建制度の段階については日本の 例を見ても宜しいでしょう。 私はどちらかいうと戦略・戦術概念論好きなんですが、 その醸成過程には言わずもがな戦史を見ることが必要です ただ市販の資料としては貴方の知識ほど詳しく書かれた物など なかなか出会えず。で、資料について執拗に聞いた次第です。
204 :
戦術好きグンオタ :01/12/06 22:47
>自分はそちらの突っ込みは全て受ける積もりだったが・・・・ >どうせ匿名だから気にすることはないと思うのだが >では、こちらも戦線を縮小しようか? >しかし、お互い都合のいいところだけ発言しても >議論は進まないと思うがな 縮小しないでくださいませんか。
すまん。
>>172 を読み直していて、誤解していたことがあります。
>弩兵や銃兵が攻撃準備射撃を行い、槍兵が敵の隊列を圧迫し、突撃する時機と場所と方向を
>慎重に見極め、時には作為し、突撃の際は槍兵や矛槍兵、軽騎兵が進出して突撃の
>支踏を確保し、肩部を掩護し、突撃の失敗に備えて突撃開始線を防御した
>騎兵は、他兵科と独立して単独で突撃機動を行っていた訳ではない
>このような中世の戦術のどこが「暗黒」なのだ?
銃兵が登場し、このような高度な相互の支援、連携を行えたのはルネサンス以降じゃないですか?
いやね、私が暗黒時代と考えてるのはルネサンス以前ですので。
ルネサンス以降、多分貴方の言ってるのは大航海時代以降?あたりまで暗黒時代だなどという気は、まったくありません。
ルネサンス以前でこのような高度な戦術を行えた例を教えてほしいです。
知ってる限りでは、544年のダギネーの会戦で東ローマ帝国軍の戦術ですかね。
でも、東ローマ帝国軍は暗黒時代に陥らずローマ帝国の遺産を保ち続けたので例外だと思うんですが。
それにこのような戦術行動はまさしく理想的なものであるが、それゆえに高い練度の兵を要求し、
それこそ
>>188 での
>ナポレオンの陣形は総合戦闘力の発揮において大きな欠陥がある
>つまり、高練度の兵士でないと実行できない
になってしまうのでは。
それ以上に、そこまで的確に騎兵突撃を実行できる指揮官ていたんですか?
「騎兵が特性どおりに使われた例は極めてまれである。中世以降は4人の天才だけがこの特性を意のままに引き出した。その天才とは、チンギス・ハン、フリードリッヒ大王、ナポレオン、プロシアのモルトケである。」といわれるくらい、騎兵を的確に扱うのは難しいのに。
とりあえず、
>>172 の理想的な戦術展開をした戦例をあげてくれくれ。
騎兵の突撃を絶賛する気持ちはわかりますが、槍兵、銃兵、銃剣の出現などの技術の進歩は騎兵の突撃をそうそう許さないものになったんでは。
まして、騎兵の指揮に関しては、ネイ元帥でさえもワーテルローで失策を犯すほど、きわめて難しく、また騎兵そのものの育成にもかなりの金と時間がかかるため、一度の失敗で二度と再建不能になることもあるんじゃないですか。
ナポレオンとアレクサンドロスの共通点は
「ともに散兵を重視し、遠距離攻撃兵器で敵戦力をそぎつつ主力の縦隊突撃で勝負を決した。
唯一の違いは、アレクサンドロスの敵が彼の戦法を採用できず、最後まで不敗を誇ったのに対して、ナポレオンの敵は自らその戦術を学びそっくり模倣したことだ。」
ということだそうです。
いや、私もうまく説明できないので、かんべんしてください。
リーグニッツの兵力に関しては、貴方に同意です。
言われてみりゃそのとおりだな、ということばかりなので。
資料を、そのまま信じちゃいけないってことですね。
重騎兵の突撃ってのは「誰がやってもある程度効果が出る戦術」 ってな事をその「覇者の戦術」に書いてあったな。そういや。 戦術ってのはそうそう進化できない なぜなら 戦争はその国家の存亡に関る問題なので 新しい戦術を考え導入するという「ハイリスク・ハイリターン」 な物よりも 皆もやってるような戦術を使う「ローリスク・ローリターン」 なほうが気楽だからだ。
>187 呼んだ?1の降臨はないようだけど・・・ ちなみに軍事板にも「限定戦術スレ・最強兵団は?」とか言うスレが立ってたなぁ だれか、例のスレやここに影響されたかな? で中世の暗黒時代とかだが、 私の見解では、一時期、各国諸侯が分立していたころ、1国自体の戦力が低下、 さらに同盟。離反があいつぎ、とても大兵力の連動した戦術が行なえなくなった時期 (ローマの解体からしばらくの間) それを「戦術の暗黒時代」と思っています。 この時期は戦力を用兵に依存する場合も多く、 とてもじゃないが軍全体が統一された行動をおこなうのは不可能・・・ だったのではないでしょうか? そのために必然的に戦術は退化していき、少数でもある程度の効果が期待できる 「重騎兵の突撃」が自然と主要な戦法となり・・・て感じだと思っています。 また戦場に投入された人数のローマ時代以降、激減する時期があります。 この時期は戦闘が組織的戦闘よりも個人的戦闘技量によった戦いになっていたとも思います。 すなわち「戦術の退化」です。 (当然、ローマ以前の数字が正しいとは思いませんが・・・) (私的には、古い記述というのは多分に誇張されていると思います) 私的には記述した側の敵が記述の30〜50%程度、味方が60〜70%程度ではないかと 常々考えているのですが、みなさんはどの程度だと思います?
xこの時期は戦力を「用兵」に依存する場合も多く ○この時期は戦力を「傭兵」に依存する場合も多く の間違い!やヴぁい。やヴぁい・・・マジにスマソ・・・ 両方とも意味が通じるからねぇ(鬱
おっ651さん再登場ですか。
>私の見解では、一時期、各国諸侯が分立していたころ、1国自体の戦力が低下、
>さらに同盟。離反があいつぎ、とても大兵力の連動した戦術が行なえなくなった時期
>(ローマの解体からしばらくの間)
>それを「戦術の暗黒時代」と思っています。
これこれ。こういうのが言いたかった。
651さんも社会的影響による「退化」とお考えですか。なんか気が合いますな。
>戦闘が組織的戦闘よりも個人的戦闘技量によった戦いになっていたとも
なんかは日本の弓騎兵武者時代にもいえることなんですよね
それどころか例えば日本の戦国時代なんかも
数人単位での鉄砲、槍、騎馬武者の「諸兵科融合」の集合体で
場合によれば戦勝よりも優先されるべきものがあり
戦術単位部隊たる組衆の投入というのは我々がよくゲーム等で見る
有名戦国大名が出てきた後なんだそうなんですよね。
これを聞いたときは衝撃が走りましたが。
651さんとは前も話しましたけど現在の様に
「戦術等の合理主義な姿勢を優先して受け入れられる土台」てのは
西洋の場合やっぱり中世の政治発展(階級闘争史観みたいになっちゃうな)
による「国家」の「軍隊」への形成
やそれに伴う軍事の政治からの分離
と密接に関しあってると思う次第であります。だからこそ
マキャベリ(自身創設市民軍隊の顛末がどうだったって問題じゃなく)
彼の提唱した「ルネサンス的」精神による軍事理論が
現代の軍事理論の基礎となっているのかなと。
だから「退化」に対する私の考えとしては
そんな物はなかった
外から見てそう見えるのなら
>>203 の2つの理由等かなと。だって人間は馬鹿じゃないですし。
>「国家」の「軍隊」への形成やそれに伴う軍事の政治からの分離 >と密接に関しあってると思う次第であります。 私は、この変革自体が「敵に勝つためを追求した自然な成り行き」から発生した ものだと思います。 よって、分離したから戦術が進化したというよりも、戦術の再進化によって、 軍と政治の分離が派生し、勝利の為に加速的に広まったのでは? という事で「そうなったから、こうなった」ではなく あくまでも必然性が先ではなかったかと考えています。 (微妙なとこだとは思いますが・・・) で、マキャべりなどは、そう変化してきたものを先取りして、まとめて記述したもの・・・ つまり当時の実際の変化を理論付けただけのものであると考えています。 そのあたりは「ちょっと」グンオタさんとは方向が違うかも(w (グンオタさんは提唱された理論により変化したという解釈でいいですよね(汗) (間違ってたらすいません) PS:私は会社ネッターなので、続きは月曜日でし。 じゃ、また
211 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/07 19:47
>>205 ドリラエウム(1097)、タンシュブレー(1106)、ティールト(1128)、
ブーヴィーヌ(1214)、ローゼベーケ(1382)、アルベド(1422)、
フォルミニー(1450)、フォルノヴォ(1495)、セミナラ(1495)、
ラヴェンナ(1512)、チェレゾーレ(1544)
>「騎兵が特性どおりに使われた例は極めてまれである。中世以降は4人の天才だけがこの特性を意のままに引き出した。
>その天才とは、チンギス・ハン、フリードリッヒ大王、ナポレオン、プロシアのモルトケである。」といわれるくらい、
>騎兵を的確に扱うのは難しいのに。
これ誰が言ったの?
そもそも時代も場所も違えば騎兵の任務も戦術も装備も違う
すまんが、その言葉はナンセンスだと思う
それに、7年戦争でのプロイセン騎兵は駄目駄目で有名で、
その原因は他ならぬフリードリヒ自身にあった
ネーがワーテルローでずっこけた原因は、他兵科の支援を受けられず、
騎兵単独の突撃を行わざるを得ないところにあった
それに、19世紀の重騎兵と中世ヨーロッパの重騎兵は同列に論じられない
時代と場所によって異なるが、散兵の基本的な任務は、
敵の戦闘展開の阻害と我の戦闘展開の掩護、側背の防護、間隙の閉塞にある
アレキサンダーの散兵がこれ以上の仕事をしたとは思えないし、
これがアレキサンダーの戦術の特徴と断ずるにはちと疑問がある
つーか、ファランクスや重騎兵はよく知られているけど、プシロイについては
余り記録が残ってないんだ、これが
ナポレオンは初期の頃は散兵を好んだが、第2次フランス革命戦争以後は
散兵の任務を砲兵に肩代わりさせるようになった
特に前装滑腔銃の時代では、散兵は隊列を組んだ銃兵に対抗できないからだ
>207
古代ローマでさえ、一つの戦場に5万以上の大軍を投入できた例はほとんどない
百歩譲って、大兵力を野戦に投入できなくなったとしても、
それは増加の一途をたどった要塞にも原因がある
要塞に依存した防衛戦略こそが中世ヨーロッパの戦争の姿だった
その数は古代の比ではない
これこそが、カエサルの時代と中世の戦争の最大の相違点だ
ローマ軍にも外国人傭兵は存在した
自分はそれをネガティブには考えていない
当時、傭兵という名称は志願兵と同義だ
「個人的戦闘技量」というが、中世ヨーロッパの重騎兵の脅威は
個人の技量よりも部隊としての戦闘力にあった
少なくとも、騎士文学に登場するような一匹狼的な戦士ではなかった
むしろ、そのような行いを避けることこそが、騎兵の成功につながった
何故なら、そうでなくては騎兵は敵の隊列を崩すことが出来なかったからだ
>209
マキャベリの「戦術論」の数ある欠陥の中でも最悪のものは、
当時イタリアで戦われていた戦争が消耗戦略で戦われていたことに対する無理解にある
しかも、彼が「戦術論」を著した最大の狙いは、彼が個人的に心酔する古代ローマの軍制の
復活にあった
それに、彼は「戦術論」は「実践のための手引き書」だったと自分は認識していた
もし、そうではなくて「予言書」だったのならば貴方の意見に同意しよう
現代の軍事理論に影響を与えたかもしれんが、当時は大爆笑モノだったからな
あと、自分は「変容」と訂正したのだがな・・・・
212 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/07 20:34
言い忘れ >205 >騎兵の突撃を絶賛する気持ちはわかりますが いやね、絶賛じゃなくて、自分が言いたかったのは、 16世紀まで騎兵の主動性を凌駕する兵科は存在しないってことなんだが 確かに槍は騎兵の突撃を難しくした しかし、槍も銃も弩も長弓も、騎兵を戦場で捕捉して駆逐することは出来ない 中世スタイルの重騎兵の存在は、16世紀まで軍の編成や戦術に大きな影響を及ぼし、 重騎兵の消滅した16世紀後半以降、編成や戦術は大きく「変容」したと自分は認識している もし、16世紀以前のヨーロッパで、重騎兵以外に重騎兵を駆逐できる兵科が あったのなら教えて貰えないだろうか? ちなみに、騎兵の対抗兵科は槍であって、銃兵ではない 銃剣も違う
213 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 00:44
>>212 他人の受け売りもいい加減にせんか!!!!
ハァ? ま、いいや ウザいようだから消えるわ
215 :
戦国武将@お腹せっぷく :01/12/08 12:04
176=194=213UZEEE!
216 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 12:25
っていうか 十字軍>三国武将
>213-216 荒らすんじゃねえ
218 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 15:25
まあ、突っ込みが入るからイヤって言って相手の質問にまっとうに答えないで、 「でも中世の戦術は退化してたんです」って頑なに言い張ってる時点で議論が成立しないよな。 そもそも「退化」って言葉自体が無意味だ。
219 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 15:29
戦術と戦略の違いについてお教え願いたい。
220 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 16:20
「戦術」(tactics)戦闘実行上の方策。 一個の戦闘における戦闘力の使用法。 戦略に従属。 「戦略」(strategy)各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法。
221 :
戦術好きグンオタ :01/12/08 17:17
>>218 こんな事書きたかなかったけど君しつこいよ。
コテハンキラーか
それとも前の1が意趣返ししてるのか
>淡々と事実のみで構築された戦史など軍事教育の訳には立たない
>何故なら、そこには普遍的法則に劣らぬほど反普遍的な事実も存在するからだ
や
>戦史から戦略や戦術の教訓を学ぶという姿勢に全く欠けている自分は、
>このような戦史には全く満足できない
とあの方は戦史の細部重視の方。そっちの方にお詳しい
私は違う。戦史の細部よりも戦術の流れの方が好き
で分野違い。
もし論を講じる時に彼の言う通り戦史の一つ一つを例に出して、
彼の方が上回ってる「戦史の知識」によって「反例」を出すだろう、
出されたその論は「間違った論」なのだろうか?
あそこまで詳しい事を書いた資料は見つからない。
史学科の方かも知れない。世史板住人かもしれん。
私が見た限りではそんだけ氏のコピぺ解説以来だ。
だから戦史に関しては彼に任せる格好にしている。
それじゃ駄目か?
返答しろよで返答したら、相手が具体例出せと書いてんだから
そうしろか。
であの方にはあの方で「受け売りすんな」か
そんな事書くんだったらここの1が
「いろいろと戦術を語ってください、初心者でもかまいません。」
って書いてんだからもっと深く参加したら?
であんた
>そもそも「退化」って言葉自体が無意味だ。
って何故なの?教えてくれ。
222 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 17:52
うぜえ奴らばっか。 戦術とか戦略とか本当に解ってんのかと問い詰めたい。 アメリカ軍がなぜたり番に勝てたのか解ってんのか?
223 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 17:54
>222 政治で勝利。
224 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/08 17:55
>>211 >それに、彼は「戦術論」は「実践のための手引き書」だったと自分は認識していた
>もし、そうではなくて「予言書」だったのならば貴方の意見に同意しよう
>現代の軍事理論に影響を与えたかもしれんが、当時は大爆笑モノだったからな
貴方の〜「実践のための手引き書」だったと認識していた〜
というのには何も異論ありません。古代ローマへの羨望という点も。
だが、当時の認識がどうだったこうだったとかいうよりも
場当たり的な面があった物を壱学術に押し上げた
現代からの観点でしかないが
自然科学と社会科学で出来た軍事学の基礎となったという点で
精神的な方向性は評価出来るんじゃないでしょうか。
貴方の批判方法なら哲学のニーチェらも失格ですねえ。
人間何種類か武器がありゃ組み合わせる事を考えますって。
そして「あれは駄目だな。改良しよう」とも。
昨日思い出しましたがどっかのスレで「三兵戦術以前は
有機的な兵科融合が行われなかった訳ではないだろう」
というくだりが書いてあったです。
ただ何が変わったか。私が考えるにそれは感覚に頼り切らない、
それが極れば「自らで新しいパラダイムの構築までを考える」
軍事学という道をひくスタイルを作る方向を作ったことじゃないでしょうか。
>「騎兵が特性どおりに使われた例は・・・
これのもとネタは司馬遼太郎の「坂の上の雲」の日本陸軍の騎兵将校秋山好古が、フランスに留学したとき、騎兵の老教官が言った言葉です。
「覇者の戦術」では騎兵の真価を突撃ではなく迂回機動戦術とみなしており、敵の予想しないところ、備えを怠っているところに奇襲をかけることこそ真の使い方とみなしております。
さて、とりあえずグーグルで検索してみたが、詳しい戦闘経過がのっていたのはラヴェンナの戦いだけでした。
http://plaza4.mbn.or.jp/~tactic/rabenna.html 貴方の言う、突撃前の布石をきっちりうってから突撃するというには、程遠いような。
しかも外交的には何の利益もないようでは、ただの消耗戦では?
それともHPの書き方が悪かったですか?
すみせんが、貴方の推薦する参考文献の書名を教えてください。
それと、疑問に思うのだが、
>反復して突撃することなど容易でないため、騎兵突撃を行うためには慎重で巧妙な
>準備が必要とされた
はずなのに、クレーシーの戦いで、なんだってフランスは突撃バカを繰り返したんだろうか。
それと、話を蒸し返して申し訳無いが、リーグニッツで貴方の言われるように、モンゴル軍2万、欧州連合軍3万で惨敗を喫したなら、どう考えたって欧州連合軍の指揮官はアホ揃いと思ってしまうんだが。もっともモンゴル軍が5、6万ならまあ、仕方が無いと思うが。
騎士についてだが、突撃における破壊力は同時代の決定的な戦力と言われているが、欠点として装甲の重みで早足程度でしか走れないはず。 機動力は通常の騎兵に比べるべくも無い。 ゆえに迂回機動によって敵の後背を取ることはできず、取れる戦法は、正面突撃に限定されたはず。 だからこそ他兵科との連携がものすごく重要になってくるんだろうけど、これってかなりハイリスクな戦術じゃないの? 連携がうまく行けば絶大な効果があるだろうが、ちょっとしたミスで大失敗をやらかしそうな感じなんだが。 ネイのワーテルローの失敗を上げたのは、失敗の原因は、イギリス軍が戦力をたてなおすために、一時退却したとき、だらだらと退却したため、それを見たネイが敗走と誤認したためで、ネイほどの指揮官でも、戦場での失敗を犯すということであれば他のものはなおのこと。 ハイリスク・ハイリターンのいい例のような気がするんだが。
>クレーシーの戦いで、なんだってフランスは突撃バカを繰り返したんだろうか。 長篠で織田・徳川軍が大筒使ったというヨタと同じで 長弓兵の射撃でジェノバド兵が事実上制圧された後に 後方に控える騎士がじれてド兵を押しのけて突撃したじゃなかったけ? これは長弓を装備した他とは「異質」な戦闘集団に遭遇し、 しかも自然の障害によって戦闘正面を限定された為 いつもと戦闘の様子が違い、そんで 「ヤッテシマッタ」んじゃないかと。 しかも長弓による突撃破砕射撃を受けた事による損害じゃなく ダブリンムーアよろしく圧死が多かったとも聞いた。 密集騎馬突撃はむつかしいらしい。 彼のいう「中世重騎兵」はどうなのかは判じがたいが 基本的に防御面は弱く、 また武器も槍級になると振り回すことは難しい よってほぼ固定で突っ込むのが仕事だとも見た。 だとすると余程周りがそれに持ちこむための準備 をしなければならない。 逆説的に準備の前提が崩れたらの例として クレーシーが挙げられてよろしいのではないか わしの下らん説明ですまんな。
>211 >それは増加の一途をたどった要塞にも原因がある 同意します。これの為に野戦行なわれる回数が減ったと思いますし・・・ その結果、としての野戦戦術が退化(停滞?)したというものあるかも・・・ >当時、傭兵という名称は志願兵と同義だ しかし、戦場で合間見えたお互いが同郷の為、戦闘がにぶったという話も聞きます。 さらに、金の為に戦功に走り組織行動を阻害しやすいという話も聞きますので 「傭兵」と一口にいっても、予め軍制に含み長期的に雇う「傭兵」と短期的に雇う傭兵があると思います。 私の指した傭兵は中世の地域諸侯規模の紛争で雇われた(現地徴用?)と思われる短期的アルバイト兵を指しました。 多分、大規模な国家単位の戦争でもない限り、この程度の傭兵が主流であったと考えてます。 (スイス傭兵なんかは中世というより近世にちかいんじゃないかな?) (というか中世末期?) (基本的に私は中世初期〜中期あたりを論じてます。) (末期は近世戦術の萌芽が見られるので、十分に戦術が進化し始めたと考えますので) >「個人的戦闘技量」というが、中世ヨーロッパの重騎兵の脅威は >個人の技量よりも部隊としての戦闘力にあった >少なくとも、騎士文学に登場するような一匹狼的な戦士ではなかった >むしろ、そのような行いを避けることこそが、騎兵の成功につながった >何故なら、そうでなくては騎兵は敵の隊列を崩すことが出来なかったからだ 基本的に同意します。 しかし、これは十字軍などに見られる国家クラスの 十分に騎士(重騎兵)が用意できる状況での戦闘であって、 中世戦争の主流(数的)である領地紛争の場合、 そこまでの戦術行動は行なわれなかったのでは?と思っています。 (そうそう重騎兵の数は揃えられないでしょう) 日本中世(鎌倉時代付近)での領地紛争などでは、集中した部隊管理は行なわれず 氏族単位の運用しか行なわれてなかったようです。 これと同じような規模だったのでは? >それに、彼は「戦術論」は「実践のための手引き書」だったと自分は認識していた >もし、そうではなくて「予言書」だったのならば貴方の意見に同意しよう >あと、自分は「変容」と訂正したのだがな・・・・ 「私の見解では」と書いた通り、別に貴兄に対する「突っ込み」や「反論」というわけではなく、 とりあえず、論争にあたり、私個人の「見解」を最初に述べただけです。 矢張り、最初に自分の基本スタンスを明らかにしておかないと、 論争もへんな方向へ走る場合が多いですから(w
>霧雨さん >騎兵の真価を突撃ではなく迂回機動戦術とみなしており、敵の予想しないところ、備えを怠っているところに奇襲をかけることこそ真の使い方とみなしております。 これが、いわゆる軽騎兵 >騎士についてだが、突撃における破壊力は同時代の決定的な戦力と言われているが、欠点として装甲の重みで早足程度でしか走れないはず。 >機動力は通常の騎兵に比べるべくも無い。 こっちが、いわゆる重騎兵 と考えればいいと思われます。 ただ、重騎兵といっても初期の重騎兵(まだチェインメイル主体でなんとか機動可能)と 中世後半のプレートアーマーで覆われた重騎兵では、またかなり違いますが(w >クレーシーの戦いで、なんだってフランスは突撃バカを繰り返したんだろうか それはバカだったから。。。というのは置いといて 騎士の突撃に対する絶対的な自信(信仰?)と 騎士の誇り(当時の下級兵士である弓兵に貴族である騎士が負けるはずがない) というおごりが原因であったと言われてます。
>>229 俺は騎士戦闘がどっちにも(集団にも個人戦)見える場合があり
絶対数が多い場合などは集団戦に見える傾向があるのかと。(←当然
分部が原の記事を昨日読んでて思った
それと前述した「前提が崩れた」と言う事と共に
「豪胆な騎士たちは友軍の後ろ楯や援軍を待つことなどを軽蔑していました。
遠くから弓矢などで戦うことも嘲りの対象となり、〜弓を初めて使った者に災いあれ、
彼は敵に近づく勇気のない臆病者なのだ。〜という考えが騎士の間では主流だった。」
というような社会風潮的理由もあるのかなと。それに加えて
常識的に考えて鎖帷子+鉄鎧+馬鎧+馬+高級武器をかうのには
工業化社会でない当時は莫大なお金がかかったはず。
どう考えても簡単に数が揃うものじゃない。どんどん消耗できる存在じゃない。
(小領主級が消耗するなんて・・・(笑)
それに戦国時代、朝倉義景が
「高価な武器を買うのならその金で槍足軽を百人雇え。
それが己を守る道と心えよ」
といったそうな。だとすると
集団としては重騎兵の戦術的な効果を利用する意図もありだろうけど、
「俺がやらなきゃ誰がやる、俺が倒してやる」
というようなな個々の騎士の単純な好戦意識も多分にあるのかなと。
ところでsageたまま話しません?
ところで、騎兵の話はいろいろと出ているが、歩兵の話は余り出ていませんね。
ということでスイス槍兵に関する話。
一般的にはファランクスの再来といわれ、
>>178 では
>15世紀以降、スイス槍兵は確かにヨーロッパで軍事的名声を博した
>しかし、その戦術を完全に模倣できたヨーロッパの軍隊は存在しない
>イングランドの長弓戦術と同様、軍制よりも個々の兵士に大きく(しかも過剰に)
>依存する戦術は決して一般化しない
>確かにスイス槍兵の戦術が猛威を振るったのは事実だ
>しかし、これが戦術の「夜明け」だとは思えない
と例外扱いされる始末。
スイス槍兵の特徴で、重要なのは傭兵でありながら、任務を死守すること。
当時の傭兵はいろいろとあるが、だいたいにおいて、傭兵同士の戦いとなると、裏で話をつけて、
戦った振りしてインチキな水増し請求をするのが一般的なのに対し、スイス槍兵は妥協の余地無く戦ったことである。
そして、文字どうり、任務を死守できる歩兵は他にいなかった。
騎士などの貴族階級ならば任務の死守はできるだろうが、歩兵などの平民階級で任務の死守などできはしない。
ヤバイと思ったら尻に帆をかけて逃げ出してしまう。
スイス槍兵だけなにゆえここまで士気が高かったのか?
これは、スイスは傭兵以外にろくな産業が無かったため、傭兵でしか食っていけなかったからで、
また、「自分が不名誉なことをして他の仲間に迷惑をかけることはできない」(スイス槍兵の評判が悪くなれば傭兵で食って行けなくなる)という、誇りと意識の高さからくるものである。
たしかにこれでは他の国が真似しようとしても、そうそうできるものではない。
なんか、軍事板の「限定戦術スレ、最強の白兵戦団は」が弓兵の論争になっています。 ここの方達も参考になるかもしれないので、逝って見るといいかも。 ただし、某研究者も大暴れなので素人にはお勧めできない。諸刃の剣でし という事で、某研究者を読み倒す気力がある人だけGOがいいでしょう(藁
すまん 上げてしまった・・・逝ってきます
>>214 が最後だったんだが、何か他人のレスまで俺のせいになってるな
最後に取り敢えず
>>226 に返答しとく
「A history of the art of war in the 16th century」
Sir Charles Oman著
図書館に行けば、他にも展開図や戦闘の経過の載ってる本が何冊か見つかるだろう
詳細はウザがられるから省くが、まあ認識の違いってとこだろう
もう書き込まないので何でも俺のせいにしないでくれ
実りのある議論を期待します
>>235 >何か他人のレスまで俺のせいになってるな
>もう書き込まないので何でも俺のせいにしないでくれ
>詳細はウザがられるから省くが
だれも貴兄にそんなこと思ってないですよ。どんどん書きこんでください。
邪魔が入った為に「sageたまま話しません? 」と言ったんですから。
>旧651さん
お気に入りにいれてみてますよ「限定戦術スレ、最強の白兵戦団は」 。
ほんと最近AOCでもやったのか某研氏は中世世界に心中してますな。
ちょくちょく三戦板でも見かけるし。装備を語らせたら天下一品、最強ですね。
彼が云ってた「亀甲車、馬で運ぶ」考えた事有りますよ。
要衝を結ぶ幹線でさえ幅数bしかない当時の交通事情じゃ無理ですな
それに速歩より速いとは思えない。
中国等は攻城戦でそんなような物を使ってたが野戦ではどうだろうと思う。
ま、霧雨氏、旧651氏、無名武将@お腹せっぷく氏
どんどん書きこみお願いします。
237 :
ここで途中経過入ります :01/12/13 20:21
やはり攻撃方向は重要だったのでしょうか。 左回りに逃げられると攻撃できないとか。
238 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/13 21:48
左巻きだけに常識が通用しないからね
239 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/13 22:21
>>238 オートマチックのガンだったら方向は修正が少なくてすむが、リボルバーや弓は左へは連射が聞かない。
理由はわかるよね。
あとファランクス等の集団戦はいきなり運用方向を変更できない(盾と武器の持ち替え)。
陣地取りも重要な要素。
>239 リボルバーでもダブルアクションなら方向関係なく連射可能 シングルアクションのいちいち撃鉄を引き起こす型であってもかなりの範囲で射撃可能 西部劇でも見て見なさい。 映画とはいっても、実際にシングルアクションのステージガンを使っている映画も多く その操作自体が可能ということは実銃でも射撃は可能ということ。 弓は同意しますよ。そりゃ当然。弦を引けないもんね。
レスありがと。 いや玉の補充のこと。オートマチックならば弾装を捨てるだけだが リボルバーは左に弾装を出すため基本的に補充できない。 まあスレからすれば、些細なことですね。
>241 そっか補充か。確かに! 一応、6発程度は可って事で それにオートも排莢の方向があるから、撃ちにくいよ。 やけどに注意ですね。 でも左利き用のリボルバーって特注可能だお(w でも、たしかに普通はないよね。
警視庁、機動隊はジュラ盾の使用はありでしょうか。
>>243 軍いたの方のスレと間違えたのですか?
有り有りですよ。ジュラルミン盾で防御、攻撃どちらもやるんじゃないでしょうか。
ヤンキなんかはジュラ盾で跳ね飛ばされてますでしょう。
使い方次第で両横の隊員の力も加える事が出来るのですかな。
機動隊員の方は素手での戦闘(喧嘩?)なら自衛隊員の方よりも強いようです。
(自衛隊板に書いてあった。)
PS やっぱり散兵は使えるような気がする。
敵にとって戦場が「霧が立ちこめた場所」になるようにする為に。
ウザい名無しを追い出したのはいいが、あっという間に廃墟になったな。 誰がこのスレを盛り上げてたのか一目瞭然(藁
246 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/20 01:55
晒しage
247 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/20 01:56
寂れてしまったようなので、このレスの最初のほうの要請があったクレーシーの戦いをやります。 戦闘前の状況 フランス南西部の領有権を巡って開戦した百年戦争が、10年目を迎えた1346年8月、 フランスに侵攻したイングランド王エドワード3世は、輸送船団が早々と引き上げてしまったために補給に支障を釆たすことを恐れて予定を変更し、自軍に友好的なフランドルに進路を転じた。 イギリス軍が進路を変えたために、貴重な時間を稼いだフランス王フイリップ6世は、国内の騎士階級を糾合する一方、ジェノバ人傭兵を集めて、イギリス軍を上回る戦力を集合させた。 フランス軍は北進するイギリス軍の行く手を塞ぎ、エドワードはやむなく進路を変更した。地元の住民から聞き出した渡河点の近辺に、戦闘に通した地形を見出したのだ。 フランス軍が騎士をかき集め、重装騎兵を中心とした軍編成であることを採り当てたエドワードは、フランスの騎兵戦力が自軍を上回ることを察知した。 イギリス軍の兵士は、大部分がヨーマン‥…自由な身分を持つ農民であり、騎士ではない。 もちろんイギリス軍も、国王の家臣団を中心に重騎士隊を揃えているが、数のうえでは、劣勢は免れなかった。 そこで、エドワードは手持ちの歩兵隊を使って騎兵を殲滅する作戦を立てた。 その戦術のためにあつらえたかのような地形の丘が、渡河地点の間近にあった。 そこは帯状に連なる丘陵地で、なだらかな斜面から、広い平野に続いていた。 騎兵が展開して突撃をかけるには最適の地形で、事実フイリップは、平野に布陣した騎兵隊で決着をつけるつもりでいた。
戦闘経過 騎兵を防ぐ秘策 斜面に沿って布陣したイギリス軍は、背後に森林地帯を控え、帯状に隊列を敷いた。 エドワードは直属の重騎士団を左_翼に配置し、歩兵の密集横隊を右翼に配した。 そして、両翼と中央に、長弓を携えた弓兵隊が密集して整列する。 中央の弓兵は約1000人、両翼はそれを上回る数で、それぞれ敵陣に向かっ て、X字型に突き出していた。 さらに、エドワードが陣取る本陣の両翼も、長弓隊が励めている。 親衛隊として温存される重騎兵ともども後方に下がった司令部の後方には、 矢を補給するための荷馳隊が、森を背にして並んでいる。 イギリス軍の渡河地点を見つけ出すのに手間取ったフランス軍が布陣を終えるまでには、若干の時間があった。 イギリス軍歩兵隊はその時間を利用して、弓兵隊の前面に、落とし穴を掘り始めた。 そして、穴の問に丸太を埋め込んでいく。 布陣したフランス軍重騎士隊は、イギリス軍の真意を計りかねた。 確かに、丸太に阻まれては騎兵は使えない。 それならば、歩兵を揉摘すれば済むことだ。 フランス軍の重騎兵隊は、目標を歩兵隊に変更した。 さらに、フイリップはイギリス軍の弓隊が、長弓を装備していることを知らされて、 対抗策としてジェノバ人傭兵を前に出した。 フランス軍の遠距離攻撃を担う傭兵隊は、貫徹力に優れた雪を構えている。 一射あたりの破壊力は、イギリス軍の長弓をはるかに凌ぐ。
射撃戦・長弓対弩 戦いは、フランス軍の側から開かれた。号令一下、ジェノバ人傭兵の弩が、一斉に放たれた。 貫徹力に優れた弩の矢が、イギリス軍の戦列に襲いかかる。 矢を受けた兵士が倒れ、戦列に隙間が開いていく。 対して、イギリス軍の主力をなす長弓隊が、矢をつがえるなり射線を上方に向けた。 弓弦が鳴り、数千本の矢が、一斉に飛翔する。 空を覆うほどの密度で放たれた長弓の矢が、雨となって落下した。 強力な努を構えたジェノバ人傭兵は盾をかざすこともできず、針鼠のように矢を突き立てられて倒れ伏す。 必死に反撃を試みるが、弩の発射速度は長弓よりもはるかに劣る。 傭兵隊が一度矢を放つ間にイギリス軍の矢は五度、六度と襲いかかり、ついに戦力を激減させた傭兵隊は崩れたった。 前衛の弩隊が崩壊し、イギリス軍は照準を、フランス軍騎士隊に振り替えた。前線の騎士は逃れる術もなく、上方から降り注ぐ矢に体を貫かれていく。 騎士の甲宵も、急角度で落下する矢の重い鏃を防ぐことはできなかった。 致命傷を受けた馬が狂奔し、逃げ惑う従兵を踏み潰す。 一方的な戦局に、フランス重騎兵の後衛が躍り出た。 行く手をふさぐジェノバ人傭兵を斬り飛ばし、騎士の集団は、イギリス軍の戦列めがけて突進した。 しかし、落とし穴と丸太の防御策のため、矢の雨を注ぎ続ける弓兵には手が出せない。 騎士の集団は、矛先を歩兵隊に向けて馬腹を蹴った。
重騎兵、敵陣に届かず これが、イギリス軍の作戦の根幹だった。一見無防備に見える歩兵に向かった騎兵隊は、X字形に突き出した弓兵隊の、左右からの集中射撃を浴びせられた。 長弓の速射性能は際立ったものだった。混乱したフランス衛兵隊は、歩兵隊の側面を守るイギリス掛兵隊に進路を振り向けた。 しかし、そこにも長弓を携えたイギリスの農民兵が、X字形の陣形を敷いていた。 左右から浴びせられる矢の雨は距離が詰まるにしたがって激しさを増し、フランス衛兵は立て続けの縦射に切り裂かれていく。 それでもフランス掛士団は、幾度となく突撃を繰り返した。 都合15回に及ぶ突撃が失敗に終わったとき、ついにフランス軍は崩壊した。 ほぼ終日に及んだ戦闘が終結したとき、戦場は日没により、退却するフランス軍の追撃は不可能になっていた。 待機したイギリス衛兵隊に出撃の機会はなく、フイリップは、辛うじて帰還することができた。 当時、絶対の戦法とされていた重衛兵の突撃が、防御に優れた歩兵と、徹底した遠距離攻撃に敗れた戦闘だった。
布陣図 イギリス軍 エドワードV世 約1万 フランス軍 フィリップ6世 約1万2千 ●-落とし穴 森 長弓隊>● ジ 森 荷 長弓隊> 重騎兵> ェ 重 森 駄 本陣> 長弓隊>● < ノ < 装 森 隊 長弓隊> 歩兵> バ 騎 森 歩兵> 傭 兵 森 長弓隊>● 兵 1 フランス軍ジェノバ傭兵のクロスボウ発射により先端が開かれる。 イギリス軍は、長弓隊の一斉射撃で応戦 2 フランス軍の重装騎兵が苦戦するジェノバ傭兵を斬り飛ばして突撃を繰り返す。 しかし、長弓隊の一斉射撃により無駄な死者を増やすのみだった。
戦術の意義 戦術思想は、騎兵の攻撃範囲外から投擲兵器による攻撃を加え、壊滅に追い込むというものだ。 騎兵の長所は、戦略的にはその機動力を生かした迂回奇襲にあり、またその威力を抑止力として活用するものである。 一方、戦術的には速度と合いまった打撃力の発揮によって、敵陣の動揺を誘い、崩壊に追い込むことにある。 騎兵の打撃力は、歩兵の戦列が動揺しているときにのみ発揮される。 エドワードは歩兵の恐怖心を押さえ込み、騎兵の機動力を殺し、打撃力を分散し、長弓兵のキルゾーンへと誘導し徹底したアウトレンジによって粉砕した。 また、射手の腕に頼ることなく、多量の矢玉で公算射撃を仕掛けている。 その射手は自由農民であり、一般大衆の集団であった。 貴族の手に握られていた決戦兵力が、最高司令官から直接支配を受ける、民衆に移行したのである。 個の転換は戦術史の上で大きな意義を持つ。 領地を持ち、郎党を養う封建領主の盟主に過ぎなかった最高司令官が、意のままに動く莫大な兵力を手に入れることになる。
訂正
誤 正
>>250 騎士の甲宵 騎士の甲冑
>>251 側面を守るイギリス掛兵隊 側面を守るイギリス騎兵隊
う、鬱だ。氏のう
255 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/20 23:27
本の丸移しかいな……。 でもごくろうさん。
たまに観に来てるよ。 霧雨さん、お疲れ様 覇者の戦術は素人に簡単に説明するのに便利な資料です。 こういうのこそ、ちょっと戦術に興味あるけど どの本も難しそうだなぁという方にお勧めですな。 でも、もっとこういう本でて欲しいなぁ。 そうしないといつまでたっても裾野が広がらない。 仲間が増えない。
防衛関係者が殆どの軍事関係の物をマルヒにしているからそれをやめるか、 歴史学から左翼色が抜けない限り無理じゃないですか? 両者がタッグを組んだら良い本できるんだろうけどなー。(柘植や三野はおまんま食い上げだ)
>236さん そりゃ最強ですな。 でも、それこそ素人にはお勧めできない本になってたりして(w そうそう、ここらでばらしときましょう。 旧651=軍事板Lans です。はい。 あっちで見かけたらよろしくです。はい。じゃ。よいクリスマスを(w
>236さん 大体、同意できるけど、それができたとして、問題はわかりやすく解説できるかが重要になりますね。 また、素人の軍事知識の欠如は、かなりひどいですよ。 私の知人に、軍事関係に興味あるけど、難しくて何書いてあるかわからん、という人がいます。 歴史群像や、学研M文庫などに興味はあるのだが、理解できないよ、とぼやいています。 私が、それなりに解説してやると、ようやくわかったような気がした、などといってますが、軍事に興味があるといってもこのレベルだったりしますからね。 その上、素人さんは、興味すら持ってくれないこともありますからね。 それでも、何人かの友人に布教(w が成功したけれど、そんなのはごく一部ですからね。 日本の軍事アレルギーが抜けるまでは、なかなか大変てとこですか。
260 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/22 21:45
>>259 軍事アレルギーは同意。 軍事が理解できると軍事ができるはべつもの(軍厨さん向け)。 知識はないに越したことはないが、?が重要。 素人に勧める本は『冒険者たち。ガンバと15匹の仲間』 ここからですね、基本的なことはすべて書いてあるから(W。
261 :
無名武将@お腹せっぷく :01/12/22 23:42
サフルの会戦の戦術に関して語ってくれませんか? 戦術的に意義のある会戦だと聞いたもので・・・
>サフルの会戦の戦術に関して語ってくれませんか? サフル? サルフ(薩爾滸)の戦い(1619)後金VS明のことでしょうか?
>>261 間違ってたらスマソ。
満州鉄騎兵の話かな?
あれは馬の目まで鉄板をおおう重装備だったようですね
サフルの戦い(1619)後金VS明 と勝手に解釈して話を進めます 会戦前の状況 明帝国の遼東鎮に隣接する地域には、かつて12世紀に金を建国した女直(女真)が居住していた。 その中のひとつ、建州女直(遼東付近)のヌルハチは、1583年(25歳)に挙兵して以来、戦えば必ず勝つ用兵の天才であった。 健州女直を統一し、他の女直の諸部を降して参加に加えたヌルハチは1616年スレ・ゲンギェン・カン(英明汗) に即位し対外的に金(後金)と称する女直の国家の成立を宣言した。 後金と明の関係は、交易問題と国境問題のために悪化の一途をたどっていた。 1618年4月、ヌルハチは明のこれまでの非道な行いを天に告発し(七大恨)、遼東の長城を越えて明の撫順を攻めた。 守将の李永芳は降伏し、遼東総兵官・張承蔭が率いる救援軍は大敗した。 両国の長い戦争が始まった。
両軍の兵力 後金の兵士動員数は諸説あり、1万から6万まで諸説あるが、この戦いは後金の存亡を賭けたものだけに、 可能な限りの動員が行われたと推測される。 ここでは2万数千に達するものとみなしておく。 この時期、後金軍はまだ火器を装備しておらず、冷兵器主体の装備であった。 (冷兵器とは火薬を使わない武器のことで、刀剣、槍、弓などで攻城戦用の大型武器も含む) 主力である甲士は、重装備の騎兵で兵士は鎧甲を着用し(馬甲は無し)、弓矢を必ず装備し、長兵として大刀か槍を、短兵として手刀を装備していた。 後金軍の得意とする戦術は、騎兵による包囲と矢を連発しながら行う騎兵突撃であったが、ヌルハチは明軍が使う火器の対策として、重装兵を下馬させ、 徒歩の戦闘工兵として使う戦術を考えていた。 一方の明軍は朝鮮の役を経験した楊鎬を兵部右侍郎・遼東経略に起用して対後金戦争の総指揮を取らせることにした。 楊鎬は遼東や朝鮮での作戦経験のある宿将達を起用した。 しかし、予算不足のために、予定していた10万の集結にその冬までかかった。 そこで戦力補強のため朝鮮とイェヘ(南関、ヌルハチに敵対する女直の部族)に援軍を依頼した。 朝鮮には火縄銃隊が、イェヘには騎兵戦力が期待された。 軍が集結すると47万と号する全軍を4集団に分け半円状の4ルートより進撃し、ヌルハチの根拠地ヘトゥアラを包むように攻撃しようという作戦が立てられた。 実兵力の参加数は明軍88000、朝鮮軍13000、イェヘ軍は2000であり、総兵力は予定の10万に達した。 4個軍は以下のとおり。 ○ 左側北路軍 司令官 馬林 兵力約二万にイェヘの援軍二千を加え、3陣よりなる。 鉄嶺より出発しサルフにて主力の左側中路軍と合流予定 ○ 左側中路軍 司令官 杜松 兵力約三万で、2陣よりなる。瀋陽より出発、撫順、サルフを経由しヘトゥアラへ向かう予定。 ○ 右側中路軍 司令官 李如柏 兵力二万五千 遼陽を出発し、清河を経てフラン路よりヘトゥアラへ向かう予定。 ○ 右側南路軍 司令官 劉挺(手偏ではなく糸編)兵力一万三千に朝鮮軍一万三千を加え2陣よりなる。寛奠(カンテン)より出発しドンゴ路を経てヘトゥアラに向かう予定 このほか、遼陽と広寧に予備軍、楊鎬は瀋陽にて総指揮を取った。
サルフの戦い 明軍の動きに対してヌルハチは、明軍の主侵攻ルートにあたるサルフ、ジャイフィアン山上に築城を開始して防備を固めた。 ヌルハチのねらいは内戦の利を生かした各個撃破である。 明軍の侵攻予定日は2月21日であったが、大雪のため出発を延期しなければならなかった。 主力を率いる杜松は功をあせり、他の軍と連携せずに先に行動を開始した。 彼は勇猛ではあるが文官の統制を聞かないという欠点があった。 3月1日、杜松軍が接近すると、後金の築城部隊はジャイフィアン山に撤収した。 (地形はT字型の河川の左下がサルフ、右下がジャイフィアン山、明軍はT字の上から進軍、という感じ) 杜松は増水した河川を渡れない車営を後方にとどめ、冷たい河を渡河してサルフ山と占領し、1万余の兵を配置した。 彼自身は主力を率いて追撃し、再び渡河してジャイフィアン山を攻めた。 後金の護衛部隊は抵抗しつつ後方のキリンハダに後退した。 8時頃、明軍侵攻の報を受けたヌルハチはヘトゥアラに集結した主力に出撃を命じ、夕刻にサルフとキリンハダをのぞむグレに到着。 サルフを破れば他の明軍も動揺するであろうと見て、夕闇を利用してサルフを攻撃することに決めた。 サルフの明軍は予想もしない急襲を受け、また夕闇の視界がきかない状況のため火器の威力を発揮することができずに接近戦にもちこまれ壊滅した。 サルフの明軍を撃破した後、三方向から杜松軍を挟撃し、これも同じように撃破した。
>>264 うげ、つられてタイプミスした。
サフルじゃなくてサルフです。
申し訳ない。
アブダリ、フチャの戦い 北路軍に勝利し、兵力再集結をさせたところへ、明軍はドンゴ、フラン路より進撃中との報告が入ってきた。 ヌルハチは全軍をヘトゥアラに引き上げ、次の目標を南路軍と定め、右側中路軍に備えてヘトゥアラに4000の精兵を配置した。 左側軍の壊滅を知った楊鎬は、右側の両軍に退却命令を出した。 しかし、南路軍の劉挺には命令が届かなかった。 南路軍のルートは他と比較すると長く、劉挺が慎重で、朝鮮軍の補給が続かなかったこともあって、行軍速度は速くなかった。 2日ドンゴ路においてトボらが率いる後金の警戒部隊500と交戦し撃破した。 この勝利のあと、杜松軍がヘトゥアラに先行しているとの情報が入ってきた。 杜松に功を独占されるのではないかと劉挺はあせり4日攻城装備を中心とした部隊を率いて先行した。 康応乾の部隊、姜弘立の朝鮮軍が後に続いた。 その頃、後金軍の先発隊はトボの敗残兵を収容し、ワルカシの森に潜み、劉挺軍をやりすごした。 劉挺軍は10時頃、ダイシャンが率いる後金の主力と遭遇し、少し後退してアブダリの丘の上に布陣し後続部隊の到着を待った。 ダイシャンはホンタイジに右翼を指揮させて丘に連なる山上から攻撃させ、自身は左翼を率いて西側から進み、後方からワルカシの森の伏兵が襲い掛かった。 三方向からの攻撃に耐えられず明軍は全滅し、劉挺も戦死した。 そのころ後続部隊はフチャの野に駐営していたが、これを知ったダイシャンは小休止のあと、ホンタイジを先頭としてフチャに進み、明軍の後続部隊と対陣した。 この後続部隊は長槍と火器の層をつくってが、火器の射撃が始まったときに大風が吹いて、炮煙が明軍に吹き寄せた。 これを好機として後金の騎兵が弓を連射しながら突撃し、明軍の戦列は突き崩され、総崩れとなった。
戦いの結果 楊鎬が出した退却命令は李如柏のもとには届いた。 副将の賀世賢は南路軍を救援しようと主張したが、李如柏は撤退することに決めた。 李如柏軍は後金の20名ほどの哨戒部隊を見て逃走するほどの動揺ぶりだったが、かろうじて完全な形で帰還することができた。 後金の戦果は明が発表したものだけでも、将校314名、兵士約45870名、馬匹28400頭、兵器の損失は計算不能、朝鮮軍の生き残りは全軍を挙げて後金に降伏。 生還できたものは約42360名であったという。 明と後金の最初の決戦は、後金の大勝利に終わった。 以上、学研の戦略戦術兵器辞典7 中国中世・近代編より抜粋しました。 私見として、後金はヌルハチの見事な内戦作戦と巧妙な作戦指揮によって明軍は各個撃破されいった。 騎兵の戦略的な機動力を十分に生かし、火器に対しては下馬して戦闘する柔軟さも見事。 逆にいうと明軍の作戦が指揮官の独走からつまずいたのはいただけない。 外線作戦において連携無視で、相互支援が失敗するとこういう目にあうという、いい例になってしまっている。
あら?サルフの戦いの後に入れるやつが抜けてました。 たびたびすみません。 シャンギャンハダの戦い 一方その頃馬林軍はシャンギャンハダに進出していた。 2日、その接近を知った後金軍はダイシャンが300の兵を率いて先発した。 馬林は杜松軍の壊滅を知り前夜の宿営地まで戻り、そこで3重の塹壕を堀り、壕外に大砲を配置し、その外側に密集した騎兵を配置するという厳重な陣を布いた。 これを見たダイシャンはヌルハチに援軍の要請を出しつづけた。 第2陣を率いる潘宗顔は1.6Kmほど離れたフィエフン山に陣を布いた。 この日の朝渡河しなかった左側中路軍の車営、騎兵などの残存部隊約2000がワフムに駐営していた。 主力を馬林軍に向けたヌルハチはホンタイジとともに1000に満たない兵を率いてこの部隊を急襲した。 明軍は塹壕を掘り戦車と火器を並べて守りを固めていた。 ヌルハチは半数の兵を下馬させて工兵ととして使い戦車の防衛線を突破し、後続の騎兵によって左側中路軍を完全に壊滅させた。 ダイシャンからの報告を受けたヌルハチは兵を後に残してわずかな護衛をつけただけで駆け付けた。 そして明軍の陣を観察し、近くの山を取り、上から下に攻撃させようとした。 ヌルハチの意図を察した馬林は兵をその山に移動させ、両軍の衝突が始まった。 激しい混戦となったが、勝敗を決めたのは増援の有無だった。 後金軍は戦場に到着したものから続々と戦闘に加わったのに対し、明軍には増援がなく、フィエフン山の明軍は傍観するだけであった。 馬林軍は後金軍の攻撃を支えきれず敗走し激しい追撃を受けた。 馬林は脱出できたが多くの将兵が倒れた。 フェイフン山の第2陣、潘宗顔は勇気はあったが将才なく、交戦中の馬林軍を救援しようとはしなかった。 しかも山中に布陣したために塹壕を掘らず、戦車を並べるだけの防御しかしていなかった。 ヌルハチは馬林軍を撃破した後に、兵力の再結集を行いフェイフン山を攻めた。 対火器戦のために半数を下馬させて先に進ませ、騎乗の兵が後に続いた。 戦車の陰から射撃を浴びせる明軍に対して下馬した兵が突入して戦車を排除し、そこから騎兵が突入し、潘宗顔軍を殲滅した。 イェヘの援軍は中固城まで進出していたが、この敗報を聞いて撤退してしまった。
霧雨さん、ありがとうございます。 ものすごく面白かったです。 まったく知らないことだったので・・・ おまけに会戦の名前まで間違えてるし(汗 しかし、ヌルハチはよく勝てましたね。 戦術の上手さもあるけど天も味方したような勝利だったんですね。
すみません資料は何ですか?
きっちり読んだら資料書いてました。早とちりスマソ。
274 :
無名武将@お腹せっぷく :02/01/02 17:30
hage
保守しとくかのー
ちょっと関係無いかもしれませんが・・・・ 古代や中世で歩兵が隊列を組んで戦うと言う表現を良く聞くのですが これが実際の兵士の動きとして どうなっていたのかと言う事が判らないのです 隊列を組んで戦う事は 兵士の恐怖心や戦力の集中ということに 凄く意味があると思うのだけど 実際に隊列を組んだ兵士同士が正面からぶつかったら 戦闘が行われるのは、その最前列においてのみ行われるのでしょうか? それとも多少なりとも最前列近くの兵士が歩みよって戦闘に参加するので しょうか? つまり前線の方だけ隊列を維持しないで崩した状態で戦うのでしょうか? 自分としては、戦闘が始まったら戦闘の行われている周囲の味方兵士は 加勢しに行くと思うのですが・・・ そうなると隊列は保てなくなるし 実際の戦闘での隊列の維持と戦闘の様子について 「どう感じているか」教えてもらえないでしょうか?
だれもいないんですね・・・・・
久しぶりにレスついてた。 >セサミンさん 崩れるかは一言でいえば時代、地域によって大きく変わります。 古代のファランクスだと私の見ている感じではきつきつに詰めた後ろの兵士、横の兵士の 「押し競饅頭」力を戦力にしている節があります。隣の人間の盾で己の身をかばいます 中世の騎士の打撃力での決着時代をはさんで火力の増大と共に歩兵が「復権」してからだと 効果的に軍隊の持てる能力(機動力・火力等)を効果的に発揮することの為、学校でやるような 一糸乱れぬ「行進」が入ります。銃を撃つ時も「狙いも付けずに前へ一斉に射撃」 戦場で「列を乱す余計な」行動をとれば後ろの下士官に撃たれます。 しかし軍隊の持てる大砲・銃火力が増大し、列を組んで行進していたのではただの的に なってしまう(その他の理由も有る)ので隊列を組んでの戦闘は無くなりました。 どちらにしろ隊列を組んで整然と行動するのは、(士気の低い傭兵の逃亡防止効果)や (隊伍を組む物同士の不安を和らげる)等の効果があったようです。 でもご想像のとうり第一線の人間しか戦闘できません。近世の場合単純な戦力的には 後方の列は意味がありません。でも前述した諸理由でこれがないと戦えません。 しかし日本では隊列を組んで行進はなかった様です。当然崩れます。 幕末に徳川家が西洋の戦術を取り入れようとした際隊形を組んでの行進を見た 軍奉行・高島秋帆は「まるで子供の遊びのようだ」と評しています。
これまでの所 HPを探しまくった結果と 別の掲示板での質問によって 自分の疑問はある程度解明されてきました 隊列の維持は命令伝達や士気の維持、兵士の逃亡などの点から 非常に重要視されていた それゆえ、戦闘は基本的に隊列を組んだまま行われていた可能性が高い この場合も、最前線の一列だけが戦うと言うのではなく後続の兵士は 前の兵士を押す事によって隊列の圧力によって敵の隊列を崩壊させる ために働いていて、決して見ているだけと言う状態ではない ただこの場合にも疑問が残る、それは、隊列の密度についてである 隊列を組む場合、ファランクスなどは「肩が触れ合うくらい」の密集隊形 であったから、「圧力」を発揮するのは容易であろうが そうでない普通の隊列と言うのが一体どれほどの間隔で並んでいたのか? その間隔が「前の兵士を押す」のに適当な間隔でなければ押す事が出来ない この間隔については現在調査中 そして、剣などを振るう兵士の場合 指揮官の判断によって隊列を崩して戦ったりという事もあった この場合に考えられる状態は、兵士がそれまでの戦闘(飛び道具など による攻撃も含む)で「勝ち」を意識して隊列を保っていなくても 逃げ出さないような状態になっていたであろうと考えられる 敗走する敵を追撃する時もたぶん隊列は崩れていたはず 隊列の状態においては、「保つ」か「崩す」の2つの状態のみで 中途半端に前線の方だけ崩すというようなことはあまり考え難い 隊列は崩れ出したら一気に崩れる 今のところ、日本の合戦についてはまだちゃんと調べていないのですが 隊列を組まないで戦った要因を調べるつもりです そう言う考えが無かったのか、士気が高くて隊列を保つ必要が無かったのか 盾などの装備がないので隊列を組んでもそれほどに 効果が得られなかったか 軍団としての集団が小規模であったために、隊列を組んで統制しなければならない ような状態にならなったか・・・ 色々要因は考えられるけど・・・ほんとの所どうなんだろ ゆるゆるとしらべていきます
280 :
無名武将@お腹せっぷく :02/01/27 14:08
( ´_ゝ`)ホホォーー
281 :
無名武将@お腹せっぷく :
02/01/27 15:10 某国O動隊の隊員でござる。6月より海の向こうからの一揆の衆を迎え撃つべくべく猛訓練中でござる。 合戦中はとにかく一人になるな。これにつきまする。隊列を乱さず、中隊・小隊・分隊単位で動き、班長に従い、バディと常に共に いることが強調されまする。まあ、現代によみがえったカエサルのレギオンと言ったところでしょうか。 ところで戦国の一騎がけ、一番やりあたりはやはりおかしいのでは? 一騎の衆に近づく時は威嚇も含めて集団で行く必要があります。一揆から一人でも飛び込んでくればもっての幸いそいつから拘束していくわけです。 戦国と言えどもかなりの集団戦だったのでは?