374 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/21 17:50
民衆の支持を得られないと勝てないな
後北条は民衆の支持率が高かったので
秀吉との交戦が可能だと踏んだんだろうな
なんでもいいが、明、朝鮮軍の将軍は登場しませんな・・・
5人いたっけ?李如松っていう明の武将、副将に董一元。朝鮮水軍の李舜臣。
ほか若干名。
詳しいサイトとか貼って欲しいです。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/21 21:55
>>375
当て字を使うけど、どんどん軽く紹介
李瞬臣・・・説明不要
郭再祐・・・義軍を率いた文官将軍、神出鬼没なゲリラ戦術は日本軍に恐れられた。
推政(イ・ジョン)・・・民の嘆きに応えて蜂起した僧侶将軍、外交にも優れ戦後、家康と講和の会見の使者となった。
権慄・・・海の李瞬臣、陸の権慄と並び称される将軍
高敬命・・・義軍を指揮した文官、息子の従厚、仁厚と共に壮絶な戦死
元均・・・将の器に欠けた水将、開戦当初は敵前逃亡をして、問題となった。
李瞬臣をライバル視し、彼をざん言で失脚させた、
その後、王朝水軍の指揮をとるが連戦連敗のすえ戦死
李億旗・・・李瞬臣の良き戦友、瞬臣失脚後、元均の指揮のふがいなさに憤り戦死
李完(イ・ワン)・・・李瞬臣の甥、ノリヤン海戦で戦死した李瞬臣の死を伏せて指揮をとった。
申粒・・・騎馬を得意とし、女真族を撃破し猛将と言われ、朝鮮国王に期待されたが、小西勢の鉄砲に撃破され戦死
377 :
富良兎ーん:01/12/21 22:00
劉廷
西路軍提督で小西軍と対峙するが交戦はあまりせず。
小西から賄賂を受けていたとされるが真相は不明。
関係書物では頻繁に登場し、日本軍と付き合った期間が
非常に長い部類の将のはずだがこのスレではまだ出てないな。
怪力で巨大な大刀を水車の如く使いこなし、劉大刀の渾名で知られた。
後に後金と明にとっての関が原ともいえるサルフの戦いでは
10万の軍勢を4つに分けた中の1隊を率いる(数は不明だが2万ぐらいか)。
満州軍の圧倒的な戦闘力の前に瞬時に撃破され、軍勢の大半と共にその場で戦死。
378 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/21 22:06
朝鮮水軍亀甲船は後世の創作という話しを聞いたけど、
何処までこの亀甲船の実態は分かっているのでしょうか?
379 :
富良兎ーん:01/12/21 22:14
ちなみにこの軍に付随して朝鮮の援軍が1万人いたとされる。
内5千は鳥銃装備だったとされる。
その後のいきさつにはいろいろあるが
●明の軍監を殺して即座に後金に降伏
●鳥銃隊は1発のみ射撃をするが、2発目を撃つ暇がなく
満州騎兵の突撃で全滅。残り5千は降伏。
●司馬遼太郎作品では、鳥銃の描写はないが
「一瞬で半数を倒され降伏」とあったような。
自分は戦わずにそのまま降伏だと思うけどね。
>>370 蒼き狼シリーズに出てくるのは私も知ってますが、
歴史的に大砲の名前として使われたことはないと思うんだけど。
どーでもいいことでつっかかってごめん。
ところで劉廷ってサルフでけちょんけちょんにやられたイメージが強いんだけど、
実際のところ武将としてはどんなもんだったんだろう?
381 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/22 01:46
>制海権を奪われ、補給の途絶えた日本軍は朝鮮半島で自給自足の略奪行為を
>繰り返し、朝鮮の民衆の怨嗟を買い、占領政策に失敗したとの事。
前スレ読め。
実際はそうじゃなかったってこと。
亀甲船については実在したとしても、こぎてにとって窮屈な構造になっていたりして
舟足がのろく、概要は勿論、戦域を支配できる機動は持ちえていなかった
と考えられている。
また日本が海戦で不利になったのは大砲装備がなかったからではあるが、
当時の大砲では船舶の撃沈は無理。明・朝鮮の装備していた大砲は
ヨーロッパから見ると時代遅れ。当時の明が備えていたフランキ砲は
一世代前のもの。
火矢で火災を起させるのが効果的。
あと、鉄鋼船団が主力になったという意見があるが噴飯物で、そんなものは
存在しなかった。
したがって、朝鮮水軍が日本を破ったのは李舜臣の卓抜した指揮力のたまものと
いえよう。
その李舜臣も日本側が海上で積極的に挑んでいるうちは撃滅も出来たが、
秀吉の通達で海域で決戦しなくなり、港周辺に陸上砲台を備えるようになると
李舜臣の制圧力もなくなった。
結局、制海権というものを日本が失ったことはなく、朝鮮半島
東側の海域の勢力は前後役を通じて日本側にあった。
これは両軍の海戦図の場所を見れば瞭然。
修飾の多い凡百の「学説」などよりも、確実な事実を見極めれば
あの戦役の実相はよくわかる。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/22 04:01
どれが真実かわからんようになってきた・・・
でもそこが面白い。
どなたかこの海戦について良い書籍があれば教えてくれませんか。
383 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/22 12:17
>381
海上決戦の主戦場だけでもないよ。
現存する「倭城」の分布とその縄張りを見ても、
それらがすべて港湾を取り込む構造になっている
ことから、海上の補給線が遮断された事実はない
ことが容易に見て取れる。
しかも、そのほとんどが不利な戦だったと評される
慶長期の築造になるものなので尚更だ。
現在、確認されている倭城の遺構は、慶尚南道を中心に
約30ほど。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/22 17:04
清正の進軍ルートの図を見たこと有るんだけど満州まで進軍してるよね。
女真族とは遭遇しなかったのかな?
ヌルハチはこのころどうしてたんだろう。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/22 18:54
各倭城下には帰順した朝鮮人が百単位の戸数で
城下町を形成していたそうですが・・・
倭城周辺は治安も良くて、
徴税人が少数で行動しても大丈夫だったとか・・・
386 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/22 21:25
ところで日本軍は何故朝鮮水軍の根拠地を攻略しなかったのだろう?
あるいは攻めたけど撃退されたのかな?
その辺について知ってるひといる?
>>386 慶長の役の劈頭、朝鮮水軍の巨済島の根拠地を急襲し全滅させています。
これによって慶長の役は最後まで日本が制海権を掌握しました。
余勢をかって半島西側をまわって北上しようとしましたが、半島南岸の
最西端で李舜臣に反撃され、以降、半島西半分では李舜臣のゲリラ的急襲
に辛酸を舐めます。しかし、東半分は日本の制海。
陸上の戦略として半島南部の征圧がありましたから、前役のように
船団の北上は至上目的でなくなり、半島南岸に長期的拠点を設けて
水軍はその拠点防備に専念したわけで、リスクの大きい敵根拠地
への反撃はしなかったのです。
>>384 清正はいくつかの拠点を陥落させ女真と戦っていますが、
当時はヌルハチは満州を統一しておらず、満州の戦国時代
であったわけです。満州は人口の少ない地域でしたから
清正の数千人の部隊でも容易に席巻できたたようです。
(ただし途中に守備兵を点在させつつだったから実質は
前線に進軍したのはせいぜい1000人程度だったのではないか)
おそらく朝鮮人を間に立て、女真人と交渉した結果、
「40万の兵を率いて反撃する」
とかれらは脅したらしいです。
これを聞いてすごすごと清正が引き上げたと唱える人は清正嫌い、
と判定されるわけです(w
実際は、かの地は寒冷で土地も収穫がなく、魅力に乏しい
ゆえ経営には向いてないと察知し、拡大した戦線を収束する
意味もあり、長く逗留せずに引き上げています。
今見ても分かりますが、清正が進んだカンキョウドウは山ヶ多く、
気候的にも日本人には住みにくく、朝鮮でも最も魅力に乏しい
地域です。
この辺は清正の軍事政略家として敏感なところだと判定します。
389 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 05:08
387>>さんに質問
李瞬臣が戦死した戦いで島津軍はぼろ負けしているけどあれはどこで戦闘がおきたのですか?
390 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 06:39
>>388 どうでも良いけど、清正は満州まで進撃した時、
小西とちがって大きな戦いはしてないよ。
清正オタは過剰評価するよな。
391 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 06:44
清正さんは戦争屋としては過剰評価な気がするが内政家としては過小評価されてますなぁ。
コニタンよりうえじゃないですかね?
392 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 06:54
>>391 確かにそう思う。
しかし、外政は・・・
朝鮮役で大唐に十ヶ国拝領すると張り切ったり。
朝鮮国内でもいろいろ外交の問題を起こしたからね。
秀吉の強硬主義の代弁者だったんだろうけど、清正自身もその気だったろうと思われる。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 07:02
もう一つ言うと清正は豊臣家の家康対策について「持従論」だったんだ。
どういうものかと言うと、
家康が生きている間は豊臣家の政権回復は不可能だから、家康の死後に太閣恩顧の大名に働きかけて政権回復を狙う。
というもので、こういう考えを淀君たちに説いてたのが
彼らの認識不足をさそい豊臣滅亡に繋がったんだと思う。
>>390 大きな戦いという意味では、小西の前には明の反撃主力軍が直面。
清正の進出したオランカイはハッキリいって人口閑散の場所。
「大きな戦い」など起きるわけないでしょう。当然ですよ。
しかしいくつかの戦いは展開。
そんなことより豊田ナントカというおっさんの気の触れたような
反清正本が出ていますね。ああいう人が歴史観を混乱させます。
>>389 ボロ負けですか。w
前スレ読んでください。いろいろと書いてあります。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 17:09
>>393 その清正の持従論ってのは
あくまで、清正が家康が死に、自分が生きてれば
豊臣家の政権回復は可能だと目論んでたわけで、
淀君の状況も何もわかってない強硬な考えとは違うんだよ。
実際、清正が生きてて家康が死んでたら、面白かったと思うよ。
加藤清正は政治家?
399 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 17:25
>>398 むしろ、槍働きより政治家としての面が大きいだろう。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 17:30
400
401 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 17:36
>>399 うーん、前田利家も若い頃は自ら槍を取って首をあげたほどの武士だったが、
次に武将、晩年は家康と張り合った政治家になった。
それと清正は似てる。
>>401 現代の会社員でも、20代と50代では職場の役割が違って当然だよ。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/23 18:06
>>402 まあ、そうだけど、ブルーカラーの人が年齢を経ても
必ずしもホワイトカラーになるとは限らないけどね。
404 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/24 07:30
なるほど
405 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/25 13:08
政治家というより、国際関係で比べれば、清正より小西の方が上じゃないか?
あっちは武将だが、行長は商人出身だし。
馬鹿正直に講和を続けたのもわからないでもない。
結局、明軍に裏切られてピョンヤンとられてるけど。
李瞬臣は元々陸将だったというのは本当ですか?
407 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/26 19:56
日本側の「実際に倒した人数の戦果」で大きいのは、なにがあります?
408 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/27 07:21
409 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/27 12:19
408>>
元々、陸軍の将です。
北の国境で活躍していました。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/27 13:49
そうそう。
で、女真族の首領を射殺したんだけど、上司にうとまれて、
一兵卒に格下げ。カワイそうな李舜臣♪
411 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/28 00:45
朝鮮の世界に誇る国技は”弓”なんだよね。
実際、現代でもオリンピックで韓国は男女ともにアーチェリー競技で
金銀銅独占なんて事をしょっちゅうしてる(3位にアメリカか北朝鮮が入る程度)
鉄砲が朝鮮に伝来した時も、
「鉄砲は音は大きく、天候が悪いと使えず、50mくらい接近しないと当たらない上、連射できない、
しかし、我が国の弓の練達者なら200m離れたところから、敵を倒し、一分の間に5.6発発射可能である。」
というわけで、鉄砲は武器保管庫にお蔵入りになったそうだ。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/28 06:19
東郷提督は李舜臣に心酔して彼の戦術を研究した結果、日本海海戦に勝利したらしい。
平八郎曰く、自分はネルソン提督には比肩するが李提督の足元にも及ばないそうな。
司馬さんが書いていたけど本当だとしたら皮肉な話だね。
413 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/28 14:53
>412
「李舜臣に完敗して補給を絶たれたのと、全朝鮮人を敵にまわしたのが敗因。」
ということにしておけば、西国大名に都合がよかったからではないだろうか?
上の >381で述べられてるが、海上補給は途絶えてなかったのが本当らしいしな。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:01/12/28 20:48
李成桂はその頃どうしてたのですか?
415 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/01 01:58
414>>
あの世で織田信長と仲良く観戦。
416 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/01 02:03
>>412 日本海海戦の頃の朝鮮人達が余りにもやる気無かったから元気づけるために
「李舜臣将軍の足元に及ばぬ」
って言ったんだよ。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/01 02:15
>>416
ソースは?
418 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/01 02:22
419 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/03 17:42
結局、当時の日本の統治法と、朝鮮の統治法、どっちがすぐれていたんだ?
ずいぶん朝鮮は腐敗していたようだが………
420 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/03 19:42
421 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/04 02:56
>>420
仕方ないんじゃないか?
422 :
◆NVB29RlM :02/01/04 02:57
あ
423 :
◆n/1XGV06 :
q