ノモンハン事件を検証する [転載禁止]©2ch.net

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@お腹いっぱい。
 モスクワは間一髪のところで陥落を免れた。一二月第一週にはドイツ軍がクレムリンから三五キロの
地点に迫っていた。ドイツ軍将校の双眼鏡でモスクワの主要な建造物を確認できる距離だった。先導し
ていたのは装甲部隊である。一二月五日から六日にかけて、ジューコフは集中攻勢を仕掛けた。主力は
「シベリア兵」からなる部隊。ソ連極東部から送り出されてた新来の予備兵力で、そのなかにはノモンハ
ンで彼自身が指揮した部隊も多数含まれていた。ノモンハンよりも危機的な状況に陥っていたが、ジュ
ーコフは当時と同様の諸兵科連合戦術を、今回はもっと積極的に採用した。その結果ドイツ軍を約一六
〇キロ後退させることに成功し、冬季の間、ドイツ軍をその地点に釘付けにしたのである。まさに食う
か食われるかの戦いだったが、完全な冬季装備の予備兵を東部から送り込んだことが決定打となった。
一九四一年一二月にソ連を訪問したイギリス外相のアンソニー・イーデンによれば、スターリンはこの
とき彼に、「最近の戦局好転は、新たな援軍を導入できたためだ」と語ったという。
 ジューコフが大反抗を開始した翌日、日本は真珠湾を攻撃した。ドイツはアメリカに、アメリカはド
イツに宣戦布告し、アメリカは太平洋とヨーロッパの戦争に巻き込まれることとなった。この週は第二
次世界大戦の転機を画す、枢軸国の運命を決する一週間であった。
 だが日本の軍首脳部が一九四一年の段階で、ノモンハン事件以前と変わらず赤軍を過小評価していた
とすると、事態はまったく違う方向へ進んでいたことだろう。もし一九四一年七月または八月に北進が
決定されていたなら、おそらくソ連は崩れ去っていたと思われる。日本軍はソ連軍を撃破する必要すら
なかったのではあるまいか。アジアに長大な戦線が存在することだけでもソ連には重荷になったろう。
一八個もの師団に加え、戦車一七〇〇両、軍用機一五〇〇機をヨーロッパの戦場に移動させるなどとい
うことは不可能だったはずである。それだけではない。戦争を遂行するうえで、ソ連極東部は貴重な経
済的貢献を果たしていた。独ソ開戦の初年に西部の産業が壊滅的な被害を受けたことに鑑みれば、その
重要さのほどがうかがわれよう。一九四一年のモスクワ攻防戦も、また四二年のスターリングラードの
戦いも、ソ連にとっては薄氷の勝利だったのである。難敵の日本が極東で猛攻を加えたなら、戦局はき
っとソ連軍の不利に傾いたであろう。一九四一年から四二年の段階で二正面作戦を強いられたとすれば、
ソ連は存亡の危機にさらされたはずである。ソ連軍の将官を含め、そのように考える軍事研究家は少なくない
<ノモンハン1939 スチュアート・D・ゴールドマン みすず書房>

 加えて「ソ連がドイツと不可侵条約を結ばねばならなかったのは、英仏がドイツに譲歩してドイツ軍が
ロシアを攻めるように誘導したことに、ソ連としてやむを得ず対抗する必要があったからだ。ソ連はアジア
で日本とも対峙せねばならず、ドイツと戦争する余裕がなかった」とも主張した。プーチンはまた「英国が、
ドイツが攻めてきたら英国が対独宣戦布告してやるから頑張ってドイツに対抗せよとポーランドをそそのか
したのが大戦の一因だ」とも示唆した。
http://tanakanews.com/100611russia.php

長期的にはソ連指導部の読みが当たる
 常識的には実にもっともで、長期的にはその読みが当たることになる。ヒトラーは、十分な冬支度もせず、
ソ連の工業力と国土の広大さ、補給の困難を軽視し、無理な二正面作戦に踏み切るが、結果は周知の通りだ。
 連戦連勝だった独軍は、自信過剰に陥っていた。当時、ソ連機甲師団の実力をいちばんよく知っていたのは、
ノモンハンで手痛い目にあった日本軍だったかもしれない。
http://jp.rbth.com/arts/2013/06/22/43719.html

実はこのルート、米英からソ連に渡った補給物資の半分以上が使ったとも言われているそうだ。
太平洋にはドイツ海軍がいなかったので、安全だったのだろう。
http://ameblo.jp/kimipogo/entry-11212949404.html

邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、
対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、
トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、
http://yhsvtex.blogspot.jp/2007/06/19417172311946384777614062-30003.html
2名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/13(木) 21:46:31.37 ID:gfM84pvs
05.10.2013, 22:07
Kobis17
俺が当惑してるのはさ、どうしてアメリカ人はほぼ全戦艦隊を護衛艦もなしであんな平和な港に停泊させといたんだ、ってことだよ。
アメリカの上層部はこういう攻撃を全く予想できていなかったの?日本から攻撃はないって確信してたの?
普通に考えて、アメリカなら日本にスパイとか諜報局員とか送り込んでるはずでしょう。なんでこういう行動の兆候すら捉えられてないの?
1940年にはイギリス人がタラント空襲で、どうやったら1艦隊をたやすく沈められるか実証してるじゃん!
参考:タラント空襲とは第二次世界大戦中の1940年11月11日から12日にイギリス海軍が行った空母艦載機によるイタリアのタラント軍港
に対して行われた航空作戦でMB8作戦の一部として実行された。この攻撃でイタリア海軍は戦艦3隻が大損害を受けたのに対し、
イギリス側の損害は雷撃機2機のみであった。(ウィキペディア)
日本の艦隊は太平洋を何千キロも渡ってきてるんだぞ?それなのにアメリカはず〜っと気付かなかったのか?
これが事実だとしたら、確かにアメリカ軍の高慢か、真珠湾を戦争介入の口実にしようとした巧妙に練られた陰謀しかないな。
http://blog.livedoor.jp/trans_vienna/archives/7159997.html

地上に生き残るための戦い
 なぜ対戦相手、参戦国、または戦争地域のことを示唆しない、大祖国戦争という名称がロシアで使われているのだろうか。
ロシア人やソ連諸国の人民にとっ て、この戦争は祖国の戦争以外の何物でもなかった。自由と祖国の独立を求めた戦争であり、
生き残るための戦争だった。
 ではなぜ頭に大がついているのだろうか。それはこの戦争の勝利には多くの国が貢献しているものの、ソ連がドイツ国防軍を
倒した中心国で、その役割を強調しているからだ。ドイツ軍はソ連軍との戦いで、1340万人中74%にあたる1000万人を喪失した。
 アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。
「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」。
 ロシア人がこの勝利を誇りに思い、多くの戦線のひとつととらえたがらないのは当然のことだ。そしてドイツとその同盟国であるイタリア、
ルーマニア、クロアチアが84万人を喪失したスターリングラード攻防戦と、ドイツとイタリアが3万人を喪失したエル・アラメインの戦い
が同レベルの戦いと見なされることを理解できないでいる。ヨーロッパ諸国の多くの歴史教科書では、第二次世界大戦としてこの2つの
戦いが同等に扱われている。
http://jp.rbth.com/society/2013/05/09/42899.html
3名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/14(金) 20:22:28.16 ID:2pIlCgeb
円匙でBT戦車の主砲を殴る→照準が狂って当たらなくなる
円匙でBT戦車の機銃を殴る→銃身が曲がって撃てなくなる

本当に戦車と格闘してるんだよ。
日本の兵隊さんは大変だ。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/15(土) 00:26:10.80 ID:RhTha+xe
>>2
確かに日本が真珠湾奇襲を考えたのは、タラントがキッカケ
でも、ただ、真珠湾の水深の浅さに油断していた
真珠湾の水深は12メートル、当時の航空魚雷は、投下時に50メートル潜る為、
航空魚雷は使えないとアメリカは考えて、魚雷防御網等の防備も怠った
しかし、日本海軍は、魚雷に着水時に外れる小型の羽を付けて攻撃を可能した
日本の技術の勝利だね
5名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/15(土) 10:43:27.80 ID:wGafhpVc
>>1
邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、
対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、
トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、
http://yhsvtex.blogspot.jp/2007/06/19417172311946384777614062-30003.html


これこそが北進説は末端の威勢か虚性のような現実離れした実現性を伴わない底床であったと証明してる。
それこそわずか正規師団の装備は数個師団で残りは憲兵と予備役数十万だった日本は北進してロシアと応戦する戦力以前であって
そもそもシベリア報復侵攻ですら当時極東だけで100ミリ以上の主砲を3000門以上配備してたロシアに対し日本はそういう装備が1000門もなく一切北進出来なかった。

1941段階でもロシア極東対日本の装備は10倍の開きがあり
満州と比べれば装備の差は40倍だ。しかも訓練を受けた正規予備役の人数は満州で10~15万。日本で30~40万程度であり。日本の全正規予備役の数がロシアの正規予備役のかずに劣ってる。

当時の日本陸軍は防寒対策はロシア以上に優れてたが、北進以前に満州防衛をするためのジープすら不足していて
ロシアがドイツに戦力振り分けても尚不利で防戦一方だったんだよ。
ノモンハンだってあのまま続いて勝っても基本防戦だったしね。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/15(土) 18:16:41.60 ID:s7Eczrq2
― あなたは、「ノモンハン事件」を知っていましたか?
 つい、声をかけると、彼女たちはまず眉をひそめ、こちらの真意をはかりかねる、といった笑顔を精一杯つくってこう問いかけてくる。
 ― それは何ですか?
 どうも話が噛み合わない。そもそもこのファイルは「ノモンハン事件」文書ではないか。
 通訳のイーゴリがあわてて間に入る。そして、ロシア語でひと言ふた言。
 そのうちに彼女たちは了解とばかりにこちらに向かってうなずいた。
− あのね。こちらでは「ノモンハン事件」とはいわないんですよ。イーゴリが、地下鉄の駅に向かう帰路の途中で教えてくれる。
― 「ハルヒンゴル戦争」つまり「ハルハ河戦争」という感じですね。そう呼ぶんです。
これは、ショックだった.同じ戦いであるのに、彼我ではまったく呼び名がちがうのだ。日本では「事件」だが、こちらでは「戦争」だ。
しかも戦場だと認識していた地名「ノモンハン」と「ハルハ河」では、場所までちかうではないか。この落差はいったいどうしたことだろう。不安になる・・。
イーゴリに別れを告げ、アパートにとって返すと、にわか勉強のために日本から持ってきた「ノモンハン事件」に関する書籍を開いてみた。
 1939年5月。モンゴル人民共和国(以下、モンゴル)と満州国(いずれも当時)の国境地帯で起こった凄惨な戦いを、日本では「ノモンハン事件」と呼ぶ。
 敵対したのは、モンゴル・ソビエト連合軍と満州国・日本連合軍である。
 あれから60年以上経過した現在、日本の資料書籍のほとんどは、歴史教科書ももちろん、いまだに「ノモンハン事件」と記している。しかし、
この戦いの一方の当事国においては、このような呼称はまったく通用しない。彼らはそれを「ハルヒンゴル戦争」すなわち「ハルハ河戦争」と記憶しつづけているのである。
 「ノモンハン事件」と「ハルハ河戦争」の間―。
 そこには、単純な彼我の呼称の問題ではすまされない認識の隔たりが感じられる。・・・
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-426.html
7名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/15(土) 19:31:47.60 ID:vRKsfau4
>>1
まずは、ノモンハン事件を語るのであれば、
1.満州国としての独立を果たしたかの経緯。
2.日本の関東軍と満州国との関わり。
3.満州国軍とモンゴル軍との国境争いの原因。
4.ロシア軍がなぜ満州国に介入したかの考察。
これらの説明がなければ、ノモンハン事件は誰も意見を述べられない。
いたずらに、歴史を語っても素人のたわごとですよww
8名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/15(土) 19:36:59.49 ID:vRKsfau4
文章というものは、長いとだれも読まない。
簡潔に短い文章でまとめないと、読まないからねww
論文じゃないんだから。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/25(木) 18:23:03.30 ID:cmxgdZen
人間の気持ちというものを考えれば簡単に想像がつくことだと思うが、どの連合軍兵士にとっても
5月8日以降の死は全部ムダ死にで、当然、戦場でも著しく消極的になっていった。
沖縄戦に参加したアメリカ人やイギリス人は、「ひどい不公正だと感じた」と言い、空でも陸でも
「自殺攻撃」してくる日本人をみるたびに、「なんでこいつらは親玉のドイツ軍が降伏したっていうのに、
まだ戦争をやりたがるんだ」と考えたもののようだった。
なんのために?
日本人からみれば、(当然だと思うが)民族の力を傾けて華々しく、アジア人同胞のために、
少なくとも初期には互角以上に「白人」と戦ってみせたつもりの太平洋戦争は、アメリカ人や
イギリス人にとっては、ナチと四つに組んで戦っているのをいいことに、後ろから襲いかかっ
てきた卑怯者との戦争にしかすぎない。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/

>アメリカ人やイギリス人にとっては、ナチと四つに組んで戦っているのをいいことに、

地上に生き残るための戦い
 なぜ対戦相手、参戦国、または戦争地域のことを示唆しない、大祖国戦争という名称がロシアで使われているのだろうか。
ロシア人やソ連諸国の人民にとっ て、この戦争は祖国の戦争以外の何物でもなかった。自由と祖国の独立を求めた戦争であり、
生き残るための戦争だった。
 ではなぜ頭に大がついているのだろうか。それはこの戦争の勝利には多くの国が貢献しているものの、ソ連がドイツ国防軍を
倒した中心国で、その役割を強調しているからだ。ドイツ軍はソ連軍との戦いで、1340万人中74%にあたる1000万人を喪失した。
 アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。
「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」。
 ロシア人がこの勝利を誇りに思い、多くの戦線のひとつととらえたがらないのは当然のことだ。そしてドイツとその同盟国であるイタリア、
ルーマニア、クロアチアが84万人を喪失したスターリングラード攻防戦と、ドイツとイタリアが3万人を喪失したエル・アラメインの戦い
が同レベルの戦いと見なされることを理解できないでいる。ヨーロッパ諸国の多くの歴史教科書では、第二次世界大戦としてこの2つの
戦いが同等に扱われている。
http://jp.rbth.com/society/2013/05/09/42899.html
10名無しさん@お腹いっぱい。
◆ソ連の極東政策
 ソ連の西部国境は比較的平穏であったのに対し、同時期の極東の国境では、
熱い外交的・政治的紛争が、直接的軍事衝突の形をとりつつあった。
 最初の軍事衝突は1929年の夏から秋にかけて、北満州で勃発した。その原因
となったのは東清鉄道であった。1924年のソ連と中国北京政府の条約で、東清
鉄道はソ連と中国の共同管理下に移管されていた。しかし、1920年代末までに、
中国管理部はソヴィエトの専門家により排除され、鉄道とその支配下の部門は事
実上ソ連の所有に移行した。このような事態になりえた要因は、中国の極めて
不安定な政治状況であった。1928年、中国全土の統一を目指す蒋介石政府が権
力の座につくと、東清鉄道を軍事力で取り戻そうとした。
 軍事衝突が発生した。ソヴィエト軍は中国領内で、軍事行動を開始した中国
国境守備隊を粉砕した。
 同時期、極東では日本という戦争を煽る強力な源が台頭した。1931年に満州
を占領した日本は、ソ連邦との国境線に接近したが、当時のソ連の所有下に
あった東清鉄道は日本が支配している地域にあった。日本の脅威は、ソ連と中
国の外交関係を復活させることになった。
 1936年11月にドイツと日本は反コミンテルン協定(日独防共協定)を締結、
その後同協定にイタリアとスペインも参加した。1937年7月に日本は、大規模
な中国侵略を開始した。このような状況下、ソ連と中国は相互に接近し、1937
年8月に不可侵条約が締結された。条約締結後、ソ連は中国に技術的・物質的
援助を行った。戦闘では、ソヴィエトの指導員や志願飛行士が中国軍側で闘う
ことになった。
 1938年夏に、日本軍とソ連軍との軍事衝突がソヴィエト・満州国境で始まっ
た。日本側にとっては、最初の偵察戦闘であった。結果としてソヴィエト国
境を占領できないと思われたものの、日本軍は1939年5月にモンゴル人民共和
国内のハルヒン・ゴル川域へ侵略した(ノモンハン事件)。ソ連には1936年にモ
ンゴルと締結した相互援助条約があった。その任務にしたがって、ソ連は軍隊
をモンゴル領内へ進めた。

ロシアの歴史〈下〉19世紀後半から現代まで―ロシア中学・高校歴史教科書
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4750334162.html