日本は北朝鮮とおなじ?

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8モルデカイ・モーゼ
 最近、日本でいろいろ比較文化論的にユダヤ人と日本人を対比した論調が出回っているようであるが、
それらはいずれも軽佻浮薄なものばかりのようである。もっとも、それらは若い同胞やユダヤ人の仮面を
かぶった日本人の書いたものであるから、その程度のレベルにとどまっているのもむしろ当然かも知れ
い。たとえば、イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏もその一人かも知れない。彼は、日本の戦後史の非連続
性を嘆くかの如きポーズをとり、日本人の小善人的な性質をくすぐり、日本の病理は指摘しつつも、我々の
犯した過誤に頬被りしようとしている。しかし、日本の戦後史は、我々ユダヤ人が過去の過ちを真摯な態度
で告白しなければ解明できない性質のものなのである。
 私は、今後末永く日本人と親しく友好関係を保たせていただきたいと心から願うものとして、日本の戦後の
歴史的非連続性、いいかえれば何故戦前の理想的な数々の長所が失われたのか、そのために真の日本歴
史の構築を阻まれている日本人の深い苦悩からの脱出をお助けするために、これら病巣のルーツを解明す
る作業を進めたいと思うのである。それはまた同時に将来我々ユダヤ民族の理想を追求するときにも再び大
きな助けとなるであろうと信ずるからである。
 ハーマン・カーンの『21世紀は日本の世紀』、最近のエズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』など
は哀心よりの親日的な論調であることは日本の皆様もご理解願えると思う。しかし私にいわせれば、これらの前
にどうしてもしておかなければならない大切なことがあるのである。それをとばして今後の日ユ親善はあり得ない
と思うのである。もしユダヤ人が最も大切なことに頬被りしたままで日ユ親善を求めるなら、それは間違いなく失
敗に終わるであろう。
 私は今後の末永き日ユ親善のためこの筆をとったのである。この拙稿がささやかな日ユ親善の礎となれば望
外の喜びである。

ユダヤ人こそ日本人から学ばねばならない


日本における近ごろのユダヤブームの特徴は、比較文化論的にユダヤ人と日本人を二元論的思考で対置し、大抵
の場合、ユダヤ人は頭がいい民族である、日本人も学んだらどうか、というパターンのようである。そこでは、ユダヤ
人がさも自慢げに、タルムードその他の宝典から都合のいいものを抜き出して得意然として高説をぶつ、というパター
ンが多いようである。これに対して日本人は、お説ごもっともと謹しんで拝聴しているが如くである。この光景を見てい
ると、ユダヤ人が先生であり日本人は常に生徒ということのようである。
 また同時に、文化的、歴史的、思考的、感覚的特徴を二元論的に対置して比較するほとんどのケースは、ユダヤ的
なものを主役としているようである。私から見た場合、日本にいる若いユダヤ人が以上のようなことで得意然となってい
るのであれば、わがユダヤ民族の将来も決して明るいものではないという気がする。と同時に、黙って拝聴している日
本人の謙虚深さにむしろ敬意を表さなければならないと思う。

私は、逆に、ユダヤ人こそ日本人から真に多くのものを学びとらねばならないのだということを、若いユダヤ人に教える
義務があると信ずるものである。日本にいていろいろと著作その他で活躍しているユダヤ人は、戦後の日本しか知らない
のである。しかし、真の日本の世界に冠たる長所は、残念ながら戦後の日本にはもはやないのである。ということは、戦前
までの日本には存在したということである。
 この事実を全く知らずに若いユダヤ人達は、日本でさも得意顔で日本のウイークポイントと思われることを槍玉にあげて
優越感に浸っている。私が悲しむのは、これら若い世代のユダヤ人達が自分達ユダヤ人の理想とするものが何であるか
さえ知らないということだ。そのような状態であるから、彼らは自分達ユダヤ人の真の理想とするものが戦前の日本にあっ
たということなど全く知る由もない。日本人が黙って君たち若いユダヤ人の能書きを拝聴している理由がわかったことであ
ろう。全く問題にしていないのである。反論するにも値しないということだ。