日本は北朝鮮とおなじ?

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20モルデカイ・モーゼ
ルーズベルト政府が第二次大戦中、この○×式を採用した時、ニューディーラーの真の目的は
創造力を奪うことであるという声が強かったことが思い出される。もし何らかの目的をもって意識
的に広められたのだとしたら、これは恐ろしいことではないだろうか。

日本においては、戦後の思想界に支配的に君臨したマルクス主義の影響もあり、この思考パター
ンにすっかりとりこにされてしまっているというのが現状であろう。

GHQを支配していたニューディーラーはいろいろな二元論的思考を戦後の日本へ植え付けたので
あるが、教育界へ持ち込まれたこの○×式思考法により育てられた現在の中堅クラス以下の多くは
社会、政治、経済その他あらゆる面でこの○×式教育を忠実に反映した思考法により諸現象を分析
することにすっかり慣れているようである。

「保守」か「革新」か、「大企業」か「国民大衆」か、「戦争」か「平和」か、「経済成長」か「社会福祉」かな
ど、二元論花ざかりである。これらを持ち出しているのが共産党、社会党といったマルクス主義を絶対
的な世界観、あるいはそれに類する思考をする政党であるからには当然というべきかも知れない。何故
なら、後で説明する如く、マルクス主義は二元論から成り立っている虚構論理なのである。この○×式
思考法なくしては、「革新」政党たるもの、今日まで生きのびることは不可能であったかも知れない。

第3章:日本人の知らない東京裁判の本質

「大東亜戦争」と「太平洋戦争」

日本の首相は、国会などで共産党、社会党から大東亜戦争責任論を質されると、おおむね、「後世の史家
の判断にゆだねられるべきもの」という意味の答弁をするのを常としているようである。これは日本の一般ジ
ャーナリズムの東京裁判の宣伝をほとんど鵜呑みにして、日本が戦争責任の火の粉をかぶるのが当然であ
るといわんばかりの軽挙からみれば、主体性のある態度といわねばならない。

ここで一つ是非注意しておきたいことは、「太平洋戦争」という言葉である。日本には本来この「太平洋戦争」と
いう言葉は存在しない。これは勿論、戦後占領軍がそれこそ押し付けたものである。

戦後、いろいろな方面から大東亜戦争に関する歴史書が出ているが、その中に「太平洋戦争」という言葉で語っ
ているものが如何に多いことか。これではその歴史書はアメリカ側の立場に立って全て書かれたものと考えら
れて致し方ないのであるが、著者達はそれで満足なのであろうか。

問題はそれだけではすまない。日本の歴史には「太平洋戦争」という戦争はないのである。あったのは「大東亜戦
争」である。よく考えてみる必要がありはしないか。これは明らかに歴史の偽造に他ならない。「日中戦争」然りであ
る。あるのは「支那事変」である。

戦後史の跛行性という点で戦後日本は真の日本歴史の構築を放棄したのではないかとしばしば指摘されるのであ
るが、これでは戦後からではなく昭和16年の時点からすでに、日本歴史の真の構築を放棄していたことになりはし
ないか。占領中そういう呼び名を強制されていたのは止むを得ぬかも知れないが、今日に至るも依然としてそれか
ら脱脚できないのはどういうわけか。これは、ジャーナリズムが依然として「太平洋戦争」という言葉を使用している
ことに関係ないことである。日本人自身の問題である。憲法とは違って、改正の手続の問題もない。ただ正しい歴史
観の認識の問題のみである。