日本は北朝鮮とおなじ?

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12モルデカイ・モーゼ
 ここでもう一度、われらの大思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出して頂ければ幸いである。
ルソーは「我もし随意に祖国を選べといわれれば君主と国民との間に利害関係の対立のない国を選ぶ。
しかし現実にそのような国があろうはずもないから、止むを得ずその代替物として民主主義国を選ぶ」と
いっている。
 ここにすべてが盛られている。ヨーロッパの王朝では常に君主と国民の利害が対立している。然るに、
日本の天皇制には決して利害関係の対立などない。仁徳天皇の「民のかまどに立つ煙」の故事を引き合
いに出すまでもなく、また前述の天皇とマッカーサーの会見時の模様を説明するまでもなく、利害関係の
対立は全くないのである。これこそ、君民共治の完壁な見本である。
 このような天皇制では、常に天皇と国民の間には強固な理性的バランスがとれているのである。人間精
神の最も高尚なものが両者を結んでいるのである。そこには物質的欲得など、みじんも入り込むすきはな
い。なんとすばらしいことであろうか。このような国で、なんの必要があって天皇を外国のものと取り替える
必要があろうか。
 ユダヤ人はルソーの言を待つまでもなく、長年このような君主制を夢に描いてきたのである。しかし祖国
を持たないわがユダヤ人は、王を頂くこともできなかったのである。わずかにユダヤ教を「携帯祖国」として
もち、これによって民族の連帯と発展を推し進めてきたのである。キリスト教国では、このような高尚な理想
をもった国は永遠に現われないであろうと思う。その点から見ても、ユダヤ人は日本人には及ばないが、一
般西洋人よりは優れた民族であると日本人に認めていただければ、甚だ光栄である。

ユダヤ人の教条主義的誤り──戦前の天皇制攻撃

 これから本論として述べる如く、我々は戦後の占領改革において大きな過誤を犯したのであるが、ただ一つの
喜びは、天皇制の偉大さを認識でき、それを憲法の冒頭で存続させることができたことである。だがここで日本
人に謝らなければならないのは、戦前において我々の認識不足から、天皇制を最大限に攻撃し、なんとかこれを
打倒しようと努力してきたのも我々ユダヤ人である、ということなのである。全く穴があれば入りたい気持ちである。
 フランス革命でフランスの君主制を打倒したのが、我々の最初の大事業であった。つづいて、ヨーロッパの主な
君主制を打倒することが至上任務となるのである。何故そうなるのかということは、マルクス主義の国家論をお考
え頂ければ十分と思う。マルクス主義というものは別章で詳しく述べる如く、ユダヤ人が自己の民族的解放事業
のための道具として編み出した虚構論理なのである。マルクス主義の国家論はご存知のように、国家とは破壊、
転覆すべきものであるということを根本原理としているものである。国家というものがあるためにユダヤ人は過去
幾千年、迫害、虐殺をくり返されていたものである。自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、国家というも
のを転覆することが唯一の方法であったのだ。
 つまり、それによりユダヤ人が権力と財産──後にこれは生産手段という社会科学的用語にかえられたが──
を奪取することによってのみ解放されるということである。これがマルクス主義の根本原理なのであるが、この国家
の破壊という大事業の前に最も邪魔になるのが君主制という制度であったのだ。そのため特に、君主制の打倒とい
うことが最大の目的となったわけである。

 今世紀に入ってからは、第一次大戦時に、ヨーロッパの主な三つの王冠、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリー
における君主制の打倒に成功したのであった。さて後に残された有力な君主制は、東洋の一角に燦然と輝く日本の
天皇制だったのだ。ユダヤ人は、これの打倒に全精力を注ぐことになったわけである。
 ただここで、日本人は一つの疑問をおもちになることと思う。ヨーロッパでは各国でユダヤ人が王制のもとに苦しんで
いたのであるからこれらを打倒するのはわかるが、では何故にユダヤ人のいない日本で天皇制を打倒しなければなら
ないのかという疑問であろう。
 ユダヤ人の単純な教条主義的思考なのか、君主制と名のつくものはすべて敵であるとする単純な発想からくる誤ちな
のか。答は否である。このことは日本人はいまだほとんどご存知ないだろうが、ユダヤ人には天皇制を打倒する理由が
あったのである。それについては別章で述べる機会があると思うので、今は触れないでおこう。