なぜ日本は戦争に弱いのか?

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91ニーチェ
仏教の素晴らしいところ

 さて、これまで私はキリスト教の問題点をあげ、それが最悪の宗教であることを説明して
まいりました。それでは他の宗教について私がどう考えているのか、これも大事なことなの
で、きちんとお話ししておきましょう。
 ご存じのように、仏教という宗教があります。仏教もキリスト教に負けず劣らずたくさん
の信者がおります。仏教というと、キリスト教とはまったく違う宗教というイメージがある
ようですが、実は両方とも同じようなニヒリズムの宗教なのです。
 しかし、仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。
 仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。
これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が
誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。
 そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教
と言っていいでしょう。
 彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト
教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するの
です。
 仏教では、「道徳」という考えは自分をダマすことにすぎないと、すでにわかっているの
ですね。
 ここが仏教とキリスト教の大きく違うところです。
 これは私の言い方なのですが、仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っているのです。
つまり、善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。
 それは仏教の態度を見れば明らかです。
 仏教が注意しているのは、次の二つです。一つは、感受性をあまりにも敏感にするとい
うこと。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、苦しみを受けやすくなってしまうからです。
そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的なものとして考えたり、難しい概念を使ったり、
論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること。そうすると、人間は人格的にお
かしくなっていくのです。
 読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメー
ジできるのではないでしょうか。
 仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活するこ
とを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。
欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。
 要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。
 ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。
 ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈る
ことや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。
 仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありませ
ん。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻る
ことができるくらいですから。
 ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばか
りを敏感にするということでした。
 仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみ
による復讐の感情を戒めたのです。
「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的な言葉です。
 ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」
といった考えは、健康的なものではありません。
 今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ「利己主義」という言葉は悪
い意味で使われています。
 しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの味方」が弱くなっ
てしまうのは問題です。また「利己主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に
退屈になってくるものです。
 こういった問題に対して、ブッダは「利己主義は人間の義務である」と説きました。要す
るに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。
 あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っ
ている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。

ニーチェ著アンチキリストより