183 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/25(金) 23:31:22.60 ID:AfxkPLlQ
疾風よりも金星ゼロのほうを怖がってるよムスタングライダーどもは。ソースは「丸」でのムスタング乗り達の発言
何故、実戦に出ていない金星零戦を恐れるのやら・・・
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/01/03(火) 12:08:24.94 ID:rsKhtQTu
アメリカイギリス中国ドイツ、その他諸々の国が、日本とロシアの和解に大反対しているのではないか。 日本とロシアが和解したら困るのはどういう国々なのか、次の例で明確だ。 第二次世界大戦後、アメリカ軍はテューリンゲン州をソ連軍に受け渡し、 第二次世界大戦後、アメリカ軍はテューリンゲン州をソ連軍に受け渡し、 第二次世界大戦後、アメリカ軍はテューリンゲン州をソ連軍に受け渡し、 自国の兵隊が血を流して確保した重要戦略拠点をソ連に明け渡すことになったアメリカはもちろん、 イギリスや西ドイツも共産主義ソ連の脅威を受けることになる。またソ連が対日参戦しなければ、 中国人が意地でも否定したい傀儡満洲国が健在のままになってしまう。 吾 等 ノ 決 定 ス ル 諸 小 島 ニ 局 限 セ ラ ル ベ シ 一方で「日本は無条件降伏をした」といいつつ、もう一方で「ロシアは北方4島を日本に返還すべき」 などと精神分裂病のような言説が流布されているのも、こうした事情から来ているものと思われる。
186 :
だつお ◆t0moyVbEXw :2012/01/04(水) 21:13:35.67 ID:yKH0WvOH
「アングロサクソン陣営の極東軽視」だが、これは戦争が終わってから、 中国がアングロサクソンの敵に回る原因にもなった。 大陸打通作戦で日本軍が南北縦貫3000キロを進撃しているのに、「極東戦線はマイナーだから」 などという理由で安易に切り捨てたりしたら、中国抗日戦争の値打ちはカス以下になってしまう。 しかも日本占領においては「太平洋戦争」などと教えられて、日中戦争がスッポリ抜け落ちてしまった。 これではいくら中国人が南京大虐殺やら三光政策やらで日本批判をしても、日本人のほうは 「日中戦争ってなにそれ」ってなことで、中国人がますます惨めになってしまう。 チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ もし本当に中国人が日本軍国主義の侵略戦争とやらで3500万人虐殺されたのだとすれば、 戦勝国でありながらそんなに大勢虐殺された中国人がチンピラゴロツキ。 偽りだとすれば、そんな偽りの数字を出すのはチンピラゴロツキの所業としか言いようがない。 チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ いずれにしても、中国人は「われわれはチンピラゴロツキです」と自ら公言しているというわけだ。 チンピラゴロツキにはチンピラゴロツキとそう呼んでやるのが、チンピラゴロツキへのご挨拶というものだ。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/04/18(水) 12:29:34.62 ID:uhZjcOLa
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/08/24(金) 19:31:57.17 ID:9A4KzjDO
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/08/25(土) 01:28:29.62 ID:3cYoq+UY
その例え、チンピラゴロツキに失礼だ!
>>185 調印すれば名実ともにソ連の物になったのに、調印拒否したソ連のおかげで北方領土の名目上領有権が日本に留保された
売買契約で売り手が署名捺印しておとなしく待ってたのに、買い手がすっぽかして契約が成立しなかった
これと全く同じこと
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/01/31(木) 17:16:31.19 ID:YSGQsIro
ってか、中国人なんてゴミみたいなものだろw
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/05(火) 03:21:45.22 ID:+DiJrTgJ
>>166 攻撃機(IL-2など)ならいいけど
もっと運動性高い戦闘機には無謀な重量だろう。
それにエンジンに当たった分は搭乗者まで届かないから、
パイロットへの被弾を恐れるなら、やはり防弾ガラスが求められる。
ソ連の対地攻撃機は液冷が多いから冷却経路が被弾しないよう
装甲したともいうけど。
フィンランド軍がアメリカからブルースター・バッファローを購入した時、特注で装甲板製座席を作らせています。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/26(金) 17:56:09.74 ID:DjSiRan+
チンピラゴロツキにはチンピラゴロツキとそう呼んでやるのが、チンピラゴロツキへのご挨拶www
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/06/06(木) 09:27:58.71 ID:kM+lxP4F
昭和20年6月21日
「菊水第十号作戦/第二白菊隊」
1900〜30 白菊8機が、鹿屋基地を発進。
沖縄周辺海域に突入した模様であるが、状況不明。
【指揮官】
古賀一義 中尉
【戦果】
不明
《米軍記録》
沈没:中型揚陸艦「LSM59号」/1機命中戦死2名
囮船元 「バリー」/1機命中
大破:水上機母艦「カーティス」/1機命中戦死41名負傷28名
[陸軍特攻第二十六振武隊の四式戦により]
損傷:水上機母艦「ケネス・ホワイティング」
護衛駆逐艦「ハロラン」
http://pico32.web.fc2.com/kaigun/jitsuyoki/kochi.htm >沈没:中型揚陸艦「LSM59号」/1機命中戦死2名
The plan worked, but unfortunately there were two suicide planes, one striking the decoy and one sinking LSM-59
http://www.navsource.org/archives/10/old/10/14059.htm 但しこの日の出撃も「白菊」単独ではなく、これらの米軍損害には、四式戦その他陸軍特攻によるものも含まれる。
スレ違いとの批判もあろうが、四式戦だろうが練習機だろうが、1945年半ば以降は「特攻」あるのみということ。
四式戦特攻と白菊特攻では、どちらが有効だったと言えるだろうか?
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/06/06(木) 09:36:43.34 ID:kM+lxP4F
戦闘・非戦闘あらゆる原因による日本の陸海軍機の損失は、開戦当初の月平均約500機から、1944年後半に月2000機以上に上昇した。
戦争の過程における総損失機数は50000機の多きに昇ったが、その40%弱が戦闘損失で、残りの60%強が訓練、輸送その他の非戦闘損失だった。
したがって、日本は戦争中ほとんどどの月でも、その航空部隊の数字上の機数を増すことができた。数字上の戦力は戦争勃発時の
戦術機2625機から、降伏時の戦術機5000機に加え、カミカゼ機5400機にまで上昇した。
搭乗員総数は戦争勃発時の約12000名から降伏時の35000名強に増加した。
アメリカの航空機生産と操縦士訓練は大幅に日本の合計を上回っていたが、この戦力の一部だけしか太平洋に配備できなかった。
真珠湾以西の太平洋におけるアメリカの第一線戦力は、1941年の約200機から1945年8月11000機に増えた。我々が戦場で日本の航空部隊
を上回る数的航空優性を達成したのは1943年後半以後のことだった。しかしながら、1942年でも、太平洋における比較的小数のアメリカ
の航空部隊は、数的優位を維持した日本より、より大きな損失を日本に負わせることができた。太平洋戦争中のアメリカの損失機総数は、
アメリカ国内での訓練中によるものを含まず、約27000機だった。これらの損失のうち、8700機は戦闘、残りは訓練、輸送、他の非戦闘での損失だった。
戦闘損失のうち60%強が対空砲火によるものだった。
前述したように、戦争勃発時の日本の操縦士はよく訓練されていた。平均的な陸軍の操縦士は戦闘に投じられる前に約500時間、
海軍搭乗員は650時間の飛行時間を有していた。これらの経験豊富な操縦士は、戦争開始一年半の激しい作戦で大量に使い果たされた。
日本は我々が訓練された操縦士を防護、休養、交替させるのに対し、より少ない注意しか払わず、増大する航空ガソリンの不足によって
その訓練計画を深刻に妨害された。戦争全体を通じて平均飛行時間は減少し、降伏時、アメリカ操縦士が600時間だったのに比較して、
100時間強といったところだった。訓練不十分な操縦士は、アメリカで養成された熟練した操縦士に張り合えなかった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/ussbs09.html
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:ARKE7qPc
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:h0b9l/2E
>>1 なぜ? 大戦末期の陸軍主力戦闘機だったからです。
3500機も作ったではなくて、それしか作れなかった。
だから、隼等の旧型機も現役で稼働させざるを得なかったわけです。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/05(木) 15:09:07.96 ID:DeTAJqo2
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/05(木) 15:25:15.00 ID:DeTAJqo2
世界の戦場を駆けた「P-51」(渡辺洋二) [対日戦のマーリン・ムスタング] 太平洋戦線で最初にマーリン・ムスタングを装備したのは、中国大陸の第14 航空軍の1隊として、すでにP-51Aで戦っていた第23戦闘グループの第76戦闘 飛行隊。1944年2月からP-51Bへの改変を進め、C型も加わった。9月以降さらに 2個飛行隊が、P-40から切り替えられていく。 同グループの変わり種は、6月に編入の第118戦術偵察飛行隊。偵察機装備が 本来なのに、P-51Cを主装備機とし、戦闘機隊とみなされて作戦した。 第51戦闘グループの3個飛行隊は1944年3月から年末にかけて機種改変。 インド方面の第10航空軍から編入された第311戦闘グループ(旧・戦闘爆撃 グループ)は、P-51B/Cを装備して8月に中国奥地の成都近郊に進出した。 D型とK型の配備は1945年に入ってからである。 逐川、零陵を基地とする第23グループは、10月の香港空襲の掩護、大陸打通作戦 に圧迫される中国地上部隊の支援などを実施。成都防空の第311グループは華北へ作戦 地域をうつし、11月から鉄道施設攻撃のB-25の護衛や漢口、南宛の飛行場を襲った。 雑誌「丸」編集部 P-51ムスタング/P-47サンダーボルト 図解・軍用機シリーズ8
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/19(木) 10:41:59.28 ID:UUeccyR9
B-29 losses to accidents, enemy interception, and to Japanese air attacks on the Chengtu forward bases soon
came to be prohibitive, and by the end of 1944 had reached 147.
During Operation Matterhorn, 49 separate missions had been flown involving 3058 individual aircraft sorties. Only 11,477
tons of bombs had been dropped. In spite of the massive effort involved in Operation Matterhorn, only insignificant
damage had been done to targets in Japan.
http://www.joebaugher.com/usaf_bombers/b29_9.html
>>1 ・中島が、米国式の大量生産方式をとっていた。
・隼と疾風の治具が、一部共通だった。
・零式戦闘機や隼よりも、組立が簡素化されてた。
・”特殊疲労回復剤”で、長時間の仕事が出来た。
そんな所ですかね。
205 :
だつお ◆t0moyVbEXw :2014/01/21(火) 12:31:40.51 ID:+TKyYeEr
表3−3 イギリス戦闘機兵団の戦力(7月9日/9月7日)
戦闘機群 機種別中隊数
スピットファイア ハリケーン ブレニム デファイアント グラディエーター 計
第10群 2(4) 2(4) (1) (1) 4(10)
第11群 6(7) 13(14) 3(2) 22(23)
第12群 5(6) 6(6) 2(2) 1(1) 14(15)
第13群 6(3) 6(8) 1(1) 1(1) 14(13)
計 19(20) 27(32) 6(6) 2(2) (1) 54(61)
(注) カッコ内の数字は9月7日の中隊数
(出典) Basil Collier.The Defence of United Kingdom,HMSO.1979
<前略>
航空機生産省は、当面、ハリケーンとスピットファイアを優先して生産した。
生産量の六五%がハリケーン、三五%がスピットファイアであった。ちなみに、
全戦闘機のうちハリケーンは五五%を占め、スピットファイアは三一%であった。
(ただし、一九四〇年五月初めから一〇月末までの撃墜された戦闘機のほぼ四〇%
をスピットファイアが占め、ハリケーンが三三%ほどであったから、スピットファイア
のほうが撃墜されやすかったということになろう)。
<日本経済新聞社「戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ」107−108頁 >
Day 22 ? July 31st 1940
July 31, 2010 in 74 Squadron, July 1940 | by Tony Rudd | Leave a comment
Weather: fair everywhere.
FIGHTER COMMAND SERVICEABLE AIRCRAFT AS AT 0900 HOURS:
Blenheim ? 63
Spitfire ? 239
Hurricane ? 348
Defiant ? 25
Total ? 675
http://battleofbritainblog.com/category/july-1940/
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/21(火) 13:37:13.52 ID:JVYmFoGb
米軍はB-29による成都から日本への爆撃には、1機あたり23トンの軍需
品(燃料、爆弾、弾丸等)が必要と考えていた。そのため、B-29、100機分と
成都防空の戦闘機が必要とする軍需品を合わせて、最低6,000トンの物資の
集積が必要であった。最新鋭の「超空の要塞」も石油がなければただのアル
ミの物体に過ぎないのである。
昭和19(1944)年6月13日、ようやくカルカッタに待機する第20航空
軍所属の第58爆撃団(B-29)に出撃命令が下った。機体には250kg爆弾2ト
ンが積み込まれた。成都では燃料の補給だけが行われた。
昭和19(1944)年6月15日午後、B-29、75機が成都の飛行場を離陸した。
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/4/4367/201105_065e.pdf 9)在華米空軍は,1941年初めに結成された米人の義勇空軍「フライング・タイガーズ」が
発祥であり,その後42年 7 月に正式に米陸軍航空部隊に改編されて第23追撃隊となり,さ
らに翌43年 3 月に米陸軍第14航空軍に改編された。44年 4 月30日現在の配備機数は,偵察
機10(P38),戦闘機294(P38,P47,P40,P51),爆撃機168(B24,B25)の472機であり,
重慶空軍233機と合わせて705機と判断されていた。当時の日本の第5 航空軍の出動可能機
数は約230機であり,彼我の戦力比は約 3 対 1 であったという。(益井康一『本土空襲を阻
止せよ!―従軍記者が見た知られざる B29 撃滅戦』光人社 2007年 23〜26頁,95頁,98頁)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-56/inoue.pdf In January 1944 the air force had 194 fighters, 38 medium bombers, and 50 heavy bombers;
for the 9-month period beginning in October of that year. the totals were
Month Fighters Medium Bombers Heavy Bombers
October 457 105 45
November 535 109 47
December 510 105 56
January 520 94 70
February 521 92 56
March 564 99 65
April 525 103 69
May 500 117 69
June 483 127 65
http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-9.html
207 :
だつお ◆t0moyVbEXw :2014/04/11(金) 12:16:50.04 ID:8IIYpYAp
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/11(金) 12:46:57.65 ID:R33/ShAJ
疾風は、大東亜決戦機として作られたと思う。 だけど、エンジンを2000馬力級にしたのは良いがエンジントラブルが多かった。 稼働率が低ければ戦力とはならない。 量産体制は確立していたので、大量生産は可能となった。 ゼロ戦も月産300機以上出来るころだったので。 けっこう、陸軍機で活躍したのは5式戦闘機だと思う。 これは、液冷エンジン(生産が間に合わない)の飛燕を空冷エンジンにしたもので、 特に、20ミリ機関砲4門は強力だった。 B29撃墜に活躍したのは、月光と呼ばれた双発の夜間戦闘機ですね。 疾風も、戦後アメリカの試験結果では、時速620キロ近い速度を記録。 日本の最優秀戦闘機と言われている。 何しろ戦争末期の日本は、ガソリンも、オイルも劣悪な状況だったから・・・
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/11(金) 13:19:06.17 ID:R33/ShAJ
P51ムスタングは、朝鮮戦争でジェット機とも戦った名機。 これと、対等に戦えたのは、海軍の紫電改くらい。 硫黄島から飛来したP51と空戦を行い、追い払った戦史は有名。 これができたのは、生き残りの優秀なパイロットが戦ったということ。 飛行機を手足のように、操縦できなければ、民間機と同じ。
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/11(金) 20:10:47.08 ID:OHxB57/N
5式戦闘機は機首20mm機関砲(ホ5)2門、翼内12.7mm機関砲(ホ103)2門、580km/h 疾風の最高速度は624km/h、戦後のアメリカ軍によるテストでは687km/h 5式戦闘機はF6FおよびF4Uと互角の戦いが行えたと言われている
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/12(土) 03:54:15.39 ID:7PjT1nd3
最高速度で44km/hの差。 トンズラこくには、多少有利なくらいの差だな。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/12(土) 05:35:38.85 ID:9T1UPYMS
>>210 5式戦闘機は、20mmバルカン砲(回転銃)を備えた機種もあった。
これは、機数としては少なかったが、かなり有効であったと言われている。
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/12(土) 05:47:13.75 ID:9T1UPYMS
アメリカ軍が恐れたのは、巴戦の戦いで、 旋回性能が良い日本の戦闘機と戦うには、一撃離脱方式が有利とみた。 ソロモン諸島の、ガダルカナル争奪戦ではこれが活かされて、日本は劣勢になった。 (中国大陸でのフライング・タイガースの経験を生かした) 日本の優秀なパイロットの多くは、このラバウル航空隊の消耗が大きい。 日本は、もっと早く後退して、時間稼ぎで防御を固めたほうが良かったかも・・・
なんだ、ここいくつかのシロート臭い書き込みはw
巴戦でも連携できたらまず勝てるよね。 一撃離脱が無くなってもロッテは今も残っているんだから。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/08/09(土) 03:10:57.87 ID:e7X+Ksya
174 :連合軍公刊戦史からの抜粋:03/06/05 23:41 ID:usnD2Jzo タクロバンの混雑 栗田艦隊が後退したとき、日本軍は絶好の機会を失った。 レイテ橋頭堡は危険状態にあり、二十五日朝第七艦隊の軽空母二隻が沈没、 残りの半数以上の軽空母は作戦不能の状態にあった。 日本軍機は二五日一二〇〇〜一六〇〇の間一二回レイテに来襲し、 タクロバンで上陸用舟艇二隻を撃沈、倉庫を破壊、桟橋に損害を与えた。 日本軍の勇敢な一機は夕闇にまぎれ、着陸前の米軍機数機の最後尾から 着陸進入を装いながら接近して、突如大型上陸用舟艇を爆撃、炎上させた。 この艇はのち沈没した。 日本軍はこの夜の間に、増援部隊を載せた最初の輸送船団(五〜九隻 の駆逐艦と五隻の貨物船)をオルモックに上陸させた。我々はこれを阻止 する処置を執らなかった。 二六日、日本軍は合計一五〇機を使用し、一二回の空襲を行った。 最初は〇五一五で、一発の爆弾がマッカーサー大将の宿舎の邸の端にある 比島人民家に命中し、一二人を殺し一〇人を負傷させた。他の一発は 従軍記者の宿舎に命中し、記者一人が死亡し四人が負傷した。 タクロバン飛行場では、日本軍機の執拗な妨害を受けたが、一五〇〇までに 鋼製マット一、〇〇〇呎を敷き詰めた。日本軍の攻撃のうち四回は全然警報が でなかった。我々は壕を入ったり出たりした。これらの飛行機は超低空で 進入して滑走路に沿って飛びながら掃射とともに破片爆弾を投下した。 爆弾の四分の三以上は爆発しなかったが、そうでなかったら我々は大打撃 を受けたことであろう。(注 「タ」弾攻撃と考えられる) 比島捷号陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 / 朝雲新聞社 , 1971 ( 戦史叢書 ; [48] )
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/04(木) 09:50:18.74 ID:mh6mjle0
一九四三年に出版されて絶大な人気を博したウェンデル・ウィルキーの 『ひとつの世界』は、高い志のもとに団結し、ほとんどキリスト教国の ような価値観を有し、西洋世界を愛する「民主」大国たる中国、という 神話をつくり上げるのに大いに貢献した。「皆無」という言葉はまったく 妥協の余地のない強いものだが、バーバラ・タックマンはこの言葉を使って こう書く。「親中国派や教会のグループなどによる強力な宣伝に眼を覆われた アメリカの一般大衆は、実情の認識が皆無である」。中国の実情が少しずつ 明らかにされていったのはようやく一九四四年十一月、解任されたジョゼフ・ スティルウェル将軍が口を開き始めてからのことだった。これでタックマン の言葉を借りると「やっと汚れに汚れていた中国というきたないシーツを 洗濯する日が来た」のである。 誰にも書けなかった戦争の現実 / ポール・ファッセル/著 宮崎尊/訳
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/04(木) 19:03:41.72 ID:dIOO/2R6
戦後のアメリカの試験では、四式戦闘機疾風は日本の最高傑作機だと評価された。 しかし、個人的には海軍の紫電改が好きで、これが最高傑作機と思っちゃう。 むしろ、陸軍機では五式戦闘機(三式戦飛燕の改造)が実用的かなと思う。 液令エンジンから空冷エンジンに変えて生まれ変わったww 疾風はエンジントラブルが多く、しかもオイルやガソリンも・・ 戦後のアメリカでは最大評価されたが、実戦では評価は低い。 ちなみにゼロ戦は三菱製だが、エンジンは中島製。 飛行機は昔も今も、大量生産は乗用車のような大量生産は難しい。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/04(木) 19:22:17.01 ID:dIOO/2R6
ゼロ戦のエンジンの栄エンジンは、100オクタン以上のガソリンが必要。 ガソリンはオクタン化が高ければ圧縮比があがり馬力が出る。 戦時中はこのガソリンが手に入らずに苦労している。 パレンバンのガソリンを目指した日本軍もこれを手に入れななかった。
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/04(木) 19:34:53.65 ID:dIOO/2R6
四式戦闘機疾風がなぜ大量に生産されたかは、歴史をみれば明らか。 疾風が何んと呼ばれていたかそれは「大東亜決戦機」です。 しかし、なんか不思議ですねww 大東亜決戦ならインパール作戦に行くべきでしょう。 太平洋の戦いは日本の国是にそぐわない。
>>219 百オクタン必要なのは誉エンジンですが?
>>218 まだ良いところなしで落第の五式戦に幻想をいだいている人がいるとは驚き。
>>219 栄なら、95オクタンでも問題ないよ。
もっとも、大戦中期から国内では
それすら入手が難しくて、90オクタン以下のガソリンしか
入手出来なくなったんだが・・・
実際問題として、100オクタン以上のガソリンなんて
当時はアメリカしか作れなかった代物だ。
>>220 中国や比島なら四式戦を投入していますが?
インパールは現地解決主義だから四式戦をくれとか主旨に反する無茶を言われても困るだろ。
誉エンジンを使った最成功機?
異議あり!
>>225 海軍の艦上偵察機である”彩雲”が、誉発動機を
搭載した最成功機だ!
>>226 生産されていないので却下。
まだ銀河の方が上。
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/09(火) 23:05:18.26 ID:ymwbpUqO
海軍では陸上で戦闘機を林の中に隠して分散していた。 陸軍はフィリピンでは集中管理し200機近くが陸上で炎上。 疾風は陸軍機でエンジントラブル多く、管理も不行き届き。 海軍の紫電改と陸軍の疾風はほぼ同等な性能だったとは思う。 あとは、パイロットの育成行政が・・・まにあわなかったww
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/01/06(火) 19:09:41.23 ID:PfFl9OtT
♪さらば〜、地球よ〜、旅立つ翼、大東亜決戦機〜、 は〜、や〜、て〜
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/01/09(金) 09:29:37.78 ID:5o6ficA6
千葉県市川市が主な拠点の詐欺グループ大手飛車取(オレオレ詐欺もやってた)の元締めが、実はなんと東証一部の株式会社リブセンス
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/01/09(金) 13:20:57.38 ID:/cn0ZKBG
ゼロ戦の多くは、中島飛行機で生産していたでしょう。 たぶん、量産体制が整っていたという事だと思う。 ゼロ戦のエンジンは中島製だから納得できる。 飛行機の設計と、生産は必ずしも一致しないかもです。 むろん、ゼロ戦は三菱という歴史は変わらない。
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2015/01/18(日) 10:24:36.69 ID:S60pZBRn ★明治維新から昭和10年代までの工業生産力 <鉄道> ・明治5年 鉄道新橋横浜間29km開通 ・明治40年 9000km <電信電話> ・1854年 ペリー献上品 電信機 ・明治5年 東京神戸で電信線開通(支那は外国資本による) ・明治32年 電話 ・昭和10年 電信電話数 世界2位 <電力> ・明治19年 日本最初の電力会社設立(エディソンから6年) ・明治25年 東京の電灯の数1万 <機械工業> ・自動車生産台数 昭和16年トラック7万台 世界2位米30万台 ・自転車生産台数昭和11年100万台超え世界一 <新兵器> ・世界最初の空母 ほうしょう 大正8年(1919) 出典:『大日本帝国の国家戦略』(彩図社)