秀吉による朝鮮征伐に関する考察

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8名無しさん@お腹いっぱい。
両朝平攘録という本がある。内容は明代の軍事行動を記述したもので、その巻四が日本になっている。
いうまでもなく豊臣秀吉の軍隊と朝鮮で戦った記録なのだ。

この書物のなかには、日本人の戦争のやり方についての記述がある。中国人がとくに眼をみはったのは、
日本人の伏兵戦法、機動作戦の巧妙さであった。兵を用いるのに埋伏がうまい。しばしば我が軍(明軍)の
うしろにまわって両面から挟み攻め、いつも寡を以って衆に勝った。あるいは、戦う前に三々五々かたまって
分散し、一人が扇を振るえば伏兵は四方から起こる。これを胡蝶の陣という。といった記述がみえる。

扇は合図のためだから、夜戦でも眼につくようにおそらく白色のものを用いたのであろう。それをひらひら
動かすと蝶が舞うように似ていたので胡蝶の陣などと優雅な名前が付けられたのに違いない。
胡蝶の陣のほかに、長蛇の陣という物騒な名の戦法もあった。蛇のような長い隊列で行軍し、先頭が敵と
遭遇した場合、後尾がすばやく迂回して敵の背後にまわって挟撃するといった戦法であるらしい。


とにかく、日本人は号令一下整然と動き、その動きもいたって敏速なのだ。一部隊がまるで生き物のように、
扇や旗や法螺貝の合図で自由自在に動いたが、これは訓練もさることながら命令には絶対服従という精神が
なければならない。扇が右へ振られたのに左へとび出してはならない。違反した個人の命が危ないだけで
なく、それが団体全部の安危にかかわるのだ。

むろん中国の戦争理論も、大軍を掌握してそれを小部隊のように自由自在に動かすことを理想とし、それには
合図の旗や陣鼓が大切であることを強調している。それなのに、日本軍の胡蝶の陣に眼をまるくしたのは、
集団行動の変わり身の速さが、中国の軍隊の得意とするところではなかったことを物語る。

大明四百余州を切り取ることは、太閣の誇大妄想といわれている。確かにアブノーマルだとは思うが、
いちがいに妄想と片づけるのもどうであろうか。明国はその後、半世紀ほどで満洲族に滅ぼされるのだが、
当時の満洲族の人口はわずか数十万に過ぎなかったと推定されている。同時代の日本の人口は、おそらく
二千万ぐらいといわれている。ケタが違う。満洲族にできたことが日本人にできないはずはない。