第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-13
世界史板より三国志・戦国板支援(全6回)
○正史『三国志』以外の書籍に記された三国時代の逸話を御紹介します。
・『捜神記』より「落頭民」
→秦の時代、中国には落頭民という首だけで動ける民族がいたと伝わって
いました。
時代は下って三国時代。所は呉の将軍朱桓の屋敷。
朱桓が雇った女中が、夜な夜な首だけで飛び回ることがありました。
犬専用の出入り口や天窓から外に出て、朝になると帰ってくる。
朱桓はすっかり恐ろしくなってしまい(勇猛な将軍でしたが、オバケは怖
かった模様)、暇を出してから調べたところ、生まれつきそうなのだとい
うことが分かったということです。
秦の時代の民族が、辺境であった呉の国にまだいたというお話。
小泉八雲の『ろくろ首』の話はこれにちなんだもので、首が離れている間
に体を覆い隠すと元に戻れなくなって死んでしまうそうです。
・『列異伝』
→曹操の息子で、魏の初代皇帝となった曹丕が書いた奇談集の話。
張奮という金持ちが、家運衰えて屋敷を手放したことがありました。
ところが、後から入った人が次々死んでしまい、廻り廻って何文という人
が所有者になります。
何文はこれまでの事態から「これは何かある」と考え、日が暮れてから刀
を持ち、屋敷の梁の上によじのぼり、息をひそめていました。
深夜になり、冠をかぶり、黄色い衣を着た男がやってきました。
「細腰、この建物の中に生きた人間の気配がするようだが。」
こう言った男に、また別の声で返答がありました。
「いいえ、誰もおりませんよ。」
しばらくして今度は青い衣の男が、次に白い衣の男がやって来て、同じ質
問をして戻っていきました。
やがて、夜明けが近いのを見た何文は床の上に降りると、前の男たちのよ
うに呼びかけました。
「黄色い衣の奴はなんだ。」
「金ですよ。この建物の西の壁の下におります。」
青い衣の男は銭、白い衣の男は銀、声を出していたのは竈の下の杵でした。
夜明けと同時に金銀銭を掘り出した何文が杵を焼くと、それきりもう何も
怪しいことはなくなったそうです。
・『世説新語』より「石碑の謎」
→曹操が才能あふれることで知られた楊修と出歩いた時のことです。
見事な碑文が刻まれた石碑の裏に「黄絹幼婦外孫?臼」と書かれているの
を見た曹操が言いました。
「卿よ、これが分かるかね。」
「はい、分かりましたとも。」
「そうか、まだ言わなくてもよろしい。」
そうして行くこと三十里(3km余り)。
曹操は「私ももう分かったぞ。」と言い、答え合わせを行いました。
楊修の判断は以下の通り。
黄絹=色のついた糸だから漢字の「絶」。
幼婦=幼い婦人は少女だから漢字の「妙」。
外孫=外孫(そとまご)は女(むすめ)の子だから漢字の「好」。
?臼(あえうす)=辛いものを受ける道具だから漢字の「辞」。
つまり、四文字併せて「絶妙好辞(絶妙な好い言葉だ)」という訳。
曹操、これを聞くと嘆息して曰く「私の才は君に及ばないな。三十里かけ
てようやく追いつけたよ。」と。
いかにも人材マニアの曹操らしい逸話でした。
余談ですが、この楊修という人、後に曹操に殺されています。
曹操の後継者に詩人としても有名な三男の曹植を推したためだとも言いま
すが、実はこの件で嫉妬されたのかも・・・・?
○室町・戦国時代の流行歌
「亭主亭主の留守なれば 隣あたりを呼び集め 人ごと言うて
大茶飲みての大笑い 意見さ申さうか」
→当時の主婦たちの行動を歌ったもの。今の既婚女性と大して変わらず。
「うちの隣の千代松は 富士野の戦に頼まれて 一年経っても帰りゃせぬ
二年経っても帰りゃせぬ 三年経ったら首が来た」
→戦にとられた人間とその家族のことを歌ったもの。現在でも南九州の一
部に民謡として伝わっている。
(これにて終了です)