第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-12
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<<議員・選挙>> 内閣信任特集1/7:
内閣不信任決議案と信任決議案
内閣不信任決議案は、衆議院の特権です。権利としてはっきり認められたのは日本國憲法からで、
第六十九條。「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、
十日以内に衆議院が解散されない限り、總辭職をしなければならない。」
可決されたら最後、内閣は辞めるか解散するかどちらかを選ぶしかありません。
野党にとっては最後の切り札、「伝家の宝刀」と呼ばれますが、首相は国会議員から選ばれるため、
ほとんどの場合首相を選んだ政党=与党、つまり与党が多数派なので可決は稀です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/内閣不信任決議 さらに、内閣が解散を選んだ場合、衆議院議員は全員クビになり、総選挙に突入します。
野党にとっては政権交代のチャンスですが、勝てるとは限りません。
まさに諸刃の剣です。
なお、大日本帝國憲法では人事権は天皇にあり、衆議院は内閣不信任奏上を可決できるに
留まっていました。従って無視されることもありましたが、議会を無視する「超然主義」は
やがて行き詰まり、政府の側もある程度の対応を迫られるようになっていました。
戦後、撤回したものや実際には審議されなかったものを含め、45回内閣不信任決議案が提出されましたが、
可決は4回だけ。最初の1回は野党多数でしたがGHQの意向で渋々(!)不信任案を出したため
「馴れ合い解散」と呼ばれています。あとの3回は、与党からの棄権や造反票による可決です。
一方、不信任決議案を提出できるのは、1国会に1度だけという不文律があります。
これを「一時不再議」と言います。
大日本帝國憲法第39条「両議院ノ一ニ於テ否決シタル法律案ハ同会期中ニ於テ再ヒ提出スルコトヲ得ス」。
帝國憲法は日本國憲法に取って代わられ、この条文も消えました。しかし、一度否決したものを
同じ国会に再度出してはいけない、というお約束は残りました。
野党にとっては、出してもさっくり否決されたら終わりなので、できるだけ時期を選んで出す必要があり、
特に与野党の議席が接近している状況では、与野党の駆け引きも生まれます。
さて、憲法69条では、不信任決議だけではなく、信任決議についても定めています。
不信任とは関係が逆になり、否決されれば内閣は解散か総辞職をしなければなりません。
しかし、首班指名(首相の指名)は議会の多数決で選ぶ以上、与党が敢えて信任決議を可決させる必要は
少なく、可決されたのは今日を含め2回目です
1992年、PKO法案をめぐって自民・公明・民社と社会・共産らが対立していました。
不信任決議は、討論や採決にわざと時間を掛ける、時間稼ぎの手段にも使われます。
内閣不信任案を最初から出さず、閣僚一人一人の不信任案を出せばかなり時間を稼げます。
これを封じるために与党が出した手段が内閣信任決議案。
6月14日、自民は公明・民社の賛成を得て、宮澤喜一内閣信任決議を可決しました。
これが史上初の内閣信任決議成立です。
…つまり、この時点で公明・民社の両党は実質的に与党だったのですが、自民は両党を
与党扱いしませんでした。与党待遇しなくても、従わせるだけの力があったことになります。
しかし、参議院で福田首相問責決議が可決されそうになると、内閣が信任されていることを
見せつけるという本来の用途が再び見直されました。
これで今国会中、野党から不信任決議案を出すことはできなくなりました。
ただし、逆に与党は同じ期間、福田氏を引きずり下ろす大義名分を失ったことになります。
ここから、過去に内閣不信任決議が成立した4例を紹介します。
馴れ合い解散…1948年(昭和23年)12月23日、第2次吉田茂内閣
内閣不信任は衆議院の特権ですが、解散についてはもう一つ規定があります。日本國憲法第七條。
「天皇は、内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に關する行爲を行ふ。
(中略)三 衆議院を解散すること。」
大日本帝國憲法では天皇自身に解散権がありましたが、日本國憲法では内閣の意向を無視して
勝手に解散することはできなくなっています。つまり、実質的には内閣にも解散権がある。
という解釈が早くからありました。吉田茂内閣は少数与党だったので、解散総選挙に打って出たかったのですが、
野党は内閣不信任決議が可決されない限りは解散は出来ないと主張していました。
今のままでは選挙では与党が勝ちそうだったので、野党は当分不信任案を出すつもりはなかったのです。
しかし、時は第二次世界大戦敗戦からまもなく、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下。
GHQは不信任決議による解散をするよう命じ、野党はしぶしぶ提出して可決したため「馴れ合い解散」
と呼ばれました。天皇の詔書では、憲法第7条と第69条が併記されました。
与党民主自由党は、第24回総選挙で定数466で269議席(無所属で当選し、追加公認された
5名を含む。以下同)を獲得し、単独過半数を得ました。
しかし、これ以降、憲法第7条による解散が行われるようになり、解散は内閣の権利という
見方も定着しました。不信任決議案可決でも、天皇の詔書には憲法第7条のみが書かれています。
内閣は自分のクビも賭けるとはいえ、全衆議院議員のクビを切れるのですから非常に強力な権利を手にしました。
バカヤロー解散…1953年3月14日、第4次吉田内閣
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田首相と右派日本社会党の西村栄一議員との質疑応答中、
吉田首相が「ばかやろう」とつぶやいたのがマイクに拾われ、野党は懲罰動議を提出。
鳩山一郎ら与党(この時は自由党)反主流派に加え、広川弘禅農相も欠席したため動議は可決。
広川は農相を罷免されましたが、続いて提出された内閣不信任決議案も鳩山派が造反して可決。
鳩山派は分党派自由党と呼ばれ、選挙も独自に戦いました。
結果は、自由党主流派は202、鳩山派は35。鳩山派を含めれば過半数維持でしたが選挙前から7議席を
減らしました。また、保守野党の改進党も77(-12)と不振でした。一方、左右に分裂していた社会党は
左派72(+16)、右派66(+6)と好調で、これ以降社会党は左派優位の時代が続きます。
吉田は改進党の保守連携派の協力を取り付け、ひとまず政権維持に成功しました。
ハプニング解散…1980年5月19日、第2次大平正芳内閣
1955年以来、自民党の長期政権は続いていました。しかし、この時点では定数511で258議席に過ぎず、
与野党が伯仲していました。
1980年5月16日、社会党は浜田幸一議員のラスベガス・カジノ疑惑などを理由に不信任案を提出しました。
野党としては単なる揺さぶりで、否決を見越した提出でした(民社党の春日一幸は造反による可決を考え反対した)。
自民党内では、前年の総選挙で苦戦したことから、大平正芳首相への反発が高まり、福田赳夫(現首相・康夫の父)の
再登板を求める反主流派と抗争を繰り広げていました(四十日抗争)。
一度は沈静化したかに見えた抗争でしたが、不信任案提出で反主流派が動揺。一方、主流派にも
敢えて解散に持ち込もうとする動きがあり、自民党から69人の大量欠席で不信任案は可決。
史上初めて、衆議院・参議院同日の選挙になりました。
自民党内は分裂選挙に見えましたが、選挙中の6月12日に大平首相が急死。10日後の投票では、
自民党は287議席と大勝しました。参議院でも70議席で、衆参ダブルで勝利しました。
同情票が集まったとも、解散や首相の急死などでこれまで棄権していた
有権者が関心を寄せ、一番知名度の高い自民党に票が集中したからだとも言われています。
嘘つき解散…1993年(平成5年)6月18日、宮澤喜一内閣
短期間の新自由クラブ(1976年自民党を離党。86年復帰)との連立を除き、自民党は単独政権を維持して来ました。
しかし、相次ぐ汚職に政治改革を求める意見が高まり、与党は選挙制度を変えることでこの声に応えようとしました。
一方、野党は与党案では第1党に有利になりすぎることから、独自の対案を用意していました。
宮澤喜一首相は5月31日「(今国会中に衆議院の選挙制度改革を)やります。やるんです」とテレビで発言しました。
しかし自民党内でも反発は強く、国会中の成立を断念。社会、公明、民社の三党はこれに反発して不信任案を提出しました。
自民党内反主流派の羽田孜・小澤一郎らは人事で冷遇され、また選挙制度改革推進を要求しましたが
受け入れられませんでした。
その結果、自民党から羽田・小澤らが造反して賛成票を投じ、棄権者も出たため不信任案は可決。
さらに、不信任案に反対した中から、武村正義らが自民党を離党し新党さきがけを結成。離党のつもりはなかった
羽田・小澤らも引きずられる形で新生党を結成。これらの離党で自民党は定数512で222議席となり、過半数を失いました。
選挙の結果、1992年の参議院選挙で4議席と健闘した細川護煕の日本新党が0から35議席と躍進。
新生党、さきがけも議席を伸ばしました。自民党は228議席(+5)と善戦するも過半数には届かず。逆に社会党は
73議席(-64)と惨敗しました。選挙後、日本新党がキャスティング・ボートを握った形になりましたが、
小澤は首相の椅子を細川に差し出し、細川を首相とする政権が成立しました。
これで、48年間続いた自民党政権は、いったん終わりました。