第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-09
世界史板より戦国時代板支援(1/4)
●戦国時代の信仰 〜本地垂迹説と神社〜○
高校の日本史で習うことですが、明治初期に神仏分離が行われるまで、日
本の各地では仏教が神社の様式や思想の中に深く浸透していました。
たとえば、19世紀初めの武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一
部)では、専属の神主が神事を司っていた神社は全体の4%程度。
残りは村人が交代で神主を務めたり、神社にいた僧侶(社僧)や近所の寺
院の僧侶、山伏らが出たりして神事を行っていました。
神前では読経(『般若心経』やその系統が多かった)が行われ、神社の御
神体に仏像が安置され、経典が置かれ、仏教風の堂や三重塔や五重塔が見ら
れることも珍しくありませんでした。
今ではそれらの痕跡は多くが消されてしまいましたが、今回は一寸した豆
知識として各神社の本地を御紹介したいと思われます。
言うまでもなく、戦国時代の人々が信仰していたのはこちらでした。
※本地垂迹説・・・仏が娑婆世界の人間を救済するために、本体(本地を
隠し、神という仮の姿(垂迹)で現れたとする説。その後異説や反論が現れ
たが、明治までは多くの地域に存在した。
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伊勢
→言わずとしれた伊勢皇太神宮。大日如来とされたが、観音説もあった。
熱田
→道教の星神である文曲星と同一視されていた。大日如来。織田信長が戦
勝の礼として寄進したという信長塀が現存する。信長は荒廃した八幡宮を修
築させたこともあり、僧侶との親交も深かった。
無神論者だった、第六天魔王と自称していた、自らの神体を崇めさせたな
どの話は、宣教師フロイスしか書いておらず、疑わしいとする意見が強い。
熊野三山
→阿弥陀三尊(阿弥陀如来と弟子の観音菩薩・勢至菩薩)。
八幡
→阿弥陀説と釈迦説があった。「南無阿弥陀仏」同様、「南無八幡大菩薩」
と信仰されていた神。上杉謙信が阿弥陀説を信じていた史料がある。
厳島
→十一面観音。明治まで神社に存在した観音像は現在大聖院にある。
平清盛の時代には観音説があり、少なくとも戦国時代に毛利元就が参詣した
頃には、今と同じ十一面観音像が神社の本地堂に安置されていた。
祭神が弁才天(俗に弁財天とも)とされるのもこの時代である。
出雲(3/4)
→中世には祭神は大国主命ではなく素戔鳴尊とされていた。大日如来。
戦国大名尼子経久が三重塔・大日堂・鐘楼などを寄進しているが、江戸時
代に祭神が大国主命に復した際に他所の寺院に移された。
日光東照宮
→薬師如来。ちなみに秀吉=豊国大明神は大日如来とされていた。
吉備津
→各地に存在しており、有名なのは虚空蔵菩薩を本地とする備中の吉備津
社。備後の吉備津社は戦国時代に荒廃したが、江戸時代になって浅野氏が復
興した。こちらの本地は愛染明王。備前は不明。
戸隠
→源頼朝が挙兵当時に加護を得たという話で有名。現在の奥社・中社・宝
光社は仏教の寺院と同様に奥院・中院・宝光院と呼ばれていた。本地はそれ
ぞれ聖観音・釈迦如来・勝軍地蔵。他の社は弁才天など。
愛宕(4/4)
→現在、祭神は愛宕大神と呼ばれているが、古くは愛宕権現(権現は仏が
仮に神として出現したものという意味。権は仮の意)と呼ばれた。愛宕山は
平安時代以来仏教の霊場であり、本地勝軍地蔵の聖地であった。戦国大名も
勝軍地蔵(武装した姿の地蔵)を信仰したものが多く、司馬遼太郎の小説
『俺は権現』には可児才蔵吉長の信仰が描かれている。
白山
→別当(長官)を務めた僧侶が妻帯して公家の山科家などと縁戚関係を結
んでいたため、公家の日記にもよく登場する。平安時代から僧徒数百人を抱
えた一大勢力で、『平家物語』では源義仲と戦っている。本地は十一面観音。
明治以後、僧侶の多くは還俗させられて神主となった。
以上になります。戦国時代板に大小神祇の御加護のあらんことを。