第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-07

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62山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ
世界史板より明日出場する三国志・戦国板支援@(1/12)
「日本人の名前について」
以前、某雑誌の中で「天草四郎時貞」に対して「なぜ四郎と時貞二つの名前
があるのか興味があるから大河ドラマに出して欲しい」と言った会社員(3
0歳・男)がいました。

しかし、二つの名前があるのは天草だけではありません。
山中鹿介幸盛、本多平八郎忠勝、木下藤吉郎秀吉。彼らにも名前が二つあり
ます。
どうしてこんなことが生じたのか。それはかつての日本人には「所属する所
の名前」が二つ、「個人の名前」が二つ存在したからです。
63山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:45:35 ID:qQesvMa6
まず、「所属する所の名前」。(2/12)
これには氏名(うじな。姓とも言う)と家名(名字あるいは苗字ともいう)
があります。
まず、前者についてご説明すると、源平藤橘や和気、丹波、大江、吉備、安
倍などがこれに含まれます。
藤原道長、平清盛などで「〜の〜」で示される一族の名がこれです。
古代の人物はこの「氏」で示されました。

(3/12)
平安時代末になると、武士が所領の地名をとって相続する家の名にするよう
になりますが、これが名(みょう。田の区分の単位)字と呼ばれました。
毛利という地を支配していれば毛利さん、織田という地を支配していれば織
田さんです。
ではお公家さんはどうかというと、鎌倉時代になる頃には、お屋敷が一条通
りに面しているから一条さん、万里小路に面しているから万里小路さんとい
うように、お屋敷の面した通りから家の名をとるようになります。
菩提寺の名からとった例もあります。○○寺さんや○○院さんがそう。
アニメや漫画でお金持ちが六条さんや袋小路さんや大空寺さんや三千院さん
になっているのは、こうした経緯をふまえたものです。
花園や烏丸というのもあります。雪白や水瀬や覇道は新興でしょうね。
64山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:46:35 ID:qQesvMa6
(4/12)
江戸時代になると、実際の所領から離れて単なる血脈を示すようになり、名
字も血のつながりを意味する「苗字」表記が増加します。
庶民の間にも苗字は存在し、許可がなければ公の場で「名乗る」ことは許さ
れませんでしたが、持っていることはありました。
元々所領を持った武士が名乗っていたものですから、庶民には許可されなか
ったのが当たり前、ということです。

それでは姓は存在しなかったのかというお話ですが、引き続き存続し続け、
朝廷から官位を賜る際に使われることになります。

世界史板より三国志・戦国板支援A(5/12)
次に「個人の名前」について。
これには仮名(けみょう。通称)と実名(じつみょう。諱=いみなとも)の
二種類があり、前者が普段呼ばれる名前で、後者が朝廷から官職を賜る時や
、文書に自らが署名する際に用いられたものです。
四郎、平八郎、鹿介は前者。時貞、平八郎、幸盛は後者です。
65山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:47:27 ID:qQesvMa6
戦国時代の有名人で示してみましょう。
姓    名字   通称   諱
斎部   織田   三郎   信長
豊臣   羽柴   藤吉郎  秀吉
源    徳川   二郎三郎 家康

信長は姓を平だと言っていましたが、本当は斎部氏の出で、「いんべののぶ
なが」であったようです。斎部氏は『竹取物語』にも登場する一族。
織田は先祖がいた越前国、現在の福井県東部の地名。読みは「おた」で、当
時は信長自身も「おた」と呼ばれた可能性があります。
甲斐の「武田」も「たけた」と読まれたようです。

(6/12)
秀吉は「藤」吉郎と名乗っていましたから、最初は藤原氏の後裔を称してい
たのでしょうが、後に信長と同様平氏を名乗りました。
そして、関白になると朝廷から「豊臣」の姓を賜っています。
一方、名字の方は木下から羽柴になっただけ。
羽柴を変えて豊臣にした訳じゃありません。第一、秀吉の伝記の題名を「豊
臣秀吉」とするなら、信長は「斎部信長」、家康は「源家康」にしないとい
けないところです。読みも厳密には「とよとみのひでよし」。(次回に続く)
66山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:49:44 ID:qQesvMa6
(7/12)
家康はというと、最初は藤原氏を称していたのですが、後に「実は源氏の名
門新田氏の一族だった」ということにしています。
徳川(得川とも)は、上野国(現在の群馬県)新田郡内の郷名。
漫画化もした『影武者徳川家康』の種本では、家康には「世良田二郎三郎」
という影武者がいたことになっていますが、世良田も新田郡内の郷名であり
、家康の祖父の清康が名乗っていたものですから、家康が名乗っていてもお
かしくありません。二郎三郎も家康自身の通称です。
家康の先祖については南北朝時代の頃に三河の地に流れ着いた徳阿弥という
時宗の僧侶で、実はそれが新田一族の人であったということになりましたが
、多分新田一族云々は創作で、出自不明の時宗の僧侶であったというのが本
当でしょう。

(8/12)
ここまで「四つの名前」についてお話して参りましたが、一般には名字と通
称だけが使われ、諱の方は文書に使われることはあっても、呼ばれることは
まずありませんでした。それに関するお話を四つほど。
67山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:50:24 ID:qQesvMa6
@西郷隆盛
 誰もが知る人物ですが、彼の諱は元々隆永でした。それを知り合いが朝廷
に届け出る際、知り合いでも「隆永」なんて呼んでいなかったせいで、誤っ
て隆永の父親の諱「隆盛」で登録されてしまい、そのままになってしまった
というお話。
ちなみに、上野の銅像のモデルが彼の弟で、本人に似ていないという話はよ
く知られていますが、明治の政治家金子堅太郎(明治に通称と諱の区別が廃
止された際、通称の方を残した)いわく「あんな感じだった」そうです。

世界史板より三国志・戦国板支援B
A川路聖謨(9/12)
 この名前、読めた人は歴史(少なくとも幕末史)に詳しい人です。「かわ
じとしあきら」と読むのですが、彼はある時困ってしまいました。
 朝廷から官職を賜ることになり、彼の諱が姓と共に読み上げられることに
なったのですが、元服の際につけた「聖謨」の読みなんて、父親も当の本人
も「考えたことがなかった」からです。誰も呼ばないので。
 そこで幕府のブレーンであった林大学頭(大学頭は官職。やはり諱はおい
それとは出しません)と相談した結果「としあきら」にした由。
68山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:51:51 ID:qQesvMa6
B近藤昌宜(10/12)
 誰それ、じゃありません。近藤勇のことです。昌宜(まさよし)は諱。
 ちなみに、坂本龍馬の龍馬も通称で、彼の諱は直柔(なおなり)でした。
 言わずとしれた有名人ですが、明治になって彼のために石碑を建立した永
倉新八(諱は載之)は、とんでもない間違いを犯してしまいます。
 石碑に刻まれた名前は「宜昌」。なんと永倉、局長の名前を間違って記憶
していたのですね。諱はそれほど意識されなかったということです。

C後一条院(11/12)
 幕末に古代に回帰する運動が起きるようになるまで、平安時代中期以降の
歴代天皇は諡号(生前の功績を讃えた称号)ではなく追号(単なる死後の呼
び名)で呼ばれ、○○天皇ではなく○○院と呼ばれていました。
 百人一首の札で「天智天皇」や「持統天皇」と「三条院」や「祟徳院」が
並んでいるのはそのためで、平安時代や鎌倉時代の天皇を○○天皇と呼ぶの
は、後世から見た場合の名称です。
69山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/26(月) 23:53:09 ID:qQesvMa6
(12/12)
 要するに後一条院は「後一条天皇」のことなのですが、御諱は敦成と仰い
ました。
 若くして崩御されましたが、それから幾日か経って、ある人が御諱を「あ
つなり」と読んだ時のこと。
 亡き天皇の母にあたられる藤原彰子がこう仰いました。
 「あら、あの子の名は「あつしげ」と聞いていたのだけれど。」
 親子ですら「聞いていた」レベルであったというお話。

 これらの四つの名前は、明治になって統廃合されてしまいました。
 そのため、現在では姓と名字、通称と諱が混同されています。
(おしまい)