第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-07
ヘ⌒ヽフ カキカキ
( ・ω・)
ノ つ_φ))____
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サッ
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│いろんな飲料・ 食品開発秘話 │
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ヘ⌒ヽフ |│
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ノ う | │ by biz+
ウン
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( ・∀・) (・∀・ ) まずは日清食品の「カップヌードル」ね
(∩∩) (∩∩)
日清食品は1958年に初の袋入りラーメン「チキンラーメン」を開発しました。
その数年後、アメリカで安藤氏が、現地の人々にチキンラーメンを試食して欲しいと渡したところ、
何と彼らはチキンラーメンを割って紙コップに入れ、お湯を注いで食べ始めたのです。
しかも箸が使えないため、フォークで食べました。これが「カップヌードル」のヒントになります。
「どんぶりではない何か新しい容器を開発することができれば、いつでもどこでも、
食べたいときに食べることができる・・・!?」
「パッケージは熱を通さず保温性のあるものを探した結果、魚箱などに使われていた発泡スチロールを使用。
フタは飛行機内で出るナッツのパッケージからヒントを得たそうです。
発想の原点となったチキンラーメンは、具材は入っていません。
そこで、「世界の人たちに食べてもらうにはいろんな具が入っていた方がいい」と、
いろいろと試行錯誤の結果、固形物では初の『フリーズドライ製法』を採用することになりました。
さらに、工夫を重ねて麺をちょうどカップの中間に来るように工夫しました。
これと共に、麺自体も下がまばらで上になるほど密度が高くなるようにしました。
これによって、上部空間はカップが揺れても具材を壊れにくくし、
下部空間は降りてきた熱湯が麺を下からも包み込み、
全体をムラなくほぐすことができるようになりました。
また麺がちょうど容器に密着することで、容器の側面補強もできました。
トラックで運んでも容器が壊れないように、まさに一石二鳥のアイデアでした。
カップラーメンは発売当初1個100円と、決して安いものではありませんた。
でも、その便利さに注目が集まり、瞬く間に革命的な人気商品になりました。
発売の翌年に「あさま山荘事件」が起こりましたが、
機動隊員に食糧として出されたのがこのカップヌードルでした。
お湯さえあればどこでも食べられる食品の威力がいかんなく発揮されたのです。
∵∴パーン!
∧_∧\ξ/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・) ∇ < 次は大塚食品の「ボンカレー」だよ!
(((つ───つ \__________________
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(__) (__)
カレースパイスを扱う会社に資本参加した大塚食品は、会社建て直しの為、新商品の開発に迫られていました。
缶やルーではない、今までにない斬新なカレーはできないものか。
その頃、偶然、開発陣の目に止まったのが、アメリカのソーセージの真空パックに関する記事を扱った本でした。
「この技術とカレーを組み合わせたら、お湯で温めるだけで食べられるカレーができるかもしれない。
1人前入りで、誰も失敗しない美味しいカレーが!」
早速開発陣はレトルトカレーに挑戦することになりました。
しかし開発は困難を極めました。レトルト食品はアメリカの軍事物資なので、ノウハウは入手不可能。
すべてを自分たちで開発するしかありませんでしたが、
当時の大塚食品にはパウチにする包材もなければ、レトルト釜もありませんでした。
自分たちが持っていた殺菌技術を用いて、なんとかレトルト釜はできるようになりました。
それからもさまざまな苦労を重ね、試行錯誤の末、
1968(昭和43)年3月、日本初の市販レトルト食品「ボンカレー」が誕生しました。
それは、パウチを3分間お湯で温めるだけで1人前のカレーが食べられる画期的な食べ物でした。
苦労の末に開発したパウチは、低圧ポリエチレンとポリエステルの2層構造を採用しました。
当初の商品は光と酸素によって風味が失われてしまうため、
賞味期限は冬場3ヵ月、夏場2ヵ月が限度でした。
しかしここで問題が起こります。
シーリングが甘かったり、運搬時の衝撃でパウチに微細な穴が開き、
そこから空気が入って菌が発生してしまったのです。出荷した半分が
不良品になってしまうという事態が発生しました。
急遽対応に迫られた大塚食品は、翌年の5月、包材メーカーと協力して開発した
ポリエステル/アルミ箔/ポリプロピレンの3層構造パウチを新たに採用します。
アルミ箔が光と酸素を遮断するため、初期の問題は完全にクリアできました。
また、同時にこのパウチによって、賞味期限を2年に伸ばすこともできました。
この間、1年2ヵ月。苦労して製品を仕切り直した新生ボンカレーこそが、後に爆発的なヒット商品となっていくのです。
γ ̄ヽ
r'-'| O | 〜 次はマルシンフーズの「マルシンハンバーグ」だよ
`'ーゝ_ノ 〜 ∧_∧
| ,| 〜 (・ω・`*)
,,-/ ̄|、 O旦と )
ヽ__シ (__(__つ
今から約50年前、東京・築地の魚市場で、新川有一という
水産加工品会社を経営する若者がいました。
進取の精神にあふれる新川は、水産加工品とは全く関係のないものに目を付けました。
それがハンバーグだったのです。
1960年代前半と言えば、そろそろ食の欧米化が進んできた時期。
新川はその頃まだ珍しかったハンバーグを食べ、いたく感銘を受けたそうです。
「これは美味しい。家庭で簡単に食べられるようになれば大ヒットするはずだ」と。
それは、商売の神様が舞い降りた瞬間でした。
新川は日本初となる調理加工されたハンバーグの製造に乗り出します。
まず、どんな肉を使うか。牛肉は値段が高く、供給量も少ないので使えません。
新川は鯨肉、豚肉、マグロの肉を選びました。
次なる問題は、鮮度をどうやって保つか。またどうやって調理の手間を減らすか。
買った後に手をかける必要があるなら、主婦は買ってくれない。
更には製造コストの問題もありました。
こうした問題を同時にクリアする方法はないものか。
新川は技術者たちと共に研究に取り組み、ついに画期的な調理技術を開発したのです。
それが、当時“食の革命”とまで呼ばれた独自の「油脂コーティング」です。
加熱処理したハンバーグ全体に、ラードを薄く塗布加工する技術です。
コーティングしているので、保冷程度の温度で鮮度を保持できます。
もちろん、調理時はコーティングしてある油が溶け出すので、フライパンに油を引く必要がありません。
製造コストも驚くほど低く抑えることができました。
新川は油脂コーティングに関する特許を取得し、ついに念願の調理ハンバーグ製造に乗り出しました。
絶対の自信を持って売り出した「マルシンハンバーグ」。
それにもかかわらず当初はなかなか売れませんでした。
その最大の理由は、「ハンバーグ」という食品に対する知名度の低さにありました。
肉食分化は徐々に家庭に浸透してましたが、
ハンバーグがどんな食べ物かよく知らない家庭がほとんどだったのです。
それどころか、販売する側の人間もハンバーグの存在をよく知りませんでした。
マルシンフーズは築地のような市場経由で商品を全国に流していましたが、
同社の営業マンは市場で働く人々から「それ何? さつま揚げのオバケかい?」
とからかわれたそうです。
こんな状況では、どんなに良い物を作ってもなかなか売れません。
営業マンたちは全国の市場や販売店に出向き、
店先で実際にマルシンハンバーグを焼いてみせました。
「これがハンバーグですよ。どうです、美味しいでしょう?」
各地でねばり強くこうした実演販売を続けた結果、マルシンハンバーグの名は徐々に全国に広まっていったのです。
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∧∧゙||. ∧∧ 次はUCC缶コーヒーです。
(*゚ー゚)|| (,,゚Д゚) / わたしたちのように甘くておいしいコーヒーですよね。
ノ ,づΦ/ | /
〜(,,_O_O(,,_/ 、/, ,/、, ン、,
缶コーヒーの誕生は、UCCの上島社長が1960年代後半に経験した出来事がきっかけです。
列車を利用して毎日のように全国を飛び回っていた上島は、
ある日、駅の売店で瓶入りのミルク入りコーヒー(コーヒー牛乳)を買いました。
ところが飲もうとした途端に発車のベルがホームに鳴り響いたため、一口だけ飲んで慌てて電車に飛び乗りました。
瓶を売店に返さなければならなかったからです。
「あー、もったいないことをしてしもた」
──農家の五男として育った上島には、物を大切にする習慣が身に付いていました。なんとも悔しくてたまりません。
「そうか、缶や。缶入りのコーヒーならいつでもどこでも飲めるから、飲み残すことはない。
しかも常温で流通できるから、商材としても扱いやすいはずや」…上島はすぐに「缶コーヒープロジェクト」を立ち上げました。
開発に当たって、UCCは「ミルク入りコーヒー」であることにこだわりました。ミルクが滋養強壮にいいという考えからです。
ところが、さっそく問題が起こります。コーヒーの抽出液とミルクをがうまくうまく溶け合わず、ミルクが浮いてしますのです。
この問題はミルクの粒子を均質化する技術で解決しました。
次に直面したのは、殺菌処理による味の変化でした。
長期保存するためには、低温殺菌ではなく高温処理する必要があったのですが、
ここで加熱による臭いが味に出てしまうのです。
加熱後においしく感じる最適な成分比率をなんとか発見。味の問題を解決することができました。
最後に待ち受けていた難題が、コーヒーと缶の間で起こる化学反応でした。
缶から鉄イオンが溶出し、コーヒーの成分のひとつであるタンニンと結合してしまうのです。
その結果、コーヒーが真っ黒になってしまいました。上島は「ブラックコーヒーを作れとは言うてないで」と苦笑したそうです。
これも、缶の内側に特殊なコーティングを施すことで解決しました。
完成したコーヒーを試飲した上島は、「成功、満点や」とひと言だけ言い、
感涙にむせびながら開発陣一人一人の手を握ったそうです。
こうして1969(昭和44)年の4月。値段は喫茶店のコーヒーとほぼ同じ1本70円のUCC缶コーヒーは発売されたのです。
その後、大阪で開かれた万博会場で大人気となり、缶コーヒーのパイオニアとして、国民に愛される飲み物になりました。
最後は永谷園の「お茶漬け」だよ〜
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ∧_∧
( ・∀・) ∧_∧ (・∀・ )
( つ )つ ( ・∀・) /( б ) ポイントは「あられ」だよ〜。
l⌒__ノ (○ ) ∪⌒__ノ
し' し' (_)`∪ノ (_/ ヽ_)
江戸時代中期から京都の宇治で製茶屋を営んでいた永谷家。
9代目当主・永谷武蔵は、煎茶の販売だけでなく、細かく切った海苔に抹茶や食塩などを加え、
お湯を溶いて飲むユニークな「海苔茶」というものを販売していました。
・・・しかし太平洋戦争の敗戦によって日本経済は壊滅状態に。永谷園も一時的にその看板を下ろすことになりました。
永谷園復興を担っていたのが、10代目の当主・永谷嘉男です。
嘉男は永谷園の看板を再び掲げるために、さまざまな努力をしましたが、画期的な商品は、なかなか生まれませんでした。
仕事帰りに居酒屋で飲みながら「どうしたらいいのか」と悩む日々が続いたのです。
ある日、居酒屋で酒を飲んでいた嘉男は、いつものように仕上げにお茶漬けを頼みました。
「おいしいなあ。こんなお茶漬けを家でも食べられたらいいのに」 そう思った嘉男の脳裏に、父が作った海苔茶が甦りました…・・・。
「そうだ。なにもお茶から離れる必要はない。海苔茶をご飯にかけたら、おいしいお茶漬けができるんじゃないか」。
この発想がすべての始まりでした。嘉男は、一気呵成に即席茶漬けの開発に乗り出しました。
原料は、塩、砂糖、抹茶、昆布粉、刻み海苔、調味料。
それらの種類を吟味し、配合を研究する。基本的な部分は上手くいったが、何か一つ足りない・・・。
何が足りないんだろう・・・。ヒントは京都にありました。
もともと京都には、カリカリとした小粒あられが散りばめられた「ぶぶ茶漬け」や、
おかきを入れた「かきもち茶漬け」を食べる習慣があります。
「あられを入れたら香ばしい風味もプラスできる」そう考えた嘉男は、早速あられを海苔茶づけに取り入れました。
このあられを入れるというアイデアは、思わぬ効果もありました。
あられには吸湿性があり、海苔が湿気るという問題も解消していたのです。
1952(昭和27)年、晴れてお茶づけ海苔の原型が完成。当時の価格は1袋10円。
公務員の給料が6000円くらいだったから、かなりの高額商品でしたが、もともと日本人には馴染み深いお茶漬け。
それが家庭で簡単に食べられるわけですから、効果的なセールスと相まって、すぐに人気商品になりました。
生産量は日を追って増加。今でも続くロングセラーになっています。
∧_∧
( ・∀・) 以上、ビジネスnews+からの「いろんな飲料・ 食品開発秘話」でした。
oノ∧つ⊂)
( ( ・∀・) 知らないで食べてたけど、開発には信じられないような苦労があったんだね。
∪( ∪ ∪
と__)__) バイバーイ。ミテクレテアリガトウ。