第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-01

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446戦国時代板支援物資(1/10)
戦国時代板にあった面白スレを紹介します

出典:歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152719747/

桶狭間の戦いで今川義元が勝っていたら?
関ヶ原で西軍が勝っていたら?
歴史が別の方向に行っていた場合の人物略歴を創作するスレッドです。

まとめサイト
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/35.html

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/07/13(木) 00:55:47 ID:OX2xNUhU
織田信長(1534―1560?)
尾張守
尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って
一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に
攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。
447戦国時代板支援物資(2/10):2008/05/03(土) 01:23:23 ID:Oh76hsVd
7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/07/13(木) 04:13:55 ID:ijG9umDh
徳川家康(1543―1572)
三方ヶ原の戦いに大敗し籠城するも、
血迷うて自ら門を開けたため、あっさり敵に討ち取られる。
脱糞して戦死したことから「海道一のウ○コ野郎」と現在までバカにされる。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/07/19(水) 22:48:02 ID:rleJipl4
佐々成政(?〜?)
 織田信長の家臣。越中富山城主となる。家臣の制止をきかず厳寒のアルプス山中に入り消息を絶つ。
彼の目的が何であったのかは現在に至るまで謎である。

41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/07/19(水) 23:27:19 ID:YMmgDnxS
吉川元春(1530〜?)
 毛利元就次男。1543年、元服。1547年、父の命により熊谷信直の娘と結婚することになるが、
娘があまりに不器量であったため、対面の儀で逃走、その後の行方は分かっていない。
448戦国時代板支援物資(3/10):2008/05/03(土) 01:24:13 ID:Oh76hsVd
47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/07/20(木) 21:55:41 ID:pCBcuVcW
北条氏政

父、氏康と食事をとっている最中、飯にかける汁の分量を誤ったことから、
氏康に疎んじられ、廃嫡。その後は不遇の人生を送った。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/07/20(木) 22:57:18 ID:04rd0jc/
伊勢新九郎(1456年〜?)
家臣の制止を振り切り単独で鹿狩りの振りをして小田原城侵入、
すぐさま大森藤頼の警護兵に捕縛される。「戦国の虚け者」として名高い人物。

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/07/21(金) 09:04:44 ID:hG02U3jU
今川氏真

古来より日本に伝わる蹴鞠から発展した、蹴球の創始者。1573年には、
初の世界杯を開催。初代日本代表の主将を務める。
449戦国時代板支援物資(4/10):2008/05/03(土) 01:25:31 ID:Oh76hsVd
65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/07/26(水) 17:41:29 ID:VXQkFQt1
戸次鑑連(1513-1537)

1526年3月、佐野親基、問田重安らを大将とする大内勢が馬ケ岳城を占領。大友義鑑はすぐに戸次家に攻撃を命じた。
その時、父の親家は病に伏しており、初陣でありながら鑑連が采配をふるう事になった。
鑑連は夜のうちに駆けて馬ケ岳城に迫り、朝日が昇る前に猛然と攻め、
わずか一日の戦闘で城方を降伏せしめた。この華々しい初陣で鑑連の名将としての名は誰も知らぬ者がいないところとなった。
同年6月1日、戸次家の家督を継承。烏帽子親は大友義鑑で、「鑑」の一字をもらい守親から鑑連に改名した
。これは父の親家が4月19日に死去したためによる急な家督継承であった。

しかし若い頃、鑑連は夏のある日、木陰で俄雨をよけていると
突然落雷に襲われ、感電死してしまった。
450戦国時代板支援物資(5/10):2008/05/03(土) 01:26:32 ID:Oh76hsVd
81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 21:45:16 ID:JFQASASu
宇喜多秀家 1573)〜(1615
宇喜多直家の子として生まれ1581直家の病没により9歳で家督継ぐ。
豊臣秀吉に気に入られ秀吉の一門衆としての扱いを受ける
若くして五大老に名を連ねる中納言の官位を得るが
1600年関ヶ原にて西軍の主力として奮戦するも敗北し八丈島に配流となるも
慶長19年大坂冬の陣にて八丈島より泳いで大阪城に入場するも
徳川の物量には敵わず大阪夏の陣にて自害する
秀家が言ったとれる「八丈島より泳いで参った」はあまりに有名

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/09/11(月) 16:01:58 ID:Pm191mzg
羽柴秀吉(1536〜1583)
織田家臣。はじめ木下と名乗っていたが
重臣、丹羽長秀と柴田勝家の姓より一字づつ取り、羽柴へと改姓する。
が、勝家とは性が合わなかったらしく、度々衝突を繰り返したと言う。
信長が本能寺の変により討たれると、攻略中の中国地方より急ぎ引き返したが、
いち早く光秀を討った勝家に功を奪われる。清洲会議では長秀らと共に
三法師を推すが、信孝を推す勝家に退けられる。この政争により勝家との抗争
に打って出るが、筆頭家老の勝家に敵うはずもなく、滅ぼされる。
賤ヶ岳で討たれた際に、「柴羽にしときゃ良かった」と洩らして息絶えたと伝えられる。
451戦国時代板支援物資(6/10):2008/05/03(土) 01:27:02 ID:Oh76hsVd
187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/09/11(月) 23:16:49 ID:hOnBw2me
石田三成 (1560〜1600)
豊臣家に仕えて奉行として頭角をあらわし、徳川家康や武断派諸将と対峙。
1600年、関ヶ原の戦いを指揮するも敗れ、捕らえられた。
六条河原の刑場に曳かれる途中、食べた干し柿を喉に詰まらせて死亡。
それ以来、水代わりに干し柿を供することは「 痰の毒」として忌まれることになった。

201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/09/18(月) 21:26:02 ID:l/zrjb4N
ホトトギス(1560―1561)
尾張国に生まれる。
単独で清洲城の塀を飛び越え、潜入に成功するが
出自が鳥であったために織田家に捕われる。
信長に鳴けと命ぜられるが、鳴かず、処刑される。

信長の性格や時勢を読み取る事ができなかった暗愚の鳥と評されるが
近年、鳥としては凡鳥であったのではと再評価の動きも見られる。
墓は清洲城内にあると推定される。享年1歳。
452戦国時代板支援物資(7/10):2008/05/03(土) 01:27:50 ID:Oh76hsVd
282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/11/09(木) 16:49:39 ID:qRr7oFMP
松永久秀(1510?-1582)
弾正少弼。その詳しい出自は不明。三好長慶のもとで頭角を現した久秀は
将軍・足利義輝をを始めとして、長慶の実弟・安宅冬康、
長慶の嫡男・三好義興らを次々と暗殺。事実上、三好家を乗っ取る。
その後、台頭してきた織田信長に降伏した久秀は三度まで謀叛を企てるが失敗。
それでも信長に気に入られていた久秀は、名物茶器を献上することで命を永らえる。
1582年、信貴山城主だった久秀は明智光秀と謀って本能寺に逗留中の信長を討つ。
一時は光秀と共に畿内を制圧した久秀であったが、今度は光秀暗殺を画策。
しかし、それは彼の動きを警戒していた光秀によってあっさりと露見。
居城を放棄した久秀は西国への脱出を目論むも、竹薮に潜んでいた、
かつて久秀に所領を追われた大和の豪族・筒井順慶の手の者によって竹槍で殺される。
戦国を代表する梟雄のあっけない最期であった。

285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/11/15(水) 00:56:16 ID:I9RfgxCH
今川氏真
世界的蹴鞠ブームの火付け役
453戦国時代板支援物資(8/10):2008/05/03(土) 01:29:07 ID:Oh76hsVd
335 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/11/30(木) 02:41:15 ID:X1QCZVOf
足利義昭
室町幕府第十五代将軍。
兄義輝の死後、諸国を流転し、濃尾を平定した織田信長の協力をとりつけ、上洛、将軍職に就く。
その後織田信長と対立するにいたり、各地の大名と共に信長追討を企てるも
しかし諸侯の足並みが揃わず、頼みの武田軍も信玄の死亡により帰国。浅井・朝倉は滅亡。

その事を知らない義昭は僅かな兵と共に勝龍寺城で挙兵してしまう。
圧倒的な織田軍に囲まれ、猛攻を受けるがそれを尽く退け戦線は膠着、長期戦の様相を呈す。
翌年、一向宗が各地で決起、勝竜寺城の囲みは解かれ、帰京を果たす。
六角の残党、丹波・摂津の諸豪族を従え、近江に乱入、一進一退の攻防を繰り広げる。
その間にも得意の謀略で伊賀・伊勢の諸豪族を自陣営に引き込み、朝倉旧臣をもって越前を乱し
遠江を平らげた武田勝頼の西上と歩調を合わせ、織田陣営を圧迫。
関ヶ原で両軍が対陣、その間に武田軍が徳川軍を降伏させると、信長に城下の盟を強いた。
足利幕府の威光は高まったが、直轄地の少なさから諸豪族の統括に苦心。
織田への仕置きに不満を持つ武田、台頭した一向宗、毛利一族の圧迫などへの対応にも苦慮し、
1582年、死去。心労がたたった為、と言われる。

彼の死後、足利幕府は崩壊する。
454戦国時代板支援物資(9/10):2008/05/03(土) 01:30:12 ID:Oh76hsVd
446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/08/07(火) 14:30:16 ID:WkAPhMAh
北条氏政(1538-1615)
北条氏康の次男。兄の早世により家督を継ぐ。
苦労を知らずに育った氏政は覇気に欠けてどこか頼りなげで、
名君の誉れ高い父・氏康からすればどこか物足りなく見えたという。
氏康はある時、食事の席で汁を何度も飯にかけて食する氏政の姿を見て
「どれほど汁をかければ一度で済むのか分からないとは・・・」と嘆く。
しかし、それを聞いた氏政は「一度に汁をかけることもできますが、
それだと後から食べる飯がふやけてまずくなります。お父上の考えもご尤もかと思いますが、
私は民が作った飯を最後の一粒まで楽しみたいのです」と反論して氏康を唸らせる。
この件で氏康以下家臣団からも跡継ぎとしての信頼を得た氏政は、
父の死後も時流を見極めながら北条家の家名を守ることに務め、その後の豊臣、徳川両政権下でも大大名として生き残ることとなる。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/01(木) 21:07:42 ID:tkrSAEe0
朝倉義景(1533〜1603)
足利幕府管領。越前の大名であったが、1565年足利義昭を奉じて上洛。
以後三代の将軍に仕え、滅びかけた足利幕府を再興させた名臣と呼ばれる。
文化振興に力をつくした。特に彼の好んだ漆金工芸は大きな発展を見せ、
現在でも英語の一般名詞「japan」が「漆器」を指すほどになっている。
漆金趣味が高じて、遺言により自らの頭蓋骨を薄濃にさせたことは有名。
455戦国時代板支援物資(10/10):2008/05/03(土) 01:30:52 ID:Oh76hsVd
488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/12/19(水) 18:05:28 ID:o2p8yTkl
真田幸村
戦国大名真田昌幸の次男。本名は信繁。
関ヶ原の合戦の際、父と共に徳川秀忠軍を釘付けにするも、西軍が敗れた為に九度山に流される。
1614年、大阪城の豊臣秀頼の要請を受け入城。
大阪冬の陣では大阪城弱点とされる南側に出丸を築き、徳川軍に大損害を与えた。
夏の陣では敵本陣を目指して突撃し、一時は家康を脅かすほど奮戦したが適わず討ち取られたというのが通説だった。
しかし2005年2月13日、鹿児島県の農家が山中に潜んでいる幸村さんを偶然発見した。
警察の調べによると、徳川家の打倒を目指して山中に潜伏していて、徳川幕府の崩壊にも気づかなかったという。
2005年2月18日、彼は故郷の上田に415年ぶりに帰郷した。

495 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/03/03(月) 03:20:57 ID:sGWRq0XU
佐々成政(1536〜1588)
尾張国春日井郡に生まれる。5歳のとき、父に連れられてはじめて小牧山に登る。
織田家に仕えて柴田勝家の与力となり、伊吹山・白山などに登頂。
富山城主を務める傍ら、1584年に日本初の厳冬期の立山・北アルプス縦走という偉業を達成した。
上高地の美しさや、黒百合をはじめとする立山の美しい動植物を紹介したのも成政である。
1588年、阿蘇山の根子岳登頂中に滑落死。享年53。
死後佐々神社に祀られ、登山家と高山植物研究家の守り神として知られている。