第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-032
□■□■□■□漫画少年たちの地上の楽園■□■□■□■
■□■□■□■ エロマンガ島の歴史 □■□■□■□■□
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※エロマンガ島が温暖化による海面上昇によって水没したというのは、
伊集院光のラジオの投稿によるデマです。ご注意ください。
ことの始まりは、1820年代に白人によって白檀の樹の発見にさかのぼります(白檀は高価な香木です)。
白檀発見以来おおくのヨーロッパの交易船がこの島を訪れるようになりました。
しかし交易によってエロマンガ島に入ったのは白人だけではありませんでした。
エロマンガ島に来た白人達(主にイギリスとフランス)と一緒にインフルエンザ・ジフテリア・百日咳などの
病原菌も島内に持ち込まれたのです。そのため島の人口は急減してしまいました。
当時は、交易をする商人と一緒に宣教師も乗り込みキリスト教の布教活動に取り組んでいました。
しかし不運にも、宣教師たちが慈善活動の一環で与えた毛布や衣料を経由して伝染病が感染し、被害が
さらに拡大してしまったのです。
更に当時イギリス領であったオーストラリアのサトウキビ畑で働かせるため、ブラックバーディング
(労働者誘拐)が行われました。
これらによって、1930年代までにエロマンガ島の人口はわずか400人足らずになってしまったのです。
ちなみにブラックバーディング(労働者誘拐)は1847年から行われましたが、誘拐まがいのものは初期
のころだけで、多くの島民は自発的な意思でオーストラリアに移住しています。
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―`―--^--、__ /:::::::::=ソ / ヽ、 / ,,|/ この人肉は養殖だな!!
/f ),fヽ,-、 ノ | 三 i <ニ`-, ノ /、-ニニ' 」')
i'/ /^~i f-iノ |三 彡 t ̄ 。` ソ ハ_゙'、 ̄。,フ | ) あるじを呼べい!!!
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■□エロマンガ島の人食伝説□■
当時のエロマンガ島を含むニューヘブリデス諸島では、食人の風習があったようです。
特に北部の島々(エロマンガ島は南部)では食人は戦闘に関する儀礼的なものではなく、
「人肉は豚肉より美味」だとされ、販売目的の人間狩りや人間の飼育まで行われていた
とされています。 食用人間 (((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル ((((
□■□英仏に共同統治されていたエロマンガ島□■□
1906年から1980年まで、エロマンガ島を含むニューヘブリデス諸島は、英仏によって共同統治される
という珍しい歴史を持ちます。
白檀貿易時にイギリスとフランスが進出したのですが、1878年の覚書において「お互いにニューへブ
リデス諸島の独立を尊重する」旨取り交わし、国際法上の植民地化は行わなかったためです。
実際には島民の独立政府などはなく、島は無政府状態となりました。
結局1884年にフランス人が島民に殺されるという事件が起き、フランス軍が上陸。これをきっかけに
英仏両国は1887年に共同海軍委員会を設立。
一時大戦後の1906年、英仏両国はニューへブリデス諸島を共同統治領にして、イギリスとフランスの
政庁、それに合同政庁という3つの政府が諸島内に成立します。
そのため、イギリス人はイギリスの政庁が管轄し、フランス人はフランス政庁が管轄。郵便や通信、税関、
衛生、公共工事などは合同政庁が担当という複雑な分担となりました。
更に地方では、それぞれの島や村にイギリスとフランスの警察や学校が別々にでき、司法は下級裁判所
としてイギリスの裁判所とフランスの裁判所、先住民裁判所が作られ、その上に第三国の裁判長がいる
合同裁判所を置くというすごい状況だったそうです。
1980年にバヌアツ共和国として独立後も、共同統治の影響で、学校教育も英語とフランス語の学校に
分かれたままで、イギリス派とフランス派の政権交代が続いています。