第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-015
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ピュ.ー ( ・∀・)< 天佑を確信し全軍突撃せよ
=〔~∪ ̄ ̄〕 \____________
= ◎――◎
太平洋戦争・捷一号作戦、連合艦隊出撃に際して
こんばんは。懲りずにまたまたやってまいりました、皆さんの世界史板です。
今回は三戦板の”戦国”にちなみ、武田信玄公の「武田騎馬軍団」から。
世に名高い武田騎馬軍団。あくまでも「騎馬軍団」であって「騎兵部隊」ではないんですね。
「騎馬軍団」と「騎兵」、この差はなんなのか。
それについてちょっと考えてみたいと思います。
. Y⌒| ̄ ̄| /. . Y⌒| ̄ ̄| /
ゝ |__|___ /Λ彡 ゝ |__|___ /Λ彡
/ ( ゚Д゚)〆彡 ・\ / ( ゚Д゚)〆彡 ・\ <突撃すんぞゴルァ!
/ /(X:う彡 .人_) / /(X:う彡 .人_)
Y⌒ | | │ / Y⌒ | | │ /
ゝ ∪ ─│_\ ゝ ∪ ─│_\
/ ノノ ヽ\\ / ノノ . ヽ\\
//// ノ /) ) //// . ノ /) ) 図・サーベル騎兵
騎兵とは、端的に言えば馬に乗った兵士だけで構成された部隊です。
その最大の武器は速力。
近世、内燃機関にその座を譲るまで、馬の速さに敵う兵科はありませんでした。
その打撃力は相当な物で、彼らによって勝敗の決した戦場は数多くあります。
たとえるなら、殺る気満々のバイク(槍付)が集団で突っ込んで来るようなものです。
私なら逃げます。
実際、側面や後方から騎兵に切り込まれた歩兵は混乱し、立て直すのは至難の技でした。
しかし、騎兵とて常勝であったわけではありません。
彼らは大変強力な兵科でしたが、その反面弱点も持っていました。
騎兵の最大の武器が速力であることは先に述べました。
それは裏を返せば、速力が無くなってしまえば大変脆いと言うことです。
では速力を削ぐにはどうすればよいか。
泥濘地、堀、馬防柵、あるいは槍兵でさえ彼らを撃退することは可能だったのです。
ひとつ例を挙げてみましょう。
西暦1302年、フランドル(今のオランダ、ベルギーの辺りです)でそれは起きます。
対峙するは、フランス王フィリップ4世率いるフランス軍と、独立の意気に燃えるフランドル反乱軍です。
兵力はフランドル軍がフランス軍の3〜4倍でしたが、フィリップ4世には余裕がありました。
当時、装甲槍騎兵10名は槍兵100名に匹敵すると言われ、装備と訓練の行き届いたフランス騎兵に対して、
市民兵が主体のフランドル軍はろくな騎兵が揃えられなかったからです。
しかし、突撃を開始したフランス騎兵は思わぬ障害に遭いました。
それは、フランドル軍が事前に作っていた泥濘地でした。
泥に足をとられた騎兵は思うような速度が出せないまま、槍兵の隊列に突っ込んで行きます。
その結果は惨々たるものでした。
歩兵の中で立ち止まった騎兵のたどる運命はひとつです。
いかな重装備といえど、馬から引き摺り下ろされ、鎧の隙間から剣を突きこまれてはひとたまりもありません。
最終的にフランス軍は、1000名近い騎兵を失って後退します。
この戦は、戦死したフランス騎兵の拍車(馬を操る為に靴に取り付けられた車輪のような物です)をフランドル軍が
奪い合ったことから、「金の拍車の戦い」と呼ばれることになります。
かくのごとく、速力を失った騎兵は大変脆弱なものでした。
また、いかに重装備を誇る欧州の装甲槍騎兵といえども、槍兵の隊列に正面突撃をするときはそれ相応の対価を
覚悟しなければなりませんでした。
戦場におけるもっとも有効な騎兵の運用は、
1.敵部隊の後方、あるいは側面に回りこませての突撃か退路の遮断。
2.味方歩兵部隊で作った敵隊列の隙間にねじこみ、敵部隊の壊乱・分離を狙う。
3.追撃による戦果拡大。
つまり騎兵とは、折れやすいがこの上なく鋭い、「将軍の剣」だったのです。
そろそろ本題に入りましょう。
なぜ武田騎馬軍団=騎兵ではないのか。
その理由は、騎馬軍団の編成にあります。
武田騎馬軍団で馬にのっているのは主に武将だけであり、多くはその周りに徒歩の郎党を従えていました。
つまり、運に乗っているのは指揮官だけで、部隊のほとんどは歩兵だったのです。
これは武田の騎馬軍団に限った話ではなく、日本には「騎兵部隊」というものが生まれませんでした。
ドラマや漫画でよく見られる騎馬武者の集団突撃、それは実際には日本で目にすることはできない光景だったのです。
では、日本では騎兵が発達しなかったのはなぜでしょうか。
ひとつには、日本の地形が挙げられます。
山がちで平地の少ない日本では、騎兵の活躍する場がなかったのです。
関東平野や濃尾平野があるじゃん、と思われるかもしれませんが、どちらも多くの河川に区切られ、また多くの
湿地や泥濘地が点在していました。
上で述べたとおり、軟弱な地盤や越えられない河川などは騎兵の最大の敵です。
自然、日本では必要の無い兵科である騎兵は発達しなかったのです。
もうひとつ理由があります。それは、日本馬の体格が非常に貧弱であったことです。
一説には、日本馬の平均体高は130cm、せいぜいポニーぐらいだったと言われます。つまり、
\∧_ヘ アヒャ /
/\〇ノゝ / <イッキウチ!イッキウチ!
/三√゚∀゚)/∧彡
U :::::::::::) 彡 ・\
//三/|三|彡 人_) ←こうではなく、
(⌒ ̄(_) )
ゝ ノーヽ ノ
| || | | |
i__ヽヽ i__ヽ
\∧_ヘ /
/\〇ノゝ / <エエッ!? ソリャネェヨ!
/三|||´Д`)/∧彡
U :::::::::::) 彡 ・\
//三/|三|彡 人_) ←こうだった訳です。
(⌒ ̄(_) ノ
| || | | |
i__ヽヽ i__ヽ ヽ
日本では騎兵が必要とされなかったため、自然、馬の品種改良がおろそかになっていました。
交配の制御による品種改良は、人類発展の原点ともいえます。
現に競馬場で見られるサラブレッドなどは、度重なる品種改良を経て今の姿になりました。
これのなされなかった日本馬は、貧弱な体格のままだったのです。
日本馬の体格に関するものとして、こんなエピソードが残っています。
明治維新後、日本陸軍の秋山好古らは騎兵の養成を命じられます。
欧米産に比べて圧倒的に貧弱な体格の日本馬では物の役に立たないと考えた彼らは、品種改良に乗り出しました。
しかし当然ながら日露戦争には間に合わず(当時、たった50年足らずでは大幅な品種改良などできません)、
日本馬の体格は貧弱なままでした。
この馬では当時世界最強と謳われたコサック騎兵に対抗できないと考えた彼らは、それに相応しい運用法を編み出します。
すなわち、移動や偵察時には馬を用い、交戦時には馬を下りて陣地を形成するというものです。
近世欧州の竜騎兵のような用い方ですね。
彼らはこの運用法により、日露戦争で重大な役割を果たすことになり、秋山好古は「日本騎兵の父」と呼ばれています。
このような理由により、日本では騎兵が発達することはありませんでした。
いつの間にか武田=騎馬軍団という認識になった理由としては、いくつか考えられます。
それは、武田氏の馬の運用法にあったのではないかと思われます。
普通、平地育ちの馬は下り坂が苦手です。勾配が急になると、怖がってそれ以上動けなくなるといいます。
その点、山岳地帯の甲斐(山梨県)で育った馬は坂の上り下りなど日常茶飯事です。
これにより、いつも部隊のお荷物である輜重隊(補給部隊)は、特に山道などでは敵の予想を超えた速度で動けるでしょう。
信玄は逃げ上手だったと言われますが、この意外とこの辺りも関係してるかも知れません。
また、この頃の日本馬は去勢をせず、馬の気性は荒っぽかったといいます。
馬と言うのは草食動物ですから、基本的に臆病で暴れやすいものです。
もしかしたら信玄のことですから、馬を御する事に通じた技術者集団を擁していたかもしれませんね。
以上、長々と論じてきましたが、このあたりでお開きにさせて頂きたいと思います。
世界史板的日本史考察(?)いかがだってでしょうか。
なお、AAを勝手に拝借させていただきました世界史板AA職人の皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。
大変長らくお待たせ致しました。次のかたどうぞ。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧''"""ヘ、 | 騎兵ですか…我がアステカ王国には縁の無い話ですね。
/∵≡゚ ▼) |
`゙''ヽ (,,゚Д゚) < 馬 が い な い か ら な !
し 、乂つ |
人::,,,,,ノ | 投票されてない方、迷われてる方、是非とも<<三国志・戦国板>>へ一票を!
U"U \_______________________________