第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-015

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335三戦板 蜀・呉小ネタ 1/7
●劉備  人間は耳だ!顔じゃない

「この大耳ヤロウ」 彼が罵倒されるときの言葉である。
福耳ではすまされないくらい大きく肩までたれていて自
分の目で自分の耳を見られたほど。そして腕がまたえら
く長く、膝の下に届くほど。さらに面は冠の玉のごとく、
唇は脂を塗ったよう・・・・・というのが、劉備の描写である。
色白の静かな貴人の面持ちなんていったいどこにあると
いうのだろう。これじゃ妖怪事典送り間違いなしだ。

でもね、劉備がかっこいいな、なんて思っていたそこの
君、これで嫌いになっちゃかわいそうだよ。
336三戦板 蜀・呉小ネタ 2/7:2005/04/10(日) 20:42:34 ID:ZMr4BPHl
●鳳凰の雛

 劉備が、ある時司馬徽(水鏡先生)と対面したときに司馬徽が「伏竜と
鳳雛、いずれかを得ることができれば天下を取れる」と言った、その伏竜
とは諸葛亮、もう一方の鳳雛とは[广龍]統のことである。

 [广龍]統は襄陽の名士[广龍]徳公と言う人物の従子で、才能は抜きん
出ていたが風采が上がらないために評価されなかった。それを惜しんだ
[广龍]徳公は、人物鑑識眼で世に知られていた司馬徽と対面することを
勧める。出世の糸口になるようにと考えたのだろう。

 [广龍]統が司馬徽の庵を訪れた時、司馬徽は桑の木に登って葉をむ
しっていた。[广龍]統をその場で座らせ、そのまま木の上と下で夜まで語
り合う。その後司馬徽は[广龍]統を高く評価した。従父のもくろみは当た
り、[广龍]統の名は天下に知られるようになったのである。

 [广龍]統自身も人物批評を好んだが、一方的に相手を貶めることはせ
ず、批評された人物とも心を許し合ったという。
337三戦板 蜀・呉小ネタ 3/7:2005/04/10(日) 20:43:09 ID:ZMr4BPHl
●空城の計 〜満身これ胆なり

 漢中をめぐって劉備と曹操が争っていた時のこと、劉備の将趙雲は
味方黄忠の危機を救って城で祝杯をあげていた。そのとき急報が届き
曹操が大軍で城に接近してくるという。一同慌てふためいて城の吊り
橋を上げようとする。しかしただ一人趙雲は泰然自若とし、
「全ての城門を開け。射手は濠の中に身を隠せ。旗も隠し、鼓もやめよ。
林の如く静かにし、敵が目前に来ても動くな」
と命じる。

 曹操軍が迫ってくると、城門の橋の上に趙雲がただ一騎槍を横たえて
立っている。不審な様子に軍勢は動きを止めるが、曹操は「何をためら
うか」と鼓舞して全軍を進める。しかし橋の上の趙雲はびくともしない。
曹操軍は気味悪く思ったが大軍を頼みに前進する。ちょうどよい頃合に
敵が迫ってきた時、趙雲は大声で命令を下す。すると濠に隠れていた弓
手が一斉射撃を始め、曹操軍はばたばたと倒れていった。胆を冷やした
曹操は全軍を退却させた。

 このときの趙雲の働きを劉備は「満身これ胆の人か」と絶賛した。
338三戦板 蜀・呉小ネタ 4/7:2005/04/10(日) 20:43:40 ID:ZMr4BPHl
●空城の計  〜孔明と仲達〜

 諸葛亮(字は孔明)の北伐は馬謖の命令違反によって失敗し、態勢を整
えるために諸葛亮は各方面に軍をよこした。残る兵は数千というとき、驚く
べき報告が入って来た。なんと司馬懿(字は仲達)が大軍で迫って来ると
いう。諸葛亮の軍は寡兵で小城、絶体絶命の危機に瀕したのである。

 諸葛亮は、
「門を開け放て、各門には清めて松明で明々とせよ。整然と旗を揃えよ、
各部署旗の下を動いてはならない。門の守護兵は長閑に、敵が来ても居
眠るがごとくしておくように」
と命じると、2人の童子を従えて琴を持って城の高楼に上がった。

 司馬懿は、諸葛亮が高楼で静かに琴を弾く姿を見て怪しんだ。しかも城
門は「さあお入り」とばかりに開放されている。門は明るく、兵士まで居眠っ
ている。これは伏兵がいるに違いないと直感した司馬懿は慌てて全軍退却
を命じ、引き返した。諸葛亮は九死に一生を得たのである。

 後に伏兵などいなかったことを知らされた司馬懿は、「我勝てり、しかし
ついに我孔明に及ばずであった」と言ったとか。
339三戦板 蜀・呉小ネタ 5/7:2005/04/10(日) 20:44:17 ID:ZMr4BPHl
●魏延と黄忠

 ともに赤壁の戦い後、劉備の荊州南部制圧のときに新しく加わった人材である。
劉備は次なる目標として益州に兵を進める。この新しい将軍二人も随行した。[各隹]
城という拠点を攻略するに当たって、老将黄忠は先陣を申し出る。そこに魏延、
「年寄りは役に立ちません」と割って入り、対立する。結局両者は二手に分かれて
別の敵と対することとなった。

 黄忠は敵将冷苞、魏延はトウ賢の軍勢と当たることになっていたが、功名心には
やる魏延は、抜け駆けして冷苞を破りその後トウ賢を破ろうと考えた。しかし敵に備
えがあり、たちまち包囲されて魏延は危機に陥った。逃げる魏延にトウ賢が迫り、今
にも槍で串刺しにせんとする。そこに一本の矢がどこからか飛んで来てトウ賢の喉
笛を貫いた。それは黄忠の射たものだった。黄忠の軍勢の奇襲が始まり、残る冷
苞は算を乱し潰走、この戦いは劉備軍の大勝利に終わった。

 だがこのまま仲直り、といかないのがこの二人。戦の後、黄忠は命令違反した
魏延を斬首することを断固要求したが、劉備のとりなしでやっと機嫌を直したとか。
340三戦板 蜀・呉小ネタ 6/7:2005/04/10(日) 20:44:52 ID:ZMr4BPHl
●周瑜と魯粛

 周瑜は義兄弟孫策の挙兵の頃、呉にほど近い居巣県という場所の
長官であった。孫策の江東平定のために手土産が欲しいと思ってい
たその時、大富豪魯家の噂を耳にした。

 魯家の後継ぎ息子は風貌魁偉、志は高く智謀に秀で、稼業そっちの
けで武芸を磨き、困窮する人に惜しみなく財貨をばら撒いていて人心
を掴んでいるという。地元の古老たちが「出来損ない息子」と呼ぶその
男の名は魯粛、字は子敬。

 周瑜は数百人を連れ魯粛に挨拶に訪れ、あわせて資金と食料の援
助を求めた。当時魯家には巨大な米蔵が二つあったのだが、魯粛は
そのうちの一方を指差す。「持っていけ」ということなのだ。周瑜はこの
豪気な若旦那を非凡な人物と見抜き、親交を結んだ。

 後に魯粛も孫氏に仕えることとなり、二人は呉の運命を変えることと
なる。
341三戦板 蜀・呉小ネタ 7/7:2005/04/10(日) 20:45:25 ID:ZMr4BPHl
●呉下の阿蒙(にあらず)

「君はいつまでたっても呉の(呂)蒙ちゃんだね」と、進歩のない人という
意味で使われる。

 この言葉の主呂蒙は呉の孫権の許で猛将として活躍していた。しかし
学問はさっぱり駄目で、ある日孫権に武将も学問は必要だと諭される。
思うところあったか、これから呂蒙は猛勉強を始める。そしてある時周瑜
の後を継いで都督となった魯粛と面会する。魯粛は呉随一の戦略家。や
がて天下を論じる議論となり、なんと魯粛を理路整然と言い負かしてしまう。

 あまりの変貌ぶりに魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」と感嘆した。大して
呂蒙「男子別れて三日、剋目して待つべし(男は別れて三日もたてば何が
あるかわからないので、新しい目で見る必要がありますよ)」と自信に満ち
た返答をした。

 魯粛は病に倒れた時、この成長した呂蒙を後継者に指名し、呂蒙もその
期待に見事に応え、荊州の関羽を破ったのである。