第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-015
「三国志戦国板支援物資」
世界史に名を残した悲劇の戦国大名・源(大内)義長
世界史に名を残す戦国大名は決して多くない。
その数少ない一人が源(大内)義長である。
周防の戦国大名で、大内家32代目。信長の野望には武将風雲録から登場。
地味な人物であるが、明へ使節を正式に派遣し、堂々と世界史に名を残した。
大内家は元々百済の末裔を自称し、多々良氏を名乗っていた為源姓ではないが、
明へ使者を出す時は皆源姓を称しているため実家の苗字を称したものだと
考えられる。叔父の大内義隆が失政により家臣の陶晴賢に討たれた後、
陶晴賢に迎えられわずか20歳前後で大内氏を継いだことから、
かなり優秀な人物であったと思われる。
彼はキリスト教の布教を許可し、中断していた勘合貿易を行おうと勘合を入手
して明と貿易を行うなど開明的な政策を次々に打ち出し、混乱する大内氏を復興しよう
と懸命に動いた人物である。入国を先祖の百済琳聖太子と同じ日にして人気を高める
など、用意周到な人心掌握術を見せ、外交に関しては漢籍に通じていたわずか23歳
の益田藤兼(ますだ・ふじかね)を家柄に拘らず起用。
益田の外交力で足利将軍家から正式に大名と認められた義長は、
更に和寇がさらってきた拉致被害者を返還すると言う離れ業を演じ、明から
山口総督に任じられる。
なんとかやれそうなところまでいったが、その矢先、
以前から揉めていた家臣団がいがみ合いを初め、敵国毛利家にこの状況を
つけこまれ、義長は窮地に陥った。
義長はそれでも家臣の調停を行い2年耐え抜くが、
最後まで踏ん張っていた益田藤兼が弘治3年(1557)3月23日、毛利家に降伏。
義長の最後の頼みは兄・大友義鎮であった。
しかし義鎮は土壇場で「あんな弟はどうでもいい。茶器だけ呉れ」と言い放つ。
この時家老があたりちらしたが義長はにっこり笑ってこれを制したと伝えられている。
最期は武士らしい潔いもので、事前に風呂に入り身を清め、辞世を残している。
彼の用意周到さは最期まで続いていた。
辞世「さそうとも何か恨みん時来ては嵐の外に花こそ散れ」
この時持っていた明宛の勘合符100枚も義長と運命をともにし、ここに
勘合貿易は終わりを告げた。このため、勘合符は現存していない。
教科書に乗っている勘合符は、足利家の家臣の僧侶が写し取ったものである。
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/shoseki/nichimin02.htm (勘合符の写し)
この頃の明側の日本に対する認識は窮めてお粗末なもので、信長・秀吉すら
まともに理解しておらず、明智光秀に至っては誤記している始末で有り、
そのような状況下で大内義長が正確に自分の意図を明に伝えていることは
驚異的で有り、家臣に中国語を解する人物がいたのではないかと思われる。
おそらく漢文をよくし、外交能力に優れた益田藤兼ではないかと思われるが、
益田を抜擢した義長も褒められていい。
このような英明な人物であったにも関わらず、信長の野望の能力設定は極めて
ひどく、能力は最低に近い。
http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/retuden/ouchi_yoshinaga.html 弘治3年(1557)4月3日、毛利軍の福原貞俊に攻められ源義長、自刃。
その名前は殆ど知られていない…