第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-015

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5462/14 無名武将@お腹せっぷく 
■三国志に由来する言葉 その壱■    〜水魚の交わり〜
 
 劉備が三顧の礼によって諸葛孔明を迎えた当時、内部では面白くない空気が流れていた。
「若輩の孔明を、譜代の臣の上席にすえ、それに師礼をとるばかりか、彼と起居を共にし、
寝ては寝床を同じくして睦み、起きては卓を一つにして箸をとるなど、寵愛も度が過ぎる」と
いう嫉妬であった。
 関羽や張飛も心の中で喜ばない風が見えたし、時には劉備に向かって無遠慮に不平を
鳴らしたこともある。
「いったいあの孔明にどれほどの才があるというのですか。家兄には少し人に惚れ込み過ぎ
る癖がありやしませんか」
「否、否」
 劉備はふっくらと笑いを含んで、
「わしが孔明を得たことは魚が水を得たようなものだ」といった。


 劉備の臣下が孔明の才を認めるようになるのは、もう少し後の話である〜
5473/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:31:04 ID:DR86HgOn
■三国志に由来する言葉 その弐■    〜三顧の礼〜

劉備がまだ大国を持つに至らなかった時、彼は軍師として頭脳に秀でた人物を捜していました。
その時に聞いたのが諸葛孔明の名でした。
劉備は是非にでも軍師として迎え入れたいと思い、諸葛孔明の自宅を訪ねることにします。
しかし一度二度と訪れても諸葛孔明は留守にしており、会うことは出来ませんでした。
関羽や張飛に「そこまでして迎え入れるほどの者なのか」となじられても諦めきれず、
三度諸葛孔明の家を訪れます。ようやくその日、相手は自宅にいるとのことでしたが
すぐに会談することはままなりませんでした。諸葛孔明が昼寝をしていたからです。
しかし劉備は相手を起こすこともせず、ただじっとその場で起きるのを待ったと言います。
しばらくして目を覚ました諸葛孔明は三度の訪問、そして自分が目覚めるまで
辛抱強く待ち続けた劉備の心にいたく感激し、快く軍師の任を受け入れることにしました。
この劉備の行いが、人に対して礼を尽くして物事を頼むという「三顧の礼」の語源になっています。

●三顧の礼 こぼれ話

 中国には「三顧茅廬」(三度草廬を訪れる)という諺がある。
 足しげく通うという意味ではなく、なかなかこっちに来てくれない、とか呼びにくいと
いう意味で使うそうである。
5484/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:31:36 ID:DR86HgOn
■三国志に由来する言葉 その参■    〜苦肉の策〜

圧倒的な軍勢で南下してきた曹操率いる魏軍に対し、呉の孫権は蜀の劉備と手を組み
長江を挟んで戦うことを決断しました。これが現在赤壁の戦いと呼ばれている合戦です。
水上戦に長けていた呉軍とはいえ、十万以上の兵を擁した魏軍には責めあぐねることとなり
火計を用いて敵の船を焼き払う策を執ることにしました。
そこで先陣を切ることになったのが老将・黄蓋でした。黄蓋は曹操軍に偽りの降伏を持ちかけ、
曹操軍の船団に出向いたところで火を放つ作戦に出たのです。
降伏が偽りでないと思わせるため、ある会議の中で黄蓋は呉の都督・周瑜と派手な口論をし、
不和を演じて見せます。更に血まみれになるほどの棒叩きの処罰も受けました。
間者(スパイ)によってこの様子を知った曹操は黄蓋の投降が本物であると信じ、黄蓋を受け入れることにします。
こうして魏軍の兵船に近付くことが出来た黄蓋は見事火を放つことに成功し、
また大船団を密集させていた曹操は大打撃を受けて敗走することになったのです。
この黄蓋が行った自らを苦しめて敵を欺く計が「苦肉の策」の由来となっています。
549清き一票@名無しさん:2005/04/10(日) 10:31:55 ID:OYl4TLTz
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 ( つ日)
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5505/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:32:51 ID:DR86HgOn
■三国志に由来する言葉 その四■    〜饅頭〜

我々日本人にも既に馴染みの深い饅頭。この語源もまた三国志にあると言われています。
諸葛孔明は南蛮平定をしたその帰路、瀘水という河が氾濫していたために渡れずにいました。
地元の者の話によれば、氾濫を鎮めるには人を殺してその頭を河の神に捧げる風習があり、
また実際に諸葛孔明の前で実践しようとしました。
それを諫めた諸葛孔明は代わりに小麦粉をこねて皮を作り、豚や羊などの肉を詰めて
人頭に見立てたものを河の神に供えることにさせたのです。
これが饅頭の起源だと言われています。

ちなみに現在週刊少年マガジンで「覇王の剣」という三国志漫画が連載されています。
この漫画ではまだ劉備と関羽たちが出会って間もない頃に功績を立てた報償として
上官から饅頭を貰うシーンがあります。どうか見なかったことにして下さい。
5516/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:33:45 ID:DR86HgOn
■三国志に由来する言葉 その五■    〜泣いて馬謖を斬る〜
時は西暦228年、蜀の建興6年、魏の太和2年のことである。
後漢王朝は滅び、天下は既に魏、呉、蜀の三つに分かれていた。
蜀の丞相諸葛亮、字を孔明は魏を攻める北伐を前年より開始し、順調な成果を挙げていた。
そんな時のことである。
ある時、孔明は愛弟子、馬謖(ばしょく)を戦場を任すことをした。
馬謖は孔明の親友の馬良の弟であり孔明は日頃より目を掛けていた人物であった。
だが、他にも優秀な候補はいたのである。何故馬謖に孔明は任せることにしたのか。
孔明は自分の次代の人物を育成し、ようやく使えるときが来たと思っていたのだろうか。
はたまた馬謖の熱望に押されたのか。
孔明はこの人選が最悪の結果を引き起こすと予想しただろうか。

馬謖が向かった戦場は街亭(がいてい)と呼ばれる土地であった。
この街亭は当時蜀軍が侵攻していた戦線でもアキレス腱と呼べる位置にあった。
この要地を守備するだけで馬謖は良かったのである。
「決して長安に攻めこむな」と孔明は念押しをしていたのだ。
しかし、馬謖はそれに逆らう行動に出たのだった。
山上に登り、敵軍が来たら逆落としにより一気呵成に撃退するという選択を取ったのである。
これは守りと言うよりはむしろ攻めの態勢と呼ぶべきであろう。
そして、この選択は重大な欠陥も含まれていた。
5527/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:34:11 ID:DR86HgOn
その山の上では兵達の生命線とも呼べる水の供給が一切できなかったのである。
山上に陣を布いた蜀兵達はふもとからわざわざ水を運んできていたのである。
これがどのような事態を引き起こすのか。・・・最悪な結果である。
馬謖はどういう気持でこのような行動に出たのだろうか。
自分は孔明に寵愛されているという驕りからか、
それとも、華々しい功を立てたいという功名心だったのだろうか。

魏の将軍、張〔合β〕(ちょうこう)は歴戦の将である。
赤壁の戦いと並ぶ、三国志上の一大決戦、官渡の戦いで曹操に降伏し、
その後約半世紀に渡り活躍した武将である。
その張〔合β〕が街亭を守る馬謖の元に向かっていた。

張〔合β〕はおそらくすぐに馬謖の布いた陣の欠陥がわかったのであろう。
着くなりふもとを急襲し蜀軍の水を断ったのであった。
これで蜀は水を得ることが出来なくなったのである。
人が水を飲まないでいられる限界は二、三日であるという。
水を断った後山を包囲した張〔合β〕により馬謖の陣は地獄と化した。
そして、最後の時を迎えたのである。
5538/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:34:39 ID:DR86HgOn
この張〔合β〕の攻めに耐えきれなくなった馬謖は逆落としで敵軍に打って出ることを決意する。
しかし、この攻めが成功するはずはなかった。既に兵は消耗しきり、まともに戦えなかったのである。
こうして馬謖軍は無惨に敗北することとなった。
幸い、孔明から馬謖のお守りを託され、この山上の陣とは別の所に布陣していた王平の手により、
馬謖らは一命を取り留めた。

しかし、この敗北は蜀軍の戦線全てに影響するものだったのである。
孔明は戦線の維持は不可能と見る。
諦めて撤退の準備を始めたのであった。馬謖の犯した罪は大きかった。

孔明は馬謖の行動を軍法に掛けることにした。
判決は死刑である。いくら寵愛していた愛弟子でも、守れと言うのを聞かずに攻めの態勢を取った
命令違反の罪は大きかった。
こうして、馬謖を孔明は斬ったのである。孔明の目には涙が浮かんでいたという。

これが泣いて馬謖を斬るの故事である。
信賞必罰の論理が孔明の鉄則だったのである。
5549/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:35:08 ID:DR86HgOn
■三国志に由来する言葉 その六■    〜破竹の勢い〜

劉備の息子・劉禅が魏に降伏して蜀が滅びた後のこと。
魏は司馬氏のクーデターによって晋へと王朝交代しました。
晋は残る呉を討伐するため、鎮南将軍に任じられた杜預(とよ又はどよ)を総大将として進軍し、
対峙した呉軍を退けていきます。
しかしいよいよこれからという時のこと、平定した武昌という地で軍議を開いた際、
「これから春になり間もなく長江が増水する。この地に留まるのは危険なので一旦退いて
 冬に改めて攻略するべきだ」という意見が仲間内から上がりました。
これに対して杜預は
「我が軍の士気は盛んだ。それは竹を裂く時に数節裂いてしまえば後は竹の力で裂けていくようなものだ。
 今この期を逃すべきではない」
と進軍を提唱し、攻撃の態勢を整えて呉の都・建業へ攻め立てました。
その結果、晋の大攻勢に耐えることが出来ず呉は降伏、滅亡してしまうことになったのです。
我々が今でもよく耳にする「破竹の勢い」とは竹を縦に割るような猛烈な勢いのことを言い、
この故事に由来していると言われています。
55510/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:35:41 ID:DR86HgOn
■三国志に由来する言葉 その七■    〜髀肉の嘆〜
時は西暦200年代、後漢の建安年間のことである。
荊州に落ちのびていた劉備はいたって平和な日々を送っていた。
彼の今までの苦難や危機などまるで嘘のような日々であったろう。
新野の民は劉備を慕い、家族も落ち着いて暮らしていた。

しかし、劉備はこのままで良いのかという危機感もあった。
宿敵曹操は既に北方を制覇しつつあり、天下を飲み込まんとしている。
一方、自分を匿ってくれている劉表は劉備が曹操を攻めることを立案しても
なんとも言えない様子で拒否をするばかり。

このような日々が続いていたある日、劉備はあることに気づいた。
自分が少しずつ太っていることにである。
以前は締まっていた肉体はだらしなく贅肉の垂れる身となっていたのだ。
馬に乗っていれば自然と引き締まる股の肉(髀肉である)も筋肉は無くなっていた。

これを悲しんだ劉備の嘆きが髀肉の嘆である。
時期を待つしかない英雄の嘆きである。
55611/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:36:12 ID:DR86HgOn
 ■三国志に由来する言葉 その八■    〜呉下の阿蒙(にあらず)〜

「君はいつまでたっても呉の(呂)蒙ちゃんだね」と、進歩のない人という
意味で使われる。

 この言葉の主呂蒙は呉の孫権の許で猛将として活躍していた。しかし
学問はさっぱり駄目で、ある日孫権に武将も学問は必要だと諭される。
思うところあったか、これから呂蒙は猛勉強を始める。そしてある時周瑜
の後を継いで都督となった魯粛と面会する。魯粛は呉随一の戦略家。や
がて天下を論じる議論となり、なんと魯粛を理路整然と言い負かしてしまう。

 あまりの変貌ぶりに魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」と感嘆した。大して
呂蒙「男子別れて三日、剋目して待つべし(男は別れて三日もたてば何が
あるかわからないので、新しい目で見る必要がありますよ)」と自信に満ち
た返答をした。

 魯粛は病に倒れた時、この成長した呂蒙を後継者に指名し、呂蒙もその
期待に見事に応え、荊州の関羽を破ったのである。
55712/14 無名武将@お腹せっぷく :2005/04/10(日) 10:36:43 ID:DR86HgOn
 ■三国志に由来する言葉 その九■    〜月旦(評)〜

 後漢末の人物鑑定の大家許劭(字は子将)の人物批評の会が
月の初めに開かれたことから、人物批評のことを月旦と呼んだ。

 当時は有力者の推挙がないと仕官や出世が難しかったためこ
の類の人物が力を持っていた。許劭はその中でも第一人者であり、
評価された人物は出世を遂げ、酷評されると不遇をかこつといっ
た按配であった。

 無名時代の曹操も許劭を訪れたことがある。その時許劭が
「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」
と曹操を評したのは有名である。
55813/14 無名武将@お腹せっぷく 
 ■戦国時代に由来する言葉 その壱■    〜風林火山〜
                               |] ̄ ̄ ̄ ̄|
                               || 掠 疾 |
                                |] 如 如 |
                           /7 /7|| 火 風 |
                           /ソ_/ノ |] 不 徐 | 武田信玄
                          く゚w゚ノミ彡.動 如 |
                       _∧∠/...,,,く7彡如 .林 |
                      (_・ |/(・,、・ソミミミ.山 侵 |
                        |\Ю ⊂)|√ヽ    |
                        (   ̄ ~∪ )^)ノ ̄ ̄ ̄
                        ||`|| ( | ( |
                        '~ ~  '~ '~
   疾如風         徐如林          侵掠如火       不動如山
「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
この孫子の句を引用した武田信玄の軍旗を、一般的には四つの如しをとって「四如の旗」あるいは
「孫子の旗」と呼ぶ。「風林火山」のお馴染みの呼称は近年になってからの造語なのである。
「孫子の旗」は武田家の伝統的な旗などではなく、川中島合戦以後に信玄の個人的嗜好で作られた旗と言われ、
彼の死後使われることはなかった。使用された期間は20年程度と短くはあるが、
戦国の世を睥睨した重厚な存在感は現代になっても変わらない。