第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-015

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116囲碁・将棋板(1/5)
囲碁スーパースター列伝
本因坊算砂(日海)1559〜1623年

信長、秀吉、家康に仕えた名人。
1582年6月1日、本能寺において信長の御前で鹿塩利玄と対局するが
この対局は3コウという珍しい形となり無勝負。
翌日本能寺の変が起こったことから以降3コウは不吉と言われるようになる。
家康に時代になって、本因坊算砂と名乗り家元制度の基礎を築く。
昨年第1回囲碁殿堂入りした。
なお、家康もスポンサーとしての功績から同じく囲碁殿堂入りしている。
辞世の句・「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」
(碁だったらコウにするとかして何とか生きて見せるのに、リアルで死ぬのは打つ手がねー。)
117囲碁・将棋板(2/5):2005/04/09(土) 18:46:06 ID:WsIKyVWY
本因坊秀策 1829〜1862年

幼名虎次郎。藤原佐為が進藤ヒカルの前に取り憑いていた人。
井上因碩との耳赤の一局が名局と名高い。観戦していたやじうまが
「漏れは囲碁のことよう分からんけど、これは秀策先生が優勢だな。
井上先生の耳が真っ赤だ」というようなことを言ったらしい。
御城碁では19戦19勝無敗の大記録を作る。
とくに秀策流と呼ばれる布石で戦う黒番では無敵と言われ、
勝敗を聞かれた秀策は「黒番でした」と答えたこともあったとか。
江戸にコレラが流行したとき、周りが止めるのも聞かずに患者の看病にあたったため
当人が感染しそのまま34歳で死去した。
118囲碁・将棋板(3/5):2005/04/09(土) 18:46:27 ID:WsIKyVWY
呉清源 1914〜
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福建省生まれ。昭和の碁聖。
7歳のとき父から囲碁の手ほどきを受け、北京で頭角を現す。
その噂は日本まで届き、14歳の時に瀬越憲作名誉九段らの誘いにより来日。
木谷実と新布石を発表し、現代囲碁の道を切り開いた。
読売新聞主催の打ち込み十番碁で強豪棋士を次々と打ち破り
「十番碁の王」として天才棋士の名をほしいままにした。
彼の生涯を描く映画『呉清源』の制作を田壮壮監督とともに発表。
2004年10月、日本でのロケが始まった。公開予定は2005年秋。
119囲碁・将棋板(4/5):2005/04/09(土) 18:46:53 ID:WsIKyVWY
木谷實 1909〜1975年
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昭和前期を代表する棋士の一人。呉清源とともに新布石を発表。
1938年、最後の本因坊、本因坊秀哉の引退碁の挑戦者となり、一局に6ヶ月費やした勝負で
5目半勝ちし名を高める。この対局は川端康成の「名人」として小説化されている。
平塚に木谷道場を開設し多くの弟子の育成に勤しみ、大竹英雄、石田芳夫、
加藤正夫、武宮正樹、小林光一、趙治勲などそうそうたるトッププロたちを排出している。
現在木谷門下の弟子で、のべ500段突破を達成している。
120囲碁・将棋板(5/5):2005/04/09(土) 18:47:14 ID:WsIKyVWY
藤沢秀行 1925〜
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1977年に創設された棋聖戦を第一期から六連覇により、初代名誉棋聖の称号を得る。
「碁は芸である」と考え、厚みの働きを最も良く知るとも言われる。
引退した現在でも秀行先生と慕う棋士たちも海外を含め多い。
年に一度行われる秀行塾と呼ばれる囲碁合宿には
トッププロを含め毎年多くのプロ棋士が参加している。
だが囲碁を取ればただのDQN。
その奇行の数々はこちら
ttp://urawa2.main.jp/mc/column4/column400.html
酒、女、ギャンブルにはまり大きな借金を抱えており、
タイトル戦で勝っても返済で賞金はほとんど残らなかったという。