第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-005

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477三国志・戦国板より
おはようございます。三国志・戦国板です。
本日予選10組は三国志・戦国板の予選日であり同時に初陣にあたります。
そこで初陣にまつわる戦国武将の逸話を紹介いたします。

■□戦国武将の初陣の逸話その1□■

浅井長政 出陣 永禄3年(1560) 

父・久政は、狩猟好きで遊興好き、それを諌めた家臣に逆ギレする始末。
六角家の重圧より、妻と子を人質と出す。長政は六角家で成長。
六角家の当主「六角義賢」から一文字与えられて「賢政」と名乗る。
小谷に戻った後も、佐々木六角氏の家臣平井加賀守の娘を妻に強要される。
家臣の娘を娶る事により、完全に六角家の家臣の扱いになる事に反発し、
浅井長政は佐々木六角氏との対決に踏み切った。六角氏の内乱に乗じて、
江南を攻略。 永禄3年(1560)3月、野良田合戦。攻め寄せてきた六角
義賢を、長政が撃退。この野良田合戦で、浅井長政は勝利を収め、江北に
おいて大名として自立した。

家臣たちはこれを見て喜び、久政が鷹狩りに出かけた留守に長政を小谷城
へ迎え、久政に対して、「これより長政様を主人とする」と宣言。
478清き一票@名無しさん:05/03/17 08:28:25 ID:/1K6uigj
■□戦国武将の初陣の逸話その2□■

本多平八郎忠勝 永禄三年(1560)

家康の近侍として常に傍に控える。初陣は、大高城攻めだが、特に目立った戦功はない。
長沢の戦いの鳥屋根城攻めの際、忠勝に手柄を立てさせようとした叔父が自分がしとめた
首を忠勝に譲ろうとした際に「なんぞ人の力を借りて、もって武功をたてんや」と言い放
ち、単身、別の敵の首級を見事上げた。忠勝は、軽い鎧を着用して負傷が少ない事を
「十三才の初陣より、大小合戦に出陣したること、五十七回、しかも一度も敗れたる
ことなく、また、身に寸創をも受けたることなく」と語った。

「神君仰せに甲冑は丈夫をよしとはすれど餘り重きは宜しからず井伊直政は
大力にて重き甲冑を着て重しとせざれど戦場にて度々疵を受たり本多忠勝は
直政ほど力もなく甲冑も軽きを用ひたれど戦場にて疵を受し事一度もなしされば
甲冑は着る者の働き安からんこそよけれ又下部には鉄の薄き笠を着せるがよし
其時によりては飯をも焚かるべしと仰せられ給ふ」
479清き一票@名無しさん:05/03/17 08:30:41 ID:/1K6uigj
■□戦国武将の初陣の逸話その3□■

斉藤道三 大永7年(1527)
大永7年(1527)8月、勘九郎名の時に、3千ほどの兵を率いて川手城の土岐
盛頼を不意打ちしたのが初陣と言われる。
斉藤道三は、北面の武士の家筋に属する松波左近将監基宗の子として、生まれ、
11歳の時、京都の妙覚寺に入って法蓮坊とよばれた。のち、寺を飛び出して
松波庄五郎と名乗り、京都西郊西が丘の油搾り商人、奈良屋又兵衛の娘を妻と
して山崎庄五郎と改め、諸国に油を、売り歩いた。情勢が不安定な美濃の国に
流れついた。当時の美濃の家督争い、一向宗門徒の一揆の動乱を利用して、
名家である長井の家名を手に入れ、次に美濃掌握に向かう。濃の国に一介
の油売りとして入って以来、わずか十数年で道三はその国主の地位についた。
他国との初陣は、対、織田信秀との抗戦という説があり、その説によれば、
なんと43才にて初陣を飾った事となる。

■■三国志・戦国板は本日出陣中■■
以上、三国戦国板からでした。