第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-005

392野球殿堂支援ー長嶋茂雄伝説1/4-
   〓  〓 1936年2月千葉県生まれ。三塁手。右投右打。背番号3。
   ●  ●  巨人の中心打者として王貞治とのONコンビで数々の記録を打ちたてる。
堅実なミートでヒット・本塁打を量産しながら、ダイナミックな空振や華麗な
     ∪ 守備でファンを魅了した。ランナーがいるときやオールスター、日本シリーズ
  ∴∵∴∵∴∵ での勝負強さは群を抜いていた。現役時代は、「ミスタージャイアンツ」、
  ∴∵∇∴∵ 「燃える男」などの異名を持ち、他の選手からは「ひまわり」とも呼ばれた。
   ∴∵∴
通算記録(実働17年):打率.305、本塁打444本(歴代11位)、1522打点(歴代6位)、
2471安打(歴代7位)。首位打者6回(歴代3位)、本塁打王2回、打点王4回。
日本シリーズMVP4回(歴代1位)、シーズンMVP5回(歴代2位)

長島伝説試合編
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長島伝説試合以外編
ttp://www.webmie.or.jp/~m-yama/col/columnnaga.htm
393野球殿堂支援ー長嶋茂雄伝説2/4-:05/03/16 21:01:33 ID:lnUCG8T1
【本塁打がピッチャーゴロ】
1958(昭和33)年9月19日、巨人×広島戦で長嶋は、第三打席で鵜狩道旺投手から
右中間席へ見事な本塁打を放つ。シーズン28号本塁打。となるはずだった。 しかし、
ダイヤモンドを一周した後、ベンチに戻って次の打者が打席に入ったとき、ピッチャー
から一塁手へ球が渡り、一塁塁審はアウトを宣告。 長嶋は、本塁打を放って一塁ベ
ースを回る際、ベースより約10センチも離れたところを踏んでいたことが発覚する。
そのため、本塁打を放ちながら、記録はピッチャーゴロとなってしまった。
※この記録は、もちろんプロ野球史上を見渡しても存在せず、最初で最後の珍記録とされている。

【二塁ベース踏み忘れ】
1960年6月25日、広島戦で長嶋は、ヒットを打って一塁に出る。
次打者の国松は、レフトへライナーを放った。ヒットエンドランのサインが出ていたため、
長嶋はスタートを切り、二塁ベースを大きく回っていたが、打球はレフトに捕られたため
、一塁に慌てて引き返した。しかし、戻っていくときに二塁ベースを踏み忘れたため、
ボールは二塁に送られアウトとなった。
※二塁ベースに目もくれず一塁へ引き返して3回もアウトになっているのは長嶋だけである。
394野球殿堂支援ー長嶋茂雄伝説3/4-:05/03/16 21:02:03 ID:lnUCG8T1
【ランナー追い抜き】
1960年8月21日、国鉄戦の5回、一死一・二塁で王が打ち上げたレフトフライで
一塁ランナーだった長嶋は勢いよくスタートを切りすぎ、二塁に戻ろうとした
二塁ランナーだった藤尾を追い抜いてしまいアウトとなる

【カウント2-3で】
 1959年9月21日の中日戦。カウント2-2から2球ファールで粘り、その次の球が
ボールと判定されると、長嶋は、バットを放り出して一塁へ走った。しかし、実際の
カウントは2-3のため、主審に戻るように言われて、改めてバッターボックスに
入ったが空振三振に終わる。

【試合忘れ】
少しスランプ気味だった長嶋は、川崎球場で、試合前の練習として打ち込みを行っていた。
 長時間に渡って強烈な打ち込みを行い、それに満足した長嶋は、シャワーを浴びて
なぜか着替えていた。 見ると、ユニフォーム姿ではない。
「じゃ」
 長嶋は、みんなにそう挨拶してそのまま帰ろうとしていた。
 あまりにも打ち込みに熱中しすぎていたため、これから始まる試合のことを
すっかり忘れてしまったのである。
395野球殿堂支援ー長嶋茂雄伝説4/4-:05/03/16 21:02:46 ID:lnUCG8T1
【靴下】
ある日、長嶋は、ロッカールームで「靴下がない」と騒ぎ始めた。
 見ると、長嶋は、片方しか靴下を履いておらず、もう片方が見当たらない。
 そこにいた他の選手たちは、慌てて探したが、一向に見つからない。
「あった」
 見つけたのは長嶋だった。
 他人には見つけられるはずがない。
 なぜなら、長嶋は、片足に2枚の靴下を履いていたからである。

【レポート】
 川上哲治監督の指導は、厳しい練習とミーティングの積み重ねを大切にした。
 あるとき、川上監督は、ミーティングで選手達に対して、小兵栃ノ海が横綱
になる過程についての話を聞かせ、それについてのレポートを書かせた。
 提出されたレポートの内容は、十人十色だったが、その中に川上哲治が
「忘れることができない」とうなったというレポートがあった。
 もちろん長嶋のレポートである。
 なぜなら、そのレポートは、わずかに一言が書かれていただけだったからである。
「分かりました」 と。