河伯の継嗣
常緑樹の濃く茂る混合林が対岸に沿って広がっているため、その下を流れる河淵は静かで
深みのある緑色になっている。それを打ち破るようにしてぴしゃぴしゃと跳ねては冷涼な音を
振りまく鱒の姿がときおり見えるのだが、彼らは釣り人の乱れた想念を読みとりでもするのだろうか、
まったく針先に興味を示そうとはしない。
いっこうに反応がないまま、わたしは糸を垂らしつづけるが、釣れるかどうかはそれほど大切では
なくなっている。大きな鱒が針先に食いついてからが肉体的な格闘なら、それを待つじりじりとした
駆け引きは精神的な格闘であり、敗色の濃い中で暗い思索にふけるのも時には悪くない。
そういった、両義的に釣りを楽しむ感情もまた、他人と何ら相違ないものだとわたしは思っている。
ただ、世間の不惑世代は何かと忙しく、妻の愚痴に耐え、子供たちにサービスをし、
伝票に追われ、顧客に頭を下げ、上司にごまをすり、部下の信頼を得なければならない。
そう、不惑のサラリーマンには家族があり、会社ではそこそこの職級についてるのが普通で、
週末に釣りを楽しむ余裕などはないのだ。日々をあわただしく過ごしながらも、それを苦痛とは思わない。
まるで人生のもっともよき時代がすでに過ぎ去り、惰性だけで生きているかのように。
あるいは人生とはそうしたものだと考えているかのように。
http://ana.vis.ne.jp/ali/antho_past.cgi?action=article&key=20030921000060