水びたしの聖書
女は悲しそうに揺らめく水を見つめながら、素早く何かをつぶやき、
鋭い尖ったものを、手首にあてた。すっと細い三日月のような赤い線が走った。
よく見ると、手首や足首、体のいたるところに、たくさんの切り傷がある。剃刀を、握っているのだ。
盥の脇には、茶褐色の石膏の塊のような不思議なものが置かれてあった。
「これは実際に、体を傷つけているのですか」
「ええ。いわゆるリストカットというものの、見世物です」
嘲笑的な口調で、菅生がいった。私は、声をあげそうになった。
「ここの客は、SMもどきじゃ飽き足らないのです。自殺未遂を、芸にしてくれないとね。
自殺芸です。あるいは、自殺未遂芸」
「自殺芸? そこまで、やりますか。人間は、そんなものが見たいものですか」
「お断りしておきますが、あの子が自分でやるといったのですからね。プロデュースしてやるから
金をとったらどうだといったら、いつでも私は死ぬ準備があるからやってみるといいましてね」
私は、胸が苦しくなってきた。大学受験を控えた私の娘よりも少し上ぐらいだろうか。
「新宿の公園で、ホームレスに混じって暮らしていたのを、私が発掘してきた子なんです。
ねえ、とてもきれいな娘でしょう。ユリアといいます。この秘密倶楽部の、いちばんの秘蔵っ子」
「ホームレス、だったんですか」少し、間があった。
「――まあ、正確にいえば、彼らに神の教えを説いていた、と」
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