第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-001
630 :
クラシック板支援(1/4):
「僕は弾かなければならない!」〜悲運の天才ピアニスト リパッティ
ディヌ(コンスタンチン)・リパッティ (1917-1950)
1917年、ルーマニアにコンスタンチン・リパッティは生まれた。
裕福な両親の元で豊かな教育を受けたリパッティは、17歳の折、
参加したウィーン国際コンクールで、2位となる栄誉を受ける。
しかし、この時審査員として参加していた、大ピアニストの
アルフレッド・コルトーは、彼を1位にしない事に強硬に抗議し、
ついには審査員を辞任した。
コルトーは、それほどリパッティを評価していたのである。
コンクールでの優勝を逃したリパッティを、コルトーは自分の元へ
招く。大ピアニストであるコルトーは、リパッティの中に真の
天才を見いだしていたのだ。そして、コルトーのその直感に、
間違いはなかった。
631 :
クラシック板支援(2/4):05/03/04 18:39:02 ID:TYQSX3Yk
やがてリパッティはめきめきと頭角を現しはじめた。勃発した第二次
世界大戦を避け、母国ルーマニアに戻るリパッティ。録音活動も開始し、
世界中にその名を知られ始める。彼のピアニストとしての前途は、
揚々たるものだった。
だが。そんな彼を、突如病魔が襲う。
急性骨髄性白血病。恐ろしい病魔は、あっと言う間にリパッティの体を
蝕んだ。容態はみるみる悪化する。
そんな中、リパッティへの福音となるような新薬が見つかった。
コーチゾン。大変高価な薬である。しかし、当時の音楽ファン、
演奏家たちは、リパッティのためにこぞって寄付を集め、彼へこの
高価な薬を送った。この薬により、リパッティはこれまでにないほどの
元気を取り戻し、いくつもの歴史的な録音がなされた。
632 :
クラシック板支援(3/4):05/03/04 18:39:42 ID:TYQSX3Yk
そんなコーチゾンは、しかしリパッティの病気を治癒させるような薬では
なかった。病魔の進行を一時抑える力しかなかったのだ。
リパッティは、既に死期を悟っていた。1950年、リパッティ33歳。
ブザンソンでの音楽祭に、リパッティは出演が決まっていた。が、体調は
最悪で、医師も妻も出演を思いとどまらせるべく、リパッティを説得した。
が、コンサートでの演奏を、聴衆への尊い契約であると考えていた
リパッティは、ぼろぼろの体をおして、きっぱりとこう言い放った。
「ぼくは約束した。ぼくは弾かなければならない!」
リパッティは、ステージへと向かった。かくて、聴衆も、リパッティも
「これが最後」と分かっている演奏会が幕を開けた。
633 :
クラシック板支援(4/4):05/03/04 18:40:04 ID:TYQSX3Yk
コンサートのラストは、ショパンのワルツ全曲だった。彼は気力を振り絞って
ピアノへ向かった。
だが、最後の最後で、とうとうリパッティは力尽きた。最後の曲を弾き
きる事ができなかったリパッティは、予定を変更し、バッハの「主よ、人の
望みの喜びよ」を弾き、その日のコンサートを終えた。リパッティは、
その2ヶ月後にわずか33歳でこの世を去った。
2年後。リパッティの師匠だったコルトーが来日。日本の報道陣が口々に質問する。
「コルトー先生、先生が最も将来を嘱望するピアニストは誰ですか?」
コルトーは、即座に答えた。
「それは、ディヌ・リパッティです。しかし誠に残念ながら、彼は既に
この世を去っています」
そう言って顔を背け、そっと涙を拭った。
ディヌ・リパッティ。生きていれば世界最高のショパン弾きになっていたであろう
この名を、どうか心の片隅にとどめておいていただければ、幸いである。
J.S.バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」(ピアノ ディヌ・リパッティ)
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