流転
夏休み――
クラスメートの別荘に滞在している、大阪と呼ばれる少女は、窓の外を
眺めている。
彼女の視界には蒼く澄み渡った空と、霞んだ水平線、そして、濃紺色の
海面がどこまでも広がっている。
「大阪さん? 」
振り返ると、幼い少女が不思議そうな眼差しを向けている。
「あー ちよちゃん」
「どうしたんですか?」
「…… 」
「……おおさかさん? 」
大阪の表情が、いつもと少しだけ違っていることに気がついて、ちよは
小首をかしげた。
「少し、昔のこと思い出してたんやー 」
「昔ですか? 」
ちよは、大阪が発した言葉の意味を、噛み締めてみる。確か……
「そういえば、大阪さん、転校してきたんですよね。」
「そや、そのことを思い出してたんや」
大阪は、懐かしそうな表情を浮かべると、再び、窓の外に視線を移した。
真夏の鋭すぎる陽光を浴びた海面が、至る所で煌いている。
外の気温はそれなりに高いはずだが、時折吹き込んでくる海風と、微かに
鼓膜を揺らす波の音が、彼女達に心地よさを与えている。
「ちょうどええかもしれへん。ちよちゃんに話したろかな…… 」
「何、ですか?」
ちよは、多くの興味と少しの不安を感じている。
大阪は、幼いクラスメートを眩しそうに見つめながら、耳元に
口を寄せて囁いた。
「私が転校してきたときのこと、や」
「歩、話があるんだ 」
父親の転勤にともなう転居、そして、転校という話が少女に伝わったのは、
高一のGWが終わった直後、つまり、初めての受験を何とか突破し、新しい
学校生活に慣れたというにはまだ早すぎる時期だった。
「転校せな、あかんの? 」
「ああ。お前には済まないと思っているが…… 」
父親の表情は、『申し訳ない』という言葉どおりに、深刻そのもので、
だから、彼女はこれ以上、大切なひとを責めることはできなかった。
「ええよ、お父ちゃん 」
ほっと、安堵の溜息をついた父親が、頭をなでてくれたのは嬉しかったが、
大阪自身にとっては、大きな問題が立ちはだかっていた。
中学までは義務教育であり、親の転勤に伴う、転居という理由なら、公立中
ならば事務的な手続きだけですむ。
しかし、高校の場合は、編入試験に合格しなければいけない。
会社の仕事の引継ぎで忙しい父親と、引越しの準備で駆けずり回る母親が、
なんとか時間をつくって、試験を受けさせてくれる高校を探し出して
くれたのは、一週間後のことだった。
「ほなら…… いってきます」
朝靄の立ち込めるなか、学生服に身を包んだ大阪は玄関の扉をあけた。
向こうの学校の配慮で、試験の時間を午後からにしてもらえたので、
時間には十分な余裕はある。
私鉄で難波まで出て、そこから地下鉄で新大阪へ。
平日の午前中には滅多にみかけることがない、セーラー服を纏った少女を
眺める視線を微かに感じながら、大阪は新幹線のプラットホームで
佇んでいる。
忙しそうに行き交う人々を何気なく眺めていると、柱に備え付けられた
スピーカーから、列車の到着を知らせるアナウンスが流れ、そして、
流線型の列車が滑り込んできた。
(はじめての街、はじめての一人旅や)
大阪は、もう使うことはない、と思っていた高校受験用の参考書を眺める
作業に疲れ、車窓の外をぼんやりと眺めた。
新幹線は速い。軽快なレール音を響かせながら、街も田園も、
山並みも流れるように過ぎ去っていく。
大阪の心の中は、試験に対する不安と、未知の空間に対する興味が
せめぎあっている。
(東京ってどんなところやろ…… 私、関西弁しかしゃべられへんし、
言葉わかるんやろか…… ほんでもなあ、東京って、なんで首都なのに
東なんやろ、京都が西京なら分かるんやけど。)
とりとめのない考え事に半ば身を委ねていると、ふいに列車の
スピードが落ちていることに気がついた。あたりを見渡すと林立する
ビルが視界を塞いでいる。
(あれぇ〜 もうついてもうたん? )
東京駅のプラットホームに降り立った大阪は、奇妙な感覚に捉われた。
東京−新大阪の、約2時間30分という時間は、旅をしたというには、
中途半端に感じられる。
(そや…… 学校にいかなあかん)
唐突に、本来の目的を思い出した少女は、両親が丁寧に書いてくれた、
図面をながめると、ゆっくりと歩き出した。
そして、約1時間後――
JRの在来線と私鉄を乗り継いだ少女は、無事に目的地に到着した。
「春日、歩さんだったわね 」
緋色のロングスカートと、薄手の長袖のシャツに身を包んだ、女性教師が
声をかけてくる。
長く伸ばした黒髪は無造作に流されていたが、顔立ちは奇麗に
整っている。
「はい…… 」
大阪は、少し俯きかげんになって答える。
「んじゃー、今から英語のテストとかやるけど、1時間ね」
その教師は、気楽な調子で用紙を渡すと、膝を組みながら椅子に座って
雑誌を読み始めた。
たった一人だけの試験が始まった。
大阪は、答案をひとつ、ひとつ埋めていく。
(えっと、わからんもんは後まわしや、)
ゆっくりと、しかし、丁寧に解答欄に記入していく。鉛筆が紙を引っ掻く
音が、やけに大きく耳に響く。
そして、答案に7割がた文字が埋められた頃。
あー、先生ねむってもうた)
ふと、目線をあげると、試験担当であるはずの教師は、小さな寝息を
たてて瞼を閉じてしまっている。
(ええんやろか…… )
大阪は、少しだけ不安を覚えた。
しかし、問題の続きを解いていかないと、と思い直して、彼女は次の問題に
取り掛かった。
大きく開け放たれた窓からは、涼やかな風が吹き込み、白いカーテンが
緩やかに揺れている。眼下にひろがる運動場からは、体操服姿の生徒たちの
歓声が、微かに聞こえてくる。
(あ…… あかん)
大阪は焦りの声をあげた。
こんなに大事な時なのに、猛烈な眠気が襲ってくる。
女性教師の、居眠りを見たからか、それとも心地よすぎる環境のせいなのか。
(ここで、ねたらあかんねん…… おきなあかん)
彼女は懸命に、襲いかかる睡魔を振り払おうとした。手の甲をつねって
刺激を与えてみたり、大きく首をふってみたり。
しかし、彼女の意志に反して、瞼は重さを増して、意識が遠くなって……
突然、目が覚めた。
「しもた」
激しく動揺した少女は、小さく呟いた。そして、腕時計に目をおとす。
残り時間は…… 18分。
(まだ、時間、のこっとる )
大阪は鉛筆をぎゅっと握り締めた。そして、彼女にしては猛烈な勢いで答えを
書いていく。
懸命に考えて、脳みそを振り絞って、答案を埋める。
そして、一通りの見直しが終わった時。
「はい、お終い〜 」
いつのまにか目を覚ましていた教師の声が、頭上から聞こえてきた。
英語の次は、数学、国語、そして学年主任との面接――
(なんか、あっとゆーまに終わってもうたん)
最初に問題用紙を渡した人と、ジャージ姿の女性教師が、校門まで
送ってくれた。
「お疲れ様、春日さん」
後ろはショートにしているが、耳元あたりだけを長くのばした教師が、
声をかけてくる。
「あんたには、戦力として期待してるからね」
「こらっ、ゆかり、戦力っていわない! 」
「あいかわらず、固いな〜 にゃも先生は 」
「学校でそれを言わないで 」
(二人とも仲、ええんやろな…… )
大阪の小さな呟きは、彼女達の耳には届いていなかった。
大阪が自宅に戻ったのは、すっかり日が暮れた頃になった。
母親が試験の感触を聞いてくるが、「分からへん」とだけ答えて、自室の
ベッドに転がり込んだ。猛烈な気だるさが全身を覆い、数分後には小さな
寝息を立て始めた。
彼女が合格通知を受け取ったのは、試験を受けてから1週間が経った
日のことだった。
一時的に単身赴任をしていた父親が、戻ってきてからは、引越しの準備も
急速に進み、5月も末に近づく頃になって、彼女の転校がクラスメート達に
伝えられた。
(時間が、少なすぎたんや…… )
親しい友人をつくるには、2ヶ月弱という時間は短すぎた。それでも
数人の子が、残念そうに話しかけてくれたことは素直に嬉しかった。
つらい別れは、別のところにあった。
全ての家財の搬送は、運送会社の社員によって手際よく行われ、大阪と、
彼女の両親は、道路から去り行くトラックを何気なく見送っている。
その時……
「歩おねえちゃん…… 」
一人の少年が彼女の傍に近寄ってくる。そして、頭一つ分だけ高い、
大阪の顔を見上げた。
「おねえちゃん、行っちゃうの……? 」
「そや」
「もう、もどってこーへんの? 」
「…… そや」
あふれ出す感情を抑えきれないようで、幼いながらも端正な顔立ちを辛そうに
歪めている。
「…… ごめんな」
大阪は、少年の頭を軽くなでた。
近所に住んでいるこの少年との、出会いのきっかけは思い出せない。
ただ、はしゃいでいる姿を見るのが楽しくて、いつのまにか、近所の
公園で一緒に遊ぶようになっていた。
「お、俺…… 」
少年は、頬を紅く染めながら口ごもった。
少女は、何も言わずに言葉を待っている。
「おれ、歩ねーちゃんのことが、好きなんや 」
「えっ!? 」
年端もいかぬ少年の口から、『告白』という矢が放たれた。
大阪は、驚きのあまり、両目を大きく見張らせている。
「歩ねーちゃんを見ると、胸がどきどきして……
いなくなっちゃうなんて嫌だ!」
少年は、瞳の端に涙を滲ませ、ほとんど叫ぶように声を振り絞った。
(私を想ってくれるひとがいたんや…… それもこんな近くで)
嬉しさと申し訳なさが交じり合った感情が、少女のこころを
ゆっくりと満たしていく。
胸が熱くなって、息が苦しくなる。
「おませさんやなー 正太君は…… 」
にっこりと笑おうと思ったのに、声が詰まってしまう。涙が溢れ出して、
頬を伝って、ぽたぽたと地面に落ちる。
白いハンカチをぐっしょりと濡らしても、まだとまらなくて、
正太君をびっくりさせてしまった。
「私のこと、忘れんといてな…… 」
大阪は、泣くだけ泣いて、ようやく落ち着くと、精一杯の微笑を浮かべた。
少年が勢いよく首を縦に動かしたことを確認すると、肩にそっと
両手を載せる。
そして、ゆっくりと顔を近づけ、滑らかな頬に唇をのせた……
「ほなら、さよならや…… 」
大阪は、両親が呼び出したタクシーの傍から大きく手を振った。
正太君は、桜色に染まった頬に右手をあてたまま、遠ざかっていく
車をじっとみつめていた。
「まあ、昔のことや…… 」
苦笑未満の表情を浮かべて、少女は話を終えた。
「そ、そんな…… つらい事があったなんて」
いつのまにか、ちよは瞳の端に涙をためている。
大阪はいつも柔らかい微笑みを皆に向けていて、つらそうな顔は
あまり見せたことがない。
だから、彼女の意外な一面を聞いて、感傷に襲われてしまった。
大阪は、泣き出しそうな顔になっているちよに、柔らかい微笑みを
みせ、頭をそっと撫でた。そして、ゆっくりと口を開く。
「大丈夫やで、私は。もちろん、正太君もな…… 」
彼女は、華奢な身体を動かして、机に置かれた水色のポーチから、
一通の手紙を取り出し、ツインテールの少女に手渡した。
そこには、色鉛筆で描かれた友達と元気にはしゃぐ少年の姿と、
力強さを感じさせる字で
「歩お姉ちゃんへ、暑中おみまい申し上げます」
と、書かれていた。
(終わり)
以前書いたSSを、支援として掲載いたしました。
明日は、大阪(春日歩)をよろしくお願いいたします。