集まれ!!『JICA専門家&開発コンサル』

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428対アフリカODAを倍増』だそうですが・・・
もうだいぶ昔の話で、1980年代中頃のことです。
あの頃はODAの内幕も余り知られておらず、ある意味、JICAの黄金時代でした。
アメリカが政治的意図で「アフリカ飢餓大陸キャンペーン」を張っていたとき、
JICAもこれに便乗して新聞や雑誌にさかんにアフリカ援助のPRを打っていまし
た。
ところが実際には、ソマリアなど一部の内戦地帯を除いて、飢えている人は
ほとんどいませんでした。私の在任中、日本から新聞(1社)と雑誌(2社)
の取材が来ましたが、みんな「被写体探し」に苦労した挙句、連絡所や風景
の写真を撮って、私達に簡単なインタビューをして帰っていきました。
そんな中、JICAのカメラクルーの団体がやって来ました。彼らは「被写体」が
どこにもいないと判ると、村で遊んでいた子供を集め、無理やり服を脱がせて
頭から泥水をかけ、懸命に「飢餓に苦しむアフリカの子供達」を演出しようと
しました。挙句の果てには「まだインパクトが弱いな」とか言いながら、子供
達の尻や頭を叩いて泣かせ、何枚も写真を撮っていました。
429対アフリカODAを倍増』だそうですが・・・:2008/06/01(日) 18:05:50 ID:8paIftz0
それから4日後、クルー達の行為に厳重抗議するため、首都にあるJICA事務所
を訪れたとき、そこに居たのがクルーのリーダー格の男と松谷広志でした。
彼らは現像された写真を並べて、「もう少し泥が乾いてから撮ったほうがリア
ルになるよなあ」とか言って、写真の取り直しの打ち合わせをしていました。
クルー達の暴挙に抗議した私に対し、松谷が放った言葉はもう思い出す出すの
もおぞましいものでした。いわく、「それで援助が進むなら、子供達にとって
も幸せなことだろう?」、「今までたくさん金払ってきたんだから、このくら
い当然だろう?そのくらいしか約に立てない連中なんだから。」なのだそうで
す。現地大使館や東京のJICA本部にも抗議しましたが、すべて揉み消されてし
まい、さらには事務所ぐるみで私の活動のアラ探しを始める始末でした。
冷房の効いた部屋で、コーヒーを飲みながらニヤニヤ笑っていた松谷の顔と、
あの幼児が拗ねたような独特の声色は、激しい嫌悪感とともに今も鮮明に覚え
ています。あのときに捏造された写真は、今でもJICAの宣伝広告などで使われ
続けています。まさにあの現場に居合わせた私としては、捏造ポスターを見る
たび、どうしようもなく不快な気分になります。
そして結局、私のいた地域への「援助」は何一つ行われず、子供達は理不尽な
暴力を振るわれ、捏造写真を撮るための犠牲になっただけでした。
430対アフリカODAを倍増』だそうですが・・・:2008/06/01(日) 18:06:15 ID:8paIftz0
現在、私は企業コンサルタントをしており、今でもアフリカには仕事でときど
き立ち寄りますが、JICAの体質は一向に改善される様子がありません。派遣専
門家という人達も相変わらずで、プール付きの豪邸に住んで、仕事などする気
配すらありません。
聞くところによると、珍しく地方に行ったときには、ライフルを持ってジープ
を乗り回し、シマウマのハンティングをしてたそうです。毛皮を取るわけでは
なし、もちろん食用にするわけでもなく、ただ単に野生動物を殺して楽しんだ
だけです。
ちなみに当時の同期隊員達の何割かは、なんと20余年経った今でも定職に就か
ず、海外援助に寄生しながら生活している有様です。