全てのボランティアは結局「自分のため」なのか?

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266バリアフリーな名無しさん
予測はしていたが実に痛い内容の板だな。
こんなにも性善説を信じてるような奴が生息しているとは実に痛々しい。
>264へ反論する。
人間は他人と幸福を共有しようとしているのではない。
自分の内部にある価値観を正当化させたいために、
同じ価値観を持つことを条件とした集合という名の組織を使用するだけだ。
その目的からして、異なる価値観の排斥に繋がることはいうまでもないのだろう。
勿論ボランティアにおいても、集合という名の組織を使用する事実には変わらない。
ボランティアというものも集合を作成するが故に、必ず何かの排斥を伴う。
そもそもボランティアをする者など、
潜在的に他人への倫理的批判を行いたいという欲求があるのだから当然だろう。
こういうと性善説者は必死になって否定してくるのだろうが、
性善・性悪を信じる者の違いは、どちらに注視しているかの違いにすぎない。
要するに何がいいたいかというと、
ボランティアが普及することによる潜在的な倫理的批判の横行は、
集団の形成による数の暴力となって社会的な変化を伴う。
その変化は、倫理性を主体としたものである以上、批判は全体に適応されるものだ。
このことにより能力のベクトルの違いを崩壊させ、社会的効率性を失うことになるだろう。
こういうとやりたい奴だけやればいいというが、倫理性を主体としている以上それは不可能だ。
行動が行われるだけで、既に社会的変化を伴っている。
まあ、こういうことも考えろ、ということだ。