>>889 「輪るピングドラム」について、山田正紀氏が考察
ようやく「輪るピングドラム」見おわった。まったくの偶然だが、いま私が加筆推敲している
「復活するは我にあり」にも「交響曲 蠍火」が出てくる。「輪る」のテーマソングは「少年よ我に返れ」。
「銀河鉄道の夜」を前提にしての話だろうが笠井潔はこれを「カラマーゾフの兄弟」だという。そうなのか?.
「子供を救え」は「カラマーゾフ」のテーマであるのと同時に
「銀河」のテーマでもある。冠葉、晶馬、陽鞠は「カラマーゾフの兄弟」である以上にジョパンニ、
カムパネルラ、幼い少女の姿だろう。これは書かれなかった「カラマーゾフ」の続編。
「それ以降の少年たちの物語」.
「ピングドラム」では「夢」と「幻想」と「消されてしまった運命軸」と「トラウマでゆがめられた偽り
の記憶」とそして「現実」とが混然と一体になってる。
何が「現実」なのかを見きわめる必要があるだろう。思うに池袋サンシャイン「水族館」のペンギンたちは
まず「現実」と見なしていいのではないか.
それは水族館のペンギンだけが異様にリアルなことからも推察される、タイトルは「ペンギン ドラム」
であってドラムはぐるぐる回転するのを意味する。それはドラム型洗濯機の存在で暗示される。
ペンギンは群れをなして輪る。水に入ることか水から出ることかどちらかが「現実」を象徴しているのだろう。
(3)そう考えれば冠葉と晶馬が「サンシャイン水族館のペンギンのかぶり物」をかぶった陽鞠から
「捜せ」と命じられた「ピングドラム」が何であるか容易に推察できるだろう。
それは「愛」などではない。「現実」なのだ。エンディング・テーマの「少年よ我に返れ」とは現実に
目覚めよ、という意味なのだ.
(4)「輪るピングドラム」とは、妄想、トラウマ、執念、恨みと憎しみ、ストーカー的愛・・・そうした
倒錯した観念にとり憑かれた人たちがいかにして「現実」をとり戻すかという話なのだ。
そのなかには「家族への異常な固執」さえも含まれる。
もちろん、その最たるものは16年前の「カルト」である。.
(5)「輪るピングドラム」、物語のラストにいたっていかにもとってつけたように
「誰かに愛されるのが生きたという証しだと頻発されるがこれは制作側の心の迷いか、わかりやすい言葉を
餌にばらまく「視聴者サービス」に他ならない。ピングドラムとは「現実」のことである。
(5)「ピングドラム」の関係者が笠井潔さんの「大量死理論」を参考にしたという話を人づてに聞いた。
たぶん彼らは「テロルの現象学」をより参考にしたのではないか。
倒錯した観念の暴走からいかに目覚めるかこそがその最大のテーマなのだから.
(6)笠井さんが先に賢治の持つ狂気とある種の危うさに言及なさった。賢治を肯定する者は「よだかの星」
に描かれた自己犠牲精神の美しさを称え、賢治を否定する者は「私は剣で沼や便所に隠れて手を合わせる
老人や女をズブリズブリと刺し殺し」と書いた彼の国家主義をあげつらう.
(8)、賢治が持つ崇高さと狂気の二面性はまさに「ピンドラ」のメインテーマを体現するにふさわしい。
けれどももう一度「ピンドラ」のおける「現実」とは何か、という点にたちかえって考察を進めたい。
まずは「ピンドラ」の重要なアイテムであるところの「リンゴ」とは何なのか.
(9)、「輪るピングドラム」の「リンゴ」とは何なのか? それはまずはカレーの味をまろやかにする
「隠し味」である・・「リンゴ」がなくてもカレーを食べることはできるが「リンゴ」を入れたほうが
はるかに美味しい、そういうものとして「リンゴ」は表象されるのだ。もう一つ思い出すべきことがある.
(10)「輪るピングドラム」、檻のなかの冠葉と晶馬が一つのリンゴを半分に分け合うシーンがある。
たぶん、このリンゴは「エデンの智慧の木」の果実なのだろう。半分に分けあわなければならなかったために
彼らの「智慧」は十分ではなかった。そのために彼らは「幻想」に翻弄されなければならなかった.
陽鞠が「幻想」のなかで少年たちと抱擁するときにふしぎにヌードになってしまうのだが
これを節操のない視聴者サービスと考えるのはたぶん違う。彼女は「アダムとエヴァ」のエヴァではないか。
エデンはしょせんは「愚者の園」にすぎない。「智慧の果実」を食べたものだけが「現実」に触れることができる
(11)、ただリンゴを半分だけ食べた彼らの「現実」がどこにあるのか、という
疑問はある。檻内の彼らの姿はそのまま子供ブロイラーとして処理される「幻想」を受けた
(多少は「現実」に近い、しかしやはり「幻想」でしかない)現実として設定される、「現実」の底が抜けているのだ
(12)制作者は「ピングドラム」の基盤として賢治の「犠牲の尊さ」を用意したのだが笠井さんが
言うようにオウムは「最大多数の幸福のための最小犠牲」を念頭において行動した。
「自己犠牲」は何ら「現実」を保証するものではない。底が「抜けた「現実」に基底などない
12。「現実」の底が抜けてるという設定は作り手にも了解済みのことのようだ。
それぞれ個人のものであるべき「幻想」が何人かに共有されてる。その「現実」に底はない。
擬似家族であるだけにいっそう「家族の大切さを表象してるかのような「陽鞠」の家にしてからが
「幻想」なのだ.
13 「陽鞠」の家は「リナちゃん」の家のようだと表現される。つまり「家族のかけがえのなさ」
を表象しているはずの「家」が「幻想」でしかないということはすでに当事者に確認されている。
冠葉が両親と会うるラーメン屋の名は「ユカちゃん」であり、これもまた「幻想」に他ならない.
14 言うまでもなく「ラーメン屋」は16年まえの「カルト」の幻想を表象しているのであり、
その幻想を共有していない他者にはすでに16年まえに放棄された廃屋としてしか認識されない。
登場人物たちの「幻想」はどれも何人かに共有されてはいるが全員に共有されているわけではない.
(14) なかでも共有されにくいのは時籠ゆりのトラウマだろう。これは彼女自身の「トラウマ」で
あるのと同時に、ここで暗喩されるのが肉親によるレイプだということもあり、それ自体が「作り手」に
よって二重に幻想化されている。しかしこの「過去」はほんとうにあったのだろうか.
(15)ゆりが信じるようにほんとうに桃花によって運命が乗り換えられたのだとすれば
どうしてその記憶が彼女に残されているのか。ラストの陽鞠がそうであるようにすべては忘れ去られる
はずではないか。たしかに「ピングドラム」は少年少女たちが現実を取り返す物語ではあるが
それのみにはとどまらない.
(16)ゆりの幻想は誰にも共有されない。彼女はそのためにもう一つの幻想ともいうべき「宝塚」ーとは
明記されないがーに入り、性的放縦に走る。彼女においては幻想は分断されているのだ。
テーマソングの意味がここにある。確認しよう。 「少年少女輪になって のばした指は空を切って 落ちる」.
(17)これは幻想にとり憑かれた少年少女たちが現実を取り戻そうとする話。が彼らの幻想は共有されない
どころか、ときにたがいに激しく葛藤する。「かけがえのない家族」という価値観さえ相対化され
物語が進むにつれ「幻想」にすぎないことが明らかにされていく。のばした指はつなぎあえずに空を切る.
(19)これではまともな日常生活がいとめないのでとりあえず「ピングドラム考察」はここで
いったん中断するがここで時籠ゆりの「時籠」という名前に注目しておこう。彼女の幻想は桃花によって
運命を乗り換えられ放棄されたのではない。いったん「籠」に入れられ、「時」のなかを運ばれたのである。.
日本アニメの「生存戦略」のある部分は特定の作家をブランド化して消費者の「読み」に依拠する
ところにある。「ピンドラ」はまさにその典型であり、「象徴」、「シンボル」、「ほのめかし」を
ちりばめて、消費者に「読み」の快楽を提供する。「読ませる側」が「読む側」に共犯関係を強いるのだ。
笠井潔氏のピンドラ論は「生き残るためにはなりふりかまっていられない」いう一語に尽きるかもしれない。
15年かかって承認願望(サイモス)とか自分探しとかの呪文を振り払った。新たな呪文をどうやって振り払うか。
笠井氏はそれを「生涯一ガキ」というアティチュードで突破しようとしているようだが.
アニメにこだわれば「新たな呪文」の摘出とそれをいかに振り払うかの模索は
すでに「魔法少女まどマギ」で暗示されているようにも思う。まだラストまで見ていないのでうかつなことはいえないが。.
それに「りんご」は漢字が面倒で。象徴分析からいえば、「リンゴ」は「智慧」、「桃」は女性のエロス「豊穣」ということのようです