1 二重の囲い
日本文化論は、集団の構成に収斂する。日本社会は閉じた社会であるが、閉じた社会は未
開社会などでは珍しいものではない。しかし、日本社会は二重に閉じている。これは特異
な現象である。このことが、夥しい日本文化論に記述されているような日本文化の特殊性
を作り出していると思われる。
二重に閉じているとは、どういうことか。大きな囲いの中に、さらに小さな囲いがあると
いうことである。それぞれについて述べよう。
(1) 大きな囲い
日本社会においては、人は、一つの集団にしか所属できない。もちろん厳密には、いくつ
かの集団に所属しているのであろうが、主な帰属先である一つの集団への帰属を失うと、
他の集団への帰属は意味を失う。中根千枝「タテ社会の人間関係」は、この点から考察を
開始し、一つの集団は、その「枠」を維持するべく、ツリー状の組織化を行うとする。い
わゆる「タテ社会」である。しかし、ムラ社会においては、必ずしもツリー状に組織化さ
れておらず、家格はあるにせよ、むしろ平等である。しかし、ムラが大きな囲いであるこ
とに違いはない。ムラのあいだの人の移動は、アジア諸社会と比べて、乏しいのである。
このように一つの集団の中で、全てが営まれるため、全ての機能が一つの集団に備わって
いなければならない。ムラ社会において、このことは自明であろう。また、会社は人を「丸
抱え」しようとする。対外的にも、分業を拒み、あらゆるものを作ろうとする(中根氏が
いうところの「ワン・セット主義」)。
このような一つの集団に囲い込まれることが、アジア諸社会の特徴というわけではない。
中根氏は断片的にしか書いていないが、中国やインドには、大きな親族組織があり、それ
をベースにさまざまな集団に帰属していくことになる。また、東南アジアでは、そもそも
恒常的な集団が見られず、人々はネットワーク状に繋がっている。
(2) 小さな囲い
中根氏の「タテ社会の力学」では、集団の中の小集団がクローズアップされる。会社にお
ける部署、ムラ社会におけるイエなどである。重要なのは、この小集団が、他との独立性
を保っていることである。ここにも「枠」があるのである。
イエについて見よう。イエは外とは分かれている。これは、家屋を見れば分かる。つまり、
家屋はそれぞれ塀などで囲われている。世界では、これは必ずしも一般的ではない。そし
て、中では分かれていない。つまり、個室がなく、それゆえ、共通の空間もない。一人で
いることはなく、いつも固まっている。複雑社会では、普通は個室や共通の空間が見られ
るものである(中根千枝「適応の条件」)。会社においても、家族ほど親しいということは
ないにせよ、似たようなものである。
こうして小集団の中では、小集団的雰囲気とでもいえるものが生まれることになる。人は、
小集団と一体化している。小集団的雰囲気は、甘えの延長である。《甘えとは小集団的雰囲
気を前提にした人間関係の行動様式であり、それは個人と個人の対応関係というよりは、
自己中心的な行動様式で》ある(雰囲気に傍点、「タテ社会の力学」)。甘えは、幼児期の母
子関係を原型とする二者関係であるが、小集団は、それを持続させる装置なのである。小
集団的雰囲気は、幼児的なものである。これが否定されないのだから、人は当然、自己中
心的な人格となる。
小集団的雰囲気は、居心地がいいものではあるが、みだりに乱すことは許されないもので
あり、足枷にもなる。集団の戦略としては、小集団と一体化することで、集団と一体化さ
せようということであろう。いきなり集団と一体化させることは、困難だからである。内
藤朝雄は中間団体全体主義という概念を提示しているが、これに倣えば、日本社会は小集
団全体主義に立脚しているといえる。小集団はどこも似通っている。日本社会が均質なの
は、そのためである。
このように集団と小集団により二重に囲われている個人の世界認識は、自己、小集団、集
団、その外、という同心円である(「適応の条件」)。自己を中心とした世界認識である。
なお、集団は一体化しているため、そのあいだの競争は激しいものとなる。小集団のあい
だについても同じである。閉じた社会はエネルギーに満ちているが、二重の囲いはそれを
増幅させる装置でもある。
2 二層構造
日本社会は、小集団を基底としている。小集団には小集団的雰囲気があり、小集団は一体
化している。しかし、社会は、一つの小集団だけで出来ているわけではない。ここから、
どのように社会を構築していくかは、問いとして残る。
小集団には、小集団的雰囲気しか価値はない。それは、幼児的なものであり、他者をも包
含しうる普遍的な価値ではない。小集団で覆われた社会では、そうした普遍的な価値は、
小集団には他者がいないのだから、生じようがない。では、小集団の外の社会や集団は、
何により形作られるのであろうか。
まず、社会は、形式的なものに依存することになる。形式的な規則が氾濫しているのは、
そのためである。そうした規則のうち、もっとも大切なのは、序列である。そして、序列
化するためにもっとも用いられるのが、年齢である。人は自己中心的であるために、そう
した形式的な理由による序列化しか、認めないのである。
形式的なものしかないので、理念などは存在し得ない。全て見かけなのである。《『記号の
国』は明らかに『見かけの国』の意味です》(ラカン)。これは、見かけの力が弱いという
ことではない。その逆であり、戦前の天皇制のようなものが、容易に信じられてしまう。
また、集団は、計算的なものにも依存する。人は、恩に縛られる。本当の小集団(注)に
おいては、恩を返済する必要はない。しかし、その外では、恩は貸借である。明治政府は、
忠孝を恩の対価として位置づけた(川島武宜「イデオロギーとしての「孝」」、「イデオロギ
ーとしての「家族制度」」)。
こうして、形式的なものや計算的なものが、小集団の外の社会や集団を形作る。そして、
これらが侵されないように、集団では相互監視が行われる。ムラ社会の冷たさはここに由
来する。イエの中での親しみ深さは、外での冷たさに反転する。そして、相互監視は、小
集団の中にも入ってくる。つまり、小集団の一員に逸脱があれば、集団から小集団ごと追
放するというふうに、小集団には連帯責任が負わせられているので、小集団にも、集団に
おける相互監視のまなざしが入ってくるのである。小集団を集団で囲うことの意味もここ
にある。囲っていなければ、追放することもできない。
このように、集団/小集団という二重の囲いは、形式的なもの、計算的なもの/幼児的なもの
という社会の二層構造を生み出している。
(注)このフレーズは、「タテ社会の力学」にちらっと出てくる。イエは、「本当の小集団」
でありうる。もっとも、常に旨く行くわけではない。むしろ、旨く行くのは稀と思われる。
しかし、小さいころは甘やかされるので、「本当の小集団」の原像がそこで生まれることに
なるのだろう。
3 私の世界
社会の二層構造は、人格や文化を規定している。
(1) 人格
日本社会において、人は、幼児的なものを残しており、自己中心的であるが、形式的なも
の、計算的なものを侵さないように見張る他者のまなざしを常に意識している。他者のま
なざしが、超自我の代用品なのである。
ルース・ベネディクト「菊と刀」の「子供は育つ」の章は、子育てを説明することで、日
本社会における人格形成システムを、余すところなく叙述している。小さいころは、子供
を甘やかすことで、小集団的雰囲気に浸し、自己中心的な自我を残したまま、徐々にイエ
の外における相互監視のまなざしを沁みこませていく。こうして形成された人格は、自己
中心的であるため、逆に、他者のまなざしが気になる。常に「まなざしの地獄」(見田宗介)
とでもいえる状況に身を置くことになる。こうして、相互監視がその力を発揮する。もし
も甘やかさないで、自我が成熟し自立した個人が生まれてしまうと、彼らは、小集団的雰
囲気にも馴染めないだろうし、相互監視に勤しむこともないだろう。そうすると、別の社
会になってしまう。
子育ては、子供の人格形成であるが、大人にも同じ人格形成の力が働いている。子育ては、
社会の人格形成システムの原型である。ベンサム=フーコーのパノプティコンが説得的なの
は、オイディプス三角形と矛盾しないからであろう。
(2) 文化
文化は、人間が生み出すものであるから、人格の構成が反映するものとなる。
まず、(T)私小説について見よう。もっとも日本的と思われるからである。小林秀雄はこ
ういっている。《わが国の私小説家達が、私を信じ私小説を信じて何んの不安も感じなかっ
たのは、私の世界がそのまま社会の姿だったのであって、私の封建的残滓と社会の封建的
残滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟して行ったのである》(「私小説論」)。日本社会に
おいて、あらゆる場所は集団に囲われた小集団であり、自然主義と称して、社会のありの
ままの姿を書こうとすれば、小集団に埋没した自己を書くことになるだろう。私小説は、
私の小集団への埋没を赤裸々に告白する。そして、世間の称賛と非難のまなざしを一身に
浴びる。要するに、目立ちたいのである。そして、文壇という集団に所属することを許さ
れ、文士として暮らすことになる。(U)しかし、全てが私小説になったわけではない。記
号(見かけ)を組み立てることで世界を築くことも出来る。私小説が、幼児的なものを用
いるのに対して、これらは形式的なものを用いる。現実とのつながりは断ち切られる。芥
川龍之介、三島由紀夫、村上春樹といった系譜は、ライトノベルにたどり着く。(V)夏目
漱石や森鴎外といった私小説以前の文豪は、日本的な自我が西洋的な自我にぶつかって引
き裂かれるさまを書いている。
日本文化は、総じて、小集団的雰囲気と通底するものを作り出してきた。日本文化は快楽
主義的であったり、無我が尊ばれたりする。人は幼児的であり、超自我に当たるものが形
成されないので快楽を避ける理由もない。また、無我が尊ばれるのは、集団の相互監視に
由来する自己監視から逃れたいからである。これらについて、「菊と刀」は有益な指摘をし
ている。「人情の世界」の章では、《快楽は義務と同じように学ばれる》(長谷川松治訳)こ
とが語られる。幼児的なものは、形式的なものを通じて、表出されうる。「菊と刀」の「修
養」の章では、禅は、「見る我」を放棄し、無我に至ることが目的とされており、それは、
「自己監督と自己監視」がいかに重みになっているかを物語っているとする。